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第二章 和人の質問

「ほんと……何なのもう」  部屋を飛び出し、二十四時間営業の量販店で絃成の為の日用品や食糧品を買い揃えた暁だったが真っ直ぐ部屋に戻る気にもなれず、トートバッグを携えたまま一人、項垂れたまま公園のブランコを漕いでいた。 「……バレるはず、無いと思ってたのに」  隠し通せている自信はあった。絃成はともかく絃成の彼女である萌歌にさえ、絃成に対する気持ちだけはバレないように取り繕えている自信が暁にはあった。決して絃成を見ないようにしていた、視線で追っている事が絃成本人にはバレないように。  ――アキ、お前イトナの事好きなんだろ?  ――なに……馬鹿な事言ってんじゃないよ。  それでも暁の絃成への気持ちに気付く者は少なからずいた。那月は気付いていて敢えて触れないでいてくれたのかもしれない。暁がグループを抜けた後も那月が絃成の話題に触れる事はこの四年間で一度も無かった。  絃成への想いに気付きつつ、それを悪用したのはたった一人。  ――お前がイトナ見る目、発情したメスみてえなんだよ。  その言葉が酷く屈辱的だったことを暁は今でも覚えている。絃成とどうにかなりたかった訳ではない、家族のように呼び合える仲間の一人として同じ輪の中に居られるだけでも充分だった。欲を出した事は一度も無いつもりだった。ただ人との距離を保つ黒くて長い前髪と不格好なまでに大きいレンズ越しに時折絃成の横顔を見られるだけでも充分だった。  ――イトナには黙っててやるから、良いだろ? な?  そう言って彼は笑った。それは酷く醜悪な笑みだった。その舐めた目付きはどこか絃成に似ていたが、悪意がある分絃成よりもずっとタチが悪かった。 「アキ」  思いを馳せる暁は不意に名前を呼ばれ我に返る。公園の街灯が黒く長い影を作って暁の足元にまで伸びていた。その影の持ち主の姿は街灯を背に負った逆光の為良く見えなかったが、ぶっきらぼうながらも落ち着いたその声色に暁は聞き覚えがあった。  足元だけで緩く漕ぐブランコはキィキィと小さな鉄の衝突音を響かせ、影が少しずつ縮んでいくのと同時にその人物も暁が佇むブランコへと歩みを寄せていた。 「ッ、和くん」 「随分遅いな。今帰りか?」  引田|和人《かずんど》その人は、グループの中では長男と呼ばれており、実質的なリーダーだった。横道を通る車のヘッドライトが和人の顔を照らし、暁と同じウェリントンタイプのサングラスのガラスを反射させた。  何故和人が居住エリアも異なるこの公園に現れたのかという疑問はさておき、和人の登場は心なしか暁を安心させた。それだけ和人の存在は暁だけではなく仲間の精神的な支柱でもあり、長兄であるという立場は伊達で無い。 「そういう訳じゃないけど……」  和人は暁が肩から掛けているトートバッグが膨らんでいる事から何かしら買い物の帰りである事を推察しながら、亡霊のように破棄なくブランコを揺らす暁の姿を訝しげに見ながら隣のブランコに足を掛ける。トートバッグの中身を覗き込むような人物では無かったが、暁はさり気なく肩に紐を掛け直し空いた口から中が見えないように小脇に抱え直す。 「夕飯の買い物。急に食べたくなってさ」  念のため絃成の日用品をバッグの一番下へと置き、その上から同じ量販店の食糧品売り場で購入した見切り品の惣菜や二リットルのペットボトル飲料を配置した事で、仮にバッグの中を覗かれたとしてもそれが日用品の買い出しである事が見抜かれる筈も無かった。  絃成が何日居座り続けるかは分からなかったが、腐らない程度の食糧品を不自然では無い程度に常備しておく事は必要だと暁は考えていた。 「――なあ、アキ」 「うん、なあに?」  和人の声に暁が顔を斜め上へ向けると、茶色いレンズ越しに和人の強い視線が注がれていた。ただ視線を向けられているだけにも関わらず言い表せぬ程禍々しい何かを暁は和人の全身から感じていた。和人はストイックであったが人当たりは良く、誰にでも平等に接する優しさを持っていたが、その反面そのストイック過ぎる性格は踏み越えてはいけない線を踏み越えた者に対して容赦は無かった。中でも四男である|新名《ニーナ》との仲は良好とは言い難く、その一番大きな理由が女性関係でのトラブルだった。当時の未成年組を除けば仲間内の誰もがその事実を知っていたが、暁の絃成への気持ちと同様誰も触れようとはしない話題だった。 「最近イトナに会ったか?」  鉄で出来た鎖の軋む音が夜の公園に響く。和人が目の前に現れた瞬間から暁はこの質問をされる事を予見していた。考えてみれば当然の事で、絃成が誰かに追われていて萌歌の家にも真夜子の家にも隠れられないという事は、その理由は仲間内でのトラブルとしか考えられなかった。絃成に何があったのか、日中那月に聞こうとして忘れていた暁は目の前の和人に何と答える事が正解であるのか考えあぐねていた。  もし絃成が和人に対して何らかの禁忌を犯してしまったのだとしたら、絃成が今自分の家に居るという事実を和人に明かす訳にはいかなかった。しかし絃成が和人と直接トラブルを起こすという事も暁には考え難かった。ただそれは四年前までの暁の一方的な印象であって、この四年間暁が距離を置いている間皆の関係性にどれだけの変化があったのかは和人の表情から読み取るしか無かった。 「イトナ? シュレが解散してから会ってないなぁ。和くんたちは今も皆で会ったりしてんの?」  暁にはひとつだけ密かな特技があり、それは悟られずに平気で嘘をつけることだった。それは暁自身に嘘をつく事に対する罪悪感が無いからで、目線を右上に動かすことも無く和人へと視線を返す。 「ああ、偶にだけどな」 「そっか、みんな元気そうで良かった」  和人の前では『四年前から一度も絃成には会っていない自分』を演じながら、暁の中では既にそれが真実となっていた。そこに後ろめたさなどは微塵も存在せず一昨日までの心持ちで暁は地面を蹴ってブランコを僅かに揺らす。 「マヨもモカもお前に会いたがってる」  例え和人本人の口から真夜子の名前を出されようとも、暁の表情は表面上なにも変わらなかった。 「うーん、そうだな。今度機会があったらその時は声掛けてよ」  グループを離れようと決めたのは、SCHRÖDINGが解散したことや絃成が萌歌と付き合い始めた事だけが理由では無かった。暁にとっては様々なしがらみがあり、そのひとつには真夜子と距離を置きたいという理由も大きな割合を占めていた。  ――マヨっ、マヨやめてってば……!  ――知ってるよぉ? アキってばゲイなんでしょお?  今思い出しても悍ましい、暁にとってはただただ苦い記憶でしかなかった。  ――見てれば分かるってぇ。気付いてないのはイトナくらいなんじゃない?  暁のセクシャリティに気付いていたのは真夜子もだった。真夜子はその妖艶さに違わず、性に奔放な女性だった。同性しか恋愛対象として見られなかった暁にとって真夜子が身に纏う香水も男を誘うしなやかな身体も折れそうなほど細い腰ですら、その何もかもが受け入れ難いものだった。  ――ゲイでも勃てば挿れる位出来るでしょぉ? アキの童貞あたしが貰ってあげるー。  一方の真夜子にとってはそうでは無く、相手が生物学的に男であるならばそのセクシャリティは一切問わなかった。真夜子の奔放な性格は和人の頭を度々悩ませていた。それでも和人が真夜子の行いを容認していたのは二人が恋人関係だったことであり、和人と新名の関係が険悪になった理由も真夜子が和人から新名に乗り換えた事が起因していた。  絃成に対する捜索の手は暁の喉元まで掛かっていた。気取られないよう平静を装い着地した足で暁はブランコから降りトートバッグを肩へと掛け直す。 「じゃあ俺そろそろ――」  此処に居てはいけないと少しでも早く絃成に伝えなければならなかった。焦っているからこそゆっくりと、逃げる訳ではなくごく自然に。 「アキ」 「はい?」  和人に疑われている事には気付いていた。そうでなければこんな時間に和人が家の周辺に居る訳が無かった。絃成が一日中暁の部屋から出ようとしなかったのは、和人のようにいつ何処で誰が探し回っているか分からなかったからだ。 「お前は俺を裏切らないよな」  暁に和人の事を裏切れる筈が無かった。グループを抜けた件に関しても暁は和人に多大なる恩義がある。幾ら求めたのが真夜子からだったとしても、本来ならば和人の手で半殺しにされていても仕方のない状態だった。本意では無かったと、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら土下座して詫びた暁の事を和人は責めなかった。 「裏切らないよ。当たり前じゃん」 「――それなら良い。気を付けて帰れよ」  暁に対する扱いが新名とどうしてこうも違うのか、それは当人たちの性格の違いでしか無かった。いつも長い前髪と眼鏡で顔を隠しおどおどと辺りを伺っていた暁と、男女問わず楽しめれば良いと考える享楽主義者の新名と扱いが異なるのは当然だった。 「ありがと、またね和くん」  きっと暁が吐いた嘘は遠からぬ未来に露見してしまう事だろう。和人が絃成を探しているのならば、絃成が暁の家に匿われている事を特定されるのは時間の問題だった。それでもその瞬間を少しでも後へと伸ばし、その間に絃成を和人の手が届かない所へ逃がせたのならば――。 「ああ。――またな」  トートバッグを肩に担ぎ直し、足早に帰路へと向かう暁の背中を和人は見詰めていた。

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