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第十五章 消息と退行
茅萱は夢を見ていた。それは愛した雪貴の夢で、悲しそうな笑みを浮かべる雪貴へと手を伸ばしても掴めず次の瞬間霧の様に消えてしまう。
自分は本当に雪貴の事を大切に出来ていたのか、何故自分と生きる道ではなく死を選んでしまったのか、それ程までに自分は雪貴にとって信頼のおけない存在であったのか、生きている雪貴の口から聞きたかった。
茅萱が最後に見た雪貴の顔はマンションの下で目を見開き、割れた頭部から血を流している姿だった。雪貴は何を思って飛び降りたのか、もしあの瞬間に居合わせる事が出来たのならば――
「ッ、ゆたか……!」
飛び起きた茅萱はそこが自宅では無い事に気付き周囲を見渡す。家具は一般家庭によくある物のようで、誰かの部屋だという事は分かったがそれが誰の部屋かは分からなかった。
「起きたか」
投げ掛けられた言葉に茅萱は咄嗟に声の主を振り返る。すると椅子の背凭れを腹にした綜真が茅萱の事を見ていた。
「御嵩……此処は?」
「分室の寮」
記憶を辿れば最後に覚えているのは取引き現場の廃ビル屋上だった。確かに雪貴の声が聞こえて、気付いたら今この場所に居た。
「大変だったんだぞ、アンタと海老原の二人連れて帰んの」
茅萱は風に煽られ屋上の端から足を滑らせた。それを助けようとした斎だったが間に合わず茅萱の手を掴んだまま共に風に流される。転落は避けられないと感じた斎は咄嗟に茅萱の頭部を抱え込む様にして抱き締める。しかし落ちた先は地面では無く隣接したビルの屋上でその落差は二メートル程度、斎は背中を強打しのたうち回ったが幸い茅萱には外傷が見当たらず、数分遅れて屋上まで探しに現れた綜真が二人を回収するまで、斎は寒空の中茅萱の身体を抱き締めていた。
「海老原、は……?」
「まだ寝てる。アンタ庇う時に頭打ったみたいだけど」
着地の際には背中を打ち付けただけの斎だったが、のたうち回る間にコンクリートの角に頭を打ち一時的に意識を失っていた。綜真が声を掛ければすぐに目を覚ました斎ではあったが、茅萱を連れて寮へと辿り着いた瞬間緊張の糸が切れたのかエントランスで倒れ込み未だに目を覚ましてはいない。
「……そ、か」
風に煽られる直前、茅萱は確かに雪貴の声を聞き、斎に雪貴の姿が重なって見えていた。あれはただの茅萱が雪貴を思う気持ちが見せた幻覚だったのか、それとも――
「なあアンタ……千景、見なかったか?」
「佐野?」
取引き現場へと向かった目的は拉致された千景と茅萱が盗み出したファイルの交換だった。しかし屋上へと逃走する一岐を見た茅萱は積年の恨みを晴らす為千景の救出より先に一岐の始末へ向かった。千景の救出は共に向かった綜真が行う手筈となっており、綜真から問われた言葉に茅萱は不思議そうな表情を浮かべた。
「アイツだけ、あの後ビルから居なくなった」
鳩尾に的確な攻撃を入れられた綜真が地下のバー跡から屋上へと向かった時、そこには無惨な状態となった一岐の姿しか無かった。一岐の側には綜真が千景に奪われたフォールディングナイフのみが残されており、刃先には誰の物とも分からない血液がべったりと付着していた。奪っていった千景自身の姿が見えないと屋上から周囲を探した結果隣のビルの屋上に寄り添い倒れる斎と茅萱の姿を綜真は発見した。
「帰ったんじゃねぇの?」
「あの状態で?」
あの状態、と綜真に言われ茅萱の頭に過ったのは確かに千景が屋上へ姿を現した時の姿だった。白いシャツに下着だけを纏い裸足のままで現れた千景があの格好のまま屋上から姿を消したというのは茅萱にも考え難い事だった。
「まさか…………」
茅萱は思い出す、一部始終を。自身が投身の為屋上出入口から身を移すまでに起こった出来事を。茅萱は屋上へ向かう一岐を追った。拳銃を向け発砲した茅萱を止めたのは千景から綜真経由で厳命を受けていた斎だった。続いて御影が現れる、千景が現れたのはその直後だった。
「……何か知ってるな?」
途端に青くなった茅萱の顔を覗き込み、斎が目を覚さない今千景の行方を知る可能性があるのは茅萱だけであると感じた綜真は、千景の様に爪を剥ぐなどという時間の掛かる脅しはせず、茅萱の指を一本握り込むと甲の方へと指を反らしていく。
「……俺はアイツほど優しくねぇぞ?」
「わ、分かった言う、言うからっ……」
この期に及んで悪意を持って茅萱は言い淀んだ訳では無かった。恐らく綜真も斎も知らない事を茅萱だけが知っていた。
「ラウンジのケツ持ちな、あれ佐野の兄貴だぞ」
「兄……?」
昨晩綜真が斎を連れて寮へと戻った直後、千景はラウンジに連れ戻され千景が兄と呼ぶ御影から言葉では言い表し難い辱めを受けつつ、三睦と一岐を潰すよう取引きを持ち掛けていた。
「あの二人を半殺しにしてったのも佐野の兄貴だ」
「あれが……」
「ああ、見たのか。佐野は兄貴と取引して俺が殺る前にあの二人潰させた」
綜真も確かに一度千景を救出に入る前、逃げ出した一岐を追って屋上へと向かう御影の姿を目撃していた。千景との会話は静寂に満ちた地下でも良くは聞こえなかったが、千景が何かを告げた後御影が一岐を追うように動き始めたのは間違いが無かった。千景は元々あの男と知り合いだったのか、二人の関係性を知らなかった綜真は少なくとも茅萱の真実を聞いた昨晩以降そんな取引きをする暇など無かった筈だと考え、そっと掴んでいた茅萱の指を解放した。
「取引って、そんなのいつ」
「知らなかったのかよ。昨日の夜だよ、お前たちが帰った後」
「千景はどんな取引をしたんだ?」
恐らく千景はあの晩の出来事を誰にも知られたく無い筈だと茅萱は再び言い淀んだ。しかし千景があの廃ビルから姿を消したと聞けば状況からして関わっているのは御影以外に考えられないと、事の重大性を重視した茅萱は後で千景に殴られる事を覚悟で千景が御影と交わした取引き内容を明かす事にした。
「『あの二人潰したら自分をやる』って佐野は言ってたな。多分、佐野が居なくなったなら絡んでんのはあの兄貴だろ」
十中八九、茅萱は自らの考えに大きな誤りは無いと感じていた。それは御影の千景に対する執着を目の当たりにしたという理由もある。
「なに、それ……」
突然聞こえた第三者の声に綜真と茅萱の二人は息を呑んで声の聞こえた玄関口へと視線を向ける。するとそこに居たのは先日千景と共に引越し祝いに訪れた千景の恋人玲於で、玲於が何故此処に居るのかという疑問よりも千景が消息を絶った事実を聞かれてしまった事に綜真の緊張が高まった。
「玲於、くん……」
「……ちか兄が、みか兄と……なに?」
微かに漏れ聞こえた言葉から千景が姿を消しその理由が御影にあると推測した玲於は聞き間違いでは無いだろうかと震える手で玄関の扉を掴む。
「誰だ?」
茅萱は玲於と面識が無く、突然現れたその存在に声を潜めて綜真に尋ねる。
「千景の彼氏」
「ああ、あの指輪の」
千景が左手に光り輝くシルバーリングをどれ程大切にしているか、それに思慮が及ばない茅萱では無かった。斎からの想いを拒んででも守り抜いたリングの送り主への想いに、茅萱はほんの少しだけ興味があった。見れば千景よりはずっと年若く、キラキラの王子様オーラを放つ金髪イケメンの左手薬指には千景と同じシンプルなシルバーリングが輝いていた。どことなく誰かに似ていると感じた茅萱は、その長身や千景を心配し焦り眉を落とす様子が斎に似ているのだと気付いた。
「綜真悪い、玲於が千景先輩が帰って来ないって言うから……」
玲於を寮内へと招き入れたのは詩緒だった。時刻は既に二十二時過ぎ、綜真がタクシーで斎と茅萱を連れ帰ってきたのは十九時過ぎで、それから既に三時間が経過している。普段ならば千景の帰宅が零時を過ぎる事も多く別段気にする事も無かった玲於だったが、昨晩の様子から千景の身に何かが起こっているのでは無いかと不安になった玲於は、一度千景と訪れた事のある寮へと押し掛けた。
綜真が斎と茅萱を連れ帰った時そこに千景は居なかった。救出に向かった筈が当の千景を連れ帰ってきておらず、詩緒が尋ねると綜真は言葉を濁した。しかしその時点で既に意識の無かった茅萱や、寮に帰還して早々倒れ込んだ斎を部屋に運んだりとばたついてしまい結局真相を確かめられないままだった。
「今の話もう少し詳しく聞かせて貰っても構いませんか?」
「今度は誰……」
玲於を迎え入れた者としての責任として、千景の消息を知っているかもしれない綜真の部屋へと案内した詩緒だったが、玲於は一人で寮へと訪れた訳では無く、詩緒も知らない黒髪の男性が同行して来ていた。余り無関係な者を易易と寮に招き入れるのはどうなのかと悩んだ詩緒ではあったが、玲於に同行してきたという事は千景の関係者には間違いが無く、他者を苦手とする詩緒は余りその人物とは目を合わせないようにして綜真の部屋の扉を開けた。
玲於と詩緒の背後から顔を覗かせたその男性は、カットソーの上からシンプルなジャケットを羽織っており、清潔感があり凛とした佇まいは何処か千景を彷彿とさせた。それは半狂乱の玲於から千景が帰宅しないと連絡を受けた従兄の竜之介で、弟の虎太郎から昨晩起こった玲於のストーカー事件やその直後から翌朝までの千景の同行を聞いており、仕事で抜けられない虎太郎の代わりに自家用車で玲於を拾い、玲於が指示する寮まで送り届けに来た。
「ねえりゅう兄っ、ちか兄が居なくなったって、何で、何でみか兄がっ?」
千景が御影に関わり姿を消した事を理解した玲於は、御影の異質性を理解している竜之介の肩を掴み、何故一年以上も経った今再び御影が現れたのか理解が出来ず竜之介の身体を揺らす。玲於の焦りは尤もだったが、今は状況を正確に把握する事が大事だと竜之介は玲於の背中を叩いて落ち着かせ、一番の部外者である自分が千景とどういった関係にある存在なのかを説明する為、室内に居る二人の人物へと頭を下げる。
「立ち聞きしてすいません。俺はコイツと千景の、まあ保護者みたいな感じです。千景が帰ってこないってコイツが騒ぐから職場の方にお邪魔させて貰ったんですけど――」
「多分、千景は……アイツの兄貴に連れてかれたんじゃないかと」
礼儀正しく頭を下げる竜之介の姿を見た綜真は椅子から腰を上げ、まだ二日しか経過していないが千景の同僚として、そしてこの数日の出来事を凡そ理解している存在の一人として竜之介の前へと歩み寄る。千景が失踪したと知れば玲於が不安に思うのも無理は無かった。悪意を以て玲於にその事実を隠していた訳では無いが、今こうして玲於自身が寮に訪れてしまい真実を知ってしまえばこれ以上隠し通す事は出来なかった。
「りゅう兄! ねえりゅう兄ってば! みか兄がちか兄連れて行っちゃったら、ちか兄はっ」
今思い出しても恐怖に身が竦む一年前の御影襲来事件。御影が目の前に現れただけで玲於は恐怖で身が竦み、何も出来なかった。玲於が千景と御影の過去の関係を知ったのもその時だった。玲於より多少長い時間を千景と過ごしてきた竜之介は御影の千景に対する常軌を逸する執着を良く知っていた。竜之介は御影が再び二人の前に姿を現す事を恐れていた。だからこそよりセキュリティの高い今の家への引っ越しも斡旋し、裁判所からの接近禁止命令も常に更新するようにしていた。
「分かった。分かったからレオ、少し落ち着けって」
しかし今こうして再び御影が現れよりにもよって千景を連れて姿を消したという事実は、玲於の未熟な精神を揺さぶるのには充分過ぎた。冷静に状況を把握し千景を連れ戻す算段をたてる為には玲於の不安定な精神状態は雑音にしかならない。
「玲於、俺の部屋おいで」
「詩緒さぁん……」
詩緒もその状況を理解したのか、少し玲於を落ち着ける為にはこの場所から一度遠ざけた方が良いと判断して玲於の肩を叩いて自分の部屋を指し示す。二人の横で話を聞いていた詩緒は千景が姿を消したという状況を把握した上で千景を見付け出す手段のアテがあった。その為には玲於か竜之介どちらかの協力が必要で、玲於よりも冷静な竜之介を綜真の元に残す事で状況の整理をしやすくした。
詩緒に腕を引かれ斜め前のⅪ号室へと入って行く玲於の背中を見送った竜之介は改めて目の前に立ち尽くす綜真へと視線を送る。
「……ご迷惑おかけしました。レオの奴、ちかが関わると冷静じゃ居られないんで」
「えっと……」
付き添いが自分では無く虎太郎だったならば、玲於の錯乱に巻き込まれて事態は収束出来なかっただろう。ストーカーの件と共に昨晩の千景の様子がおかしかったと虎太郎から聞いていた竜之介は遅かれ早かれこうなる事を予測出来ていた。
「ああ、俺は梅田です。梅田竜之介。千景とレオの母親たちが俺の父親の兄弟なんでまあ従兄ですね。……それと、アイツの兄御影の千景に対する偏執的な愛情を知ってる一人です」
Ⅺ号室――詩緒の部屋
愚図る玲於を部屋へと連れ込み、ベッドの上にあった毛布を頭から掛けた事で玲於は漸く少しだけ落ち着きを取り戻したように毛布の中で身を丸くする。
「みか兄がちか兄連れてったら、ちか兄みか兄に犯されちゃうよ……」
「……みか兄って誰だよ」
玲於が千景の事を『ちか兄』と呼んでいるのは詩緒にも分かりきった事だったが、ここに来て新たに出てきた名前に全ての状況を把握し切れていない詩緒はパソコンチェアに腰を下ろしたまま頭を悩ませた。
詩緒が知り得る限りの断片的な情報を繋ぎ合わせた事によると、綜真と千景が茅萱から斎を取り戻したは良いが、その報復として千景が茅萱の目の前で拉致された。相手は茅萱に千景の身柄と茅萱が盗み出した物の交換を求めた、そこまでは詩緒自身も目の前で見ていた事だった。取引き現場へ茅萱と共に向かった綜真と斎だったが、戻ってきたのはその三人だけで当の千景自身がそこには居なかった。初めから千景が取引き現場に居なかった訳では無く、綜真は一度千景を見付けたらしいが気が付いた時には千景が居なくなっていた。立ち聞きをした時点ではその後で千景を連れ出した人物が居るらしい。それは茅萱の取引き相手とは別の人物で、その人物が関わっているという事が玲於をここまで精神的に不安定な状態へと陥らせていた。
「ちか兄のお兄ちゃん!」
「リアル兄ね。……え、いや近親相姦は無ェだろ」
聞く限り玲於が兄と呼ぶ人物は複数居て、寮に同行してきた人物の事も玲於は兄と呼んでいた。そもそも千景も玲於の実兄では無く、初めて詩緒が玲於に会った時詩緒は千景から玲於を従弟であると紹介されていた。千景自身に兄が居るという話は詩緒には初耳だった。
「ちか兄を最初にレイプしたのは……みか兄だよ」
「……マジで?」
自分が千景の事をここまで深く知ってしまって本当に良かったのか、詩緒はデスクに腕を付いて頭を抱える。安易に他者が知って良い事では無く、それも千景自身の口から聞くならまだしも玲於を介して聞いてしまって問題が無いものだったのか詩緒の胃がキリキリと傷んだ。
「……俺も弟二人居るけど、流石に弟とヤりてぇとは思わねえな」
年の離れた弟の事は確かに可愛いとは思うが、劣情を抱いた事はこれまで一度も無かった。元々兄弟はそういうものでは無いだろうかと詩緒は自らの常識を疑い始めた。
「みか兄は……ちか兄の事愛してるから……」
その気持ちは分からなくも無かった。詩緒自身も綜真と出会うより前に千景と出会って居たならばどんな感情を抱いていたかは分からない。しかしそれは詩緒と千景が無関係の他人だからであり、元々従兄弟という関係性である玲於ならばともかく、実の兄弟という間柄でそのような感情が起こり得るものなのかと、詩緒は改めて千景という存在が纏うその不思議さに頭を悩ませるが、今はそれよりも千景の所在を知る事が先決だと布団に包まり丸くなる玲於へと視線を送る。
「……玲於、千景先輩の事探そう?」
「……どうやって……?」
千景は斎へGPSを忍ばせたが、千景自身はGPSを持っていなかった。もし持っていたとしても詩緒はそれを識別する為のIDを知らず、斎や茅萱を捜索した時のような手段は使えなかったが、詩緒にだけは残された可能性として千景を探し出す手段が残されていた。非常にグレーな手段ではあったがこの状況下ではやむを得ないと、詩緒は千景の電話番号からそのスマートフォンが何処にあるか、また電源が入っていないとしたら最後に取得出来たのは何時間前の事なのかを調べ始めた。本来電話番号を利用した追跡は相手側の許可や位置情報の設定が必要だったが、詩緒はその許可が無くとも探し出せる手段を持っていた。
ただ千景が今もまだスマートフォンを傍らに置いている保証はどこにも無かった。拉致された時に落とした可能性もあり、新たに連れ去られる時にスマートフォンを壊されている可能性もあった。しかしマップが指し示したのは今も尚千景のスマートフォンが電源も入ったままとあるビルの中に存在しているという事だった。
「このビル……さっき綜真たちが行ったとこだよな、千景先輩まだビルの中に居るみたいだけど……」
茅萱が取引き場所として提示された場所の住所を詩緒は僅かに覚えていた。千景のスマートフォンが存在するのは正にそのビルの中で、千景がスマートフォンを手放していないと仮定するならばまだビルの中に居るという事になる。見る限り道路に面した箇所以外は三方を隣接したビルに囲まれており、出入口は地上に面した一つだけと考えられる。火災時の移動経路などを考えれば出入口が一つだけというのは問題がありそうだったが、それらが定められる前に建造されたビルなのだろうと、詩緒は余り深く考えずディスプレイの中に次々とライブカメラ映像を表示させていく。
「……何してるの?」
「ビル周辺の防犯カメラ映像ハッキングしてんだよ」
ビルの出入口のみを移すカメラを探し出し時間を遡っていけば、千景が出て行った時間や他に出入りした者が居ないかを確認出来る。綜真が寮へと戻ってきた十九時を基準とし、周囲の暗さや画質の不鮮明さに補正を入れながら倍速の逆再生で映像を眺める詩緒はビルから出てくる一人の男性に目を留める。静止画を鮮明化させる中並行して更に映像を逆再生するが、その人物以外にビルを出た者は居らず、やがて二人の男が横付けした車両から何かを運び出す日中まで遡ると、これが玲於の懸念する人物なのかと床で丸まる玲於に声を掛けて補正を掛けた静止映像を玲於に確認させる。
「玲於、この人は?」
「みか兄!」
御影は綜真達がビルを出るより前に出てきており、その時刻は十八時頃。誰かが側に居るようにも見えず何かを持ち運んでいるようにも見えない。完全に一人で手ぶらのまま出てきており、その間も千景のスマートフォンはビルの中に残されたままだった。
「一人で出てきたみたいだし……やっぱまだ千景先輩中に居るんじゃね?」
ビルに入った人物を確認してみても、中に入って現状まだ出てきていないのは三名。綜真は隣のビルの屋上に茅萱と斎の姿を見付けたので正確には茅萱と斎の二人もビルから出てきていないという事にはなるが、それを加味した上でも千景をビルへと運び入れた二人と千景自身がまだビルから出てきていないようだった。綜真の話では茅萱の取引相手である二人は重症の状態で放置されているとの事だったので、その二人が千景の失踪に関与しているとは考え難かった。
「それ本当だな詩緒」
竜之介との状況整理が終わった綜真は、詩緒なら千景を探し出す手立てを持っている筈だと竜之介と茅萱の二人を伴い詩緒の部屋に訪れていた。プライベートな時間ならば詩緒は激怒しただろうが、緊急事態ともなれば無断で部屋へ入った事をさして咎められる心配は無かった。千景がまだビルの中に居ると聞いた綜真は詩緒が言うのならば間違いないと確証を持った上で詩緒に尋ねる。
「綜真、一人で大丈夫か?」
立ち去った人物がいつ戻るとも限らず、もしその人物と綜真が鉢合わせでもしたらと考えた詩緒は不安そうに綜真を見上げる。
「必ず戻って来るよ、詩緒」
自分の力量は綜真自身が一番良く分かっていた。恐らく御影と対峙したならば勝てないだろう。千景の協力があればそれは分からなかったが、少なくとも今千景の助力だけは期待する事が出来ない。詩緒の不安を感じ取った綜真は腰を屈めて触れるだけの口付けをする。
「それ、俺もご一緒して良いですかね?」
綜真を追って詩緒の部屋へと足を踏み入れた竜之介も、綜真が千景の救出に向かうのならば自分も同行させて欲しいと名乗りをあげる。
「りゅう兄僕もっ!」
「レオ、お前は此処に居た方が」
毛布に包まっていた玲於も竜之介が行くなら自分も向かうと毛布を捨てて立ち上がる。竜之介はそんな玲於を見て千景の身に何が起こっているのかも分からない現状で、玲於にその姿を見せるのは余りにも不憫だと同行を渋る。
「嫌な予感がするんだ」
昨晩から玲於は千景の異変を感じていた。千景が珍しく自分から求めてきた事もそうだったが、千景が呟いた一言がいつまでも玲於の中に不安の陰を落としていた。
――何があってもこの先レオだけを愛してる。
千景ならば今のこの状況を見越していたとしても不思議では無い。もう二度と会えないという事を見越していたからこその昨晩の言葉だったのではないかと玲於は不安を抱かずにはいられなかった。
「……俺もしてるよ。とびっきりの嫌な予感」
竜之介には、竜之介のみが知り得る不安が存在していた。それは恐らく玲於には知り得ない内容で、その不安が的中しない事を祈るばかりだった。
「あの、俺も」
「アンタは海老原の側に着いててくれ。いつ起きるか分かんねぇからな」
元々千景が巻き込まれたのは自分に責任があると茅萱も千景の再救出に名乗りを上げるが、少しでも責任を感じているのならば今は千景では無く斎の事を考えて欲しいと綜真は未だ目覚めない斎への付き添いを茅萱に求めた。
「詩緒、お前は本田のとこだ。寮の中でも一人にするなよ?」
「分かった」
同時に斎が戻ってきてから一度も姿を現さない真香の事も気掛かりだった。斎を心配する思いはあれど、うっかり顔を出すと茅萱と鉢合わせしてしまう可能性があり、ジレンマを抱えながら真香は自室に篭っていた。
竜之介の運転する自家用車で取引き現場の廃ビルに綜真が再び訪れた時、時刻は零時を迎えていた。途中で量販店へと立ち寄り恐らく救出に必要となるであろう防寒具や照明器具を買い込んだ為到着時間が遅くなり、そうしている間にも再び御影が廃ビルへと訪れる可能性があったが、寮から常に詩緒が防犯カメラの映像をリアルタイムで確認し、異常があればすぐに綜真へ連絡が入る事になっていた。
数時間前に訪れた時よりも夜の闇は濃くなり、一段と厳しくなった寒さを直接肌で感じると一刻も早く千景を見付け出さなければ命に関わる。三人は各々懐中電灯を持ち階層を分担して千景を探す事となり、地下から探し始める事にした綜真は数時間前までは床に転がっていた筈の三睦が居なくなっている事に気付いた。室内中を照らして確認するもその姿は見当たらず、代わりに千景の物と思われるスラックスとベルトを回収した綜真は床に血の跡が続いている事に気付いた。
綜真が重症状態の三睦を確認したのは夕方頃で、それからもう何時間も経過している。流石に意識が戻り自分で立ち去ったかと理解した綜真は念の為確認として階段を使い一階に上がってから詩緒に電話を入れる。
「中から誰か出てきたか?」
『ああうん、綜真たちが来る十分位前かな。男が二人出てった。鮮明化入れたけど千景先輩じゃなかったぞ』
「入った奴は?」
『居ない』
これで間違い無く今ビルの中に居るのは千景一人だと断定した綜真は、脱ぎ捨てられたスラックスのポケットの中から千景の物と思われるスマートフォンを見つけ出し、割れた液晶画面へと視線を落とす。表示画面は玲於と詩緒からの着信履歴で埋め尽くされており、綜真はそのスマートフォンを無くさないように自分のポケットへと仕舞い込み、他に残された物が無いか一通り部屋の中を懐中電灯で確認してから地下を後にした。
同じ頃、屋上へと向かった竜之介は綜真同様屋上の端に誰かが居たらしい血溜まりと階段へと這う跡を確認していた。屋上を一通り見渡したところで人が隠れられそうな所もない。プレハブの物置でもあればもしかしてと考えていた竜之介だったが、見渡す限り一面のコンクリートのみ、やはり千景が居るとしたら建物内部だろうと考えた竜之介は階段を降り上から順にフロアを探して行く事にした。
「ちか兄……?」
綜真が下から、竜之介が上から探して行く事となり、玲於は中腹の階層へと向かいどちらかと合流するまで一人で千景を捜索しようとしていた。人気の無いフロアを外から入る僅かなネオンの明かりを頼りに懐中電灯で照らし、何処かに千景が倒れていないか物陰に姿が無いか声を掛けながらフロアに足を踏み入れる。
破棄されてから長い時間の経過したそのフロアは閑散を通り越し不気味な静寂さが漂っており、お化けや幽霊の類に強い玲於であっても御影と遭遇する事は避けたかった。本能へと訴えかける御影に対する純然たる恐怖は一年を経た今でも玲於の中から消える事は無く、出来る事ならば千景とも一生会わせたくは無かった。千景は自分の所有物であると豪語した御影の狂気を玲於は今でも忘れる事が出来ない。それが切っ掛けとなり千景とより強い絆で結ばれたともいえたが、口に出さないだけで玲於は御影の再来を恐れていた。それは千景も同じで、千景はいつでも玲於の恐怖を緩和させる為に心を砕くが、千景が玲於に弱さや恐怖心を見せる事はこの一年間殆どといって良いほど無かった。
――レオ。
「ちか兄っ?」
不意に名前を呼ばれて玲於は声がするフロアの奥を振り返る。振り返った拍子に手に持っていた懐中電灯がフロアの奥まで壁を照らすが、人影らしきものは見当たらなかった。ただ剥き出しのコンクリート壁が冷ややかな印象を受け、聞こえた声が確かに千景のものだったのかと頭の中で反芻しながら玲於はごくりと生唾を飲み、その音だけが冷え切ったフロアに響く。
平面的な壁が続く中、その形を遮る大きな影が見え驚いた玲於は懐中電灯を落とす。床へと落ちた懐中電灯は回転しながらそれでも室内を照らし、異物の形を大きく影として映し出した。それは一辺が一メートル程の大きな四角い何かだった。閑散としたフロアにただ一つ残されていたその異物は玲於の目を留めるには充分で、人が隠れる場所も無い開けたフロアの中何故かその中に千景が居ると玲於は確信が持てた。
一度屈み込み床に落ちた懐中電灯を拾うと玲於はその物体に向けて光源を向ける。それは古びた大きな金庫でフロアの全ての物が廃棄された後もこうして一角に鎮座していた。
「ちか兄……」
歩み寄り膝を折って金庫の扉に手を当てる。呼び掛けても中からの返答は一切無い。それでも玲於はこの金庫の中に千景が居ると確かな自信を持って金庫の中へ声を掛ける。
「ちか兄、中に居るよね……?」
それでも中からは応答が無く、何とかしてこの金庫を開ける術が無いかと玲於は懐中電灯で照らす。錆び付いた取手が一つ残されているのみで、玲於は片手を掛けて引いてみるが金庫自体の劣化による影響かびくともしなかった。仕方なく懐中電灯を床へと置き今度は両手を金庫の取手へ掛ける。負荷は大きかったが両手を以て漸く取手は下方へと傾き、玲於は壁へ片足を付いて全身を使い取手を引く。
「っ、おっもいぃ……」
びくともしない扉の摩擦に一度玲於は手を離し、床へとへたり込んで呼吸を整える。幾ら週に数回ジムで身体を鍛え始めているとはいえ、それまでの引き籠もり期間が長かった玲於にはまだ高いハードルであり、玲於の全身全霊を以てしても重く堅い扉を開く事は出来なかった。
「ちか兄ごめんね、もう少し待って。必ず出してあげるから」
返事の無い金庫の中へと声を掛け、玲於は深呼吸をしてから再び立ち上がる。千景を守るのは自分だと自ら奮い立たせて取手に手を掛ける。両腕と両足を伸ばし下げた取手を手前に引くも、玲於の頭に血が登るばかりで一ミリも扉は開かない。何度試そうが扉が動く前に玲於の腕力が限界を迎え、その度手を離して金庫の前に屈み込む。
「ちか兄待って、もう少しだから……もう少しで僕、ちゃんと……」
「レオ、」
屋上から各階を降りながら探してきた竜之介だったが、三階へと辿り着いた時フロアの奥に光源を見付け金庫前で格闘を続ける玲於を見付けて駆け寄る。玲於は大きな金庫の扉を開けようとしており、その人ひとり入れそうな金庫の全貌を見た時竜之介の背中にぞくりと悪寒が走る。
「りゅう兄……」
「レオ、中にちか居るのか?」
「何も聞こえない……でも、居ると思う」
先程から何度玲於が外から声を掛けても金庫の中からは声一つ返って来なかった。幾ら置き捨てられている物であるとしても金庫は気密性が高く設計されており、その中へ長時間閉じ込められているとしたら最悪の場合酸欠状態になっている可能性もある。玲於が体力を回復させようとしている間、代わりに竜之介がその取手へと手を掛けるが、片手は疎か両手であってもびくともしない。二人の力を併せれば或いはといったところだったが、残念ながら取手は一人が握る事が精一杯の短さだった。
「クソっ、このままだと酸欠になるぞ。オイちか返事しろ。無事なのか?」
玲於の「中に居るかもしれない」という確信は、竜之介により確定した事実に変わり竜之介は扉に耳を付けて物音を確認するが応答の声は聞こえなかった。既に意識を失っているから応答が出来ないのか、それとも御影によって何らかの拘束をされているから声を出せないのかは分からなかったが、どちらにしても扉を開けて中を確認してみない事には判断が出来ないと竜之介は救急か警察に助けを求めるべきかとポケットの中へと片手を忍ばせる。
「――それ、開けたらいいのか?」
静寂に響いた一言、玲於と竜之介の二人はびくりと背中を震わせるが、振り返ると懐中電灯を持った綜真が地下から上がって来ていた。見るからに腕力がありそうな綜真ならばもしかしたらこの扉も開けられるかもしれないと、そう考えた竜之介は二人の元へと向かう綜真へと歩み寄って行き、玲於に聞こえないように小さな声で囁く。
「あの、出来れば開いたら中を見ないで貰えませんか?」
竜之介が危惧する言葉の意図を何となく察した綜真はそのまま黙って頷き、片腕に掛けた千景の物と思われる脱ぎ捨てられた衣類を見せる。
「多分、アイツ服着てねぇ」
「――車の中から毛布持ってきます」
正面入口前に停めた自家用車へと向かう竜之介と入れ替わる形で玲於の元へと向かった綜真は、立ち上がり再び金庫を開けようと取手へ手を掛ける玲於の肩に手を置く。
「退いてて、俺がやる」
「あ……」
じんじんと痺れる両手もそのままに、玲於は綜真に言われるまま一歩下がり金庫との距離を置く。綜真の邪魔にならないよう反対側の側面へと周るとまだ中に千景が居ると信じて側面の壁へと額を当てる。
「ちか兄、頑張って……後もう少しだから……」
「く、っそ硬ェなっ……」
綜真が取手を両手で掴むと露出したコンクリートが表皮の鉄と擦れる鈍い感触が手の中に響く。これは確かに一筋縄では開けられないと考える綜真だったが、それはあくまで一般男性に対してのもので、壁に足を張った綜真が両腕の力のみで取手を引き下げたまま水平に引っ張ると重厚な音を響かせながら扉が少しずつ開いていく。
自分には開けられなかった扉を綜真が一度で開ける姿を目の当たりにした玲於は己の腑甲斐なさに落胆の気持ちを抱えながらも、重々しい扉が開く音に四つん這いのまま金庫の正面へと周り片手に懐中電灯を握るが、綜真がそれを止める。
「いきなりライトは駄目だ」
「あ……」
「俺は外に居るから」
綜真は中に何が入っていても、入っていなくとも構わず、決して中を見ようとはせずに扉を限界まで開いてから玲於の背中をぽんと叩く。何処までも自分は無力だと自分自身への怒りに震える玲於だったが、綜真が玲於を残してその場を立ち去る足音を聞くと開いた扉に手を掛けて真っ暗な箱の中身を覗き込む。夜目は次第に慣れていき彩度はとても低かったか、薄ぼんやりと玲於は金庫の中に人影のようなものを認める。
「……ちか兄、もう大丈夫だよ……出てきて」
ゆっくりと手を伸ばし影に触れるとそれは確かに人の肌だった。しかし玲於の知る千景の肌よりはずっと冷たく玲於の指先が一瞬硬直する。ひやりと冷気が漂う金庫内は外気よりも冷たく、一刻も早く金庫の中から出さなければと玲於はその腕らしき部位を上へと辿る。
「ち、か、兄……ちかにぃ……」
ぴくりと触れていた腕が動き玲於ははっとすると両腕を金庫の中へと入れ手探りでその身体を抱き寄せる。金庫から現れたその姿は間違いなく千景で、雲が流れ射し込む月明かりに照らされた千景の表情は昨晩同様その双眸に涙を浮かべているように見えた。千景の唇が僅かに震える、何かを告げようと玲於に視線を向けてはいるが、言葉の代わりに目から涙を伝い流すだけだった。
玲於は咄嗟に自らの上着を脱ぎ、何も身に纏っていない千景の身体を覆うようにして背中から羽織らせて再び抱き寄せる。怒るでも悲しむでもなく、一切感情の読めない昏い目を千景はしていた。御影と何があったのか、それすらも聞く事が出来ないまま玲於は身体の芯まで冷えた千景の身体を抱き締めた。
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