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第十章 親友と恋人
綜真から斎を無事に取り戻したと連絡を受けた詩緒は真香と共に綜真に言われた通り寮から出ずに二人の帰宅を待っていた。二人が戻るより早く詩緒から連絡を受けた四條が寮に現れ、ダイニングで真香が入れた茶を飲みながら三人となって待っていた中、漸く綜真が斎と共に寮へと戻って来たのは二十二時を過ぎる頃だった。
消沈気味の斎を綜真は玄関に座らせ、互いに靴を脱いでいる間ダイニングから飛び出した詩緒は一目散に斎に掴み掛かる。
「斎っ、お前……!」
「詩緒、ストップ」
詩緒が胸倉を掴んでも人形の様にただ揺すぶられるだけの斎の精神状態はまだ安定していないと綜真は詩緒を止める。心配し続けていたこの数時間、動揺する真香を宥め賺していた詩緒の感情は無事に戻ってきた斎を前に爆発寸前だった。
「綜真、状況説明してくれるか」
「……暎輝、来てたのか」
四條にまで話が及んでしまっていると誤魔化すのは厄介だと表情に表しながら、バレてしまった以上隠し立ては出来ないと諦めた綜真は四條が示すまま肩を落として二階へと上がって行く。四條にくっついてダイニングから姿を現した真香は二人が二階へと向かった後、斎も疲れているだろうからと詩緒と二人で斎をリビングへと運んだ。
斎の全身から漂う甘い香りに真香は眉を寄せたが、今こうして何事も無く斎が居る事から綜真が告げた通り最悪の自体は起こらなかったのだろうと安堵し身体を温める為に拵えたスープをマグカップに注いで斎の手元に運ぶ。
「真香、榊……心配掛けて、ごめん……」
自分が二人に対してどれ程酷い振る舞いをしてきていたのか今になって痛感していた斎は、それでも寄り添い慰めようと頭を撫でる二人の優しさに出し切った涙が再び涙腺を上がってきているのを感じた。
本当ならばこうなる前に何としてでも止めたかった、しかし意地になった斎を止めようとしても止まらない事が分かっていた詩緒は傷付いて戻ってきた斎をどのように慰めたら良いのか気を揉む。斎が喜びそうな事と言えば詩緒には一つしか思い浮かばなかった。
「セッ、クス……しよう、か?」
一度だけ、それも斎を元気付ける為のものだとするならば綜真も容認するだろうと考えた詩緒は斎を心配し過ぎる余りどこか狂っていた。思い掛けない詩緒からの申し出に目を点にする程驚いた斎だったが、そのお陰で溢れ出しそうだった涙が引っ込んだ事も事実だった。
「……榊、流石にそれは的外れ過ぎだろ」
二人掛けのソファに斎を挟む形で無理矢理三人で座り、真香は反対側から詩緒に向けて笑う。真香が茅萱に利用されていたのはもうずっと前の事で、今はもう茅萱を慕う感情など残ってはいないが、斎に限ってはそうではない。たった一人で居る苦しみから逃れる為に茅萱に縋った真香と、茅萱しか見えなくなって大切だった筈の人までを蔑ろにしてしまっていた斎とは訳が違う。幾ら言葉で気にするなと伝えたとしても繊細故に傷付けた事を忘れられぬだろうと考えた真香は、出来る事ならば斎を支えられる存在が茅萱であって欲しかったと願っていた。
「茅萱さんの事……好き、だったのか?」
「……道具、って……言われたんだ……」
愛された事が無い斎はどういうものが愛であるのか分からなかった。茅萱から与えられるものが愛だと思っていた斎はその手を突き放された時、何一つ自分の手の中に残っていなかった事に気付いた。千景に押し付けていたものは愛であって愛では無かった。真香や詩緒と過ごす時間は確かに大切だった。しかし詩緒の様にいつかは自分以外の人を選んでしまうという現実が、斎に決して失われない存在を求めさせた。
「真香と、榊……佐野さんと同じ位、茅萱さんの事……大切だったと思う」
「そっか……」
依存心の強い斎ではあったが、そう簡単に誰かに心を許す事は無い。綜真に対して今でも少し警戒している程だった。出会った瞬間の茅萱は千景に害をなす者として最大限の警戒をしていた筈が、何故茅萱を信用してしまったのか。優しくしてくれたから気を許すなど今どきの小学生でさえ有り得ない。あの時の茅萱の気持ちが本物であると、斎には確かにそう思えていたのだった。
「……俺と榊が居るぞ」
一番大きな図体をしていながら誕生日で言えば一番末っ子を真香は抱き締める。大きな縫いぐるみを抱き締めているような感覚でもあったが、今この瞬間が漸く友人同士としての新しい一歩を踏み出したような気がした。斎が望む関係にはなれないかもしれないが、友人としてこれからも側に居続ける事は約束出来た。
真香と斎の抱擁を眺めていた詩緒も仲間に入りたくてうずうずと身を震わせるが、矢も盾もたまらず真香同様に斎を抱き締めた。二人から挟まれつつ苦しさよりもやはり心の中の充足感が先行した斎は喜びの余り胸が熱くなった。嫌いにならないでくれて有難うと両手で顔を覆い小さな声で呟く。
「ありがとう、二人とも……本当に、ありがとう……」
「お前ら、暎輝が帰るってよ」
二人が二階に上がってから何十分経過していたのだろうか、部屋着に着替えた綜真が四條と共に下りてきていてダイニングの三人を覗き込んでいた。綜真は真香と共に斎へと抱き着いている詩緒を見て一瞬眉を寄せたが、この状況下ならば仕方が無いと沸き起こる気持ちを抑え込んだ。斎に関わる一連の報告を受けた四條は、斎に怪我が無かった事を第一としこの件に於ける判断は全て千景に委ねるとして早々に寮を後にする事にした。
「もう遅いですよ。四條さんも泊まっていけば良いのに」
綜真に見られた事で多少の後ろめたさはあった詩緒は斎の背中をとんと叩いてソファから立ち上がり、エントランスへ向かう四條に歩み寄る。詩緒が近寄れば綜真はすぐに詩緒の腰へと手を回し、詩緒もそれとなく綜真の服を握り締めた。
二十二時を過ぎ、ここから四條の自宅へ戻るよりは寮の空いている部屋に泊まった方が無難なのではないかと詩緒は考えたが、分室の為に作った寮へと泊まるつもりは初めから四條には無く、気持ちだけ有り難く受け取っておくと詩緒の頭を撫でた。
詩緒に遅れて斎と真香も四條を見送りにエントランスまで現れたが、斎は敬愛する四條にまで迷惑を掛けてしまったという申し訳無さから狼狽えた様子のままだったが、大丈夫だからと真香がゆっくりと斎の腕を撫でる。
「あ、あの四條さん、俺……」
斎からの声掛けで靴を履く為屈んでいた四條は一度手を止め立ち上がると斎を振り返る。
「あの俺……今回、色んな人に迷惑掛けて……」
ふわりと斎の身体が何かに包まれる。それが四條に抱き締められているのだと斎本人が気付いたのは暫く経ってからの事だった。正直羨ましいと詩緒と真香の二人は思いながら、物欲しそうな表情をする詩緒の顔を綜真が掴む。
「君が無事に戻って来たならそれでええんよ」
「四條、さんっ……」
分室の全員を振り回し、呆れられてクビや異動を命じられても仕方の無い事だと思っていた。それが例え建前上の事で、本当は腸が煮えくり返っていたとしても、今自分を温かく包み込むこの腕を信じたいと斎は思った。
深夜遅くまでの夜更かしなど慣れている筈の詩緒がこの日ばかりは何故か異様なまでの疲れを見せ、四條を見送った直後綜真にしがみついて離れなかった為綜真は詩緒を抱き上げ二階へと運ぶ事にした。真香はともかく斎の前で綜真とイチャつく事をなるべく避けていた詩緒ではあったが斎はもう大丈夫だと判断したが故の行動で、綜真に抱き上げられる詩緒の姿を微笑ましく見守る真香と斎は今夜こそ一線を越えるかと口々に予想し合いながら共に二階へと足を進めた。
「お休み。明日寝坊すんなよ」
「御嵩さんもね。寝坊しないように」
含みを持たせた言い方をして真香は反論の言葉を貰う前に自分の部屋へと滑り込む。
「海老原、お休み」
「お休みなさい……」
まるで何も無かったかのように普段と何一つ変わらず、ただでさえ綜真はあの光景を見ていた筈なのにと思いながらもそれをおくびにも出さない姿に最大限の感謝を込め、斎は綜真の腕の中に抱かれる詩緒を見て目を細める。
「詩緒、もう寝るか?」
「す……っごい疲れた……」
張り詰めていた緊張感から漸く解放された詩緒はぐったりと寝かされた綜真のベッドの上で横たわる。内心ではきっと真香よりも斎の事を心配していた詩緒の心労は斎が寮を飛び出した時点でピークに達し、その不安が頂点に達した事から再び過呼吸に近い症状も起こしてしまっていた。元から健康とは言えない詩緒の疲労度合いは綜真には計り知れず、眠いならこの部屋で寝てしまえとベッドに腰を下ろしそっと頬を撫でる。
「GPSの件、助かったよ。ありがとな」
「斎のこと……助けてくれて、ありがと」
綜真が撫でる手が気持ち良いのか、顔を手に擦り寄せながら詩緒は両手で綜真の手首を握る。
「……海老原に抱き着いてたのはちょっと妬けたけど」
詩緒もそれに気付いたのか、綜真が現れてすぐに斎から離れはしたがその綜真の小さなヤキモチが詩緒にはとても可愛らしく感じられて、詩緒は手首を掴んでいる状態から綜真と片手同士の指を絡ませる。愛おしそうに綜真の腕を抱き締めてはじっと上目遣いに綜真を見上げる。
「……俺も、お前と千景先輩の件で嫉妬……したんだけど」
嫉妬した、という事を詩緒の口から直接告げられたのはこれが初めてだったかもしれない。そこで綜真が思い出した事は、詩緒はマルチタスクが苦手だという事だった。幾ら詩緒の思いが綜真に向いているとはいえ、これまでは入寮時点から生じた斎の事で頭がいっぱいになっていた詩緒は表現をしようにも綜真への素直な感情を表せられずにいた。その問題が今日片付いた事が分かれば蓄積した疲労の放出と共に綜真へ対する感情も滲み出して来る。
「そういう所が……ほんと好きだよ、詩緒」
啄むように唇を重ねれば詩緒の片手が綜真の首に回る。あれだけどのように誘ったら良いのか、逆に自分が抱くとすればどうしたら良いのか、苦手なマルチタスクとして抱え込んでいた詩緒だったが、いざその状況に置かれてみれば事前の試行錯誤など一切無意味で、自然とそういった空気が生まれ始める。
疲れ果てて眠りにつきたい気持ちも確かにあったが、このタイミングを逃したならば次にいつ機会に恵まれるかも分からない。願わくば明日も同じ日常が続けば良いと願う詩緒だったが、高まる緊張を抑えて薄く唇を開いて綜真を招き入れる。
「……ぅん、っ……そ、まっ……」
詩緒の背中へと手を回し、ベッドに乗り上がるとみしりとベッドが軋む音がする。深夜の寮内、迂闊に大きな声や音を出せば真香や斎に聞こえてしまう可能性があった。
詩緒だけではなく綜真も綜真で過去には不特定多数との経験が多く、手慣れた口付けに悔しさを覚えつつも真香や斎とした時とも異なる不思議な感覚に戸惑いを覚えていた。
「詩緒……詩緒、好きだ……」
人形の様に整った顔が、口元から唾液を伝わせ仄かに頬を桃色に染める姿を見て欲情しなければ男では無い。六年も待った待望の瞬間が今目の前にあると逸る気持ちを抑えながら綜真は片手を詩緒の胸元へと滑らせる。
「……そうま、俺のこと……嫌じゃない?」
「お前を嫌になる理由がどこにあるんだ? どんなお前でも好きだよ」
綜真の冷たい指先が服の裾から詩緒の肌を伝う。綜真の触れた箇所が沸騰していくような感覚に詩緒の中心が熱を帯び疼き始めた。それが綜真の指だと実感するだけで自制が効かなくなるような高揚感を覚え詩緒は自らの身体の変化に躊躇いを見せた。
「詩緒、お前もう……」
「……、あッ!」
指の腹で輪郭をなぞり優しく突起を詰み上げると詩緒の身体は大仰と言って良い程に大きく跳ねる。咄嗟に漏れ出し声を両手で覆い隠す詩緒だったが、そんな事は気にも留めず綜真は爪先で引っ掻く様にして様子を確認しながらもう片方の手を足へと伸ばす。会陰をなぞるように滑らせる指にまるで全身が性感帯になった気がしてしまい、直接触れられてしまえばどうなるか分からないという不安から詩緒の喘ぎに嗚咽が混ざり始める。
「待っ……待っ、て綜真……」
「もう待てねぇよ……」
「待って、ぇ……」
艶めいた声がぐずぐずとした涙声に変化し始めると綜真もその異変にぎょっとし、円を描くように腿を撫で回す手をぴたりと止めて詩緒の顔を覗き込む。
「……怖い?」
「……そ、じゃなくてっ……」
両手で顔を覆い隠す詩緒は頑なにその手を下ろそうとはせず、ぐずり始めて身体を横に向けてしまえば今日はもう望みが無いと燻る熱を持て余したまま呆然と綜真は詩緒を見下ろした。
焦って嫌われたくはない、その気持ちが大きい綜真は詩緒にバレないようにゆっくりと息を吐き出す。顔を隠す手を強引に引き剥がし抑え付け、歪む顔を見ながら奥まで突き上げる事が出来たのならば――綜真は片手を詩緒の頭部へと伸ばしつつ、くしゃりとその頭を撫でた。
「ごめんっ、ごめんなさい……」
「いいよ詩緒。……理由だけでも、教えてくれねぇか?」
もし今もまだ自分の身体が汚いなどと考えているのならば、詩緒の恐怖心が無くなるまで寄り添うつもりだった。その為に待つ時間ならば全く無駄だとは思わない。
「……そ、まの」
「俺の……?」
「……手付きが、やらしい……」
「…………なんて?」
肩透かしを食らったような感覚を受けつつ、綜真は詩緒の頭を撫でる自らの手に視線を落とす。意外な詩緒の回答に為す術がないと自信喪失をしつつ何も考えずに今夜はもう寝る事が無難だと考えた。詩緒の身体を壁際へと押し遣り空いた隣へ滑り込むと顔を隠したままの詩緒を抱き締める。
「……今日はもう、寝よっか」
「……怒って、ない……?」
詩緒としてもどれだけ自分勝手な理由で綜真を振り回しているか充分に理解をしていた。愛想を尽かされても仕方がないと内心は小動物のように震えていたが、ただ優しく抱き締める綜真の腕に縋り小さく泣いた。
「怒ってねぇよ……焦るなっつっただろ」
「そうま……綜真ぁ……」
余り密着度合いが高いのも問題だと考えつつ綜真は愛しい詩緒を両腕に抱き、ただ目を閉じて熱が収まるのを待つしか無かった。
深夜零時過ぎ――
千景の帰りを待ち侘びていた玲於は玄関が開く音が耳に届くと一目散にリビングから駆けて行く。
「ちか兄!」
「レオ……ただいま」
遅くなると言われてから数時間、リビングで虎太郎と共に千景の帰宅を今か今かと待っていた玲於は数時間振りに会う千景へ飛び込むようにして抱き着いた。千景も玲於の身体を受け止め、ぶら下がる玲於の身体を引き摺りリビングへと入るとそこには千景が電話で頼んだ虎太郎の姿があった。二人の従兄弟であり美容師の虎太郎は千景から連絡を受けた直後乗り物を乗り継ぎ佐野家へと向かい、部屋の隅で小さくなり蹲っていた玲於に優しく声を掛けた。
ストーカーは千景が撃退したと玲於から聞いた虎太郎だったが、相手は逃げ千景も仕事の都合ですぐに出掛けなければならなくなったと聞き、頼まれた通り千景が戻るまで滞在していたところ日付を越えてしまった。
「ああとらも……悪かったな、こんな時間まで」
リビングで虎太郎と顔を合わせた千景はこんな遅い時間まで虎太郎が居てくれた事に驚きつつも、何かを告げようとして口を開いた後腕に抱いている玲於の存在に気付いて閉口する。自分よりも幾分か大きく体重もある玲於の身体を良く抱きかかえられるものだと虎太郎は感心しつつも、その僅かな表情の変化を感じ取っていた。
「ちか」
「こんな時間だし今日は泊まってけよ」
佐野家に寝具はダブルベッドの一つしか無く、辛うじてリビングのソファでも眠る事は出来るが客人である虎太郎がダブルベッドで寝る事は遠慮したいと固辞した為、毛布を貸して虎太郎がソファで眠る事となった。深夜まで千景を待っていた玲於は緊張感から解放され早くも眠そうな様相だった為千景は早々と玲於をベッドの上に寝かせた。
「シャワー浴びて来るけど、何か摘んどく?」
時間も遅く大した持て成しも出来ずに申し訳無いと、千景は自分が風呂に行っている間だけでも小腹を埋める物が必要ではないかとシャツを脱ぎながらリビングで足を留める。始めから玲於の作る食事など期待していなかった虎太郎は途中のコンビニで夕食となるものを玲於の分も買ってきており、明日も仕事があるから今日は寝るとソファと毛布を借りられた事に対して礼を言い毛布に包まった。
「……とら、ついでにもう一つ頼みたい事があんだけど」
玲於のストーカー被害を世帯主の千景へ黙っていた制裁にしては要求する内容が多すぎやしないかと眉を寄せ難色を示した虎太郎であったが、この寒空の中追い出されて帰宅する事を考えれば頼み事を聞く事はタダだとソファから状態を起こす。
「…………れお、……レオ」
いつの間にか寝付いてしまってから何時間経過したのだろうか。千景に名前を呼ばれているような気がした玲於は夢か現実かも分からずに手を伸ばして千景を探す。
「レオ、愛してる……」
伸ばされた片手を千景は取る。手首にちゅっと音を立てて口付けるとそのまま指先へと舌を這わせてすっかり骨ばって男らしくなったその指を口へ含む。指先が温かな何かに包まれている事を感じた玲於は指先を無意識に動かしその爪が千景の舌を引っ掻く。
「んっぅ……」
無意識だからこそ作為なく動かされる指先はその物体を確認するように千景の口内を掻き回し、やがてくぐもった千景の声に何かがおかしいと目を覚ますと、玲於は自分の置かれている状況を即座には理解出来なかった。目を開けてすぐに視界にあった千景の姿は玲於の上に跨がる形で玲於の指に舌を絡ませていた。
「……ち、か、兄……?」
続いた違和感は玲於の下半身にあった。自分は今目を覚ましたばかりだというのに千景の中に入っている感覚があった。確かに寝ている間にも千景の事を考え朝から下着を洗う羽目になったのは一度や二度の事ではないが、実に生々しく千景の呼吸に合わせて締め付けられるこの感覚は夢では無い事を玲於に知らしめていた。
思えば今まで一度でも千景から玲於を求めた事があっただろうか。部屋の暗さから千景の表情こそ良く分からなかったが、悪戯に玲於が下から突き上げると身体が大きくしなる。
「あっぁ……だめ、れおうごく、っな……」
「おっきな声出すと……とら兄に聞こえるよ?」
いつ眠ってしまったかは定かではないが、虎太郎が泊まって行く事とリビングで寝ているという事だけは玲於も覚えていた。虎太郎には以前通話越しに最中の声を聞かせてしまったという黒歴史があり、なるべく声を潜めながら玲於は腕を付いて上体を起こし何とか千景の表情を確認しようと顔を近付けながら唇を重ねる。
「ふ、っぁ……れ、おっ……」
風呂上がりの千景からは石鹸の匂いと独特の甘い香りがした。頭がくらくらとするようなその甘い香りに誘われ数度口付けてから舌先で無理矢理唇を抉じ開けた。するりと滑り込む千景の舌先は体温よりずっと熱く、舌を掬われより深くまで求める千景の口付けに頭が追い付かなくなりつつも、玲於は涙のように蜜を零す千景の中心部へと指を絡ませ慣れた手付きで上下へと動かし始める。
「い、いや……だめ、そこっ……」
「……ちか兄、僕に何か隠してる。……あの人の事?」
千景が自ら玲於を求める状況など、何か後ろめたい事があるのでは無いかとそこに考えが至らない玲於では無かった。加えて帰宅が遅くなった事も玲於の内に不安を芽吹かせる事に充分過ぎた。
口調だけは温和なまま前後どちらをも執拗に攻め立てられ、頭がおかしくなりそうな強すぎる快楽に千景の口の端から滴る唾液を玲於は音を立てて吸い取る。
「ね、話してちか兄……」
「……っは、ちがっ……しん、じてっ……れお……」
――何があってもこの先レオだけを愛してる。
「……ちか、にい……?」
途切れ途切れになりながらも一言ずつ紡いだ愛の言葉、千景は玲於の顔を両手で包み疑問を唱える玲於の唇を塞ぎながら舌を絡ませる。普段千景から動く事は一切無いと言っても良い程無く、玲於の強すぎる思いを受け入れるだけの千景だったが、この日に限っては何故か千景から玲於を求めるように激しく自ら腰を揺らし、その姿はまるでこれが今生の別れとなるかのような切なさを孕んでいた。
結合部から響く粘着質な音にハッとした玲於は避妊具を未装着である事に気付く。中出しは極力避けるようにと千景から言われていた玲於は、千景が自ら求めた事とその上で避妊具を使用せず挿入行為に及んだという事実の何から何まで普段の千景とは違うと感じた。
「……レオ、愛してる」
「僕もだよ、ちか兄。世界中の誰よりもちか兄のこと一番愛してる……」
愛していると言葉にする事で、忘れないように自らの潜在意識へと刷り込む。この先何があっても絶対に、片時も忘れる事が無いように。
「れ、おっ……」
窓から射し込む月明かりが千景の姿を照らす。瞳に浮かぶ水滴が月明かりを反射し、玲於はそんな千景の顔を見てどきりと心臓を打ち鳴らす。千景が泣いている、そう感じた玲於はもしかしたら本当にこのまま千景が自分の前から居なくなってしまうのではないかと不安に胸を鷲掴みにされた。
「ちか兄っ……!」
玲於は千景の名前を呼んで飛び起きる。すると窓の外から射し込む光が朝であると告げていた。ベッドの上で左右を見渡しても千景の姿はそこに無かった。
今のは全て夢だったのだろうか、自分は確かに昨晩千景を抱いた筈だと今もまだ生々しい感覚が残る玲於は半裸のままベッドから起き上がりリビングへと続く引き戸を開けた。
「ちか兄、は……?」
するとリビングにも千景の姿は無く、代わりにソファへ腰を下ろし千景が用意した朝食を食べる虎太郎の姿のみがあった。
「おはよ。ちかならもう仕事行ったぞ」
「おはよう……」
虎太郎の言葉に時計を見れば時刻はまだ午前八時過ぎ、職場までは徒歩でものの十分程度で行ける距離である為幾らなんでも早すぎると玲於は茫然と虎太郎の言葉を聞いていた。
はたはたと玲於の瞳から大粒の涙が溢れ出し、それを見た虎太郎は何事かとぎょっとして玲於の顔を見る。
「ど、どうしたんだ……?」
「ちか兄が……もう帰って来ない気がして」
そうでなければ昨晩の行動の説明がつかない。千景から誘ってきた事もそうであったし、確かに見た千景の目に浮かぶ涙。何もかもが今までの千景とは違い過ぎた。何故もっとちゃんと問い詰めなかったのか、千景が心配を掛けまいと何もかもを隠してしまう人物であるという事を自分自身が一番良く知っていた筈なのに。
それでも千景が玲於にだけは嘘を吐かない事も玲於は良く知っていた。ここではそれが斎絡みの事では無いと言った千景の言葉を信じるしか無かった。
「昨日の夜、ちかに頼まれたんだよ。朝居なかったら絶対玲於が動揺するからフォローしてやってくれって」
千景が玲於の起床より先に出勤する事自体は今に始まった事では無いのにも関わらず、千景の予想通り動揺を露わにする玲於の肩をぽんと叩く。
「心配すんなよ、ちかがお前置いてどっか行く訳無ぇだろ?」
「そう……そう、だよね……」
単なる気にし過ぎであって欲しいと玲於は心の底から願った。玲於が安心する姿を見た虎太郎は昨晩の千景に見た違和感を玲於に伝えるべきか悩んだ末、玲於には告げない事を決めた。
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