深夜二十三時、訪問するには常識外の時間に自宅の呼び鈴が鳴らされる。家主である暁はその時間であっても自室で請け負っていた外注作業を行っていたが、こんな夜間の訪問など凡そ碌なものではないと察し居留守を決め込む事にした。しかし無視しても鳴り止まない呼び鈴に舌打ちを小さく鳴らし、イヤホンの紐を引っ張り机に置くと椅子から立ち上がる。 「っく誰だよ……」 　都内北東部に位置する2DKの格安物件、最寄り駅から十五分と少し遠くはあったが料金の割りに広めのこの部屋を暁は気に入っていた。暁がこの部屋に越してきたのは約四年前、その前は都心部にも交通の便が良いエリアの一室を借りていたが、四年前に突然全てを引き払いこの地に越してきた。それまでの知り合いに転居を知らせておらず、知っているのはごく僅かな人数のみだった。その相手がこんな深夜に連絡も無く訪れる訳が無いと考えた暁は欠伸を噛み殺しながら玄関扉を開ける。 「はー、い……？」 「よお、久し振りアキ兄」 「……い、イト、ナ？」 　そこに居たのは――四年経っても面影は何ひとつ変わらない、暁の知る人物だった。浅黒い肌に明るい茶色の髪は緩やかなウェーブが掛かり耳を隠し肩口に届いている。舐めた目付きは変わる事無く、身長こそあの頃に比べ幾らか伸びたのか暁が視線を上げる程になっていたその人物は、訪問者を招き入れる為に扉を開いた暁の姿を見るや否や虚をつかれたように目を丸くしていた。 「って、随分変わったなあ、パッと見分かんなかった。陽キャってやつか？」 　身長以外は変わらぬその人物を暁はすぐに絃成であると分かったが、一方の絃成は四年前と異なり傷んだ金髪を携えた暁の姿に一瞬の驚きを見せた。しかし大きなウェリントンタイプの眼鏡は以前から使っていたもので、顔の大半を隠すその大きなフレームをださいと何度もからかった覚えのある絃成は眼鏡のお陰でそれが暁本人で間違いが無いと認識する事が出来た。 「――なに、何か用……？」 　何故ここに絃成が居るのか、暁にはその理由が分からなかった。何故ならば暁は転居を絃成に知らせた覚えが無かったからだった。それどころか転居前の時点で絃成と連絡を取った事も無く個人的に会うという事も皆無だったと記憶している。その絃成による突然の訪問が理解出来ず扉を開けたまま硬直する暁を後目に、絃成は暁が開けた数十センチの隙間を更に開こうとその扉に手を掛ける。 「入って良いか？」 「え、嫌だ」 　暁の返答など元より意に介するつもりが無かったのか、暁は拒絶の言葉を向けたのにも関わらず絃成は扉を強引に引き開けて部屋の中へと足を踏み入れる。 「お邪魔しまーす」 「あ、ちょっ、散らかってるからっ……！」 　嫌だと言ったところでそれを聞くつもりもない絃成の元々の性格を知っていた暁は、無遠慮に入室する絃成の背中へ視線を送ると両肩を落として溜息を吐く。乱雑に脱ぎ捨てられた絃成の靴を揃えて玄関へと並べ、我が物顔で寝室へと足を進めた姿を追うと絃成は壁の一点に視線を向けていた。 　そこには引っ越した当初から暁が貼っていたポスターがあり、四年間毎日日光に晒され経年劣化で色褪せてはいたがそれでも取り外す事が出来ずそのままになっていたものだった。そのポスターはCDを購入した時特定の店舗で特典として付属していたもので、各々楽器を持つ四人の男性と共に下部には大きくドイツ語でそのバンド名のロゴが入っていた。 「シュレのポスターじゃん、なっちぃ〜」 　バンドの名前は『｜SCHRÖDING《シュレディング》』といい惜しまれつつ四年前に解散してしまったが、暁が今でも一番好きな日本の四人組ロックバンドだった。暁だけではなく絃成もSCHRÖDINGのファンであり、二人は同じSCHRÖDINGのファン同士という接点から当時ファン同士の交流を深めるひとつのグループに所属していた。 　当時の暁は絃成の指摘通り今とは風貌が異なっており、今こそ少し傷んだオレンジ寄りの金髪を乱雑に一纏めに括ってはいたが四年前までは一度も色を入れた事が無い艷やかな黒髪だった。どちらかと言えば控えめな性格であった暁は、同じSCHRÖDINGのファン同士という事から多少の勇気を出してそのグループの集まりに参加していたが、総勢七名の大所帯は各々に個性が強く自ら会話に参加出来ない事が暁には多々あった。 「復活ライブとかやってくれねぇかなあ」 　中央に写る｜Octō《オクト》の姿に手を重ね絃成は呟く。絃成はメンバー四人の中でもボーカルであるOctōの大ファンであり、SCHRÖDING解散の後もOctōがソロで活動をするのならばそのライブには是非行きたいと息巻いていたが四年経った今でもその願いは果たされていない。 「――無理でしょ。ハジメ、事故に遭ったって言うし」 　寝室の床へ無造作に置かれた雑誌を拾い上げ纏めながら暁は小さな声で言う。二代目ギタリストであるハジメが不慮の事故に遭ったという一報が入ったのは一年前の事だった。リーダーであり、ベースを担当していた｜Neun《ノイン》以外のメンバーは解散の後音楽活動から離れてしまい、音楽とは違う形ではあったが内容が明確だったハジメの活動を暁はそれとなく追っていた。 「え、マジでっ？」 「知らなかったの？」 「全〜然！　シュレ解散してから全然情報とか追って無かったし」 「……あっそう」 　SCHRÖDINGの音楽活動にしか興味の無かった絃成がその事件を知らない事は仕方なく、ただでさえ当時とは名義や内容も異なるハジメの一挙手一投足を常に追い続ける事など興味を持たない者にとっては不可能な事だった。 　それは非常に小規模ではあったが個人が管理しているまとめサイトであり、個人からの情報提供も随時募集している元SCHRÖDINGメンバーの活動が随時更新されていた。その作詞能力を買われ加入したと言われていたハジメは解散後インターネットに投稿していた小説が人気を呼び、知名度こそ高くはないが小説家として活動していた。SCHRÖDINGは九年前に結成されたバンドであったが、六年前当時リーダーだったゼロの脱退と入れ替わる形でハジメが加入した。メンバーの入れ替わりには賛否両論ありゼロのファンは幾らか離れたが残ったファンを納得させるだけの実力がハジメにはあり、解散までの二年間ライブの動員数を含めその人気はゼロの在籍時以上のものがあった。 　暁たちのグループはハジメ加入時から発生したものだったが、暁自身は結成間もなくからSCHRÖDINGのファンだった。ハジメの綴る言葉は切なく時には激しく、誰かを心から想うその詞に暁は何度も勇気を与えられてきていた。 　未だに絃成による深夜の訪問の意図が読めない暁は枕元に積み重ねていた読みかけの文庫本を拾い上げてローテーブルの上へと置く。 「それより何で俺んち……誰から聞いたの？」 「ナツ兄に聞いた」 「あー、那月かあ……」 　七人所帯のファングループは最年長者を長男として年齢順に兄弟のような呼称を付けて関係を構築していた。その中で暁は年齢が上から二番目という事もあり次男という扱いを受けていた。最年少の絃成は七男という事になっているが、グループ内に女性が二人居る為五男という扱いを受ける事もある。絃成と暁が話題に出した那月は五男であり、年齢は暁のひとつ下だった。 　四年前SCHRÖDINGの解散と共に暁は自然とグループから距離を置いていたが、那月とはグループを離れた後も連絡を取り合っていた。暁にとっては那月のみが自分を害さないただ一人の存在だった。 「ナツ兄遊びに来たことあんだろ？」 「まあ何回かはね」 　この四年間で那月は数度暁の部屋へ泊まりに来た事があり、那月であれば暁の家を知っていても不思議では無かったが、那月から聞いてまで絃成が深夜に訪問してきたという明確な理由だけは未だに分からないままだった。 「ってゆうか何で那月に家聞いてまで……」 　那月との関係性に比べれば暁と絃成は当時からそれほど親しいといえるものでも無かった。連絡先を変更した事すら教えない程度の関係性で、実際暁は他の仲間共々絃成との関係をフェードアウトするつもりでいた。 「暫く泊めて」 　絃成の口から飛び出した言葉に暁の目が丸くなる。 「は、なん――」 「つうか匿って」 「匿う？」 　予想外の言葉に思わず暁はそのまま聞き返す。匿うという事は絃成が隠れなければならない何かの渦中に居るという事ではあったが、そうであっても絃成が逃亡先に自分の部屋を選ぶ説明とはなっていなかった。 「モカの部屋もマヨ姉んとこも部屋バレしてるしさあ、バレてねぇとこってアキ兄のとこ位なんだもん」 　｜萌歌《モカ》は六女の女性で、マヨこと真夜子は三女になる。グループ内の数少ない女性であり、暁が知る限り絃成は当時萌歌と付き合っていた。 「――モカ、と、まだ付き合ってたんだ」 　乱雑に散っていた文庫やCDを所定の位置へと戻す暁の手が動揺により僅かに揺れる。絃成と萌歌はグループ内でも公認のカップルで、暁がグループと距離をおこうと考え始めた原因もそこにあった。 　普段突然の訪問者など居ない暁の部屋は自由気まま一人で快適に暮らすことだけに特化された状態となっており、今日のように予告の無い訪問があるとそれなりに見られる状態となるように整頓をする羽目になる。見られてまずいものを置いているつもりは無いが、そのままの部屋を無造作に見せる訳にはいなかった。絃成が無造作に腰を下ろしている布団も朝起きてから敷きっぱなしのもので、暁はそういった所を他人に見られる事をとても気にする性格だった。 「付き合ったり別れたりばっかして、今は別れてるとこー」 　萌歌は女性の中では最年少であり、絃成と萌歌の二人は当時未成年コンビと呼ばれていた。成人済の面々とは異なりあらゆる点で差が出てしまう二人の距離が自ずと近付いていく事は当然の事であると言えた。妖艶さを売りとする真夜子とは対照的に萌歌は腰まで伸びたロングヘアーが清楚さを象徴した女性であったが、小柄な身体には不釣り合いであるほど豊満なバストを有しており、暁から見れば萌歌と真夜子のどちらも魅力的な女性であるといえた。 「バレたらマズイような事したんだ？」 「うん」 　その大人しい容姿とは裏腹に萌歌はとても気が強く、暁が覚えている限りでも絃成と萌歌が喧嘩をしていたのは一度や二度の事では無い。その一因には絃成が萌歌より歳下という事が関わっていそうだったが、二人の関係に口を挟むのは野暮であるとメンバー内の誰も積極的に関わろうとはしなかった。気付けばいつの間にか仲直りをしている事が日常の一部でもあった。 「……俺がイトナの事匿わなきゃいけない理由が無いんだけど」 　連絡を断って四年、その間連絡を取り合う事は一度も無く、事前確認も無く突然現れた絃成を自宅に匿わなければならない理由が暁には無かった。下手に匿って面倒な事に巻き込まれるのは暁としても願い下げで、何かに追われているというのならばそれこそ警察に助けを求める方が自然だとしながらも、その言葉とは裏腹に暁は絃成を匿うべく正当な理由を探そうともしていた。 　理由無く絃成を匿う事は暁には出来なかった。暁にとって無条件に絃成を受け入れるという事は、四年以上もずっとひた隠しにしてきたものを認めてしまうようなものだったからだ。 「だってアキ兄、俺のこと好きだろ？」 　不意に突かれた核心、思ってもいなかった絃成当人からの言葉に暁は冷たい手で心臓を握り締められたような感覚に襲われた。 　本人に悟られるような素振りなど暁はこれまで一度もしてこなかったはずだった。考えられる可能性としては誰かが絃成に教えたか、絃成の言葉がただのブラフであるという二種類だった。真っ先に思い浮かんだのは那月が絃成に吹聴したのではないかという事だったが、もし那月がそんな人物であったのならば暁はグループを離れた後も那月と交友関係を続けてはいなかった。それでも那月以外の存在がただでさえ四年近く音信不通にしていた暁に対して義理立てする必要は無いと絃成に告げ口していてもおかしくは無かった。しかし暁は誰かから真実を伝えられている可能性より、絃成のブラフである可能性に賭けた。 「なに、馬鹿じゃないの。何馬鹿みたいな事言って――」 　一通りの整頓が済んでも寝室という安息の場は絃成に占領されており、暁は渋々隣の部屋へと移ると机に添えられた椅子へと再度腰を下ろす。机の上へと置かれたイヤホンからは暁はそれまで聴いていたSCHRÖDINGの曲が流れており、点灯したままのパソコン画面の隅では今もSCHRÖDINGのライブ映像の動画が再生されていた。 　暁はマウスを片手に取り動画の再生を止める。するとイヤホンから雑音は聞こえなくなり、深夜の静寂の中この早鐘を鳴らす鼓動が絃成に聞こえやしないかと暁は意図的に深い呼吸を繰り返した。 「俺がモカと付き合う前からずっと、アキは俺の事好きだっただろ？」 　無造作に側頭部を掻きながら、暁は絃成が萌歌と付き合い始めた時の事を思い出していた。叶う想いであるとは始めから思ってはいなかった。どちらも紛うことなく男であり、中学校に上がる頃には既に同性が恋愛対象であった暁とは違い、真っ当な異性愛者である絃成とどうにかなりたい等とは始めから考えてはいなかった。 　ただ仲間として側に居られればそれで良かった筈だったが、絃成と萌歌が付き合い始めたと聞いた時、暁の中でどす黒くて汚い何かが蠢き始めた事に気付いた。その後萌歌と上手く笑顔で話せていたのかを暁は良く覚えていない。絃成の様な健全な男子が選ぶのは結局萌歌のような容姿的、肉体的に魅力のある可愛らしい女の子であって、碌に目を見て会話をする事も出来なかった自分で無い事だけは明確だった。 　絃成を好きになってしまった事を暁は酷く後悔した。もし違う出会い方をしていたならば、萌歌のように可愛らしい女の子になれなくともせめて見た目にも気を使い、ちゃんと絃成の目を見て会話が出来るような自分であったならば、望む形とは違えど友達としてずっと隣に居る事は出来たかもしれなかった。 　――《後悔するには愛し過ぎた》。 　それはハジメが初めてインターネットに投稿し脚光を浴びた小説のタイトルだった。相手の気持ちが自分には向いていないと分かっていながらも、愛した事への《後悔》という言葉で片付けるには足りない愛し過ぎてしまった相手への想いを綴った恋愛小説であり、暁はこの言葉に背中を押され、グループから離れた後自分を変える努力をした。 　見るからに重苦しい雰囲気であった真っ黒な髪を金髪に染め、猫背気味だった姿勢も意識的に直し、相手の眉間を見て話すよう努力をした。グループを抜けてからも会う機会が多かった那月は暁の変貌に驚きを隠せない様子だったが、暁が前向きに自らを変えようと努力している姿を応援していた。 　四年間、暁は過去からの脱却を目指していた。絃成を好きでいた事を後悔するのではなく、自身を変える良い切っ掛けだったのだと思うようにして、少しずつゆっくりと残った想いを昇華していった。 「――妄想も甚だしい。今日は泊めてあげるけど明日は」 　何度か那月が泊まる機会もあった事から予備の布団はクローゼットの中に仕舞い込んであった。来るのが分かっていれば圧縮袋から出して干しておく事も出来たのにと暁は肩を落として寝室のクローゼットへと歩み向かう。幾らなんでも今朝まで自分が寝ていた布団に客人を寝かせる訳にもいかず、自分の布団を隣の作業部屋へと移し空いた寝室に客用の布団を敷くかと手順を考えた暁は深夜に大作業をする手間にげんなりと溜息を吐いた。 「妄想じゃねぇよ？　だって俺気付いてたし」 　絃成の言葉にクローゼットから布団を引っ張り出す暁の手が止まる。 「だったらなん――」 　――何で、目の前であんな事を。そう思った暁は言葉を呑み込んだ。絃成は一人っ子で仲間内といえど兄や姉と呼ぶような存在が出来た事から無意識なのか、相手の気を引く為に冗談めいた虚言を口にする事があった。それは決して病的なもので無く、末っ子が自分に注目を集めたいが為の可愛らしいものだと認識していた暁は、今回もまたその類のものだろうと考え絃成の挑発に乗らない事を決めた。 「アキ？」 　暁が言い淀んだ事に気付いた絃成は敷かれたままの布団の上で寛ぎながら、向けられたままの暁の背中へと視線を送る。名前を呼ばれた事で引き戻された暁は驚きから微かに肩を揺らすも、何でも無いとばかりに両手に掴んだ布団の袋を引っ張り出す。圧縮しているとはいえ質量は変わらず、引っ張り出すだけでも一苦労ではあったが作業とすればまだ序盤であるとして、取り出した布団の上に両手を付いて立ち上がる。 「……別にいいや。好きにすれば」 　暁は変わると決めた、過去の弱い自分から。今更絃成が当時から暁の想いに気付いていたとしてもそれは過去の事で、今の自分には全く関係の無い事であると暁は揺れ動く心を押し殺し布団の上から退けと絃成に手で合図をする。 「アキ兄、変わんねぇな」 「なに――」 　視線を向けた絃成が暁に放った一言。見透かしたようなその真っ直ぐな視線が暁は昔から怖かった。