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第一章 アキの想い

「――ただいま」  普段ならば出迎える者も居ない一人暮らし。それでもただいまとつい帰宅の声をあげてしまうのは長年染み付いたアキの癖でもあった。靴を脱ぎ真っ暗な部屋に明かりを灯す事が帰宅時のルーチンであったが、この日は暁が電灯のスイッチを入れる必要も無く、寝室に灯された明かりが玄関まで伸びて足元を照らしていた。 「おかえりぃ」  寝室から聞こえてくる間延びした声に暁はげんなりと両肩を落とす。肩に掛けたトートバッグの紐を落とし、体温調整の為に着て行った薄手のロングカーディガンを脱ぎながら暁は寝室の扉枠に腕を掛けて寄り掛かる。 「まだ居たんだ」  寝室を占拠していたのは昨晩突然匿って欲しいと押し掛けて来た昔の仲間、絃成。一晩泊めれば気が済んで出て行くだろうと考えていた暁だったが、寝室に広がる光景は今朝暁が家を出る前と何も変わっていなかった。敷いたままの布団、シーツや毛布も乱れた状態のまま絃成は俯せ状態のままスマートフォンを横向きに持ってゲームのようなものをしている。 「だって見つかったらやべぇし」 「誰にだよ」  布団の上で時折足をぱたぱたとばたつかせながら、スマートフォンから伸びる黒いコードは寝室のコンセントに挿されていた。  暁の帰宅が契機となったのか、絃成は両手で持っていたスマートフォンをそのまま布団の上へと放り、布団の上でくるりと身を翻すと寝室の入り口から覗き込む暁に向き直って胡座を掻く様に座り直す。 「なあ腹減った飯ー!」 「はあ?」  黙っていれば出て行くと思っていた暁は食事の心配を一切していなかった。朝食だけは情けとしてシリアルと牛乳を提供したが、ふとキッチンに視線を送れば朝シンクに置いた食器類がそのままの状態だった。  見える範囲で寝室を見渡しても他に何かを食べたような形跡は無く、暁が帰宅をする夜まで暇だったのか、昨晩片付けたSCHRÖDINGのCDやDVD類が布団の上へ無造作に広げられていた。 「俺金持ってねぇもん」  確かに絃成が現れた時、絃成はスマートフォン以外何も持ってはいなかった。絃成が昼食すら食べていないと考えるのならば、概算でも十時間近くは何も口にしていない状態という事になる。帰宅したばかりの暁は少しでも早くシャワーに入って身体を洗い流したかったが、もう一晩絃成を泊める事になるかもしれないという可能性を考えれば、服はともかく下着なども一緒に買ってきた方が無難だと考えて脱ぎ掛けたカーディガンを再び着込む。 「……買ってくるから待ってて」 「買ってくんのかよお、モカならいつも自炊してたぜー?」  その絃成の不用意な一言は暁のプライドを傷付けた。それは恐らく絃成にとっては何気無い一言だったのだろうが、帰宅してすぐ寛ぐ暇も無く買い出しに向かおうとした暁に対して居候でもない居座っているだけの絃成が簡単に言って良い言葉では無かった。  それだけでも暁にとっては不快極まりない事であったが、それ以上に絃成の元彼女である萌歌と比較された事は非常に屈辱的だった。萌歌の家に仲間の何人かで遊びに行った事があった。その時は萌歌の手料理を振る舞われ、萌歌がどれ程料理上手であるかは暁も良く知っていた。しかし萌歌と同じ自炊スキルを暁にまで求める事は間違い以外の何物でも無かった。 「……じゃあモカのところ行ったらいいんじゃないの」  手料理を食べたいと言うのならば自らが言った通り萌歌の家で匿って貰えば良いと口にした暁は咄嗟に寝室から顔を背け絃成へと背中を向ける。萌歌と比較された事がただ悔しくて、胸が一気に熱くなってじわりと目を濡らした涙を絃成に見られたくなかったからだった。歯を食い縛って大きく鼻から息を吸い込む、そしてゆっくりと吐き出すと涙はそれ以上込み上がっては来なかった。 「なにプライド傷付けた? 拗ねんなよアキ兄ぃ」  ぎしりと床を踏み敷く音が聞こえる。背後の絃成が布団から立ち上がり、背中を震わす暁へと一歩ずつ歩み寄りながら暁の肩へと片腕を伸ばす。その声色に暁に対する申し訳無さは一切感じられず、舐めたような絃成のその喋り方は余計に暁の屈辱を煽った。  絃成の手が暁の肩を掴んだその瞬間、暁はするりとその手から抜け出し駆けるように玄関へと足を進める。トートバッグの紐を両手で強く握り込み、今は少しでも早く外に逃げ出したかった。 「拗ねてない。明日から作れば良いんだろ。今日は時間無いから――ッ、イトナ!?」  絃成が自炊を望むならきっと明日からは出来る限り自炊をしてしまうだろうという事を暁は良く分かっていた。絃成の言い方に心が傷付けられても、萌歌と比較されてプライドがずたぼろにされようとも、それでもやっぱり絃成の事が好きなのだと暁は改めて自覚していた。  抜け出した筈の手が再び暁の片腕を背後から掴み、暁は思わず紐を掴む両腕を防御するように自らの胸の前に出す。腕を掴まれ、振り返ったすぐそこに絃成の顔があった。顔付きは以前よりずっと男らしく成長し、曇りないふたつの眼が暁へと向けられていた。 「怒った顔も可愛いけど、俺はアキの笑ってる顔の方が好き」  まるで萌歌に言うかのように、絃成は暁の耳元で囁く。仲間内でカラオケに行った事は何度もあった。その殆どがSCHRÖDINGの曲だけを歌うという縛りのあるものだったが、暁は何度も絃成の歌声を聞いていた。 「っバカ、やめろ……」  大好きだった絃成の声が鼓膜を揺らす至近距離で囁き、暁は思わず絃成の顔に手を当てて距離を取る。 「アキ兄も俺の事好きなんだしウィンウィンってやつだろ?」  四年前、そして今も、暁は絃成への想いを押し殺すつもりでいた。四年を経ても絃成は間違いなく異性愛者で、行く所が無いからその想いを利用しようとしているだけなのだと暁は何度も自らに言い聞かせた。認めてしまえば楽にはなるが、本気では無い絃成に騙される程馬鹿では無いと暁は絃成からのモーションを徹底的に躱し続ける気しか無かった。 「ちゃんと世話になった分身体で払うからさ――」 「ッ――!!」  絃成が慣れた手付きで暁の内腿を撫で上げる。その動きに暁の背筋がぞくりと震え、覚えのあるその感覚に内側から高まる熱を感じた。 「好きだよ、アキ」  ――好きだよ、モカ。  絃成の紡ぐ言葉が暁の心臓に氷の杭を打ち込んだ。絃成が好きなのは間違いなく萌歌であって、匿ってくれる場所を確保する為だけに自分にこんな事をしているのだと再認識した暁は、絃成の手がそれより上に進もうとするのを拒み手首を掴む。 「……い、やっ、マジでやめろって……イトナっ!」  絆されてはいけない、流されてはいけない、もし本当に絃成への好意がバレているとしても認めてはいけない。認めたところで地獄を見るのは明らかだった、絃成が本気で自分の事を好きになってくれる訳が無いと暁は思っていた。 「でもちんこ勃ってきてんじゃん。ほんとはイイんだろ?」  掴んだ筈の絃成の指先が、僅かに熱を帯びて主張をし始めた暁の中心を掠める。逃れようの無い事実が目の前にあったとしても、認めない限り答えはイエスにはならない。制止させているはずの暁の手を、絃成はいとも容易く掻い潜りその主張する熱を形取るように緩く握り込む。 「――そんなに俺の事大好き?」 「ッ、好きじゃない!」  好きでどうしようも無いのに、認めても誰も幸せにはならない。気付いた時暁は絃成を両腕で突き飛ばしていた。床に尻餅をついた絃成はぽかんと口を開けたままだったが、暁に拒絶されたという事実を認識し始めると子供の様に頬をぷくりと膨らませる。 「ってぇ、何だよ突き飛ばすことねーだろ」 「か、勘違いすんなバカっ! こんなのただの生理現象だっ」  耳元で囁かれ、内腿を撫で回されれば男として身体が反応してしまう事は仕方が無い、暁はそれで押し通す事を決めた。崩れ掛けた体勢を戻し、トートバッグを肩へと掛け直し、靴を履いて玄関扉に手を掛ける。 「今更何強がってんだよ。俺知ってんだぜ? アキ兄が昔から俺のこと――」 「すっ好きじゃないっ! 勘違いもいい加減にしろ!」 「おいアキ!!」  好きなのに好きでは無いと告げる事の苦しさをきっと絃成は理解出来ないだろうと暁は思っていた。鍵も掛けずに部屋を飛び出し、少しでも気持ちを落ち着けられる場所へと暁は走り出していた。部屋の中から絃成が暁を呼ぶ声が聞こえたが、絃成が部屋を出て暁を追って来る事は無かった。

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