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第十六章 覚醒と雪辱
千景が無事に見付かったと連絡を受けた詩緒はそのまま明け方頃床に就いたが、普段通りの起床時間に目を覚ましダイニングへと降りるとそこには朝食の支度をしている真香の姿があった。千景救出の連絡を受けて以降綜真からの連絡が無い事は多少気にはなったが、目を覚ました時綜真から改めて千景の無事を告げるチャットを確認すると詩緒はその内容を真香へと伝える。
昼も近付き、綜真は約半日振りに寮へと帰還する。発見した千景を深夜に病院へと運び込み、汎ゆる措置や検査を受ける間立ち会っていた綜真は千景が小康状態となった事を確認すると心配しているであろう詩緒や真香に自らの口で伝えなければと帰路についた。
「綜真っ、千景先輩見付かったって?」
朝食後ダイニングで何をするでもなく寛いでいた詩緒と真香だったが、玄関から物音がすると綜真の帰宅に気付き寝間着姿のままエントランスに姿を現す。自分たちとは違い恐らく一睡もしていないであろう綜真は疲れ果てた表情で靴を脱いでいたが、帰宅早々一目散に駆け寄ってきた詩緒の顔を見ると片腕でその細い身体を抱き寄せる。
「一先ず大丈夫、玲於くんも付いてるしな」
千景が見付かったという事以外詳細を何も聞いていない詩緒だったが、綜真の口振りからも命に別状が無さそうな事を理解すると綜真が上着を脱ぐのを手伝い両手に抱え込む。
茅萱との遭遇を恐れていた真香だったが朝食の概念は普段と変える事が出来ず、詩緒の後を追うように真香がブランケットを羽織ったままダイニングから顔を出すと綜真はぽんと真香の頭に手を乗せる。
「本田も、詩緒に付いててくれたんだな。ありがとう」
「御嵩さん、ご飯は? 朝飯用意してあるけど……」
少し冷めたかもしれないが温め直せば外から戻ってきた身体を暖めるには充分であると真香は綜真に尋ねる。真香に問われ気付けば朝食も食べていなかった事を思い出した綜真の腹が自覚すると同時に絞り出すような腹の音がエントランスに響いた。きょとんとしてその腹音を聞いていた詩緒と真香だったが、それが綜真から発せられたものであると分かると思わず吹き出し帰宅したばかりの綜真をダイニングへと誘う。
「海老原は?」
「まだ」
ダイニングの椅子に腰を下ろした綜真はキッチンに入った真香が温め直すスープの香りに食欲を唆られ、斎の状態を確認しながら隣に座る詩緒の肩を抱き寄せその暖かさを実感していた。千景だからこそ今回は一命を取り留めたと言えるが、もしこれが詩緒だったらと考えた時綜真は気が気では居られなかった。詩緒は千景より体力が無い上、特定の条件下にパニックで発作を起こす持病も持っていた。入寮から斎の件を発端として中々思うように詩緒と過ごす時間も作れず、そうしている間にもし永久に詩緒を失ってしまう事を考えると、綜真の詩緒を抱き寄せる手に力が篭もる。
「綜真……?」
視線が絡み合えばどちらともなく顔を近付け唇を重ねる。茅萱との通話で漏れ聞こえた声や玲於から聞いた話を総合して推測すれば、発見された千景がどのような状態であったのか詩緒には容易に想像がついた。恐らくそれを目の当たりにした綜真が感傷的になっているのだろうと感じ取った詩緒は両腕を綜真の首へと回し、片足を綜真の腿の上と乗せて絡ませる。
「――榊、これ上に持ってって」
自分が居る前でイチャ付き始めた二人の前に、真香は温め直したスープとトーストを持って姿を現す。綜真の前にワンセットと、二皿ずつ乗せたトレンチを見た詩緒は悪びれる事もなくにこりと笑みを浮かべ綜真の上から降りるとトレンチを両手で持つ。二人分の食事がトレンチに乗せられているのを確認した綜真は斎の部屋にまだ茅萱が居る事を察した。個々の部屋に風呂やトイレが備え付けてある為食事の問題さえクリア出来れば長期間部屋に籠城し続ける事も可能だった。茅萱に対して並々ならぬ憎しみを抱いている筈の真香ではあったが、鉢合わせするよりはマシだとして用意こそしたが直接届ける事は避けたかった。
その点は詩緒も察し、茅萱に対する憎しみと捨てきれない優しさを考慮して文句の一つも口に出さず椅子から立ち上がるとトレンチを両手で持ちダイニングを出て二階へと向かった。
ダイニングに真香と二人残された綜真は多少気不味さを覚えたが、真香から差し出されたスプーンを受け取り大人しく食事に徹する事にした。これまでは三食を真香に任せきりの状態ではあったが長く一人暮らしをしていた綜真も料理が出来ない訳では無い。千景が入った事で本棟と都度往復する時間も大幅に削減されこれからは出来る限り自分も真香を手伝おうと考えながら綜真はスープを口の中へと流し込む。
「仕事は?」
「俺と榊のはもう片付いてますよ。後は斎のとこで止まってますね」
斎や千景の事を心配に思う気持ちはあれど、詩緒と真香の二人は元から仕事に対するポテンシャルが高い。入寮の為一時的に仕事量を抑えてはいたが、綜真や千景が斎の事で走り回っている間二人は自分たちに出来る事をする為仕事に集中して片付けていた。
「分かった。海老原の分は俺が引き継ぐ。プレマネが戻ってきた時怒られねぇようにしとかないとな」
未だ目を覚まさぬ斎の仕事領分ならば充分綜真でも対応し得る。千景に付き添う竜之介から見舞いは控えて欲しいと言われていた綜真も暫く自分に出来る事は仕事だけであると方向性を改め、今日は閉じ籠もって斎の仕事を片付けようと綜真はトーストに齧り付いた。
Ⅲ号室――斎の部屋
生気の無い顔、静かな寝息はまるで息をしていないようだと茅萱は一晩中斎の寝顔を眺めていた。その顔は自ら命を断った雪貴に似ており、認める事を頑なに拒絶していた茅萱だったが、初めて本棟中庭の喫煙所で斎と顔を合わせた時から茅萱は斎に雪貴の姿を重ねていた。茅萱が最後に生きた雪貴の姿を見たのは、心配掛けまいと気丈に振る舞い茅萱を仕事へと送り出す姿だった。
あの時無理にでも一緒に居る事を選んだならば雪貴の死は回避する事が出来たかもしれない。最後に見た雪貴の姿は警察署の遺体安置室だった。まるで本当にただ寝ているだけのように見えるその姿は本当に眠っているかの様で、このまま普段通り目を覚ますのでは無いかと思える程だった。その肌は氷のように冷たく、幾ら泣き縋ろうとも雪貴が目を覚ます事は一切無かった。喪ってから初めて気付くその愛しさに、茅萱が雪貴の死に関わった人間全てに対して復讐を誓うのは当然だった。
告白された時は嬉しさと同時に気恥ずかしさもあり、つい仕事を理由として向き合う事を避け続けていたが、それを理由に雪貴が二股を掛けた時許す事が出来なかった自分の心が狭かったのだと後になって恥じた。雪貴は一度も向き合おうとしなかった茅萱を責める事は無かった。興味を向けて貰えない事は何よりも苦しく辛い事だった筈なのに。初めはただ相談に乗って貰っていただけだった三睦に気を許してしまった事は本当に責められる事だったのだろうか。雪貴の好意に正面から向き合おうとしなかった茅萱よりも三睦はずっと誠実だったとも言える。結局自責の念にかられた雪貴は自ら罪を告白したが、それを決意した雪貴の心の痛みを何故理解してやることが出来なかったのか。
雪貴を取り戻せただけで充分だった。身体の関係なんて無くても構わなかった。それよりも――三睦と比較される事が辛かった。唇を重ねる事で、抱く事で雪貴の中に三睦との事を思い出させてしまわないか、もし雪貴がベッドの上で間違えて三睦の名前を口に出そうものなら冷静に居られる自信は無かった。茅萱も薄々は気付いていた、雪貴が依存症になるほど性行為無しで暮らしていけない事を。しかし茅萱は再びそれからも逃げた。雪貴を抱く事を極力抑え、再び仕事に逃げて雪貴の浮気を容認していた。
本当は容認などするべきでは無かったのだと茅萱は分かっていた。雪貴が愛していたのは茅萱であって、誰でも良いから抱かれたい訳では無かったのだと――気付いていながら見て見ぬ振りをし続けていた。
ちゃんと愛してやる事が出来なかった。雪貴はずっと茅萱を待ち続け、いつか茅萱が顧みてくれる日だけを望んでいた。しかしその日は永遠に訪れる事は無く、雪貴が茅萱からの愛情を感じ取る事が出来たのは自身が亡くなった後だった。死して復讐に費やす程の情熱を何故雪貴が生きている時に捧げる事が出来なかったのか、この復讐は茅萱の贖罪によるただの自己満足に他ならなかった。
愛していた、誰よりも。見た目だけで言い寄る人間が周囲に多かった中、ただ一人茅萱の内面を汲み取った雪貴の事を。
斎は雪貴に似過ぎていた。千景を守ろうと自らを犠牲にするその姿に茅萱は雪貴の姿を重ねた。男に抱かれた経験が無いにも関わらず耐え続けたその姿に、好きだという言葉だけを心の拠り所として理不尽に耐え続ける健気さに。無意識に斎と雪貴を重ねてしまっていた茅萱は、嘗て自身が三睦と比較されたくないと考えていた事を思い出し苦悩した。目の前にいる斎は決して雪貴では無いのに、徐々に斎へと抱いていた復讐心が変化してきていた事に茅萱自身も気付いていた。
そしてまた、雪貴と同じく生気の無い顔で眠り続ける斎の姿を見た茅萱は、その光景ですら雪貴の最期の姿と重ねざるを得なかった。また自分の所為で誰かが死ぬ、自分に関わり自分を愛していると告げた存在が。本当は愛していた、心から――そう告げてあげられれば良かった。出会った時に、復讐を捨てて、その手を取って共に逃げ出す事が出来たならば、きっと今とは違う結末を迎えられていた事だろう。愛していると告げた斎の言葉は本物だった。それでも何故復讐を捨て切れなかったのか。復讐を言い訳にして目の前の斎からただ逃げていただけなのだと、茅萱の頬に温かい涙が伝い流れ落ちた。
「何で泣いてるの……?」
掠れた斎の声が耳へと届き茅萱は視線を送る。するとベッドに横たわったままの斎が不思議そうに茅萱を見上げていた。斎自身も何故自分が自室のベッドに寝ているのかを理解出来ない様子で、今日あった事を思い出しながら重い頭を支えてゆっくり上体を起こす。
斎が転落時茅萱を抱きかかえたままのたうち回った挙句頭をぶつけたとは綜真から聞いた話だった。一度覚醒した後、寮に戻って再び斎が意識を失ったと聞いた茅萱は、急激に起き上がると影響が出るかもしれないと咄嗟に背中に手を添えて斎の身体を支える。
斎が覚えている限りの茅萱は自ら命を絶とうとしていた。雪貴の復讐に身を焦がし何処からか拳銃まで入手していた茅萱が、最終的に屋上から転落しかかったのは強風による事故のようなものだったが、少なくともその瞬間まで茅萱が雪貴を思い続けていた事は明白だった。その茅萱が今こうして自分を気遣い背中を支える手は微かに震えており、斎は無意識に片手を伸ばして茅萱の頬に触れていた。
どれだけ手酷い扱いを受けようとも、道具扱いされようとも、想いの全てを否定され刷り込みだと言われても、それでもやはり茅萱が愛しいと、斎は親指の腹で溢れ落ちた茅萱の涙を拭う。好きになる事に大きな理由は無く、ただ身体の相性が良かったからや自分の好意を受け入れてくれた等、それは千景や真香とは何も変わらなかった。ただ千景と茅萱の大きく違うところは、千景には玲於が居るが茅萱は一人で、本当は酷く脆く、道化の仮面を被り続けた復讐鬼だったというところだった。
「お前も、雪貴みたいに……二度と目ぇ覚まさなかったら、って……」
茅萱の震える言葉を聞き斎は初めて思った、この人を笑顔にする為に自分は何が出来るだろうと。それは斎が初めて抱いた感情だった。
「俺はユタカくんと違うよ」
思えばいつも相手に思いを押し付けるだけだった。自分なら幸せに出来る筈だと根拠のない自信だけを持っていた。愛しているけれど茅萱の涙を止める事が出来るのは自分では無い事を斎は分かっていた。
それでも雪貴を喪った時と同じだけの感情が今自分に向けられていると知った斎は、頬に添えた手で茅萱の顔を引き寄せ本能的に唇を重ねていた。それは押し付けるだけの愛ではなく、茅萱を想う斎の純粋な気持ちが成した事だった。
「貴方を置いて先に死んだりしない……」
雪貴の代わりであって構わない、例え茅萱がこの先一生自分の事を雪貴重ねて見る事しか出来ないとしても。それで茅萱の心が安らぐのならば、それでも良いと斎は思った。
「海老原……」
斎より一回りも小さな茅萱の手が斎の背中へと周り、小さくシャツを掴む。小さく囁かれた言葉に斎の瞳は震え、そして伏せた瞼から涙が零れ落ちる。
「――あ、い、してます。茅萱さん……」
「俺もだよ……」
今まで誰からも向けた愛情を返された事の無い斎は、両腕の中に小さな茅萱の身体を抱き締めたまま愛していると何度も呟く。その一つ一つに茅萱は相槌を打ちながら、いつの間にか茅萱の代わりに泣き始めた斎の温かな背中を撫で続けていた。
「――俺が起きるまで此処に居たの? 仕事は?」
茅萱の話によれば斎は丸一日目を覚さなかったらしい。昼頃に詩緒が運んできたという冷めたスープを一口ずつ茅萱の手で口に運んで貰いながら、平日であるこの日の夕方となるこの時間まで付きっきりで看病をし続けていた茅萱の業務の進行具合に斎は首を傾げて尋ねる。その仕草が小さな子供や飼い主の機嫌を伺う大型犬のようにも見えた茅萱は、皿とスプーンを一度脇へと置き両手で斎の顔を包み込む。こつんとお互いの額を当て、近すぎる目線を向ければ斎が気恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべる。この時初めて斎は茅萱の本当の心が見えた気がした。
「仕事は有休。……まだ、本田と顔合わせ辛くて」
茅萱が踏み切れない理由は真香にもあった。茅萱は過去真香を性接待の為の道具として利用し、真香の身体も心もぼろぼろにした上でぼろ雑巾の様に簡単に捨て去った。その真香と斎が知り合いだった事は茅萱の誤算で、幸い斎の部屋に篭もる事で真香と対峙する事態だけは避けられていたが、それが今後避けて通れない道である事を茅萱は分かっていた。
斎に対しての扱いを真香だけではなく分室の誰もが知っている。あまりに都合の良過ぎる変わり身が容易に受け入れられるものであるとは思っていなかった。綜真や千景はともかくとしても真香への謝罪は必須であり、当然謝ったところで許されない可能性も視野に入れておかなければならない。
あの屋上であの瞬間茅萱は確かに雪貴の声を聞いた気がした。本当は雪貴はずっと側に居たのかも知れない、ただその存在に茅萱が気付かなかっただけで、雪貴はずっと側で見守り続けいつか茅萱に自分の声が届くその日まで、昔と何一つ変わらず待ち続けていた。
茅萱の躊躇いは斎にも感じ取る事が出来た。斎にとっては茅萱も真香も同じくらい大切な存在であり、だからこそ真香が受けた心の傷は無視出来ない。もし茅萱か真香のどちらかを選べと言われた場合、片方を切り捨てる事が出来るのだろうかと心が揺れる斎ではあったが、斎は真香の強さと優しさを良く理解していた。
「真香に謝りたいなら、着いて行ってあげるよ。真香が茅萱さん殴るなら、俺も一緒に殴られてあげる」
それは大切な友人に言われた言葉だった。決して茅萱の肩を持ち真香を敵に回すという意味では無く、茅萱に罪があるのならばその罪を半分請け負いたいという意味だった事を斎はこの時漸く理解した。
Ⅵ号室――綜真の部屋
夜遅くまで自らの仕事のみならず、斎の仕事をも巻き取って片付けていた綜真の部屋へと顔を見せた詩緒はその両手にコーヒーの入ったマグカップを持っており、今もまだデスクに向かいラップトップと向かい合いながら時折眉を寄せる綜真の横から近寄り邪魔をしないように声を掛ける。
「綜真、コーヒー飲むか?」
「ん、サンキュ詩緒」
マグカップの片方をデスクの上へと置き、詩緒は隣の部屋へと向かうとベッドへ腰を下ろし仕事を続ける綜真の背中に視線を送る。千景が本棟との橋渡しとなるまでは庶務の綜真が日に何度も寮と本棟を行き来しており、綜真が部屋で仕事をしている姿を見るのは初めてかもしれないと考えていた詩緒の膝にソルトが乗り上がると、詩緒はマグカップをベッド脇へと避難させてから両手でソルトを抱き上げる。
この数日はばたばたしていて碌に構ってやる事も出来なかったが、それはソルトも同じで綜真がまだ仕事に集中していて構える状態ではない事を察したソルトはその対象を詩緒へと切り替え、文字通り猫撫で声を上げながら詩緒の手に己の頭部を擦り付ける。指先で耳の間を撫でながらごろんとベッドへと横たわり、響くタイピングの音に目を細める。
「夜通し走り回って、斎の仕事も片付けて。お疲れ様」
昨晩は何時間ほど寝られたのだろうか、そんな事を考えながら込み上がる欠伸を噛み締め掌の上に頭を乗せたソルトがうとうとと眠り始めると起こさないようにそっとベッドから起き上がりゲージに戻す。
昼前に帰宅してから夕食時には顔を見せたがそれからすぐに再び部屋へと閉じ籠もってしまった綜真の傍らに置かれた灰皿には吸い殻が山盛りに積まれており、今綜真が煙草を吸っていない事を確認すると詩緒はそっと灰皿を手に取り吸い殻を捨てにキッチンへと向かう。燃えるゴミの袋へ吸い殻を捨て、キッチンペーパーで灰を軽く拭き取った後それを持って戻ると、綜真が手を止めて詩緒へ視線を向けていた。
六年前、大学生の頃一時的に付き合っていた頃、綜真はプライベートでしか眼鏡を掛けていなかったが、数ヶ月前再開した時には平時から眼鏡を掛けるようになっていた。神戸支社での事は知らないが、分室業務は深夜遅くまでになる事も徹夜が続く時もある。コンタクトレンズの着用は些か分が悪く、レンズ越しに見る綜真の瞳は赤く殆ど睡眠を取っていない事は詩緒にも分かった。
灰皿をデスクの上へ戻す詩緒の手首を掴み、綜真は何か言いたげに詩緒を見上げる。一昨日の晩良い雰囲気に恵まれつつもそれを拒んだ詩緒には多少なりとも罪悪感があったが、不思議と以前のような気まずさは抱いてはいなかった。
「片付いたのか?」
少し長い前髪を片耳に掛け顔を傾けながら詩緒は綜真へと口付ける。キスだけならば毎日でもしたい、好きという感情を言葉で表現する事が苦手な詩緒にとっては最も簡単で伝え易い感情表現の一つだった。しかしその行為ですら詩緒が自ら行うという事は、これまでの詩緒の行動から考えればとても珍しい事であった。
ひょっとしたら詩緒は本当に自分を抱くつもりがあるのかもしれないと、時折ぞくりとする程妖艶な表情を浮かべる詩緒の顔を見上げたまま綜真はごくりと生唾を呑み込む。
「……後もうちょっと」
「じゃあ待ってる」
「ん」
綜真の残作業が終わるまでは大人しく待つと詩緒は薄く笑みを浮かべて綜真から離れる。そのまま再び隣の部屋へ向かうとシーツの乱れを整えたベッドの上に寝転がる。入寮から慌ただしく息つく暇も無かったこの数日間、漸くこれで本当に安寧の日が訪れるのだろうと詩緒自身も穏やかな気持ちで仄かに綜真の香りが残るシーツに顔を埋める。
「……千景先輩が無事で良かった」
千景だけではなく斎も大事無かった事が喜ばしかった。斎は夕方頃に目を覚まし念の為に茅萱が伴い病院へと向かったが、検査の結果脳に異常が無い事も分かった。千景の場合は面会こそ叶わなかったが綜真から聞く話では入院は一時的なものですぐにでも仕事には復帰出来るとの事だった。そして何よりも綜真に大きな怪我等無かった事が詩緒にとっては一番嬉しい事だった。
「……俺、アイツが苦手な理由思い出した」
「……なに?」
寝室に背を向けたままの綜真が呟いた言葉に詩緒は視線を送る。綜真がアイツと表現するのならばその対象は文脈から千景の事であり、綜真と千景の仲が良好で無い事は詩緒も知っていたが、実際二人の間に過去何がありそこまで関係性が悪化したのかはまだ一度も聞いた事が無かった。
「詩緒、覚えてるか。昨日の通話の」
新しく煙草に火を付けその煙を肺の奥まで吸い込む。呼び水を与えてしまったのは詩緒自身ではあったが、綜真から他の人物の名前が出ると何故だか黒い感情が身体の奥へと渦巻き始める。
「茅萱部長にかかってきたやつ?」
「そ。……アイツさ、『助けて』って言わねぇの昔っから。お前と同じ」
「……イラっときた」
外付けマウスを握り何かしらのファイルを操作する綜真は、背後から聞こえていた詩緒のくぐもった低い声に暫し思案するように唇を尖らせる。千景も千景で綜真にとっては扱いが難しい部類に入るが、こちらのお姫様は千景よりも扱いが難しい。殴り合いで解決出来る問題では無いからこそその扱いには気を揉むが、それでも離れていた六年間に比べれば意思を言葉で表した上で離れず其処に居る今の方が断然マシだった。
「聞いて。『誰も助けてくれないのが普通』ってアイツ言ったんだよ」
朽ちた灰を灰皿の中へと落とし、押し付けて消火する。作業の終わったラップトップの天板を閉じ、眼鏡を外しながら振り返ると毛布に包まりながら恨めしそうな視線を向ける詩緒の姿があった。
千景を初めて見た時、綜真がその姿に重ねたのは詩緒だった。性格の違いこそあったが詩緒も千景も纏う雰囲気がどこか似ている。椅子から腰を上げた綜真はゲージの中で気持ち良さそうに眠るソルトへ一度視線を向けてから、ベッドの上へと腰を下ろしソルト同様丸くなって横になっている詩緒の頭部を撫でてからそっと頬に触れる。
「お前も、あの時そう思ってたのかなって思って」
幾ら同性から意思に反して性の対象と見られていようが、詩緒も千景も間違い無くその本質は男だった。幾ら凌辱や強姦紛いの事をされようが、婦女の様に意にそぐわない性交渉に第三者へ助けを求めてまで逃げ延びようとはしない。それで心や身体が傷付いたとしても他者に縋って無様な醜態を晒すよりはずっとマシだと考えるのが詩緒や千景のような人間だった。ある意味では責から目を背け続けていた綜真よりはずっと男らしく、詩緒は撫でる綜真の手に頬を寄せ目を細める。
「……遅ェんだよ」
「ごめん……」
詩緒が男でも好きになってしまったのは一重にその心の強さにあったのかもしれない。それだけ身体を苛まれようが決して凌辱に屈する事は無い。溺れたり泣き叫んでしまえば目の前の現実を受け入れた事になってしまうから。
ぎしりとベッドのフレームが音を響かせる。綜真の代わりに毛布を抱き締めていた詩緒は両腕を解いて綜真の首へと絡ませ上体を起こす。
「終わったのか?」
「終わった」
綜真の両腕は詩緒を抱き寄せるように背中へと回され、互いの顔を傾け重ねられる唇は、性別など関係無く個に対する好意として向けられたものだった。互いの舌を触れ合わせたまま綜真が詩緒を押し倒す形となって二人の身体はベッドへと沈む。
「……それが、苦手な理由?」
上唇を舐め上げながら詩緒は綜真へ尋ねる。綜真が千景を苦手としているのならば詩緒にとっては有り難い事であり、互い違いに足を絡ませながら詩緒は小さな独占欲から綜真の首筋に吸い付く。ちりっとした痛みが走り眉を動かす綜真だったが、詩緒の頭部を支えるように手を回し昨夜からほぼ一睡もしていない状態から込み上がる欠伸を喉の奥で押し返す。
「お前と同じ事言うのに、初対面の時金的狙ってきたんだぞアイツ」
女性的なのはその顔だけで、中身は詩緒よりも凶暴で手に負えないと綜真はほぼ初対面に近い頃油断していたとはいえ千景から食らったキツイ一発を思い出した。
「……痛ェ」
「俺も今思い出しても玉ヒュンするわ」
容易に想像出来た詩緒も表情を歪め、自らが綜真の首筋に残した赤い痕を舌先でなぞりながらも男でありながら男の急所を躊躇いなく狙う千景の容赦無さに改めて尊敬の意を抱いた。詩緒も千景に自分と似たような物を感じているからこそ千景のメンタルの強さを尊敬していた。
「……思い出して勃ったのか?」
それとなく腿へと触れた硬い物に詩緒はくすりと薄い笑みを浮かべて綜真へ視線を向ける。冗談めかして腿へ押し付けるようにして擦り上げると綜真の唇の隙間から熱を帯びた吐息が漏れる。
「疲れマラだよ、馬鹿」
一昨日の晩中途半端に留まった熱は消えぬまま一日中走り回った全身の疲労は綜真がもう昔ほど若く無い事を嫌でも思い知らしめ、ただでさえプライバシーの保全が限りなく低いこの寮では自ら処理する事も難しく、極限に達した心身の疲弊はこの状況下であろうとまるで目の前に詩緒に性的興奮を抱いているかのように主張する。
詩緒のペースで良いと伝えたのにも関わらず若者のようにただ肌の触れ合いがあるだけで反応を示してしまうほど浅はかではないと綜真は苦笑を浮かべ、愛しい気持ちは変わらず持ち続けていても決して邪な気持ちを今は持ち合わせてはいないと苦笑を浮かべて詩緒の蟀谷へそっと口付ける。
「労ってあげても……いいけど?」
今度こそ本当に全ての問題が解決し、綜真がこれ以上駆け回る必要も無いと認識していた詩緒は雪辱を果たす為、蟀谷へ口付ける綜真の頭部を片手で抱え込み耳元へ直接囁く。同時に耳の孔へと吹き掛かる吐息にぞくりと劣情を煽られた綜真はほんの少し頭を悩ませた挙句主張するそれを詩緒の腿へと擦り付けるように腰を揺らす。
「手がやらしいって言わねぇ?」
恐らく今理性の堰が切れたならば、どんなに詩緒を怖がらせ泣かせたとしても止める事はもう出来ないと綜真は詩緒の眼鏡を外して壊れないように枕元へと置く。
「綜真が手ぇ使わなきゃいいだろ」
「……そりゃ無茶だろ」
両手を拘束した綜真に好き放題労うというプレイも嫌いでは無いと詩緒はにやりと笑みを浮かべるが、それならば予め何かしらの道具を斎に借りてくるべきだったと思案を巡らせつつも、詩緒は優しく触れる綜真の手が大好きだった。綜真の片手を取るとその掌へと口付け、上目使いに視線を向けながら手首に舌を這わせて噛み付くように口付ける。
「千景先輩と斎の事も心配だったけど……綜真が無事で、本当に良かった……」
「詩緒……」
誰が傷付いても嬉しくは無いが、やはり何よりも綜真に危害が及ばなかった事が詩緒にとっては一番嬉しい事だった。真香や斎に対する扱いを見ていれば分かるが、詩緒は心を許す相手が少ないからこそその数少ない対象には絶大な信頼を持っている。誰かに身を案じられる事がこんなにも温かい気持ちになれるものだと綜真は今まで知らなかった。今ならば昔ほど無鉄砲な事は出来ないだろう。何よりもそれが詩緒を悲しませる事であると知っている綜真の内に周囲の誰が悲しもうとも無鉄砲に突っ走る誰かの姿が浮かんだ。
「……アイツが退院したら、一発ぶん殴らねぇとな」
「え、なんで」
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