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序章 恋人の振り
周囲が闇に落ちた二十二時、綺羅びやかな繁華街の並びにそのバーはひっそりと立ち並んでいた。連日の超過労働も役職故に手当ては無く、たったひとりの部下の尻拭いをこの時間まで片付けていた喬久は、待ち合わせ時刻が遅くなろうが構わず忙しい相手と久し振りに会う現実に対して心躍らせていた。
喬久が主任に昇格したのは五年前の話だが、その後上司の退職や組織改編が幾度も繰り返され、今は部長不在の状態でありながら部長職のようなものもほぼ兼任していた。肩書きに合わぬ仕事量は進行状況の管理が主で、自らの業務に手を付ける事もままならない。ぐったりと重い影を背中に背負いながらバーの扉を開けた喬久に対して薄暗い間接照明の明かりは優しかった。
少し前に相手からは予定時刻を過ぎるという連絡を受けており、先に到着した喬久は空いているカウンター席に腰を下ろし酒を頼むのは相手が来てからという独自のルールを守り、待つ間には注文したミックスナッツの盛り合わせを指先で口に運びながら、球状の氷を透明な液体の中で転がしていた。
最後に会ったのはもう何年前の事だろうか、相手が退職をしてから少なくとも四年以上は顔を合わせていない。さほど広くはない店内で待ち合わせをする事は難しくなく、予めカウンターに座っていると伝えてある事から喬久はただ遅れて来る相手の到着を待っているだけで良かった。相手により飲みに行く店は変わり、これが気心の知れた相手ならばもう少し賑わいのある安酒場でも十分だっただろう。相手が酒を嗜まない相手ならば少し高級な喫茶店など、その相手に合った待ち合わせ場所は多岐に渡る。
カランと扉上部に設置された入店の合図に喬久は入り口を僅かに振り返る。音が鳴れば誰かが入店したのだろうと振り返ってしまうのは習性のようなものであって、既に相手が到着している状態であるのならば視線を向ける事は無かっただろう。
硬質の靴底が凛としてバーの床板を打つ。喉元まで隠れるオフホワイトのハイネックに紺色のジャケットを羽織り、一見ラフな格好をしたその男性は店内を一視してからカウンター席に腰を下ろし僅かに振り向きを見せる喬久の元へ躊躇わずに足を勧める。
「三田さん」
肩につく程の髪は緩く波打ち、日々の忙しさ故に床屋へ行く時間の余裕も無いのかと考えられたが、その張りやツヤは衰える事なく喬久が声を安心したように微笑んだその顔には無精髭なども見受けられず、若々しいその肌に形の良い唇が弧を描く。
「遅くなって悪いな喬久」
「いえ、お疲れ様です」
ジャケットを脱ぎながら蒼は喬久の隣へと腰を下ろす。店を指定したのは蒼であり、元から常連客であった蒼はバーテンダーに「いつもの」と告げるとジャケットから取り出した煙草とジッポをカウンターの上へと置く。
喬久が自分の手元へと置いていたガラス製の灰皿を蒼の前へと滑らせるとその中には数本の吸い殻があった。蒼はまず口へ咥えた煙草に火を付け肺まで循環させた煙を細く吐き出す。煙草を挟むその指先は爪まで丁寧に磨かれ整えられており、身嗜みに気を遣っているのは相変わらずであると当時から余裕のあるこの元上司の姿に目を細めた。
「何頼んだ?」
蒼は喬久が手にするグラスへと視線を傾けるが、球状の氷と同様にその液体の色は透明でそれが単なる水である事を蒼へ知らしめた。二十代前半ならばいざ知らず、責任ある立場であるならば尚更翌日の事も考えず酒を飲む訳にもいかず、どうせ飲むならば哀しいひとり酒よりは誰かと交わす方がずっとマシだった。
「まだ摘まみだけですよ。三田さん何か食べます?」
少し前に蒼がバーテンダーへ注文を済ませていた事を確認していた喬久は、手元に敷かれたメニューを指先で渡すと同時に自らも何を頼もうかとアルコールメニューへと視線を向けていた。このように雰囲気のあるバーならば大衆居酒屋で飲むビールよりは少しお洒落なものを嗜んでみたい、そうはいっても列挙されているカクテルの名前を全て把握している訳ではない喬久はカクテル名の下に書き添えられているベース名称へ目を走らせる。
「ここはね、ワインが旨いよ」
言われてみればワインの名称も多く並び、ボトルでこそ頼めば値は張るがグラスとして頼むならばそれ程懐は痛まない。
「そうなんですか? じゃあ俺もワインにしようかな」
蒼はいつでもこの様に少し先の道を喬久へと示してくれる。それは喬久にとってまるで兄のようでもあった。
「あれ、三田さん指輪……」
ワイングラスを傾け、血のように赤い液体を揺らす蒼の左手薬指に結婚指輪が無い事を喬久は気づいた。蒼が結婚したのは約二年前の事で蒼の退職後の事ではあったが、喬久にも披露宴の招待状は届いた。奇しくもその頃喬久も組織編成の弊害から天手古舞でデスマーチの真っ只中だった為列席する事は叶わなかった。
「ああこれ?」
個人の感覚で結婚指輪を指に嵌め続けない人も確かにいるだろう。しかし蒼の薬指に残る跡は確かに長くその場所に指輪を嵌め続けていた証拠でもあった。加齢による体重の増加で指輪が嵌められなくなる事も確かにあるだろうが、四年前と比べて蒼の体型が肥大したようにも見られない。ほっそりと手入れの行き届いた指先は喬久の記憶の中にあるそれとそう変わらず、だからこそそこにあった筈の指輪の跡だけが鮮明だった。
口に出した後で喬久はまずい事を言ってしまったかもしれないと閉口した。指輪を外す理由にはそれぞれ意味がある。例えば不倫などをする場合――喬久は三十歳手前という年齢でありながら独り身が長く、潔癖な部分が強くあった。家庭のある身でありながらそれ以外の相手へと意識を向け、その人物と会う時は妻帯者である事を意識させぬようその証である指輪を外す。蒼は喬久にとって元ではあるが尊敬出来る上司であり、とてもそんな事をするような人間には思えなかったが、その可能性が頭を過ってしまった事に喬久は手の中のグラスを強く指先で握り締めた。
「――離婚したんだ。半月前だけど」
「それは、また……」
蒼の口から告げられた真実は喬久にとっては予想外の言葉だった。不倫以外にも指輪を外す理由はあり、それが蒼の告げた通り婚姻関係の終焉である事も間違いはないが、たった二年間で婚姻関係が継続出来なくなる程蒼が無責任な人間であるとは喬久は考えられなかった。
蒼は退社後自ら会社を立ち上げ現在はCEOという立場にある。その忙しさも喬久には考えられない程のものであっただろうが、蒼が入籍したのは会社を立ち上げた後だった。多忙過ぎたすれ違いという事も無さそうで、第一蒼が女性に対して非常にマメである事を元部下である喬久は一番良く知っていた。
「それがさあ、原因何だと思う?」
ワイングラスを置き喬久に指摘された左指を翳しながら蒼はその空席となった場所を見詰める。その表情にはそこはかとなく悲哀が混ざり何かがあっての離婚だという事は喬久にも容易に想像がついた。
「性格の不一致、とかいうやつですか?」
どんなに蒼が仕事と両立し真摯に向き合ってきたとしても根本的な性格の部分で齟齬が生じてしまったのならば共に居続ける事は叶わない。結婚とは紙切れ一枚の契約に過ぎなく所詮は他人同士、特定の恋人すら今まで作ってこなかった喬久からすれば良く二年も持ったものだと感心せざるを得なかった。
「ハズレ。原因はストーカー」
「え、奥さんにですか?」
蒼は爪楊枝でオリーブの実を口へと運ぶ。喬久は口に含んだ赤ワインを喉の奥へと流し込みつつ聞こえた言葉を三度は疑った。そういう事はテレビの中の出来事だけで自分とは無関係の事だと思っていた。幸いにも喬久には学生時代から今におけるまで周囲でストーカー被害に遭ったという人物は居なかった。何も波風無く人生は進み、この先何事も起こらずただ過ぎ去っていくだけだろうと考えていた喬久にとって、元上司の妻に対するストーカー被害というのは初めて身近な人に起こった事件だった。
「違う違う、俺のストーカーに彼女が堪えられなくなったの」
何か勘違いしていると気付いた蒼は爪楊枝を皿の中のオリーブへと刺してからへらりと笑う。蒼ももし自分の妻がストーカー被害に遭ったのならば何としてでも彼女を守るつもりではあった。しかしいみじくもストーカー被害は蒼自身の身に起こってしまい、繊細だった妻がそれに耐えられる筈も無かった。彼女を守る為には離婚して距離を置く事しか手段は無く、蒼としても愛した妻と離れる事は断腸の思いであった。
「三田さん、モテますからねえ」
女性に対して真摯に接する蒼はそれ故相手に勘違いされる事も多い。喬久は部下である時から何度もそういった光景を見てきていた。それでも蒼は女性の扱いにも長けていて、勘違いさせてしまった女性にすら真摯に対応し続けていた。蒼がストーカー被害に遭ったという事は、その相手はそうまでしても諦めてくれなかったという事なのだろう。元上司とはいえど女難の運命に見舞われてそうな蒼には喬久も大分慣れているもので、少なくともそれが自分に降り掛からなくて良かったと考えるばかりだった。
「もう三年、四年――くらいでしたよね。三田さんがウチ辞めてから」
「独立して結婚してから四年だからまあその位だな」
喬久が知る蒼の女性遍歴は蒼が喬久の上司であった期間までに留まり、連絡を取っていなかった数年間の内にどれ程の事があったのだろうかという事は想像に難くない。それでも蒼の事だからきっと巧くいなしていたのだろうと考えていた喬久は指先でオリーブの実を摘んで口へ運ぶ。
からり、と誰かの氷が酒に溶ける音が聞こえる。
「――喬久は、どうなんだ?」
「何がです?」
蒼が久々に喬久へ連絡を取ってきたのは離婚後半月経過して身辺も落ち着いてきた頃だった。元々喬久に離婚原因を愚痴る為に呼び出した訳では無く、離婚したったひとりになった後不意に物悲しさから元部下である喬久の顔が過ったからだった。
自らの恥部を曝け出し、これでもし喬久が披露宴に参列していたならば合わせる顔すら無かっただろう。喬久からは後日ご祝儀が送られてきていたが、それが二年で破綻するとは蒼でさえ夢にも考えては居なかった。
「恋人。結婚考えてる相手とか居ないの?」
思えば喬久とは当時何度も仕事帰りの飲みに付き合わせた事はあったが、話題に出るのはいつも自分の女性遍歴ばかりで、喬久自身の恋愛遍歴を聞いた事は無かった。蒼が元居た職場は多少特殊で、この時代でありながらパワハラやセクハラが日常的に横行していた。それが退職したいと考えた一因でもあったが、だからこそ直属の部下である喬久のプライベートな話までは足を踏み入れて聞く事は出来なかった。
今はもう会社は関係無く、友人関係としてならば聞いても問題は無いだろうと考えた蒼は喬久が部下になって初めて会ってから六年、一度も聞けなかった事をこの場で聞いてみようと思った。
「ああ俺ですか。全然、居ないですよ。今も昔も恋人なんて」
その言葉は蒼にとっても予想外だった。しかし実際長年の付き合いを振り返ってみても、喬久に女の気配があった事は無かった。プライベートな事であるからこそ上司である蒼との飲みでは敢えて口に出さなかったのではないかと考えていた蒼だったが、同時に別の疑問が湧き上がってくる。
「え、まさかその歳で童貞……?」
「いやいやそれは」
蒼の問いは至極全うなものだった。三十歳手前で恋人が一度もいなかったと告げればそういった考えになっても仕方の無い事だろう。言葉の選択を間違えてしまったと喬久はもう幾分も残っていないグラスに唇を付けたまま固まった。
今もこうしてプライベートで連絡を取る事の出来る間柄ではあるが、もう上司と部下という関係ではない。蒼が今も他に自分と同じ職場の誰と繋がっているかは分からないが、蒼の元からの性格上そういった相手が居るならば自分が呼び出される事は無く、もし居たとしても蒼はそう口が軽い人間では無いと喬久は知っていた。
言うべきか、言わぬべきか、誤魔化すべきかと喬久は悩んだ。小指を添えてグラスを置き、その縁を指先でなぞりながら喬久は視線を蒼から正面へと移す。
「友達……まあ男なんですけど、抱いた事はあるんで童貞じゃあないっすね」
喬久が初めて男を抱いたのは二年程前の事で、時期としては蒼の結婚時期と重なる。仕事が忙しく休日もままならず、初めて男性専門のデリヘルを使ったのが切っ掛けだった。客とキャストという関係で出会った相手だったが利用を繰り返す内に親しくなり、相手とは今ではプライベートでも幾らか交流がある。友達と呼んで差し支え無い存在ではあったが、いくら酒を嗜んでいるからとはいえ性別までは要らぬ情報だったかもしれないと喬久は再び後悔した。
「喬久お前、ソッチ系なの?」
ともなれば蒼からそういった疑問が出るのも当然で、喬久は腹を括る事に決めた。軽蔑される可能性も十分あった。喬久自身は不倫を毛嫌いしているのにも関わらず、当の自分が同性相手にしか劣情を抱けないと知られれば幾ら寛容な世の中になっていたとしても差別は逃れられない。そうなれば詰みであるのだが、不思議と蒼にならば話しても自分を卑下する事はないと喬久は感じていた。ゆっくりと喬久は蒼へと視線を戻し、これでお互い様と言うように緩く困ったような笑みを浮かべる。
「違いますよ。――ただ、誰かを好きになるってのが分かんなくて。その点同性相手なら色々楽だなって」
それは偽りの無い真実だった。誰かを好きになるという感覚が喬久には分からなかった。好意を寄せた存在が居なかったという訳でも無い。しかしそれは遥か遠くの思い出であり、それが叶わぬ事であると分かった時喬久は誰かに好意を持つ事の虚しさを知った。だからといってその感情を否定する訳では無い。ただ喬久には理解が不能というだけで、蒼のように愛し合って結婚をしたとしても崩れ落ちるものであるという事が余計にその思いを後押しした。
「――なあ、喬久」
「何です?」
蒼はカウンターに頬杖を付いたまま喬久を見ていた。いつでも身嗜みには気を遣い、酒にも呑まれず、だらしない姿を見せる事が無い蒼にしてはその姿は新鮮過ぎた。だからといって喬久の中にある蒼への尊敬が失われる訳でもなく、返って心を許されているような気もして喬久の口元に思わず笑みが浮かんだ。
「俺のストーカー、実は離婚してもまだ居るみたいでさ」
離婚しても執着するストーカーというものは厄介であるというよりは、蒼が離婚をしてしまったからこそ自分にも可能性があるのかもしれないと思ってしまうものなのかもしれない。それでは離婚をしなかった方がマシであるとも考えられるが、妻の安全を第一に考えた蒼としてはそれ以外の手段は存在しなかった。
喬久は向けられる蒼の視線に異質なものを感じていた。悪酔いでもしているのか、頬は仄かに赤く染まり瞳が揺れ僅かに色気すら感じる。そう考えていた喬久の手は自然とオリーブへと伸ばされていた。なるべく張りのあるものをひとつ手に取り指先で軽く転がしてその弾力を確かめる。その喬久の手の上から蒼の手が重なる。
「相手が男なら諦めると思うんだけど」
蒼の言動の意味を喬久はすぐに理解する事が出来た。それでも喬久の指先が震えてしまったのは蒼の言葉の意図をが喬久にとって衝撃的過ぎたからだった。震えた指先からオリーブが器へ落ちる。
「喬久、俺の恋人の振りしてくんない?」
同性相手に劣情を抱けるという情報が蒼にこの決断をさせたのか、元々そのつもりで呼出したのか、喬久にははかりかねていた。それを幸いと表現してしまって良いのか、件の通り喬久に恋人は居ない。友人関係に発展した相手ともやる事はやっているがそれは最早セフレのような関係に近いものだった。
「――振り、で良いなら」
この時の蒼の申し出を喬久は何故か不快だと思う事が出来なかった。そして喬久は蒼のストーカー被害への対策としてこの日から蒼の偽りの恋人を演じる事となった。
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