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第六章 現実のイトナ
真っ暗な部屋、玄関脇の電灯に手探りで触れてもしんと静まり返った気配は今までと何も変わらない。
「――げほっ」
身も心も蹂躙され、ようやく解放された暁が自宅に戻った時、それを迎える者は誰も居なかった。考えれば暁にとってはそれが普通のはずだった。絃成と再会した――あの数日間だけがイレギュラーであり、この冷たい部屋こそが暁の日常だった。
それでも暁は心のどこかで期待をしてしまっていた。扉を開けば明かりが灯されたままの寝室、空腹を訴える絃成の声。ひとりで過ごし続けていた四年間よりも絃成の居た一瞬だけが暁の中に強烈な印象として焼き付いてしまっていた。
「イトナ、ちゃんと逃げられたかな……」
この部屋に居ないという事は、絃成は新名たちから逃げる為に西の方へと逃げてしまった後だろう。絃成が無事に逃げ切れたのならそれで良い。
新名に触れられた全身が気持ち悪くて、靴も脱がぬまま暁は玄関先で崩れ落ちる。一刻でも早く新名の香りを洗い流したくて仕方が無い。安堵したのと同時にそれまでは気を張っていた状態から一気に力が抜けて、ずきりと全身が痛み始める。新名に殴られた頬、押さえつけられた手首、見れば手首にはくっきりと指の跡が紫色に残っていた。
決別したはずの過去に、逃さないと後ろ髪を掴み引かれたような感覚。指先から塵になって消えてしまいたい。出来ることはもう全てやった。暁は絃成の情報を新名に渡さなかった。絃成が数日自分の家に居たことのみならず、既に逃亡を図っていることを。もしそこに那月の手引きがあったことを微塵にでも匂わせれば新名と那月の間に抗争が起こることは必至だった。温和な好青年に見える那月ではあったが、その実計り知れない何かの気配を暁は感じ取っていた。
今度こそは那月にも知らせずに、誰も知らない土地へと逃げてしまいたかった。自分のことを知る人間がひとりも居ない土地で、全てをリセットしてただ静かに暮らしたい。それが出来ないことを暁自身が一番良く分かっていた。
――一緒に行かねぇ?
本当は絃成の手を取って一緒に逃げ出したかった。逃亡の共犯者として自分に手を差し伸べられたことがどれ程嬉しいことであったのか恐らく絃成は理解していない。誰かがひとりでは出来ない何かをしようとした時、その相手の候補として自分の存在が真っ先に上がることは、相手の中に自分の居場所があるような感覚を覚える。あの時、間違いなく絃成の中に暁の居場所はあった。
たった数日前のことであるはずなのに、もう既に濃い霧がかった過去の出来事のようで、絃成の感触が、匂いが消えていくかのような感覚に涙が横たった暁の頬を伝う。
四年を経た絃成の姿は身長も伸び、筋肉も付いたのか体格も以前とは比べ物にならない程しっかりと大人っぽくなっていた。始めはからかっているだけだと思っていた。それが暁の知る四年前の絃成だからだった。チャラついていた高校生時代からは想像も出来なかった真剣な眼差し、簡単に振り解けない力強い腕、あの晩絃成が告げた言葉のひとつひとつが――萌歌にも同じ言葉を囁いていたのかと考えるだけで堪らなく苦しくなった。
自分にもっと勇気があったのならば。何もかもを捨てて迷わず絃成に着いて行くことが出来れば良かった。
頬に触れる指先はまるで壊れ物を扱うように優しく、耳元で何度も囁かれる自らの名前はこそばゆくもあり恥ずかしかった。薄ぼんやりとした絃成の顔が次第に鮮明さを増していき、やけにリアルな夢だと感じた暁はいつの間にか自分が仰向けの状態で寝ていることに気付いた。記憶を幾ら巡らそうとしても玄関で倒れ込んだことしか残っておらず、自らの足で寝室まで歩いた覚えも無い。
見慣れた寝室の天井と、それに重なる覗き込む絃成の顔。
「……イトナ?」
「アキ……」
神戸へと向かったはずだった絃成の姿がそこにはあった。玄関で倒れていた暁を抱え上げ寝室の万年床まで運び、意識朦朧状態の暁が目を覚ますまでずっと寄り添い続けた絃成は握りしめた指先が微かに動き、暁の瞼が薄ら開けられると嬉しそうに表情を綻ばせた。
「イ、トナ……」
その感触全てが幻だと思っていた暁は、目の前に佇む絃成の姿を見てもまだ現実のものであると実感出来ずにはいたが、意識が覚醒していくに伴いそれが夢や幻ではなく現実のものであると感じ始めていた。
暁の目が覚めると絃成は握りしめていた暁の片手を離し、まだ紫色の痣が生々しい暁の頬へと手を伸ばす。おまけに泣き腫らしたかのような目元の赤み、絃成が暁の元を離れてまだ数日しか経っていない筈にも関わらず、見るからに痛々しく覇気もないその姿は正しく絃成の知る四年前の暁そのものだった。
「誰が、こんな事……」
「……」
目に見える痣以外の外傷は無さそうだったが、絃成としても一度は身体を重ねた暁のことを心配しない訳が無く、タイミングから考えても自分を匿っていたことが端を発していると考えた絃成は片手の拳を強く握り込む。
「……ニーナ、か?」
それ以外には考えられなかった。そうで無ければ何故暁がこんなに傷付き虚ろな表情を浮かべているのか、どこから漏れたのかは分からないが新名以外には居ないと絃成は確信を持って暁に問うた。
「……イトナ、何でここにいるの……?」
しかし絃成のその問いを暁は躱し、神戸に向かった筈の絃成が何故再び自分の部屋に戻ってきたのかという疑問を口に出しながら軋む身体を布団の上から起き上がらせる。全身が悲鳴をあげそうだった、今のこんな自分を絃成には見られたく無かった暁は、肺の奥から深い溜息を吐き出した。
上半身を起こしただけでも重心が安定せずふらつく暁の身体を抱き留めた絃成はその両腕に力を込める。
「ニーナが、お前の事こんなにっ」
「イトナ」
誰が危害を加えたのかということはこの際どうでも良いことだった。暁は新名からの責苦に対し一切口を割らなかった。その行為が余計に新名の神経を逆撫でし蹂躙された結果とはなったが、暁は昔とは違うということを少しでも新名に知らしめたかった。だからこそ既に安全圏に逃げていると思っていた絃成が再び目の前に現れたことは暁にとって予想外の出来事だった。
筋肉痛のように動かし辛い軋む腕を動かし絃成の背中に両腕を回す。どうして逃げなかったのか、あの時暁は絃成に一緒には行けないと答えた。変わらず絃成を愛していたことを思い出してしまったからこそ、無事に逃げ延びて欲しかった。今再び目の前に姿を現されてしまえばあの時の決心さえも揺らいでしまう。
「……一人で、逃げようと思ったんだけど」
暁に質問の催促をされていることに気付いた絃成は、背中に感じる暁の両腕に子犬のように眉を落とす。新名が暁に気付くとは思っていなかった。事前に那月から聞いていた話では、暁がグループを離れてからは那月以外の誰とも暁は交流を持っていない筈だった。
暁を巻き込むべきではなかったと絃成は傷付いた暁を見て初めて後悔した。初めこそ文句は言えど誰にも言わずに匿ってくれて、食事の世話もしてくれようとした。暁ならば断らないだろうという自信が絃成にはあった。だからこそ暁を巻き込んでしまったことを誰よりも後悔しているのは絃成自身だった。
「アキ兄の事忘れらんなくて……」
那月から神戸の知り合いを紹介して貰った時、振り返らず真っ先に向かえば良かった。何故最後に暁へ会いに行こうと思ってしまったのか。何故逃亡に暁を誘ったのか、何故一度は足を向けかけた矢先再びこの部屋へと戻ってきてしまったのか。同じ所に留まっている方がリスクは高まる。暁の決意を聞いた時こそ振り返らずに離れてしまえば良かった。――それでも、今は戻ってきて良かったと感じていた。
抱き締める腕を緩め、絃成は覗き込むようにして暁へ唇を重ねる。
「思ってたより俺アキの事好きみたいなんだけど」
「イト、ナ」
いつからなのか、四年前からその感情を持っていたのか、そんなことは幾ら考えても絃成には分からなかった。大事なのはこの瞬間確かに暁の側を離れたくないという感情が占めているという結果で、その感情は今まで萌歌のみならず誰にも抱いたことのないものだった。
「――俺、知ってた。アキとニーナがそういう関係だったこと」
絃成の一言にぴくりと暁の背中が揺れる。
それはもうずっと昔のことのようにも感じられた。当時高校生だった絃成は年上の彼女、萌歌と初めて付き合ったことで有頂天だった。丁度それと同じころ心なしか暁から避けられているような雰囲気も感じていた。しかしそれは絃成と萌歌の邪魔をしないようにと周りの皆が気を使っているだけだという那月の言葉を鵜呑みにしていた。それでもどうしても納得がいかずに真夜子にも同じことを聞いてみた事があった。
真夜子は妙に気味の悪い笑顔を浮かべながら絃成に教えた。――次のSCHRÖDINGライブ遠征でホテルに皆で泊まる時、寝た振りをして深夜まで起きてみろ――と。何故寝た振りをしなければならないのか疑問に思った絃成だったが、その理由はすぐに分かった。
「……脅されて、たんだよ」
新名との行為はどれも苦痛が伴った。肉体的な苦痛よりも精神的な苦痛の方が上回り、時には宿泊費を浮かせる為に皆で共に泊まったホテルの一室であっても。今思えば絃成が萌歌と付き合い始めた時点でグループを離れてしまえば良かった。それをしなかったのは絃成がグループに居たからだった。望みなんて無いと分かっていたのに、それでも少しでも絃成の近くに居たかった。
「何で?」
「……」
呟く暁の言葉に問い返すと、暁は途端に閉口する。何を弱みに握られていたのか、暁と新名の関係が合意の上で無いものだったとするならば、そこにどんな理由があったのか絃成は知りたくて堪らなかった。あの時何を考えていたのか、何を感じていたのか、それがどんなに辛いことであったとしても、全てを共有して欲しくなった絃成は再び暁の身体を自分の方へと抱き寄せる。
「アキ」
暁の頭が前方に倒れ、絃成の肩に額を当てる。ぼそぼそと話すのは昔から暁の癖だったが、二人しか居ない静かなこの部屋の中でならば聞き取れない声量でも無かった。
「……イトナの事、好きだったの、ろっくんにバレて」
――イトナには黙っててやるから、良いだろ? な?
そういう事か、と絃成はようやく合点がいった気がした。別にバラしてくれても一向に構いはしなかった。しかし当時の自分だったなら今と同じような対応が出来ていたかは絃成には分からなかった。もしかしたら当時の自分ならば暁が傷付くようなことを言ってしまったかもしれない。そうだとしてもそれが原因で暁が望まぬ関係を新名に強いられていたとしたら――やはり、新名を刺して正解だったと絃成は感じた。
過去は何ひとつ変えられない。絃成が萌歌と付き合っていたことも、暁が新名に身体の関係を強要されていたことも。
「ニーナの事、そういう風に呼ぶな……妬けるから」
驚いた暁が顔を上げて絃成を見遣ると、子供のように唇を尖らせ不貞腐れた横顔がそこにはあった。その表情には暁も目を丸くし、嫉妬という感情を自分に対して持ち合わせているという事実が暁の心を熱く高鳴らせた。同時に耳まで熱くなっていくような感覚があり、二人の視線が絡み合うと絃成はそのまま暁を布団の上へと押し倒した。
全身が心臓になってしまったように耳に届くのは大きな鼓動と互いの呼吸のみで、絃成は組み敷いた暁を見下ろし、赤く染まる顔へ吸い寄せられるように顔を近付け何度も、何度も口付けを交わした。どちらからともはっきりしないまま絡ませた指先同士は固く結び合い、唾液の銀糸を伝わせ唇を離した絃成はそのまま唇が触れ合う距離で暁へと視線を送る。
「ニーナが触ったとこ、全部俺で上書きしたいんだけど……ダメ?」
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