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第四章 悪友と範疇

 このまま玲於の笑顔が摂取出来なければ遠からぬ未来で自分は朽ち果ててしまうだろうと千景は深い溜息を吐いて休憩エリアの椅子に腰を下ろす。  昨晩も玲於とまともに話も出来ず、千景が深夜遅くに帰宅した時玲於はテーブルの上にラップを掛けた夕食の前で眠り込んでいた。先日の様にソファで寝られるよりはマシだと起こさないように玲於を抱き上げ寝室へと運んだ後千景は遅い夕食をとり皿を洗ってから朝食の準備をして就寝した。  次の休日にでもならないと玲於とゆっくり話す時間も作れそうにないと、引っ越して職場には近くなったのにも関わらず仕事量は以前より増え帰宅時間は以前より遅くなりつつあった千景は、片手に眠気覚ましのブラックコーヒーの缶を握り込み眉間を抑えた。  自分を庇った斎があの後茅萱とどうなったのかという事も千景の頭を悩ませる要因の一つだった。茅萱があの容姿に似合わずバリタチである事は何度も声を掛けられ続けていた千景は嫌と言う程良く分かっていた。千景が知る限りの斎もタチだった。関係性で考えれば絶対に相容れない二人の筈だが、斎が最後に放った取引という言葉が気掛かりだった。まさか茅萱もタチの斎相手に妙な気は起こさないだろうと思いたかったが、一連の斎の精神状況を考えると最悪な状況が起こらないとも言い切れなかった。  十年以上玲於を想い続けていながら斎の想いをきっぱりと拒絶出来なかった事は千景自身の心の弱さで、斎を拒絶出来なかった事で結果として玲於も斎も傷付けた。千景は左手首に付けた時計の奥に隠れた傷へと視線を落とす。本当はあの時に死んでいれば良かったのでは無いだろうか、再三真香の自殺衝動を止め続け説得してきた千景ではあったが不意に自らの中にもそんな考えが過る。  ――お前は無意識に男を誘って狂わせる。  傷に思いを馳せる度呪いの言葉が千景の心を支配した。一度だって自分で望んだ事は無かった、子供の頃も、学生の時も、そして二十歳を迎えたあの夜も。  左手首に視線を向ければ必然的に目に入る薬指のリング。普段はチェーンに通して首から下げていたが先日から玲於の存在を近くに感じられるよう薬指へ嵌めるようになった。 「ったくあの野郎、俺はパシリじゃねぇんだよ」  文句を言いつつ片手に持った書類へ視線を落としたまま休憩エリアへ綜真が姿を現した。朝から四條により本棟に呼び出された綜真は渡された書類を持ち帰り寮で処理する前に一息つこうと千景が居るとは知らず自動販売機に硬貨を投入する。  あまりにも自然に目の前に現れた綜真の姿を見た千景の手には無意識に力が入り、片手に持っていたコーヒーの缶を握り潰していた。考えてみれば綜真が本棟に姿を現す事は何ら不思議な事では無く、これまでは偶々タイミングが合わず顔を合わせていなかっただけなのだと平静を保ちながら千景はぐちゃぐちゃに潰れたスチール缶をゴミ箱の中に放り投げる。  そのけたたましい音に背中をビクつかせた綜真は振り返り、全身に殺気を纏った千景の姿がそこにある事に気付くと押すボタンを間違えてホットの緑茶を購入した。 「千景? 良かった、話あんだけど」 「俺には無ぇよ」  顔すら合わせたく無かったと千景は内心毒づく。綜真は千景に対する直接的な連絡手段を持っておらず、だからと言って詩緒を筆頭に真香や斎に千景への連絡先を聞く訳にはいかなかった。積極的に探していた訳でも無かったが今この場所で会えたのならば好都合と千景の都合も聞かず綜真は千景の腕を掴んで歩き始める。 「おい、ちょっと!」  勿論斎や四條など分室に関わる者で本棟に来てもおかしくない存在に見付からない事も重要で、周囲に気を配りながら綜真は滅多に人が来る事も無い資料室の扉を開けると中へと千景を連れ込む。  スチール製の本棚が多く並ぶ中、綜真は扉から一番遠い部屋の奥へと向かうとようやく掴んでいた千景の腕を放す。多くの本棚が立ち並ぶ中一番奥に位置するこの場所は、他の資料にも隠れて扉を開けただけではすぐに存在には気付かれ難い。図書館の様な静けさも密談にはもってこいで、誰かが入って来たならば音でそれがすぐに分かる。  綜真と同じ空気など一秒でも吸っていたくないというスタンスを崩さず、千景は棚に寄り掛かりながら腕を組んで綜真に視線を向ける。 「……で、何?」 「いや俺とお前の事、ちゃんと口裏合わせといた方が良いだろ」  例えば詩緒が綜真から聞いた話と千景から聞いた話に齟齬が生じれば詩緒の綜真に対する不信感は更に募る。口裏合わせをする時間すらあの時は無く、職場でも滅多に遭遇する機会が無い為この好機を逃したく無いと綜真はその場に屈み込む。 「まだ詩緒が何か怒ってるみたいなんだよな……」 「……榊が怒ってんのは口裏とかの問題じゃねぇと思うけどな」 「……え?」  昔から人の感情に疎い人間だとは思っていたが、恋人相手にはIQも下がるのかと考えながら千景は本棚の隙間から僅かに見える窓の外に視線を送る。 「……絶対玲於に漏らさねえなら、お前の親友が俺の元彼だったってとこまでは言って良い」 「レンのこと、自分の彼氏にまだ話してねぇのか?」 「誰が好き好んで昔の男の話聞きたがるんだよ」  斎との関係だけであれ程までに冷静さを欠いた玲於に対して尚更昔付き合っていた相手の話を出来る訳が無かった。今日位は早く帰宅して玲於と話をする時間を作れないだろうか、千景にはそれだけが気掛かりだった。  鈍感ではあるが親切心から余計な事をするような人間では無いと分かっている千景ではあったが、念には念を入れておくべきだと本棚に片足を着き床に屈み込んでいた綜真のネクタイを掴んで引き寄せる。 「もし玲於に一言でもレンの事漏らしてみろ。お前が抱いてきた女の名前全部榊にバラすからな……?」 「……それは、無理」  詩緒の性格上、過去の事であっても乱れた性生活を知られれば軽蔑される事は必至だった。お互いに神戸時代の事には触れない事が今の恋人との生活を守る事にもなると結託する事に決めた。  千景がネクタイから手を放すと綜真はその場に立ち上がりながら着衣の歪みを整える。危うくこのまま密談を終わらせてしまうつもりだった綜真は千景が放った一言を思い直して視線を送る。 「詩緒が怒ってる理由が別にあるって、お前何か知ってんのか?」  何が詩緒を怒らせたのかにすら気付けていない綜真の鈍感さに辟易する千景だったが、綜真はともかく可愛い後輩である詩緒が伝わらない思いに悩んでいるのならば手を貸してやらない事もないと深い溜息を吐いた。 「あのな……お前が俺を名前で呼んでる事に榊は怒ってんだよ。それ位分かるだろ?」  分かるはずだと言われても逆の立場で考えた時、詩緒が真香や斎を名前で呼んでいる事に綜真は別段怒りを覚えた事は無かった。しかし一度は過去の関係を疑われている訳であり、そこを否定した所で名前で呼んでいたという親密さが詩緒には気に食わなかったのかと千景に指摘され思い直した綜真は、すぐには直せないだろうが詩緒が気にするのならば千景の呼び方を改める努力をしようと千景の顔を見て口を開く。 「――――苗字、何だっけ?」 「ブチ犯すぞテメェ……」  真剣な顔で問われた千景は怒りに拳を握り、今にも綜真を殴り飛ばしそうだった。震える拳に視線を落としつつも聞こえた言葉にもしかしたらもう一つの問題に対しても千景ならば正解を出してくれるのかも知れないと期待して拳を握る千景の手首を掴んだ。 「あのさ、……セックスってどうやんの?」 「…………は? 馬鹿かよ」  神戸時代に綜真が散々行き摺りの女を抱いてきていた事を千景は知っていた。その綜真から改めて性行為の遣り方を問われた千景はまるで初めの頃の性知識がまるで無かった玲於と話しているかのような感覚だった。 「今まで散々女食い散らかしてきただろ」 「そっちじゃなくて、その……詩緒と、さ……」  学生時代勢いに任せて詩緒を抱こうとした。それどころか当時でも男女問わず抱いてきていた綜真は男相手の性行為を知らない訳では無かった。しかしそれが詩緒相手ともなると話は別だった。一度拒絶された経験があるからこそ二度と失敗はしたくない。次に拒絶されたら二度と立ち直れないかもしれないという思いを抱きつつタイミングをはかりかねていた中、昨晩聞こえた詩緒たちの会話に自分が手を拱いている間にもしかしたら詩緒に抱かれるかもしれないという不安が綜真の中に生まれていた。 「……まさか好き過ぎて手ぇ出せないとかダッセェ事言わねぇよな?」 「…………そのまさか」 「……引く、マジで引くわ」  確かにあの頃の綜真は何かを諦めたように誘いに乗る女ならば誰彼構わず手を出していた。その扱い方も千景との間に軋轢を生んた原因の一つでもあったが、その綜真から相手を思うあまり手も出せないという思春期前の男子のような事を聞くと思っていなかった千景の頭の中はぐるぐると回った。 「俺が抱かねぇから、何か……詩緒が俺を抱こうとしてる、らしい」 「……良かったじゃねぇか。榊が抱けるなら問題無いだろ?」 「大有りだろ。俺が詩緒に抱かれるとか想像も出来ねぇわ」 「そうか? 元々年齢は俺が上なのもあったから最初は玲於を抱く感じで考えてたけど」 「……お前元々ずっとネコじゃねぇか」 「殺されてぇのか?」  綜真が呟いた一言に千景は再び拳を握る。相手を好きと思うならばどちらの立場になっても構わないという考えは紛い物なのか、一度も試した事は無いが千景も恐らく男が抱けない訳では無い。玲於との関係性で言えば玲於が抱く側を望むからであって、もし玲於が千景に抱かれる事を望んだら千景にはそれを叶える事は可能だろう。  資料室の扉が開き、その音に千景と綜真の二人は息を呑む。分室の関係者で無い限りは変に邪推をされる事も無いが、綜真と知り合いである事ですら隠したかった千景は本棚と資料の隙間から入室者を確認する。  扉が閉まる音に続いて室内に響く施錠を掛ける音、一つしかない出入り口に鍵を掛けられてしまえばこっそりと抜け出す事は不可能となり、千景は入ってきた人物の顔が確認出来るように位置を移動する。体勢を崩しそうになると咄嗟に綜真の頭の上に手を付き、それに関しては何か物申したそうな表情を浮かべる綜真だったが、千景は唇の前に人差し指を立てて静止を促す。 「こんな所で誰かに見られたら……」  聞こえてきた斎の声に綜真は目を見開き、覗き込もうとしていた千景の腕を引き抱きかかえながら体勢を低くさせるように千景の口を手で覆う。 『お前っ……』 『シッ、海老原だ』 『は……?』 「ちゃんと鍵掛けただろー? 俺この後会議あるからさっさと済ませようぜ」  ばさばさと質量のある紙類が落ちる音が聞こえる。直接視認してはいないものの入ってきたのが斎と茅萱の二人だと分かった千景は想像していた最悪の事態が起こってしまった事に冷や汗を流した。 「ちが、やさっ……んぅっ、……」  詩緒への監禁や凌辱を働いた那由多の逮捕後、分室の営業担当が再び本棟へと戻った事で営業事務である斎は打ち合わせの度本棟へ赴かなければならなかった。一度持ち帰り改めて担当者と相談してみると資料を受け取った斎は、帰り際茅萱に目を付けられ有無を言わさず資料室へと連れ込まれた。  互いの唾液が絡み合う水音が室内に響き、それに乗じた斎の時も徐々に甘く艶めいたものへと変貌していく。 「そこっ、だめ、ですってば……」  茅萱の手が服の裾からするりと滑り込み、斎の胸元を探る。突起のある箇所を見付けるとここぞとばかりに指の腹で捏ね回し、斎は咄嗟に深く重ねられた唇を離すと茅萱の手を制するように手を重ねるが、それに構わず茅萱は腿を使って斎の中心部を擦り上げる。 「ア? 何処が駄目なんだよ。ちゃんと言ってみろ。何処が感じ易いから触って欲しくないんだ?」  反論する斎の唇を繰り返す口付けで塞ぎながら、茅萱はもう片方の手で器用に斎のズボンを脱がせていく。下着を押し上げる熱を布越しに握り込みながら粘着質な水音を響かせ上下に擦り始める。 「はっぁ、……乳首、かんじちゃう、っから……触んな、いでっ」 「感じるから、もっと触って欲しいんだろ?」  昼間の、しかも社内で背徳的な行為がされていると一体誰が予見出来ていただろうか。誰かにバレるかもしれないという瀬戸際の行いを以前斎は詩緒にした事があった。 「やめ、て、っ……イっちゃうっ……」  布越しに先端の敏感な部分を執拗に擦り付けられ吐精感に喘ぐ斎は壁を背にした状態でも立っているのがやっとだった。茅萱はそんな斎の根本を指先で強く締め付け、吐精を阻害しながら顔を近付け唇を柔く喰む。 「挿れるまで勝手にイこうとしてんじゃねぇよ。早漏には矯正が必要だよなァ…?」 「ごめ、なさっ……手ぇ、はな、してっ……」 「だーめっ。挿れられるように自分で解してみろよ」  斎の片手を取り、その指を口に含んで唾液をたっぷりと絡ませると茅萱はその手を斎自身の双丘へと回させる。 「……でき、ないっ、出来ない……そんなことっ」  誰かのものならばいざ知らず、挿入が可能なように自ら解せという茅萱の要求に唾液が絡んだ指先が震える。茅萱の片手は容赦なく中指を斎自身の中へと押し込んでいき、その掴んだ手を前後に動かしながら斎自身の指で内部を刺激させる。 「海老原はイイコだから出来るよ。愛されたいもんな? ほら、俺に身体寄せて、自分でぐちゃぐちゃ掻き混ぜてみな」  茅萱が斎の腕から手を放し、背中に手を回して抱き寄せるとただでさえ両足に力が入らず立っている事もままならなかった斎は茅萱へと倒れ込むように膝を付く。片手では変わらず斎の根本を締め付けたまま時折裏側や付け根の部分を指先で擽る。 「……あっ、んん、っ……ちが、っさ、やめ、って……」  口からも唾液を滴らせつつ斎は膝を付いた状態のまま茅萱へと身を擦り寄せる。イきたいのにイけない切なさから無意識に斎の指は自身の内部でも一番強い刺激を与える箇所を探り、何度も擬似的な絶頂を体験しながらもどかしさに目前の茅萱へと縋る。 「イき、たいっ……おね、が……いかせ、て、ぇっ……」 「そこの机に手ぇ付いて、ケツ向けな」  斎の髪を正面から掴んだ茅萱は無造作にバインダーや書類が積み重ねられている白い木製の机へと斎を投げ飛ばす。もたつきながらも机に縋りついた斎は今にも崩れ落ちそうな両足を奮い立たせ机の上へとその上半身を投げ出す。 「分かってるだろうけど、俺より先にイったらお仕置きだからな?」 「わ、わか、って……っ、ぁ、んん、ッ……!」  斎の背中へと乗りかかるようにして茅萱は自身の聳り勃った熱を斎が自ら解した蕾へと押し込んで行く。痙攣する内壁が茅萱へと絡み付き、その窮屈さに眉を寄せた茅萱は熱を帯びた吐息を吐き出し、斎の髪を背後から掴んだまま遠慮を微塵も感じさせないままに突き上げる。 「……ちがや、さんっ……はあ、っ、ぅんっ……」  惚けた目線で資料室の本棚をただ見つめ、繰り返される責め立てにぶるりと身体が大きく震え始めると斎は自らの指へ強く噛み付き並みの様に迫る絶頂を痛みで逸らせる。肌のぶつかり合う音と粘度の高い水音だけが響く室内、縋るように伸ばした斎の片手はバインダーの中の書類を数枚握り込み破り取る。 「ほら、海老原べろ出せ」  茅萱が斎の髪を強く引くと、斎は虚な目をしたまま茅萱を振り返り口を開いて舌を差し出す。止む事の無い律動に斎の雄からは唾液の様に蜜が滴り、茅萱が内部を突き上げる度悲鳴を上げるように脈打つ。 「あっ、も……無理、ぃ……」 「まだ駄目だっつってんだろ」  斎の舌を絡め取り態と音を響かせながら根本から舌を扱く。既に自ら舌を絡ませに行く余力すら残っていない斎は茅萱の思うままに口内を蹂躙され、瀬戸際で堪えていた指示を守ろうとする理性も呆気無く決壊しはたはたと床に散った書類の上へ白濁を落とす。  自分がイくより前に斎が達した事に気付いた茅萱は露骨な舌打ちをした後腰を引き斎の中から自分自身を抜き取る。散々我慢を強要されてきた斎は机の上で自分を支える事すら不可能となり、そのまま両足から床に崩れ落ちる。 「……海老原ぁ? 俺なんつったっけ?」 「っは、……先、に、イくな、って」  両肩を大きく上下させながら内部の痙攣が治るまで身体を落ち着けさせようとする斎の頭を掴み、茅萱は露出したままの自らの下半身へ斎の顔を押し付ける。 「お仕置きは今度考えといてやるから、取り敢えず銜えて全部飲んで?」  顔面にこびり付くような青臭い雄の匂いに斎は表情を歪めるが、おずおずと口を開くと容赦無く茅萱はその口の中へと限界を訴える肉棒を押し込む。 「んぐっ、う、んん……」  苦しさから思わず双眸には涙が浮かび、喉の奥まで押し込まれた質量に嘔吐きそうになりながら、直接注ぎ込まれる白濁を戻さないように斎は喉元を動かす。 「ん、ちゃんと飲めたな。イイコ」  満面の笑みを浮かべて茅萱は斎の頬を撫でる。その時ばかりは斎も安堵の表情を浮かべその手に頬を寄せる。 「いいこ……?」  斎が尋ねると身形を整えた茅萱は斎と視線を合わせるように屈み込む。その両腕で抱き締められ、頭を撫でられると斎の目からぼろぼろと涙が溢れ落ちる。縋るように背中へと両腕を回し茅萱の背広に皺が付く程握り込む。 「茅萱、さんっ……茅萱さん……」 「可愛いな海老原。愛してるよ」  これではまるでセックスを利用した洗脳では無いのか、資料室の隅で綜真に口を抑えられたままの千景は二人が資料室を出て行くまで息を潜めて部屋の隅に隠れていた。憑き物が落ちたような斎の様子はこれが原因かと合点がいった綜真だったが、二人が資料室を出て行った事を気配で感じると腕の中の千景を解放する。すぐさま二人を追おうとばかりに飛び出す千景の腕を掴んだ綜真はその場で立ち上がり再び千景を自分の元へと引き寄せる。  斎を追おうとした所を綜真に引き戻された千景は喧嘩でも売られているのかと立ち上がった綜真の胸倉を片手で掴み上げる。 「……何のつもりだ御嵩」 「そりゃあこっちの台詞だ。アイツら追ってどうすんだ」 「決まってんだろ! 海老原にあんな奴近付けられるかよっ」 「テメエの自己満足で海老原からアイツ引き離せば満足か?」  自己満足――綜真が告げたその一言に千景は固まる。依存体質だった斎が何もかもを失った今、その斎に光を与えたのが茅萱の存在だったのかも知れない。もしそれを再び斎から取り上げたならば、斎はその後一人で立つ事が出来るのだろうか。 「海老原に中途半端な優しさしかかけてやれねぇなら、お前は海老原に関わんな」  千景の優しさはいつだって正しい。綜真はそれを十分過ぎるほど分かっていた。しかし優しさだけでは救われない人間だって居る。茅萱との関係が今の斎にとって救いになっているのならば、それを斎から奪う事は千景のエゴであり、斎が願う優しさでは無い。  受け入れる事も出来なかった自分が斎の幸せを独断で決めようとしていた事が烏滸がましかった。それに気付いた千景は冷静さを取り戻す。千景が落ち着いた事が分かった綜真も千景からそっと手を離す。 「……悪、かった。俺が決めるのは間違ってた」 「海老原は分室(ウチ)の人間だ。玲於くんとの幸せを守りたいなら、お前はもう海老原……分室の事に関わるべきじゃねぇ」  四條からの勧誘を再三断ってきていたのにも関わらず都合の良い時だけ首を突っ込んで当事者の振りをしていた事に千景は気付いた。しかし自分を庇い茅萱の袖を引いた斎に対する責任が自分に一切無いと千景には思えなかった。それでも綜真の言い分は間違いでもなく、斎に手を伸ばそうとすればそれは同時に一番大切である玲於の存在を蔑ろにする事にもなる。  何故斎を拒絶する事が出来なかったのか、その理由を千景は良く知っていた。まだ玲於との再会を果たしていなかった頃、千景は斎に幼き頃の玲於の面影を見ていた。まだ小さな玲於との思い出しか無い千景だったが、千景を慕う人懐っこさも、話し方もどこか玲於を彷彿とさせた。  ――千景にだけは幸せになって欲しい。それは嘗て千景の事を誰よりも愛していた綜真の親友が告げた最後の言葉だった。既に道を違えてしまった二人ではあるが、レンが千景の幸せを願う気持ちは今も変わらない。これ以上斎や茅萱と深く関わっていく事できっと千景は昔以上に心も身体もぼろぼろに傷付く事になるだろう。その時に玲於がまだ千景の隣に居るという保証も無かった。分室のメンバーでは無いからと千景と突き放したのは詭弁であり、本当は綜真自身がこれ以上千景に自ら渦中へ飛び込んで欲しくなかった。

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