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第十七章 退院と遺恨
翌日、早々に退院許可の出た千景の付き添いとして迎えに現れたのは、この日の為に仕事を休んだ虎太郎だった。前日に見えた千景の異変に何も出来なかった事を悔いている虎太郎は、幾ら竜之介に自分の所為では無いと言われても安心しきる事が出来ず、せめてもの手伝いとして自ら付き添い人に名乗りを上げた。
「持ってくのはこの花くらいか? よし行くか」
入院した翌日に直接ナースセンターへ届けられたカランコエの寄せ鉢を大切そうに抱え込んだ虎太郎は、忘れ物は無いかと荷物を纏めて着替えを終えた千景を振り返る。手荷物といっても入院した当日玲於が自宅から持ってきた貴重品程度で、廃ビルで発見された千景のスマートフォンは綜真から竜之介に手渡され病室へと置かれていた。
前日の午前中、見舞いに訪れた玲於が持ってきた普段着に着替えた千景は、予め竜之介が片付けておいた退院手続きを済ませ世話になった馴染みの医師に挨拶をしてから病院前より待機していたタクシーに乗り込む。
「……もう三十なのに付き添いとか恥ずかしい」
虎太郎に押され先に運転席の真後ろへと乗り込んだ千景は両手で顔を隠しながらはあっと大きな溜息を漏らす。千景は発見時常用している眼鏡を掛けてはいなかった。その残骸は綜真が廃ビルの地下で見付けたが、レンズも割れておりフレームも曲がった状態では使い物にならないと壊れた眼鏡はそのまま破棄した。入院中は特に眼鏡を必要とする事が無く、玲於も予備の眼鏡が置かれている場所を知らなかった為、退院時は裸眼状態となったが多少輪郭がぼやける程度で支障は無く、虎太郎の付き添いもその為のものだった。
「メンブレ起こした癖に黙らっしゃい」
「……起こしてねぇし」
「うわっ、認めない気だわこの子」
二歳上の従兄である千景の事を虎太郎は幼い頃から慕っていた。年が近い故に喧嘩をする音もあったが実の兄同様親しい存在であった千景に対しては友人よりも近い存在として虎太郎は接し、また千景にとっても数少ない心許せる存在でもあった。
虎太郎が乗り込んだ事でタクシーの運転手は後部座席の扉を閉じ、隣で顔を隠し溜息を吐く千景の頭を軽く小突いた虎太郎は行き先を運転手に告げようと口を開き、そのまま視線を千景へと向ける。
「このまま真っ直ぐ自宅?」
「いや、職場に顔出してきたいんだけど良い?」
一連の流れについては綜真からの報告で上司である四条も把握しており、先日も軽く四条と通話はしたが、異動直後からの負担を鑑み数日は有給休暇をあてて良いとの事だった。退院のこの日は千景にとって出勤をしなくても良い日ではあったが、竜之介の気遣いにより親戚以外の見舞いを全て断っていた為、無事に退院出来た事を知らせる為一度は寮へと顔を出しておきたかった。
「――なァ、ちか」
「んーなに」
運転手へと行き先を告げた後、虎太郎は後部座席に背中を預け無事に千景が退院出来た事に安堵の息を吐きながらちらりと隣に座る千景へと視線を送る。一方の千景はタクシーが走り出せば顔を覆い隠す事こそやめ、頬杖を付いてサイドガラスから外の景色を眺めていた。
「暗所に閉所、布団の中は平気なのか?」
暗所のみや閉所のみなら問題は無いが、その両方の要素が合わさった時千景に起こり得る症状は非常に限定的なものではあったが、日常生活の中でその二つが一致する場所としては布団の中程度しか虎太郎は思い浮かばなかった。
隠していたつもりは無かったが、凡そ竜之介と御影程度しか知らなかった秘密について問い掛けられた千景は多少ムスッと表情を歪ませはしたが、実際はそこに御影という要素が加わらない限り余程の混乱状態には陥らない為日常生活での支障は殆ど無かった。
「……平気だし。現にこないだお前が泊まった晩もレオと布団の中で」
扉一枚隔てた所で眠っているとはいえ第三者が居る中での行為はとてもスリリングなものではあったが、虎太郎に関して言うのならば情事の声を聞かれたのはこれが初めてでは無く、今更恥ずかしがるのも筋違いであると虎太郎に玲於の世話を任せた理由も忘れ千景は鼻で笑う。
「あーアレな。布団被ってても地味に聞こえてたぜ、声」
「え、まじか」
それでも虎太郎にそういった趣味が無い限り聞いていても面白いものではないだろうとなるべく声を抑えていた千景ではあったが、特に防音仕様ではない寝室から声が漏れてしまう事は仕方の無い事だった。虎太郎は半笑いを浮かべながら僅かに寝室から漏れ聞こえた従兄弟二人の声を思い返す。
「彼女と別れて独り身の俺に悪いとか思わねぇ?」
二人を幼い頃から知っている虎太郎からすれば、玲於のみならず千景も伴侶と呼べる相手と仲睦まじく出来ているのは良い事だったが、既婚者である兄の竜之介と異なり虎太郎は未だ独り身のまま、二人のように夜を共にする存在も今は居らず、漏れ聞こえる声を苦々しく思っていたのも確かだった。
「全ッ然思わねぇ。彼女ってとらが入院してた時お見舞いに来てたキャバ嬢のあの子だよな?」
「そうそう、結局入院中に浮気してたみたいでさ」
以前から浮気の兆候は確かにあった。それが明確となったの切っ掛けが入院であり、三ヶ月程度の入院の間に同棲していた彼女は呆気なく虎太郎へ別れを切り出した。だからこそ千景からの夜の呼び出しに応じる事も出来て、帰りの足が無いからと千景の家へと泊まり込む事も出来た。
成人済の親戚と結婚を前提として同棲していた彼女のどちらが大事なのかと問われれば、虎太郎にとってそれは親戚の方だった。決していい加減な気持ちで付き合っていた訳でも無く、ちゃんと結婚という未来も考えてはいたが比較対象とタイミングが悪かった。
心が離れていく恋人の事を引き止める事も出来ず、退院から半年以上経った今一人では広すぎるアパートで虎太郎はまだ暮らしていた。去って行った恋人が戻って来る訳も無かったが、二人で暮らしていた思い出が室内の至る所に残り、手放す事を虎太郎に躊躇わせていた。
「ご愁傷さま」
「ちかの職場に誰か良い子居ない?」
跡継ぎである長男の竜之介が既に結婚して子供も生まれている事で、次男の虎太郎に対して結婚を催促する声は無かったが同世代の従兄弟達が皆幸せな生活を営んでいる中ただ一人未婚であるという事は、言葉に出さずとも虎太郎の心にほんの僅かではあったが暗い陰を落としていた。結婚という事がすぐに考えられなくても構わないが、寄り添える存在が欲しいのは確かだった。
しかしそんな事を実兄である竜之介になど恥ずかしくてとても言える訳が無く、種は多く撒いておいた方が良いと虎太郎は従兄の千景にも縁の一端を託す事にした。千景も独身だからと虎太郎に頼り切りであった自覚はあり、それでも唐突に出会いの切っ掛けを求められた所ですぐに返答が出来る程交友関係が広い訳ではない千景はガラス奥の風景へと視線を向けていた状態から虎太郎へと移す。
「男でも良い?」
「そっちかよ……」
今すぐに紹介出来る相手というのならば千景の頭に思い浮かぶ存在は一人しか居なかった。分室へと異動をした状態で元の部署に居た人物の事を了承も取らずに紹介する事は出来ず、今最も関わりのある分室メンバーの中で明らかにフリーであると千景が分かっていたのは真香ただ一人しか居なかった。
「本田が今ちょうどフリーの筈なんだよな」
「本田って可愛い?」
「まあ可愛い。見た目はホストっぽいけど」
つい先日斎とのセフレ関係を解消した真香は言葉を返せばそれまでは斎とセフレ関係にあったと言える。その状態で恋人を作る余裕がある程真香は節操の無い人間ではないと千景は知っていたので、斎が突然フリーとなり荒れていたこの騒動の最中、間違いなく真香自身もフリーであった筈だと千景は予想を立てる。
「……ちかの『可愛い』はアテになんねぇからな」
「何でだよ、レオ可愛いだろ?」
「お前のフィルターは俺には無ぇの!」
千景の発する言葉の中で一番アテにならない可愛いの言葉は玲於に対してのものだった。引き籠もり期間が長くまだ成長しきっていないその言動は確かに可愛いと言えなくはなかったが、千景は中身も外見も全てを含めて玲於に対して可愛いと発するので、虎太郎は以前から千景の目利きを疑っていた。身長百八十センチを越える自分より大柄で金髪の玲於を贔屓目に見てイケメンや格好良いと思う事こそあれど、可愛いと思えた事はこの一年間一度も虎太郎には無かった。千景には玲於が天使に見えるらしい、玲於も千景に対して似たような事を言っていた覚えはあるので、ただの似た者バカップルであると片付けていたが、その千景が言う可愛いだけはどうにもアテには出来ないと虎太郎は疑いの目を向ける。
「キャバ嬢イケるならメンヘラもイケるだろ、とらなら」
「偏見が酷い!」
世の中の全てのキャバ嬢を敵に回すかのような千景の発言に一度女で痛い目を見てみろと呪いを掛けつつも、数少ない虎太郎のセクシャリティを知る千景の言葉に興味が無い訳でも無かった。千景の性格は本来真面目なので、適当に問題のある人間を押し付けようとしている訳ではない事は虎太郎にも分かっていた。メンヘラという言葉に多少の引っ掛かりはあったが、そういったきらいのある女性との付き合いがあったのは事実であり、女のメンヘラと男のメンヘラがどの程度違うのかはまだ分からなかったが別段構える必要がある程の事でも無く、千景が名前を挙げた真香という存在に多少なりとも興味は傾きかけていた。
「……実際良い子だよ、本田は。自分より友達の幸せ優先しちゃうような優しい子」
詩緒の事も気にかけてはいたが、千景にとっての真香は詩緒とはまた別の意味で大切に思う存在でもあった。傍目から見れば詩緒や斎よりも一歩下がって様子を伺う真香は三人の中では一番しっかりしていると見られがちではあったが、その実はとても脆く左手首に刻み込まれた無数の躊躇い傷の理由を千景は知っていた。
「ちかに似てんじゃん」
虎太郎に指摘をされた千景は驚いたように視線を向ける。
「俺は俺とレオの幸せしか考えてねぇけど?」
真香が詩緒や斎を大切に思う気持ちと、自分が玲於を大切に思う気持ちは似て非なるものだと考えた千景の脳裏に、今晩玲於と数日振りに二人きりであるという事実が改めて過った。
千景と付き添いの虎太郎が寮に到着して早々出迎えたのは自室への籠城をやめた真香だった。斎が意識を取り戻した事もあり、その晩茅萱が帰宅してからは真香はそれまでと変わらず自室やダイニングを行き来していた。
元々寮のカードキーを持っていた千景がエントランスに入ると偶然ダイニングで調理中だった真香がそれに気付き顔を覗かせる。そう長く顔を合わせなかった訳でも無く、それ以上長い期間会わない事も多かったが、この時ばかりは千景の無事を確認出来た感動も相成り表情は瞬時に明るくなり飛び付かんばかりの勢いで千景と虎太郎の前に姿を現す。
「千景さーん! お元気そうで何よりです」
目に見える外傷は無く、数日前見た時に比べれば幾分かやつれているようにも見えた千景の姿だったが、こうして無事に再び合間見えたのが一番の吉報であり、ショート丈エプロンで水に濡れた手を拭きながら寮内で誰よりも早く千景の無事な姿を見られた事に表情を綻ばせた。
脱いだ上着を片手に掛ける千景だったが、千景の斜め後ろに初めて見る金髪の男性が立っていた事に驚いて目を丸くする。初めは金髪である事からそれが玲於かと思った真香だったが、いざ顔を上げた相手の姿を見ると両耳にあけられた幾つものピアスや、千景よりも身長が僅かに低めである事から玲於では無い事が分かり、この機密性の高い寮に部外者を簡単に連れて来るのは千景位なものだと半ば諦めにも似た感情を抱きつつ千景から紹介があるのを待った。
「本田にも心配かけたな。あ、コレ俺の従弟の虎太郎な」
千景はそう言って自分の背後に立つ付き添いの虎太郎を振り返りもせず立てた親指で指し示す。
「あ、ドモ初めまして……?」
紹介を受けた真香はそのド派手な雰囲気を持つ初対面の虎太郎に対して特に何の感情も持たないまま軽く頭を下げる。対する虎太郎も移動中のタクシーの中で説明を受けていた真香と真っ先に邂逅するとは思ってはおらず、多少の動揺を浮かべつつも部外者の態度を弁えつつ会釈をする。
「千景」
場の空気が一瞬にして凍り付いた事は真香にも感じ取る事が出来た。虎太郎はそこに違和感を覚えなかったが、分室に関わる人物の中で千景の事を苗字では無く名前で呼ぶ存在は一人だけであり、生憎と千景との相性が悪い。
入寮していない千景はラウンジが主な作業場で、休息に限りダイニングへ顔を出す事もある。この日はまだ有給休暇となっており仕事をする必要の無かった千景は虎太郎を伴っている事もあり、真香に促されるままダイニングへと足を向けたその時二階へと通じる階段から声を掛けられ訝しげに声のする方へと視線を向ける。
そこには階段の柱に固く握った拳を当て今にも爆発しそうな感情を必死に抑え込む綜真の姿があった。いつになく表情が乏しく見えるのは怒りすらも通り越した感情に達してしまっているからだった。対峙するだけでもピリつく空気が二人の間に漂う。それを初めて体験した真香や虎太郎は圧倒され、体調が万全では無い時であれば立っている事すらままならなかったであろう。例えるならば逃げ場の無い森で自分から視線を逸らさない猛獣に遭遇したような感覚にも似ていて、ごくりと生唾を呑み込む音がどちらの物であるかは分からなかったが千景の耳に届いた。
「ちょいツラ貸せや」
その言葉に拒否権は一切存在せず、綜真がそのまま階段を上がっていくと千景は脱いだ上着を虎太郎へと押し付け後を着いて行く。千景の表情こそ虎太郎には見えなかったが、丁度千景と向かい合う位置に立っていて綜真に呼び出された瞬間の表情を捉える事の出来た真香は普段とは異なる千景の表情にぴくりと指先を揺らした。
千景は綜真の心情を推測した上で、再び顔を合わせた時このような状況になる事を想定していた。向けられた背中から隠し切れない怒気が漂い、相当腹に据えかねている事はたった数回の言葉を聴いただけでも千景には察する事が出来た。黙って着いてきたのは綜真の気持ちを尊重したからに過ぎず、階段を上りきり廊下の一番奥に位置する自室の扉を開ける為に綜真は一度足を止め、スーツではなく私服のカットソーを纏った千景を振り返る。
綜真が何をしたいのか千景が一番良く分かっていた。一度も心を通わせる事こそ無かったが、短いが濃すぎる期間を共に過ごしその思考に至っては玲於よりも分かり易い。綜真が開いた扉へ促されるまま足を進めた千景は、部屋へ入った瞬間背後からの殺気に気付きつつも敢えて防御する事もせず綜真の拳に頬を打たれ小さなキッチンへと倒れ込む。
「ッ……!」
「綜真! そんないきなり……」
寝室のベッドの上へ腰を下ろしていた詩緒は、綜真と共に現れた千景が有無を言わさず綜真に殴り飛ばされる姿を見ると思わず千景の元へと駆け寄る。
「……いや、良いよ榊」
つい数日前まではまだ一線を越えきらぬとお互いに悩んでいた筈が、今の二人が纏う空気感は既に一線を越えた事を千景に予感させていた。心だけではなく身体の繋がりを持てた事が詩緒の心を安定させたのか、あれほど綜真が誰かに振るう暴力を恐れていた筈の詩緒が発作も起こさず、千景に寄り添いその身を案じていた。
手を貸そうとする詩緒だったが、千景はそれを固辞し代わりに綜真が蹲った千景の胸倉を掴み上げると、千景は腕を伸ばして詩緒を下がらせる。
「俺はお前の自己犠牲が昔っから大ッ嫌いだったよ」
激しい憤りに悲痛の色が混ざり綜真の瞳は揺れていた。このような感情を綜真から向けられる事は初めてで、詩緒が側に居る事で四年前よりもずっと人間らしくなったと千景は切れた唇の端に滲む血を指先で拭いつつ回顧の思いを抱いた視線を綜真へと向ける。
「……鳩尾入ったの根に持ってんのか」
「そうじゃねぇだろっ……!」
「綜真っ……」
一方の千景は綜真の怒りの理由は分かっていながらも、それに対して自らが謝る必要は一切無いと口元に笑みを浮かべたまま挑発するように綜真を見遣る。綜真の怒りは千景が自分ひとりで御影に対する始末を付けようとしていた一点に集中しており、その本質は四年前と何も変わっていないと綜真は両手で胸倉を掴み千景の身体を前後に揺する。
咄嗟に二人の間に割り込み綜真を止めようとする詩緒だったが、綜真の目には詩緒の姿など一切入っていないかのように目の前の千景にのみ向けられていた。綜真の怒りは尤もであったがそれが何故か詩緒には無性に悲しくなり、千景を傷付ける事もそうではあったが綜真にも誰かを傷付けるような行いはして欲しくないと詩緒は正面から綜真の肩を掴み制止させようとする。
「アイツら潰せて! 海老原の仇取れたとしても! お前が無事じゃなかったら誰が喜ぶっつんだッ!!」
叫ぶ綜真に呼応するように、肩を掴む詩緒の指先に力が篭もる。表に出さずとも千景の身を案じた綜真の気持ちが痛い程詩緒には伝わり、綜真の代わりに詩緒は双眸に涙を浮かべる。気持ちは分かれど二人の衝突は誰にとっても良い結果にはならないと詩緒は全身で綜真を抱き留め怒りを鎮めようと背中に手を回す。
「そうま、だめ……」
叩けばすぐに壊れそうな程細い詩緒の身体が、その身を投げ出してでも綜真を止めようとしてしがみ付く。千景に対する怒りを出し切った綜真はようやくその事に気付き大きく上下する肩と胸を落ち着かせながら無意識に詩緒の頭部と背中に手を回して抱き寄せる。自然と千景からは手が離れ、倒れ込むように梁に背中を預けた千景は目の前で綜真の怒りを受け止めようとする詩緒の後ろ姿を見ながらぽつりと呟く。
「……お前を巻き込んで、何かあったら……榊が、悲しむだろ」
綜真の助力があったならば、ほぼ無傷の状態であの廃ビルから脱出する事は可能だっただろう。しかしあの時の千景は実兄の御影を永久に葬る事しか頭に無かった。それですら綜真が居れば恐らく完遂する事は出来ただろうが、巻き込む事で自分だけではなく綜真の身に危険が及んだとしたら、詩緒がどれ程悲しむだろうと考えた千景は敢えて綜真をあの地下に捨て置く事にした。
自身が自覚しているよりずっと詩緒が弱い人間である事を知っていた千景は、その詩緒から心の支えである綜真を奪い取るような事はしたく無かった。恐らく綜真は今後もその手を汚す事は出来ない、何よりも詩緒の存在の為に――綜真が詩緒を見る目は優しかった。触れる手はまるで壊れ物を扱うように、如何に綜真が詩緒を大切に思っているのか、第三者である千景が見てすぐに分かる程、詩緒の存在は綜真の中で欠けた穴を埋める大きな存在となっていた。
「――じゃあ玲於くんは?」
「ッ、」
頭の悪い綜真でも千景の言葉の意味が理解出来ない訳では無かった。詩緒の為にも昔のような重傷を負うような無茶が出来る程若くも無い。どのような関係性であっても大切に思う相手が居る綜真を前線から外そうとした千景の気持ちは分からなくもないが、千景自身にも今は玲於という千景の身を案じる存在が居る事を綜真は指摘する。
御影と共に命を燃やすつもりだった千景の中に玲於の顔が過ぎらなかった訳では無かった。誰よりも大切に思うからこそ御影の存在が玲於に対しての害になると考えた千景は御影を連れて逝く事にした。その決断が辛くない訳が無かった。御影との死を選べば玲於は傷付くかもしれない、本当は御影を愛していたのだと誤解されてしまうのも困る。
「玲於、千景先輩が帰って来ないって心配して従兄の人と一緒に此処まで来てたんですよ」
「詩緒が悲しむのはダメで、玲於くんが悲しむのは良いのか? お前にとって玲於くんってそんなモンなの?」
結果的にこうして命を永らえる事になり、玲於の側にまだ居る事が出来るが御影の脅威が完全に消え去った訳でも無い。結果論ではあるが詩緒に抱かせたくなかった思いを今玲於にさせてしまっている事になる。目を背け続けられればそれで良かったが改めて綜真にそれを指摘された千景は微かに首を左右に振る。
「……そ、じゃない。レオが悲しむのは……一番嫌だ」
玲於は許すだろうか、こんな自分を。二度と玲於以外に抱かれないと固く心に決めた筈なのに――避けられなかった事とはいえ御影だけではなく他の男にも抱かれた身体を。確かに殺意を以て御影を殺そうとした汚れたこの手を。御影に愛していると告げた心を。
千景は自らの震える両手に視線を落とし、その掌に涙を落とした。
千景が退院をしたその日、奇しくも深夜までアルバイトがあった玲於は走って帰宅をした。千景が撃退をしたあの日からもうストーカーに陰に脅かされる事もなく、それよりも今は一番に千景に会いたくて仕方がない玲於は息を切らせながら玄関の扉を開ける。
「ちか兄っ!」
「お帰り、レオ」
マフラーを解きながらリビングに立ち入った玲於は、シンプルな紺のエプロンを付けて軽い夕食をローテーブルに並べる千景の姿に目が釘付けになる。退院に付き添った虎太郎は寮から自宅まで送り届けはしたが、久々の二人きりなのだから邪魔者は退散すると言って早々に千景の家を後にしていた。
玲於の声に振り返った千景はエプロンを外しながら立ち上がり、寒空の中息を切らせて帰宅した玲於を迎え入れるように両腕を広げて待ち構える。普段ならば躊躇わず腕の中へと飛び込む玲於だったが、飛び込んだ拍子に千景が倒れてしまってはいけないと節度を守り、千景の前で一度立ち止まるとこれ以上は我慢が出来ないと千景を両腕で抱き締めた。
「ただいまっ、歩いて大丈夫なの?」
帰宅した時に千景が出迎えてくれる事が今日以上に嬉しいと思った事は無かった。たった一日程しか離れていない筈なのに不思議と長い間会っていないように思えてしまったのは、千景がこの家に居る事自体が久しかったからだった。
「骨に異常はないから大丈夫だ。それよりレオ……」
マフラーだけでなく上着も脱ぐようにと千景は背中に回した手で玲於の背中をぽんぽんと叩き、それに気付いた玲於がいそいそと上着を脱いでラックに掛けると、千景はその玲於の背後から両腕を胸元へと回して抱き締めた。
「……何も、相談しなくて……ごめん、な?」
千景の声は震えていた。流す涙を見られたくないから敢えて後ろから抱き付いたのかと考えた玲於だったが、胸元へと回された手に自分の手を重ねて目を閉じる。怒っていないと言えば嘘になるが、現に今こうして千景が無事に戻ってきた事以外に何を望めば良いのかと玲於は重ねた千景の左手に指を絡ませる。揃いのリングは誓いの証、求婚をして、籍を一つにしてからまだ数ヶ月しか経ってはいなかったが誰よりも千景を愛している気持ちに嘘偽りは無い。
「ちか兄……僕はまだ頼りない?」
玲於の唇が指先に触れる。千景は自分が情けなくて玲於に合わせる顔が無かった。誰よりも悲しませたくない存在であった筈なのに結果的に誰よりも玲於の心を傷付けてしまっていた。
「そんな事ない……」
狭くて真っ暗な金庫の中、蘇ったのは幼き頃の思い。どんなに泣いても出しては貰えなかった。それはきっと自分が悪い事をしたからなのだと当時の千景は考えていた。助けて欲しいとあの時初めて願った、他の誰でも無い玲於に。閉ざされたままの扉が少しずつ開かれ、薄明かりの中千景の目に飛び込んできたのは千景が何よりも欲していた玲於の姿だった。粗雑に扱った事は今まで一度も無かった筈で、玲於と去年再会してからは玲於以外に気を移した事も無かったが、千景が考えるよりもずっと千景の中で玲於の存在は大きくなっていて、無意識に玲於の存在を必要としていた事に千景は気付いた。
不意に視界が暗くなり、腕の中で振り向いた玲於がそのまま静かに涙を流す千景へ唇を重ねていた。
「もっと僕に頼って? 僕もうちか兄を支えられるから」
「うん……」
もう守ってあげなければならない子供では無く、何度も口に出して宣言していた通り少しずつ内面の成長をも果たした玲於は今まで千景が見た事も無いような大人の男性の顔をしていた。両腕を玲於の首へと回し直し千景は玲於の耳元へと唇を寄せ吐息混じりに囁く。
「レオ……抱いて、欲しい」
「ちちちちちか兄!? ぼぼ僕は勿論嬉しいけどっ、でもちか兄今日退院したばっかだしっ……」
折角の頼れる男モードの玲於も、千景の甘い囁きには勝てず一気に虚勢は瓦解し普段の玲於が顔を見せるが、千景はこんな所で冗談を言うような人物でも無く、ばくばくと上がる心臓の鼓動と無理をさせてはいけないと考える理性の天秤が玲於の中で大きく揺れた。
「ダメか……?」
「ダメじゃない! だけど……」
先日と同様、千景から玲於を求めるという事自体がとても珍しく、そこに玲於が拒否をする理由など一切存在していなかった。しかし今朝退院したばかりの千景に負担を掛ける事はしたくないという思いもあり玲於は千景の腰に手を回すかを躊躇った。
「レオ、頼むから……」
呟く千景の声は震えていて、ただ事ではないと感じた玲於は瞬間的に千景の身体を抱き上げていた。元々首に両腕を絡ませていた千景臀部から足の付根を抱え上げると自然と千景は足を上げて玲於の胴へと絡ませる。寝室までの僅かの距離も惜しく、すぐ近くにあった二人掛けのソファへ千景を運ぶと玲於はその上に千景の身体を仰向けに寝かせる。
「どうしたの、ちか兄から欲しいだなんて」
ベッド上の方が更に安心ではあったが、床でするよりは幾らかマシだと玲於は片手で千景のシャツの裾から手を忍ばせ指先で素肌に触れる。玲於が知っているのは一時的に声が出なくなっていた事くらいで、それ以外の外傷については一切竜之介から知らされては居なかった。声が出なかったのも翌日には元に戻り見ただけでは怪我をしている所は何処にも無いようだった。
それでもどこか、玲於が違和感を覚えていたのは帰宅してから一度も千景とまともに視線が合っていないからだった。千景の両腕は玲於の背中にしっかりと回され、指先から感じる体温の上昇も間違いなく千景にその意志がある事の表れではあったが、千景は伏せ目がちに視線を落とし長い睫毛の奥で微かに瞳が震えた。
「…………ないんだ」
「え?」
確認するように千景の肌を弄る玲於の耳に小さな声が届いた。触れた指先から伝わる心臓の鼓動はいつになく早く、千景にしては珍しいと玲於は片手で千景の背中を支えたまま、肌をなぞる手を下へと滑らせズボンに掛ける。
「御影の、御影の感触が……消えないんだ……」
ぴくりと玲於の手が止まる。今物凄く屈辱的な言葉が聞こえた気がした玲於の思考は瞬時に真っ白となり、その動揺を感じ取った千景の抱き締める腕に力が篭もる。
それは拒絶の意志だったのか、玲於はそのまま千景をソファに押し付けながら自らは上体を起こす。それを離れて欲しいと受け取った千景は今この手を離したら玲於の心が何処かに行ってしまうのではないかという不安を抱きつつも両腕を解放しソファへと背中を預ける。
「……みか兄と、セックス……したの……?」
竜之介も誰も教えてくれなかった。だけれど想像出来ない訳でも無かった。予感があっても気付かなければずっと無かった事に出来た筈だった。気付けば玲於の両目には涙が溜まり、止め処無く湧き上がる泉のように堰き止められないそれはやがて千景の身体の上へと落ちる。
大人になる、支えられるようにと我慢をし続けてきた玲於の心は既に限界で、千景の一言が止めを刺してしまったように怒りを堪える玲於の表情は歪み、怒り顔とも泣き顔とも取れるその顔はぼろぼろと零れ落ちる涙でぐちゃぐちゃになっていた。
「……ごめん、ごめんレオ……アイツを殺して、俺も死ぬしか……なかったんだ、本当は……」
今玲於に殺されるなら本望だと千景は手を伸ばして頬に触れる。目の前に居る玲於の姿が不自然な程に歪み、その時千景は初めて自らも目に涙を溜めている事に気付いた。
「どう、して……ちか兄が死なないといけないの……?」
千景が御影に抱かれたという事実よりも、千景が死んでしまう方が何よりも辛い。千景が御影と共に死を選ばず今こうして目の前に居る事実に比べれば、千景が御影に抱かれた事など取るに足らない問題でもあった。千景の指先は冷たく、頬を撫でる優しい手も震えていた。御影の手が届かない所へ千景を隠してしまえたならば、二度とこんな思いを抱かなくて良いのだろうか。千景無しでは生きられない玲於は自分の中に黒く淀んだ感情が芽吹いてきている事に気付いていた。
もしこの綺麗な顔が二目と見られない程ぐちゃぐちゃになったならば、誰にも見向きはされないのでは無いだろうか。誰かの為にと向かってしまう足を――もし両方とも無くしてしまえば、二度と自分以外の誰かの所へ行ってしまう事は無くなるのではないだろうか。
「約束、したからレオと……他の奴に抱かれないって……」
千景の言葉に玲於は正気を取り戻した。二度と傷付けないと約束した筈なのになんて愚かしい事を考えてしまったのかと玲於は自ら覆い被さって千景の身体を抱き締める。
「ちか兄が……死んじゃったら、僕も生きてられないよ……?」
「レオ……」
誰に抱かれようが心だけは自分の物ならば何度だって許す。千景を失う事だけは何があっても耐えられない。玲於は全身で千景をソファに押し付けたまま片手を再び千景の下肢へと滑らせる。
目元に浮かぶ涙を舌先で拭い取ると千景の背筋が小さく震える。御影の感触が消えないと言うのならば、それ以上の物で塗り潰してしまえば良い。
「……今日は、優しく出来ないよ。僕明日休みだし」
もし千景が限界を訴えたところで止める気など微塵も無かった。誘ってきたのは千景の方で、御影の事など思い出す余裕も無い程一晩中掛かっても千景を離すつもりの無い玲於は、危ないからと千景の眼鏡を外してテーブルの上へと置く。
避妊具と潤滑剤の消費が激しくなる事を考えれば場所を寝室に移した方が妥当で、玲於は手を止めて寝室に移動するべきかと悩んだが、後で場所を浴室に移せば良いかと勝手に納得し不安げに視線を送る千景の両手を纏めて頭の上で一つに抑え付ける。
「……俺、明日寮に呼び出されてんだけど」
有休では無く法定通りの休日ではあったが、ある人物から出来れば明日も寮へ来て欲しいと頼まれていた。粗方の問題は片付いている筈だったが、それとなく予想が付いた千景は昼前を目処に寮へと足を運ぶ予定となっていた。
敢えて明日が休みである事を玲於が告げてきた事から下手をすれば一睡も出来ない予感のあった千景だったが、念の為に玲於へと明日の予定を告げた時、玲於は抑え付けた千景の両手へ梱包用の布テープをぐるぐると巻き付けていた。
「……ダーメ。今夜は寝かせてあげられない」
ひくりと千景の表情が引き攣った瞬間だった。
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