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第五章
「御嵩さん、お注ぎしますよ」
「ん、ああ悪ィ」
先輩後輩の概念が無いこの分室の中でも、最年少である那由多は持ち前のコミュニケーション能力を以て綜真との距離を縮めようとしていた。
「海老原さんもバイクのブレーキが壊れてたなんてツイてないですよね」
「そうなのか?」
綜真は那由多のパワーに圧されている感じがあったが、詩緒含め既存メンバーからは距離を取られている今の状況では唯一の話し相手だった。
「榊、何飲む?」
「そうですねえ、……あ、黒霧島二つで。赤松と飲み比べする約束なんで」
四條に勧められた酒のメニューを横から覗き込みながら、詩緒は次に飲む酒を決めていた。
「ほな僕も同じのにしよかな」
「なら俺も! 黒霧島!」
断固として四條と同じものを飲みたい真香は二人の会話を聞いてすかさず手を挙げる。
「黒霧島って美味しい? じゃあ俺も――」
「|斎《お前》はやめとけ」
「マジで死ぬぞ。カルアミルクでも飲ん、どっ……」
そこまで言い掛けたところで詩緒の表情が凍り付いた。
「榊? どないした」
「あ、いえ何でも――」
すぐに持ち直した詩緒は何でもないというように四條と真香の間の席を抜ける。するりと腰を下ろしたのは綜真の隣だった。斎は既に少量のアルコールが回っており気付いていない様子だったが、ただでさえ酒に強い四條と真香は詩緒のその行動に気付いていた。
初日に発作を起こし倒れてから詩緒は自ら綜真に近付こうとはしなかった。それは綜真も同じで、二人が接触をしない事で辛うじて均衡が保たれているようなものだった。
「……ああ」
詩緒の行動を見て四條が呟いた。真香は始めその発言の意図が分からなかったが、詩緒がそっと綜真がビールを注がれたグラスと最初に出された水の入ったグラスを交換する様子を見て合点がいってしまった。
「綜真はな、下戸やねん」
「……え、それって飲んで平気なんですか?」
「いや、あかんよ」
付き合っていたという詩緒ならば綜真が下戸である事を知っていてもおかしくはない。初日に大騒動を起こし、どう見ても綜真との間に遺恨があるとしても、さり気なく気遣う事が出来る程度には綜真に対する情はまだ残っているらしい。
「四條さんはぁ、知ってたんですか? 榊と御嵩さんの事ー」
ふわふわと頬を上気させつつ、楽しそうに斎が四條へと寄り掛かって尋ねる。
「僕も初耳や。知ってたら呼ばへんよ」
「そりゃあそっか」
やがて注文した酒のグラスが四つ届くと、詩緒はその内の二つを持って場所を綜真の隣からその更に奥に居る那由多の隣へと移す。
「ほら赤松、勝負だぞ」
那由多へとグラスを手渡し、那由多の隣に片膝を立てて座る。互いのグラスを当てて飲み始めてからも詩緒はちらちらと綜真の手元を気にしているようだった。
「うちも大分大所帯になって分室だけやと手狭になってきたなあ」
個人の集中を妨げない為、一人一人に割り当てられる個室は必須条件だった。分室には未だ片付ければ使用可能な部屋が多く残ってはいたが、今でも寝泊まりが多い事を考えると思い切っての転換も必要だった。
「ああ、前に四條さんが言ってたやつれすねー?」
「斎、お前飲み過ぎ。もうやめとけって……」
既に呂律も回らない斎は楽しそうに笑いながら四條の腿の上に頭を乗せる。四條は可愛い部下の頭をぽんぽんと撫でてから特に咎める事も無く、真香とグラスを交わした。
「強いですねえ、榊さん」
「この程度で舐めた事言ってんじゃねぇよ。赤松もう顔赤くなってきてんじゃねぇの?」
「俺だってまだまだいけますよお?」
全く顔に出ない二人の飲み比べというチキンレースはサドンデスに陥ろうとしていた。まだ大いに余裕がある詩緒は飲み放題も会社の金である事から意気揚々と酒のメニューを見ていた。
「榊さんが勝ったら何が欲しいか決めたんですか?」
そう言いながら、那由多はさり気なく片手を伸ばし詩緒の手に重ねる。
「ん、んー、まだ決めて無ぇんだよ。所詮お前がくれる物なんてたかが知れてるしな」
「榊さんヒデェ」
詩緒が特に抵抗をしない所を見ると那由多は更に指先を動かして被せた詩緒の指と絡ませる。
「赤ま、ッつ……」
那由多の行動に制止の言葉を告げようとして顔を上げた詩緒の視界に、那由多の先に座る綜真の姿が目に入った。口元を片手で覆い顔色が悪い。詩緒は咄嗟に那由多の前を渡り綜真の肩へと手を伸ばす。
「……もしかして、酒、飲んだ?」
綜真は問い掛ける詩緒に視線を向けぬままこくりと頷く。いつの間にか綜真の手にはビールが入ったグラスが握られていた。二人の異変には向かい側に座る四條もすぐに気付きその場から腰を浮かせるが、生憎片足を斎に陣取られたままだった。
「榊っ」
「あ、大丈夫です。俺連れて行きますから。赤松、前通るぞ」
「はあい」
繋いだ手は無し崩し的に詩緒から解かれ、詩緒は綜真を立たせるとそのまま支えてトイレへと連れ立った。
「吐く? 吐ける? 俺水貰って来るから」
男子トイレ一番奥の個室、便座を上げた便器の前に綜真を座り込ませると詩緒は厨房へ向かおうと綜真から一旦視線を外す。誤って酒を飲んだ綜真をこうして介抱した事が何回あっただろうか、付き合っていた期間はそう長くは無かった。
「…………詩緒」
「なに、……ッ!?」
声を掛けられた詩緒が振り返るのと同時に視界が反転した。腕を掴まれ個室の中へと連れ込まれた詩緒は閉ざした扉を背中に押し付けられる。綜真は便座ごと蓋を下ろしてその上に片膝を乗せる。
「飲んでねェよ初めから一滴も。……ようやく二人っきりになれた」
「……綜真」
あれから綜真は詩緒と二人きりになれる機会を伺っていた。分室の中では常に真香か斎が詩緒の側に居て、とてもではないが詩緒一人に声をかける事など叶わなかったのだ。多少卑怯な手段を使ったと自覚のある綜真ではあったが、こうでもしないと詩緒と二人きりで話す時間などとても作れそうにも無かった。
「詩緒、頼むから俺の話を聞いてくれ……」
「は、話……うん……」
内側からは引かないと開かない扉は今詩緒自身の身体で塞がれている。開く為には退かなければならないが、詩緒の目の前に立つ綜真が詩緒を扉に押し付けている限りそれは叶わない。
狭い密室で二人きりの状況、目の前には嘗て交際経験のある相手。生きていればいつかまた会える等という言葉を詩緒は信じてはいなかった。二度と会う事は無いと思っていたからこそ、今目前に居る綜真に対しての的確な言葉が何一つ出て来ない。
「あの時、最後にちゃんと伝えられなかったから」
綜真の手が詩緒の頬を撫でる。大きくて無骨な綜真の手があの頃大好きだった。今はもう綜真に触れられる事が詩緒にとっての恐怖でしか無い。
詩緒の全身が強ばる。酸素を幾ら吸っても肺が満たされない感覚、頭の中に白い靄が掛かったように正常な思考が難しくなる。確かに伝えなければならない事があった筈なのに、綜真が目の前に居ると言葉すら上手く紡げない。
「そう、まっ……おれ、っ」
あの日と同じ状況だ、と綜真はすぐに察する事が出来た。酸素を吸い込もうとする回数だけが多い。
「詩緒、吸い過ぎだ。息を吐け。ゆっくりで良いから」
こくこくと詩緒は頷く。頭では分かっているつもりでも身体が追い付かない苦しさに詩緒の頬を伝い流れる涙。普段は彫刻のように滅多に表情を変えない詩緒の苦痛に歪む表情に、綜真の心が締め付けられるように痛んだ。
――――嘘吐き!!
あの時の詩緒は感情のままに綜真を責め立てた。気が付けば綜真は詩緒の泣き顔しか思い出せないようになっていた。幸せな時間も、確かに存在した筈なのに。
「詩緒……」
詩緒の肩に手を回しひたすら酸素を吸い込もうとするその唇に綜真は己の唇を重ねる。詩緒が酸素を求めるのと同時に綜真は口移しで二酸化炭素を送り込む。少し煙草の苦い味がする呼気が詩緒の肺まで循環する。
詩緒の呼吸が落ち着くまで何十回もその行為を繰り返す。以前は無かった、詩緒の唇から感じる酒と煙草の味。同時に綜真は斎に言われた言葉を思い出す。綜真の知るあの頃の詩緒はもう何処にも居ないのだと。
ようやく呼吸が落ち着いてきたかと思えば、唐突に詩緒の全身から力が抜け綜真は慌てて詩緒の身体を支える。詩緒は意識を失っていた。詩緒は何を告げようとしていたのか、知る術が無いまま綜真は詩緒の身体を抱き上げて個室を出る。
出会った頃から綜真より高身長であったにも関わらず、その中身は人間である事を疑うほど軽い。目元に光る涙は苦しみによるものか、それとも悲しみか、綜真はそっと目元に口付けてその涙を拭い取る。
酒の席に戻ると真香はぎょっとして綜真に抱き上げられている詩緒を凝視した。
「……綜真、何したん」
「……俺は何もしてねぇよ」
日本酒をお猪口で煽りながら、四條はその二人の姿を見て片眉を上げる。ぐったりとして青褪めた詩緒を抱えたまま綜真はその場に腰を下ろして席を見渡す。隣の席には先程と変わらず那由多が、斎も変わらず四條の腿を枕にして幸せそうに滅入っている。もしこの時斎に意識があったならば、あの時再三忠告をしたのにと文句を言われていたかもしれない。
酒に強い四條とその隣に真香が四條にべったりとくっついて共に酒を煽っていた。
「……本田」
「ぇえっ、はい、俺っ!?」
突然綜真に名前を呼ばれて真香は声が裏返る。
「|詩緒《こいつ》の事、家まで送ってやってくれねぇ?」
「えっあ、……良い、けど」
詩緒と真香が親友と呼べる程仲が良い事は百も承知だった。目を覚ました時自分が側に居たら再び発作を起こしかねないだろうと考えた綜真は詩緒を真香に託す事にした。
「じゃあ俺が送りますよ」
名乗りを上げたのは隣に座っていた那由多だった。
「本田さんは海老原さんの事送って行かないとでしょう? 俺暇なんで」
結局どうする事が正しいのか、真香は狼狽えながら四條の判断を仰ぐ為に視線を向ける。
「……ええんちゃう? 赤松、送ったりや」
綜真も真香と同様に四條へと視線を送っていた。その四條が問題無いと判断したならばこれ以上綜真が何かを言う必要も無い。那由多は綜真から詩緒を抱き受けるとそのまま大切な物を扱うように抱え直す。
「じゃあ俺、タクシーで送りますね。本田さん、榊さんの住所教えて貰ってもいいすか?」
「あ、じゃあ俺も斎送るついでに帰――」
「本田」
四條は綜真を見ていた。詩緒を渡した後気不味そうに視線を四條から逸らす綜真。何かが起こりそうな気配を察した真香は斎と共にこの場を退席しようと腰を浮かせる。しかしその真香の行動を普段より少し抑揚の無い四條の声が制する。
「君は見送ったら戻っておいで」
「は、はひ……」
四條に対していちファン以上の感情を抱いている真香はこの四條の少しの変化をも敏感に察知していた。四條が怒っている事に気付けない程にわかファンをやっているつもりは無い真香は、那由多が詩緒とタクシーに乗るまでを見届けてから戦々恐々の思いで酒の席に戻る。
四條と綜真の二人は真香が席を立つ前とその位置を変えず、静かに酒を煽る四條の向かい側に座り崩した綜真が居るだけだった。斎だけはその場所を移しており、詩緒と那由多の二人が退席して空いたスペースに座布団を並べて横になって眠っていた。
「本田、何か飲むか?」
「あ、いやっ、俺はもう結構ですっ……!」
酒より帰宅をしたいと心から願う真香だったが今の四條には近寄り難く、かといって綜真の隣に座る事も何だか気が引けてしまい、四條と綜真が向き合う丁度中間地点で身を小さくする事にした。
「……暎輝」
真香は自らの耳を疑い反射的に綜真の顔を見た。綜真が分室にアサインされた日確かに四條からは自分の従弟であると言って綜真を紹介された。従弟であるならば名前で呼んでいてもおかしくはないのだが、聞き慣れない呼び方と親密さに真香は平静を扮いきれなかった。
片手に煙草を挟み、その手でくしゃりと自らの波打つ髪を掻き上げながら話す綜真の声はどことなく落ち込んでいるかのようだった。
「|詩緒《アイツ》の為にも……俺、神戸帰った方が良いかもしんねえ……」
「まだ一ヶ月も経ってへんやろ、根性無しが」
斎をこの場に捨て置いてでも逃げ出すのが得策だろうか、真香はそわそわと身を揺らし始めた。今この場所に自分が居るのは場違いではないかと考える真香だったが、何故四條が敢えて戻ってくるようにと自分に言ったのか、真香はその理由を考えてみる事にした。四條が真香に同席を求めたという事は眠っている斎はさておき自分にはそれを聞く権利があると四條が考えた故の計らいではないだろうかと、ゆっくりと思考を纏め始める。詩緒と綜真の間に過去何かがあった事は誰が見ても一目瞭然だった。
空になったお猪口をテーブルの上に置く高音、思わず真香は驚きから肩を揺らす。
「綜真、自分榊と何があった?」
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