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第九章 救出と終焉

 マップが示した繁華街にバイクで乗り付けた綜真はその会員制ラウンジの前に斎のバイクが並べられているのを確認するとこの場所に間違い無いと即座に店の中へと押し入ろうとしたが、案の定入り口前に立つ黒服に入店を拒まれた。紹介が無ければ入店すら出来ない店の体制をどうにか掻い潜る事が出来ないかと店内を覗き込んだ綜真はそこに見知った茅萱の姿を見掛け、茅萱の知り合いであると黒服に嘯き強引に店内へと入り込んだ。 「おいっ……!」  カウンターに座る茅萱の肩を掴む綜真だったが、店内の何処を見渡しても綺羅びやかな装飾ばかりで斎の姿が見当たらない。突然声を掛けられ驚いた様子の茅萱ではあったが、すぐにそれが綜真であると分かると斎を取り戻しに来た事と直結して考え嘲笑を浮かべる。 「……分室の犬、御嵩か」 「海老原は何処だ?」  GPSが指し示していた場所は確かにこのラウンジである筈だったが、茅萱の姿があって斎の姿が見えない。詩緒と密に連絡を取っていた訳ではないのでもう既に何処かに斎が移動している可能性もあったが、茅萱が居るのならば茅萱本人に聞く事が一番早いと綜真は茅萱の胸倉を掴み上げる。 「テメェ……海老原におかしな事仕込んで何するつもりだ?」  綜真は真香が過去茅萱によって性接待に利用されていた事実をまだ詩緒から聞かされていなかった。綜真が知っている事と言えば千景と目撃した資料室での出来事や喫煙所での出来事のみ。それだけでも斎が茅萱の手によって危険な道に引き込まれようとしていた事は理解する事が出来ていた。  綜真が四條に任されていた仕事は庶務という業務だけではなく、分室内で起こるあらゆる問題の早期解決も含まれていた。過去半グレ集団に所属していた綜真を分室へと引き抜いた理由も荒仕事に明るい所にあり、そうでなければ四條が綜真を神戸から呼び寄せる事も無かった。 「……一足遅かったな。もう手遅れだ」  斎は既に引き渡され、本日行われる接待の贄として扱われる。その為にこの会員制ラウンジという場所は最適で、茅萱の担当は接待の道具として扱える人材の調達と斡旋だった。それは同じ社内の人間に限らず茅萱はあらゆる場所で使える人物を調達しては自ら調教し接待の場へと送り込んでいた。最近はそういった接待を所望される機会も減ってきていたが、久々に依頼された茅萱が手塩にかけて育て上げた斎という存在はきっと顧客の要望に応えられるだろう。  斎を止めたいのならば斎がこのラウンジに足を踏み入れる前に止めるべきだった。既に引き渡された斎を取り戻す手段は残されていない。勝ち誇った笑みを浮かべる茅萱だったが、綜真に対してのそれは火に油を注ぐだけとなり、答えないのならば答えたくなるまで痛め付けるだけだと硬く握った拳を振り上げる。 「やめろっ」  振り下ろされる綜真の拳を背後から掴んで止めたのは駆け付けた千景だった。移動手段を持たない千景は詩緒から貰ったGPSの位置を頼りにタクシーで乗り付けたが、案の定綜真と同じく入り口で足止めを食らった。全員を殴り倒して店に入ろうかと考えた千景だったが、黒服が通信機器から何かの指示を受けると不思議と千景は労せず入店する事が出来た。その理由も気になりはしたが、それより先にカウンターで茅萱に掴み掛かる綜真を目撃した為余計な考えを一度頭の中から追い出し綜真の元へと駆け付けた。 「千景……」  詩緒の連絡を受けて現れたであろう千景の姿を見て驚きの表情を浮かべる綜真だったが、諭されれば不服気な表情を浮かべながらもゆっくりとその拳を下ろす。千景も到着したばかりの綜真同様店内を見回すが斎の姿が見当たらない事に首を傾げ、それから拳を下ろした綜真へと視線を送る。 「海老原は?」 「いや、分かんねぇ」  綜真が掴んでいる手を離すと茅萱はそのままカウンターの椅子に腰を落とす。唐突に始まった乱闘に店内を警備する従業員が警戒を始めたが、すぐに落ち着いた為何事も無かったかのように通常警備に戻って行った。  茅萱が座る席の隣に何度も見た斎の上着を視認した千景は斎がこの店内のどこかにまだ居る事を察し、カウンターに肘を付いて茅萱の顔を覗き込む。 「海老原はまだこの店の中に居ますね?」  片手でネクタイを緩めながら千景はもう片方の手の指でカウンターを叩く。追い詰められている状況に於いても茅萱はその飄々とした姿勢を一切崩さず、頬杖を着いたまま千景の姿を上から下まで舐めるように見遣る。一番怒らせてはいけない相手を怒らせてしまっている事にまだ気付いていない茅萱を憐れに思いながら、自分に殴られる前に吐いておけば痛い目に遭わなくて済んだのにと考えながら綜真はカウンターの隅に置かれたガラス製の灰皿を指で手繰り寄せる。 「……爪、何枚まで我慢出来ますかね?」  千景は茅萱の柔い右手を取り、その小指の爪へと指先を引っ掛ける。みしりと小指を伝う痛みにぞくりと茅萱の背筋を悪寒が這い上がる。漠然とした恐怖は小指の爪を剥がされそうになっているからだけでは無く、千景の表情がとても冷たく、綺麗な笑みを浮かべていたからだった。手を引こうとしても千景の掴む力はその細い見た目からは想像も付かない程ずっと強く、表情を一つも変えないまま爪を剥がそうとする指先にだけ力が込められていく。  本当に厄介な存在ではあるが、触らぬ神に祟り無しと綜真は煙草を吹かしながら、もし茅萱が泣きを入れても千景が止まらなかった場合の緊急ブレーキの役割を果たす為二人の様子を逃さぬよう注視していた。  大きな騒ぎが起こらなければ警備すらも止めには現れない。バーテンダーに視線を送る茅萱だったが、カウンターに隠れ手元も見えない状態ではそれが伝わる訳も無かった。 「……おく、奥……の、VIP|室《ルーム》、っだ……」  悪辣な仕事をしておいて音を上げるのは案外早かったと、本気で爪の二枚や三枚を剥がす気でいた千景は茅萱から手を離す。同時に椅子から腰を上げると茅萱が示した奥の通路へと視線を向ける。 「アンタ、何で性接待の斡旋なんかやってんですか」  そう尋ねた千景だったが始めから茅萱の答えを待つつもりは無く、だた茅萱へと問いを投げただけで千景は振り返りもせずに歩き始めた。性接待についての話をここで初めて聞いた綜真は千景が向かっていった先を確認した後、茅萱が逃げ出さないよう監視の意味も込めて隣の椅子に腰を下ろす。 「……性接待って、何の話だ?」  目を醒ました時、見知らぬ場所に居た。起きている筈なのに目の前は真っ暗で、どういう状況におかれているのか確認しようにも両手の自由が利かない。腕を動かす度カチャカチャと音を鳴らす金属音からそれが手錠を掛けられているのだと分かり、そういえばプレイの一環で詩緒に手錠を掛けた事があったなと思い返した瞬間斎は自らの身体に起きている違和感に気付いた。  全身が熱く、誰かに触れられている気がした。それも一人ではなく複数の手が主に自分の下半身に触れていた。直感的にそれが茅萱では無いと感じた斎は周囲の気配を探ろうとしたが、身体の中を蠢く指の動きに脳が沸騰しそうな程熱くなっているのを感じた。茅萱とは違う太くて短い指に体内を探られ、それでも素直に反応を示してしまう身体は堰き止める物も無くだらしなく精を吐き出す。 「……あ、っは……ぁ、なに、これ……」  視界が奪われれば必然的に聴覚や嗅覚、触覚が鋭敏となる。口の中に唐突に生臭い何かを押し込まれ噎せ返りそうになる斎だったが、喉の奥を何度も突かれ流し込まれたそれが精液だと分かるとじわりと両目に涙が浮かぶ。 「ぅ、おえっ……」  肌に触れる縮れた毛が気持ち悪くて、喉の奥へと無理矢理流し込まれた生暖かい液体が気持ち悪くて、斎は反射的に喉の奥から内容物を吐き出した。すると乾いた音と共に片頬がじんじんと痛む。叩かれたのだと気付いた時斎は腰を高く持ち上げられ、その背中を誰かに支えられていた。  複数の指で排泄孔を拡げられ、何が起こるのかも分からぬ恐怖に斎の身体が震える。何人もの男の声が聞こえたが誰一人の言葉も明確には聞き取る事が出来なかった。  ポンッとコルクが飛ぶ景気の良い音がした。あの音は何の音だったか、斎は嘗てその音を聞いた事があった気がした。数年前だったか、真香と詩緒の三人で真香の家でクリスマスパーティをした時、真香がシャンパンのコルクを抜いた時の音に似ていた。きっと誰かが酒の栓を抜いた音なのだと薄っすら考えた斎だったが、それ以上に脳裏に浮かぶ三人で過ごした楽しかったクリスマスの夜が切なく胸を締め付けた。真香や詩緒ともまだ笑い合っていたあの頃が楽しかった。何を間違えてしまったのか、気が付いたら真香も、詩緒も、そして千景も傷付けてしまっていた。大切に思っていた筈なのに。  ぴたりと孔に冷たい何かが宛てがわれる。それが先程栓を空けた酒瓶か何かだと斎が考えるに至るまで時間は要さなかった。前に詩緒から聞いた話によると直腸は吸収率が高いという。だからこそ幾ら酒が強い相手でもそこからアルコールを吸収すれば酔い易いのだと聞いた事があった。経口摂取でも顔に出易い斎にとって吸収し易い場所からの摂取は絶対に避けるべきの物だった。 「……ぁ、いや……やめ、て……」  誰にとも分からず斎は見えない誰かに許しを乞う。急性アルコール中毒にも成りかねないこの状況だけは避けたいと唯一自由に動かせる両足をばたつかせて抵抗を試みるが、意図も容易く何者かの手によって簡単に抑え付けられる。自分の足を抑える手の数の多さに斎からサッと血の気が引いた。 「――――」  男の生臭い吐息と下衆な笑い声しか聞こえなかった中、どこか遠くで喧騒の声が聞こえた。その声は徐々に近付いて来て、やがて荒々しく扉を開いた音が室内に響く。 「海老原っ……!」  複数あったVIP室の中を一つずつ確認していき、一番奥にあるこの部屋へ最後に辿り着いた千景はその部屋の中で行われていた光景を目の当たりにして一瞬言葉を失った。  中に居た複数の男達はどれもそれなりの立場がありそうな高そうなスーツを身に纏っており、仮面舞踏会のように顔を隠す大きな仮面を付けていた。赤く落とされた照明は室内をより妖しげな雰囲気に演出しており、噎せ返る程室内に充満した甘い香りが千景の眉を顰めさせた。  室内を見回せばどの男性もそれぞれ上質なソファに腰を下ろし各々酒を嗜んでいたが、隅に置かれた一つのソファに男達が複数群がっており、一人の男が掴んでいた長い足が斎のものであると千景は直感した。  予期せぬ訪問者の登場に男達は皆固まり何事かとどよめいて千景を注視していたが、斎が何をさせられているのかを目の当たりにした千景の怒髪天を衝くには充分過ぎた。千景はそのまま無言で警棒のシャフトを振り出すと真っ先に斎へと群がる男たちの元へと駆け寄り、手元で警棒を回転させると遠心力を使い流れるように男たちの足元を狙う。決して強い身体的ダメージでは無いが身の危険を知らせるには充分な痛みを与え、斎の足を掴む手には容赦無く振り落とし、それでも斎から離れない者に対しては警棒で払う事で直接の危害を警告する。  男の一人が持っていたワインボトルが萎縮した反動で手から落ち、ガラスが砕け散る音を響かせながら大理石の床に赤い液体を広げる。 「なに……しやがった……」  千景はアイマスクを施されたままの斎へと視線を送る。既に斎の意識は無いようで群がっていた男たちも居ないソファの上から今にも崩れ落ちそうになっていた姿を見た千景は、斎の身体を落ちないようにソファの上へと寝かせると自らの背広を脱いでその下半身へと掛ける。その時孔を僅かに伝う赤い液体を見た千景は自分の中で堪忍袋の緒が切れたことを完全に自覚した。  一見で分かる直腸からのアルコール摂取、酒が弱い斎にそんな事をしたらどうなるかも分かっていた千景はいま一度男達へと視線を送る。その眼光は鋭く、千景から殺気を感じ取れた男がいち早く仮面を脱ぎ捨て部屋から飛び出す。 「タダで済むと思うな。……全員殺す」  元々後ろ暗い接待の最中敵意を持った者が突然現れれば身に覚えのある者ほど我先にと蜘蛛の子を散らす様に部屋から飛び出して行く。それでもまだ呆然とソファに座ったままぽかんとだらしなく口を開け千景を見るだけの男に対しては目前で警棒を振ればその重い空を切る音に恐れ慄き、腰を抜かしながらも四つん這いの状態で部屋から出ていこうとする。  機密性の高いVIP室であるからこそ通常の警備員の目も届かず、戦闘の経験など皆無に等しい男たちはただ自分が被害に遭わないよう逃げ出すしか無かった。自分たちが行っている事を何よりも理解している当人たちには抗議が出来る訳も無く、その中でもごく数人自分の置かれている状況が分かっていない男は突如乱入した人物を止めようと背後から千景の腕を掴むが喉元へ突き付けられた決して鋭利ではない警棒の先端に息を呑む。  室内の空気は完全に千景が制圧していた。僅かな身動きでも敏感に察知し、自身に触れよう者が居たならばまずは警棒で威嚇をした上、それでも引き下がらない場合には死角から蹴り上げる。目的は斎の奪還で、元から誰にも傷を負わせるつもりは無かったが、向かってくるのならば話は別だった。  綜真に腕力で圧倒的に勝てない千景が選んだのがこの警棒だった。得物を使うのは卑怯だと言われた事もあったが、引っ越し荷物の中に紛れていたこの警棒を再び手にした事で玲於を暴漢から守る事も出来て今こうして大人数を薙ぎ払う事にも役立っている。  気付けば室内に残っていたのは腰が抜けて逃げ出す事もままならない数人のみで、床に警棒を垂直に叩き付けシャフトを仕舞い込んだ千景は散乱していたワインボトルの破片を手に取ると逃げ遅れたその一人の腹を踏み付けその首元へと破片を近付ける。 「……名刺」 「はっ、えっ!?」  顔を隠す仮面を千景に奪われ、首元へ破片を突き付けられたその男は目前に迫る無表情な千景の顔を見て声が裏返りながらも返事をする。年齢から考えても部長職程度だろうか、ぶよぶよと腹に脂肪を溜め込んだこの男が斎の足を抑え付けていた一人である事を千景は忘れては居なかった。 「名刺出せ。早く」 「はっはい!」  ぐっと強く喉元に押し付けられると男は背広の胸ポケットから名刺ケースを取り出し、その中の一枚を震える手で千景へと差し出す。千景は渡された名刺を一瞥すると男の腹から足を下ろし男を解放する。 「二度と性接待に関わるな。お前も、お前の会社も潰す」  女のように綺麗な顔でドスの効いた低い声で脅された男はじわりと股間に温かみを覚えつつ、解放された瞬間につんのめりそうになりながらも四肢を遣い慌てて部屋を出て行く。  ワインボトルの破片を手から離すとぽとりと血液が共に床へ落ちる。脅しの為とは言え破片で相手を傷付けぬようガードしていた千景の指はざっくりと切れており、千景は眉を寄せその傷口に舌を這わせつつ残っている人物が居ないか室内を見回す。 「海老原……」  荒れた部屋に残された斎はこの騒動の中でも意識を手放したまま目を覚ます事は無かった。千景が近付き口元に耳を寄せると微かに寝息の音が聞こえ、念の為首筋で脈を確認すると特に荒れている様子も無いのでただ寝ているだけと判断した千景は漸く安心したように膝を着いた。 「バカ野郎が」  伝わらない言葉を目の前の斎へ向けて吐露する。アイマスクを外せばその目元には薄ら涙の後があり、千景は指先でその涙を拭う。ソファの上で斎の身体を返してみると両手に手錠を掛けられており、誰が鍵を持っているか分からないまま全員を追い払ってしまったと後悔した千景だったが、テーブルの上へ置かれた灰皿の隣にラウンジのマッチが置かれているのを見ると手を伸ばす。  千景は茅萱を綜真に任せたままだった事を思い出し、今もまだカウンターに茅萱と居るだろうかと斎の手錠を外すと前髪を掻き上げながら入り口に視線を送る。一度二人の様子を見に行こうと千景が腰を上げた時、タイミング良くポケットの中でスマートフォンが鳴り出した。 「とら?」 『あーちか、今お前ん家着いたぜ。レオも一緒に居る』  自分の代わりに帰宅まで玲於と居て欲しいと頼んだ虎太郎からの到着連絡だった。仕事終わりとはいえ文句一つ言わず家まで来てくれた虎太郎には内心感謝しか無かった。ストーカーの事を黙っていた事に対してこれで相殺しても良いだろうと千景が思えたのは、斎の無事を確認出来た事も大きい。 「ありがとな。こっちも用事片付いたからもう少しで帰――」 「千景」  スマートフォンを耳に当てたまま反射的に千景は自分の名が呼ばれた方へと振り返った。このVIP室への出入口は千景が入ってきた客用の出入口だけではなく、部屋の奥に従業員用の出入口が存在していた。普段は従業員ですら滅多に出入りしないであろうその扉が細く開かれており、そういえば部屋に入った直後その出入口から二人程即座に出ていった気がすると考えながら声が聞こえた扉へと視線を送った千景は一瞬言葉を失った。 「悪ィ……帰るの、もう少し遅くなる……」  それだけを告げて千景は一方的に通話を切った。  あれから何時間経過したのか、再び斎が目を醒ました時視界や身体の自由は戻っており、あれは夢だったのだろうかと考えた斎はソファの上で身を起こした。 「あれ、ここ……どこだ……?」  上体を起こすと肩に掛けられていたであろう背広が落ちる。それが誰の物だろうと拾い上げると斎はそれが今日千景が着ていた物である事を思い出した。ハッとして周囲を見回すと見慣れない部屋だった。閉塞感があり薄暗く、壁紙や床の絨毯から高級感がある事は分かるが何故か荒れており床のところどころに何かが割れた破片が落ちていた。 「起きたか」  斎は声のする方を振り返る。すると斎が横になっていたのとは別のソファにシャツ姿でノーネクタイの千景が煙草を吸いながら座っており、何故か頭からはぽたぽたと水滴を滴らせていた。水に濡れてもやはり好い男だと思わず見惚れてしまった斎だったが、この部屋に千景と二人で居る状況が理解出来ず困惑した表情を浮かべる。 「……なん、で、佐野さん……」 「茅萱部長がヤバイ奴だって事分かってただろ」  テーブルの上に置かれたガラス製の灰皿の上に千景は煙草を押し付けて消火する。斎は夢の中で確かに自分を呼ぶ千景の声を聞いた気がした。するとあれはやはり夢では無く現実に起こった事なのだと考えるのと同時に斎の中に先程までの恐怖が再び沸き起こる。そして信じたいと思っていた茅萱に裏切られた事も――。 「ふ、ぐっ……うぇっ……」  三十路も近い大の男が恐怖や絶望等処理しきれない感情の余り脇目も振らず泣き始める。騙されていた事もショックではあったが、それ以上に抵抗も敵わず複数の男に抑え付けられた恐怖が今も生々しく斎の中に残っていた。ただ怖くて、思い出すだけでも手が震え始める。こんな時詩緒や真香ならば優しく斎を抱き締めただろうが、千景は斎に近付こうともせず離れたソファから斎を見ているだけだった。  千景を守る為に身代わりとして名乗り出た思いに嘘偽りは無い。あの時はこうなる事など微塵も想像していなかった。しかし斎の思いはそれ以外にも存在していた。 「……ほんと、はっ……ほんとは…………」  言葉にしたら今度こそ本当に嫌われるかも知れない。どこまでも自分は汚くて狡い人間なんだと改めて実感しながら両手で溢れ続ける涙を拭う。 「……佐野さんの、……気を引きたか、った……」  やる事がまるで子供のそれだと思いながらも、あの時の斎にはこれしか手段が無かった。身代わりとなった自分を気に掛けて欲しい、心配して欲しい、憐れんで、側に居て、慰めて欲しい。完全に失われてしまった自分への興味を再び取り戻すのにはこの方法しか思い付かなかった。  しかしそれと同時に茅萱の存在を大切に思っていたのも事実だった。茅萱と身体を重ねている間だけ斎は千景の事を忘れられた。あれだけ千景の興味を引きたがっていたにも関わらず、茅萱から与えられる快楽に抗えなくなっていたのも事実だった。 「……こんな扱いでも、茅萱さんが俺だけを必要としてくれたのは本当だから……」 「なら本人に直接聞いてみろ」  先程から一言も喋らない千景に代わり、出入口から茅萱を連れて綜真が入ってくる。二人の身長差からまるで捉えられた宇宙人のように見えながらも、綜真は茅萱の腕を掴んで現れると斎の前へと茅萱を投げ飛ばす。 「ちがやさんっ……茅萱、さんっ……」  ソファの前へ倒れ落ちる茅萱へ咄嗟に手を差し出そうとした斎は勢い余りソファから床へと落下する。肘を強打した斎だったが同様に目前へ倒れた茅萱を見て心臓が早鐘を打つ。愛してやると先に言い出したのは茅萱だった。 「俺、のこと……愛してる、よね?」  千景と綜真からは逃げられないと悟った茅萱は逃げもせず観念したようだった。床の上へ這い蹲る状態からゆっくりと身体を起こすと、涙を流しつつ縋るように尋ねる斎の姿が目の前にあった。その表情が誰かに似ていて――本当は最初からずっと気付いていた、愛していた人の姿に斎を重ねていた事を。 「海老原……」 「茅萱、っさん……」  ゆっくりと茅萱は身を起こし目の前の斎へと向かい合う。茅萱は片手を伸ばして斎の頬へ触れる。頬に触れる指先の体温が確かにそれを現実の物であると斎に知らしめた。 「ごめんな。俺にとってのお前って単なる接待の為の道具だったんだわ」  そこに愛情など一欠片も存在していなかったと清々しい程の笑みを浮かべて茅萱は言った。その次の瞬間茅萱の姿は斎の視界から消えた。茅萱の一言を聞いた千景が何よりも早くソファから立ち上がり渾身の拳で茅萱の頬を殴り飛ばしたからだった。小柄な見た目通り体重も軽い茅萱は殴られた事にも始めは気付けず、ソファごと崩れ落ちた茅萱の胸倉を千景は掴み上げ再び右手を振り上げた。 「チカっ!」  千景に正気を取り戻させたのは綜真の呼び掛けだった。頭まで上った血はその一瞬で戻り、如何に自分が冷静さを失っていたかを実感した千景は茅萱から手を離す。もしかしたら茅萱は歯の一本や二本は逝ったかもしれない、千景の殴打がどれ程のものなのか身を持って知っている綜真は無意識に片手で口元を覆い隠した。  それよりも綜真が気掛かりだったのはこれ程までに千景が激昂した情緒だった。今まで千景が誰かの為に拳を振るった事があっただろうか。嘗て綜真が一度でも千景の女顔をからかおうものならば容赦無くその拳が飛んできたものだが、それらは全て千景が自身の矜持を守る為のもので、今のように誰かの代わりに感情に任せて拳を振るう姿を綜真は初めて見た。どこかイライラしているかのような、昨日今日までとは異なる余裕の無さが綜真には気になった。そして先行して斎を救出に向かった千景は何を見たのか、何故頭から水を被ったように濡れているのか、綜真が幾ら考えてもその答えは出なかった。  斎は目の前の光景を信じられないといったように目を丸くしていた。思い出したのは好きな人と一緒に暮らしていると告げられたあの日、それはもう斎との肉体関係を結べないという千景からの拒絶の意志だった。そんな千景を無理に犯したのは、それでも自分を見て欲しかったから。左手薬指に光るリングを見た時斎の頭の中は真っ白になった。聞いていた筈なのに、知っていた筈なのに自分以外を選んだ千景へと向かったやりきれない思い。完全に嫌われたと思っていた。恋人の前で二人の過去の関係を漏らし、二度と千景が自分を見てくれないと思っていた斎は自分の代わりに茅萱を殴り飛ばした千景をただ呆然と見詰めていた。 「吐け、嘘吐いたら殺す」 「……何でも殺そうとすんな」  これではどちらがストッパーか分からないと、千景が激昂したお陰で妙に冷静になれた綜真は千景の肩に手を乗せて冷静さを取り戻させる。千景が振り返ると綜真はその片腕にまだ大きなショックが拭い取れず震えている斎を抱いており、大事に思う後輩ならばこれ以上黒い一面を見せるなと視線で制された千景は不服気な眼差しを残したままソファに腰を下ろし、その隣に綜真も斎と並んで座る。  三人が並び座るソファ前の床で茅萱は立て膝を立てた状態で座り、口の端が切れた拍子に滲む血液を親指で拭う。 「……海老原だけじゃない。俺はもう何人も自分の目的の為に犠牲にしてきたよ」  全てはこの組織の中枢へ近付く為に。親指に残る血液の跡へ視線を落とした茅萱は何から説明したら良いのか悩み逆の手で頭を掻き一番に伝えなければならない事を思い出し、綜真に凭れ掛かる斎へと視線を送る。どきりと胸が高鳴る斎だったが茅萱の瞳が自分に向けられているようでその実一切自分を見ていないような気がして斎の胸はずきずきと痛み始める。 「俺の恋人はこの組織に食い物にされた」  今と違い真っ当に営業職に従事をしていた茅萱は恋人からの助けを求める言葉に気付く事が出来なかった。もし時間を巻き戻す事が出来たならば二度と同じ間違いを繰り返さないと固く心に決めた茅萱は、数年後思わぬ所で嘗ての恋人と再会を果たした。  それが性接待の場所であり、都市伝説かと思っていた茅萱が取引先の伝手でその現場に顔を覗かせた時、そこに居たのは先程までの斎のように性を提供させられるだけの傀儡となった恋人の姿だった。自分の恋人を寝取った男と未だに通じていた事を知ったショックよりも、付き合った当初は男同士の行為も分からず抱く側を希望して譲らなかった恋人が何人もの男の肉棒を代わる代わる銜え込み恍惚の表情を浮かべていた事だった。 「この後は佐野と同じだよ。俺は気が付いたら恋人を連れてそこから逃げてた」  間違っても斎は千景の恋人では無いが、もし目の前で玲於がそんな目に合わされていたとしたら千景も間違いなく茅萱と同じ行動を取っていただろう。 「連れ戻した恋人と暫く俺は一緒に暮らしてた。アイツはもう……一人でまともな日常生活が送れるような精神状態じゃなかったからな」  斎の背筋がぞくりと震えた。もしあの時のような事が毎日のように繰り返されたとしたら――斎には到底正気を保っていられる自信が無かった。そして真香のあの口振りから察するに真香にも今日のような事が繰り返し続けられていたのだろう。真香がひたすら詩緒を求めて、そして事ある毎に精神のバランスを崩して自殺を図ろうとした理由が今ようやく分かった斎の目からは再び涙が溢れ始めた。  千景が火を付けた煙草の紫煙が室内に漂う。平静を装おうとしながらも先程から一切茅萱と斎に視線を向けられていない事に綜真は気付いていた。 「アイツらは逃げ出した恋人を探して、見付けて――俺の留守中に押し入って、凌辱してった」  千景の煙草を挟む指が大きく揺れた。去年玲於の身に起こった出来事と重なってしまったからだった。自分の居ない間に恋人へ加えられた危害をどれ程茅萱は後に悔やんだのだろうか。それでも表情には出さず、震える指先を口元へと近付けた。  斎の顔色が青くなっている事に気付いた綜真は千景へと視線を向けるが、意に介さずとそっぽを向いている千景の姿を見ると代わりに斎の頭を抱え込んで撫でた。自らに起こり得た未来を想像する事も然り、目の前で好意を寄せる相手の口から大切な恋人の話を聞かされる事は斎の精神面にも深刻なダメージを与える。 「海老原、辛いならもう聞くな――」 「俺が家に帰った時、恋人は死んでたよ。自殺かもしれないけど、もしかしたらアイツらに殺されたのかもしれない」  腰を浮かせた茅萱が斎の手を掴み、言い聞かせるようにして斎へと顔を近付ける。そんな話を何故熱心に斎へと聞かせるのか、意図のある事だとしても今の斎には追い詰めるだけで逆効果だと綜真は茅萱の手を払い除ける。 「その話はもういい。さっきお前が金庫から盗み出したファイルの説明をしろよ」  声を上げずに涙を流す呆然自失状態の斎の背中を撫でつつ、綜真は茅萱へと視線を送る。千景が先んじてVIP室へと向かった直後茅萱を監視していた綜真だったが、茅萱が着いて来いと言うのでそのまま茅萱を追って訪れたのは事務所と思しき場所だった。茅萱はVIP室の様子をしきりに気にしながらも事務所に置かれたレトロな金庫のダイヤルを操作し中から一冊の黒いファイルを取り出していた。  そのファイルを今も茅萱は胸元へ大事そうに仕舞い込んでおり、窃盗の片棒を担がされては適わないと綜真は指摘する。隠し立てするつもりも無かったそのファイルを背広の中から取り出すと茅萱はそれをテーブルの上へと投げ置く。 「この組織には当然この場所を提供する組織が裏にある。だけどその組織に隠れてこいつらは売上を誤魔化して計上してる。その証拠がこの出納帳だ」  恋人を失った後茅萱は伝手を使いこの性接待を仕切る組織へと近付いた。その理由は恋人の復讐をする為で、長い時間求められるままに贄を提供し少しずつ信頼を得てきていた茅萱は同時に組織のアキレス腱をも探し続けていた。接待が行われるその瞬間だけ事務所の警備は手薄となり、その瞬間を茅萱はずっと狙い続けていた。 「海老原、その為にお前を利用したんだ。ごめんな?」 「もうやめろっ」  追い打ちを掛けるように斎へと放たれた茅萱の言葉に、綜真は声を荒げる。茅萱の説明を受けてこれで合点がいったと納得出来た千景はテーブルの上に置かれたファイルへと視線を落とし、続いて茅萱へと視線を送る。 「……このファイルでアンタは何が出来るんですか」  場所代を誤魔化していた事がラウンジを仕切る組織にバレれば当然粛清は免れない。恋人を奪われ殺された恨みから斡旋組織そのものを潰そうとしていた茅萱の決意は理解出来たが、だからといってその為に真香や斎を犠牲にした事は千景にとって到底許せるものでは無かった。 「……この組織を作った奴、俺の恋人を殺した奴。組織の中枢はたった二人だ。このファイルでそいつらを誘き出して……殺す」  茅萱は言いながら胸ポケットに手を入れた。微かな金音が耳に届いた綜真は咄嗟に身構え、千景は腕を伸ばして斎の視界を覆い隠した。茅萱が手に持っていたのは黒光りする鉄の塊、その形状は銃だった。脅しの為のモデルガンとも受け取れたが、ファイルを盗み出した事といい茅萱の決意が本物だと考えた二人は見せられたそれが本物であると考えるしか無かった。 「心中するつもりなら一人でやれ。これ以上海老原を巻き込むな」  何処から入手したものかは分からなかったが、銃など到底素人が扱えるものでは無いという事を千景も綜真も知っていた。その大きさ、撃った時の反動、加えて一度も試し撃ちをした事が無さそうな茅萱では直接相手に銃口を押し付けない限り狙いを外すだろう事は必至だった。 「始めからそのつもりだったよ。コレを手に入れる為に俺は海老原を――」 「海老原、寮に戻るぞ。詩緒や本田がお前の事を心配している」  茅萱の言葉を遮り、斎の視界を覆う千景の腕を下ろさせた綜真はこれ以上は何も斎に聞かせたくないと斎を連れて立ち上がる。斎が千景を傷付けた事、詩緒や真香を悲しませた事に対する代償ならば充分過ぎる程受けた筈だと考えた綜真はもうこれ以上斎が傷を負う必要は無いと同様に立ち上がる斎を支えて部屋の出入口へと向かう。  斎も綜真もこのラウンジまではバイクで来ていたが、今の斎の状態ではとてもバイクを運転して帰る事は出来ない。綜真も斎を置いて一人バイクで戻る事も出来ず、バイクは此処に置いていきタクシーを使って寮へと戻ろうと考えながら、タクシーを停める為に片手を上げた綜真は千景を振り返る。 「千景、お前も一緒に――」  入寮していない千景とは行き先が異なるが、途中までは同じ方向である為同乗して行くだろうと考えた綜真は、眼の前へ停まったタクシーに斎の乗せると扉へ手を掛けて自らが乗り込む前に千景へと声を掛ける。 「……用事がある。二人で寮に帰ってくれ。……また明日な」  ラウンジの入口までは共に訪れていた千景だったが、綜真からの提案を拒絶し視線を逸らせた。 「……ああ、じゃあまた明日」  翌朝になればまた嫌でも寮で顔を合わせる事になる。綜真がそう告げるとタクシーの扉が閉ざされ、運転手が車を走り出させた。千景の綜真に対する態度は四年前から相変わらずだったが、ここ数日の千景とは何かが決定的に違う事を綜真は感じていた。それも斎を救出に行ったあの瞬間からだった。  明日も何も変わらず千景と会う事が出来るのか、あれから一言も千景は斎に対して言葉を掛ける事が無かった。斎がふとリアガラスを振り返ると、千景の腕が誰かに引かれ店の中へと連れ戻されている姿が見えた。
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