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第一章 蓄積ダメージ

「南ィ! お前何だこれは!!」  カーテンの隙間から木漏れ日も注ぐ気持ちの良い日中、静寂に包まれたオフィスを劈く怒声に誰もが息を呑む。それはもうお家芸のようなものであり一度訓告を受け降格されたのにも関わらずその荒れ狂った気質はパワハラに抵触する怒声を改めようとする事も無く、その矛先は部署の異なる喬久へと向けられた。 「ッ、はい、山城さんっ」  その怒声と荒々しい足音は部を越えけたたましい音を響かせ第三開発部の扉を開く。室内に居たメンバーはげんなりと両肩を落としていたが、一番の救いである事はその矛先が他の誰でもなく主任である喬久にのみ向けられている事だった。  第一開発部の山城は三年前に重大なパワハラ事件を起こしており、それに伴い部長から主任へと降格された。立場としては喬久と同じなのだが、社歴や一度部長職を経験しているという立場は今でも権威を振る舞っている。山城の怒声にも気付かぬ程パソコン画面の数値と手元の資料と睨み合っていた喬久だったが、扉が開く大きな音に椅子からずり落ちそうになる程驚き体勢を整えながら立ち上がる。  面倒臭い奴がやってきた、と内心喬久は思った。山城のパワハラ恫喝は社内でも有名で、ひとりの有望な社員を病院送りにしたという事実は今でも畏怖の対象となっている。怒鳴らなければ喋る事も出来ないのかと辟易しつつもそんな事はおくびにも出さず、獲物を前にした獣のように肩で息をする山城の怒りを受け止める為喬久は山城の前に立つ。  途端に山城は手にした硬質ファイルで喬久の側頭部を打ち付ける。ファイリングされていたであろう資料はその衝撃で飛び散り、黙って様子を伺っていた一部の社員からも悲鳴に似た声が上がった。 「添付資料に社外秘のモンが混ざってるじゃねぇか!」 「っえ」  喬久は足元へ落ちたファイルへと視線を向ける。山城が手にしていた資料は確かに社外用に作られた資料であり、まだ内部のみで共有している情報は含まれるべきでないものだった。散る資料の中に確かに認めた「社外秘」の透かし文字に喬久は目を丸くし息を呑み、咄嗟に屈み込んでその資料を拾い上げる。 「どうしてくれんだお前!」  確かにその資料は喬久の部署で制作されたもので、完成されたものは喬久も目を通した筈だった。責められるべきは確認を怠った自身であり胃に黒くて重い物を感じながらも喬久は慌てて飛び散った資料を拾い集める。  パワハラは以ての外だったが、喬久は山城の気持ちが分からなくもなかった。山城が当時第一開発部の部長であった時有望な新人である榊を執拗に追い詰めたという話は記憶に新しいが、榊を引き取ったのは他でもない山城の同期である四條だった。四條は榊を引き取ると同時に有望な人材を集めた分室を作る事に成功しており、その中には支社で酷い虐めを受けていた人物も含まれていると風の噂で聞いた事がある。優秀な人材を潰さず、活かす為に作られたその分室は成功を博し、同時に四條の評価は上がった。これに対して降格された山城が面白く無いのは当然であり、ただでさえ最近四條が開発本部長になるという話が上がっている事から気が立っているのは当然の事だった。  だからと言ってパワハラを容認するつもりは無く、それがもし理不尽な内容であるのならば聞き入れるつもりは無かったが、今回の件に関しては明らかに自身の部署に責任があると理解している喬久は青褪めた。 「すいませんすぐ確認……っあ」  喬久は拾い集めたその資料のひとつに目を留める。確かに部署で作られた筈のものであったが、喬久はその資料の完成品を見た覚えが無かった。完成したものは一度主任である喬久が目を通す事が慣例となっており、喬久の知る限りその手順を飛ばすような真似をする人物はひとりしか居なかった。 「八雲……」  資料の製作者として印字された名前を目にした瞬間喬久の額に青筋が浮かぶ。八雲諒一、その男は去年第三開発部に新卒で入った新人であり、何度説明しても仕事の手順を自分勝手に簡略しついには教育係ですら匙を投げた。仕方なく喬久が直下に置きその一挙手一投足を監視していたが、それでも勤務態度が改善される事は無かった。この八雲の存在が喬久に必要以上の超過労働を強いていた元凶である事は誰の目から見ても明らかだった。 「オイ、八雲は!?」  少なくとも八雲が手順通りに仕事を進めていれば山城に怒鳴り込まれるような羽目にはならず、今度こそは泣いても仕事のイロハを教え込むと息巻いた喬久は片手に資料を握り潰しながら室内を見渡し、何処かに隠れているであろう八雲に声を掛ける。 「昼飯食いに行きましたー」 「アイツ……」  そう答えたのは八雲と同期入社である平町で、同じく同期入社である隣の席の駒場と視線を交わし八雲が逃げるのはいつもの事だと肩を震わせ込み上がる笑いを堪えた。二人は決して喬久を虚仮にしている訳ではなく、八雲という人間はその位どうしようもない人間である事が分かっている事から起こる嘲笑だった。なんだかんだ全て喬久が尻拭いをしてしまっているから、八雲がいつまで経っても仕事を覚えようとしない。それは喬久の責任でもあった。 「す、いません山城さん、すぐに資料の撤去と念の為アクセス履歴調べますんで……」  八雲への追及よりも目の前の山城を何とかする事が先だと判断した喬久は極めて平静を偽り、震える両手で資料を握り締めながら今にも噴火しそうな山城へ向き直る。山城としても喬久の部署で何か問題が起こったのならばその犯人が八雲である事は熟知しており、何年経とうが部下ひとりも御せない喬久に対して盛大な溜息を吐いて眉間を抑える。 「南よォ、お前の教育がなってねぇんじゃねぇか?」  教育ならば間違いなくやっているし、その証拠に駒場と平町の二人は確実に戦力として働いてくれている。八雲だけ特に教え方に手を抜いたという事も無く、仕事を覚えようとしない八雲自身に問題がある事は分かっていながら、平等に接しなければならないところが喬久にとって辛いものだった。  今はこの場をやり過ごす事しか頭に無く、心の中では怒声だけで話そうとする山城の鳩尾に膝の一撃を入れたり、仕事を覚えようとしない八雲の尻にハイキックを入れる妄想をしながら深々と目の前で熱り立つ山城に頭を下げる。 「大変申し訳ございません。八雲には俺から注意しておきますんで」  このような日常が週に何度も繰り返され、喬久の胃と体調は限界に近付いていた。  喫煙所の扉を開くと、ひと際淀んだ気を放つ姿を確認し千景は思わず足を踏み入れる事を躊躇った。しかしすぐにそれが自分の見知った存在であると分かると彼に蓄積されたダメージの理由が分かるからこそ逃げずに声を掛けようと考える事が出来た。 「南、大丈夫か?」 「佐野」  千景はつい最近三年程住んでいた家から引っ越したばかりであり、手続き等で慌ただしく過ごしていたが、それでも社内の空気が見えない訳でも無かった。千景が声を掛けるとげんなりとした表情を浮かべた喬久が顔を上げ、千景も思わずそれに釣られて眉を落とす。 「山城さんの声、こっちまで聞こえてきてた」  誰であっても山城の怒声を直接浴びせられれば生気を抜かれる。気の弱い者ほどその影響は大きいが、千景が知る限り喬久はそれ程メンタルが弱い人間でも無かった。何事にも動じないという印象が強く、社内では数少ない山城に向かって食って掛かる稀有な存在だった。こと今の喬久の現状から考えるのならば、山城の恫喝は喬久自身に対するものではなく、喬久が主任として庇おうとする同じ部署内の誰かなのだろうと考えると同情を禁じえなかった。 「それでも前よりはずっとマシになった方でしょ」  それは喬久が山城と直接交渉をした結果だった。それは何度言い聞かせても一向に八雲の勤務態度が改善されなかった頃、当然のように山城より浴びせられる怒声から八雲だけではなく部署全員を守らなければならないと考え実行した苦肉の策だった。今後自分の部署のメンバーが何か失態を犯したならば、直接当人では無く自分に言って欲しい。千景はその喬久の考えを立派だとしか思えなかったが、その結果として喬久がこうして一番のダメージを負っているのならば、やはり本人を叱るべきではないかとも感じていた。  パワハラは確かに良い物では無いが、喬久がそうやって八雲を甘やかす事で改善が見られないのであるのならば、直接恫喝に晒される事の方が本人の為になる事もある。飴と鞭で動く人間が居るとするならば、分室に保護された人材達は間違いなく飴で、同じ手では八雲は動かない。四條が分室を作ってから業績は見るからに上がっており、四條が分室メンバーに与えた特権は上手い具合に作用していた。  喬久は今でも榊を山城から守れなかった事を後悔しており、例え自分が泥を被っても自分の部下だけは同じ目に合わせたくないという強い気持ちから決めた喬久の決意を生半可な言葉で覆す事は出来ない。千景に役職は無かったが、もし自分が喬久と同じ立場に居たならきっと同じ事をしただろうと深い溜息を紫煙と共に吐き出した千景は、今の自分に出来る事としてスーツの胸ポケットから取り出した錠剤を数個喬久へ差し出した。 「ほい」 「なに?」  千景は三年前に転職して来た人物で、転職前の職場は今とは比べ物にならない程ブラックだった。今こそ頻度は少ないが、何度も胃を傷め睡眠導入剤が無ければ眠りに就けない事も多くあった。千景が取り出したのはその名残りで、常に持ち歩いてはいるが使用期限としてはぎりぎりのものだった。 「胃薬。酒と一緒に飲むなよ。ああ後カフェインも」 「ありがと」  胃薬はその成分にもよるがアルコールやカフェインとの飲み合わせが悪いものも多くある。身を以てその効果を知っていた千景は喬久ならば心配は無いと考えながらも念の為に注意事項を伝えた。何度か仕事後飲みに行った事のある間柄の二人だったがここまで心身ともに参っている喬久を見るのは千景も初めてだった。四條の昇進に伴う山城の苛立ちは千景も感じており、だからといって喬久がその全ての責を負うのは不平等過ぎると考える千景は何か打てる策は無いかと考える。  そんな時喬久の胸ポケットで着信を告げる振動が起こり、それがメッセージであると分かった喬久は吸いかけの煙草を口に咥えたまま指先を取り出したスマートフォンの画面へ滑らせる。 「――ん?」  先程まで暗い表情を浮かべていた喬久の眉が僅かに上がった事を千景は見逃さなかった。それはきっと喬久にとって嬉しい報せであり、少しでも喬久の心がポジティブな方面へと向かうなら願ったりであるとして、千景は僅かに首を傾けながら画面に釘付け状態の喬久へからかうように声を投げ掛ける。 「なに、山城さんの異動辞令?」 「いや、そうじゃないけど。友達からメッセ」  そうだったならばどれ程良かった事か、残念ながらメッセージの内容はパワハラ上司の人事連絡では無かったが、喬久にとってはそれと同等程度の嬉しい報せであった。 「なあに楽しいお誘い?」  山城の人事連絡に触れたのは冗談ではあったが、表情に隠し切れない程の楽しそうなオーラが喬久から滲み出ている事は明らかだった。推測する限り相手は喬久にとってそれ程大切な相手であり、胃痛を忘れる程の報せであるのならば千景にとっても喜ばしい事だった。 「うん、今夜飲もうだって」  それは幼馴染みであり親友である和己からの飲み会の誘いであり、妻子ある身の和己とは中々都合の合わない事が多かったが、こうして偶に飲みへと誘ってくれる時は大抵喬久が仕事で心身共に疲れている時だった。幼稚園から大学まで共に過ごしていた所為かまるで以心伝心のように和己は喬久の意を汲み取り、喬久にとっての和己は唯一気心の知れた気の休まる相手だった。その信頼は蒼以上と言っても過言では無く、お洒落なバーではなく安居酒屋で何時間共に居たところで苦になる事は一度も無かった。 「良かったじゃん。酒飲んで嫌な事なんか忘れちゃえよ」 「そうする」  飲み過ぎない限り、酒は多幸感を煽る事もある。喬久が悪酔いする程無茶な飲み方をしているところを千景は今まで一度も見た事が無く、社内の人間相手には話し辛い事も友達相手ならば気兼ねなく話せることだろう。何にせよ喬久にもその様な相手が居た事は千景にとっては安心の出来る事だった。  その日は仕事を早めに切り上げ、のらりくらりと言い訳を繰り返す八雲を一蹴した後喬久は上機嫌のまま和己と待ち合わせをしている駅前の居酒屋へと赴いた。和己が今の妻と入籍したのは大学を卒業した間もなくで、その頃はまだ今程仕事も立て込んでいなかった喬久は披露宴に列席し友人代表としてのスピーチもしたものだった。今でも昨日のように思い出せるあの瞬間、考えれば人生の半分以上を和己と過ごしてきた気がする。和己が結婚をした事で会う頻度は随分減ってしまったものだが、それでもこうして定期的に会っている限り交友関係は良好なままだった。  蒼との待ち合わせとは異なり、結婚後自営業の職に就いていた和己は比較的時間の自由がきき、喬久が到着するよりも早く店で待っていた。馴染みの木扉を開け紐暖簾を潜ると騒がしさの中にも暖かな空間が広がっていた。 「喬久、こっちこっち」  喧騒の中和己の声だけがしっかりと喬久の耳へ届く。店内を見回す暇もなく声に視線を向ければ向き合った二人がけのテーブルの一方に腰を下ろし喬久へ軽く手を挙げる和己の姿が見えた。頻繁に顔を合わせているからこそ大きな変化こそ感じられないが、緩くワックスで固めた髪は漆黒の如く黒く、数ヶ月前に会った時と変わる事のない柔らかな笑みを浮かべる和己は小さなグラスに注いだビールを傍らに炙りイカを口にしていた。 「ごめん、遅くなった?」 「俺も今来たとこー」  なるべく定時で終わるように片付けたつもりの喬久だったが、就業時間を自由に決められる和己の方が早めに到着しているのは当然だった。喬久は今まで和己との待ち合わせで待たされた事が一度も無かった。脱いだ背広を椅子の背凭れに掛け、ネクタイを緩めながらメニュー表に目を通す喬久のグラスに和己はビール瓶を傾ける。 「ビールで良かった?」 「うん、良いよ」  ある程度の酒の摘みは既に和己が頼んでおり何皿かテーブルに並んでいる。勿論喬久が酒のお供として欠かせないたこわさもあった。気心が知れ過ぎていて、初めに何を飲むか、摘みは何を好むか等という事はお互いに熟知し過ぎていた。それでも到着は毎回和己の方が早いので、いつもこの様に和己が喬久の為に用意してくれている事が多かった。 「ほんっとあのヤローはっ!」  何杯目かのアルコール注文にハイボールを選んだ喬久は、まだ多くの内容量が残るジョッキを豪快に木のテーブルへと叩き付けた。幸いな事にその音は店内の喧騒に呑まれ、誰ひとり気に留める事は無く、和己自身もいつもの事であると大して気にする素振りもなく嬉しそうな笑みを浮かべたまま頬杖をついていた。  酒の肴は喬久の愚痴で、こういう場所でも作らない限り喬久は自らのストレスを吐き出す事は無い。喬久が就職をしてからもこうして何度も飲む機会は設けているが、五年前主任という立番に昇進してから喬久の愚痴は多くなってきたような気がした。家でひとり酒をしながら愚痴を吐き出すよりは聞いてくれる誰かが居るだけでもその負担度合いは大きく異なる。だからこそこうして和己は定期的に喬久を連れ出す事にしており、それで喬久がまた明日から潰れずに頑張れるのならば和己にとっては願ったりだった。 「まだ初歩的なミスするし、俺の話聞いてるのか聞いてねぇのかも分かんねぇし」 「大変だねえ中間管理職は」  喬久がテーブルを叩いた瞬間、テーブルの上から箸が転がり落ちる。和己は手を挙げて店員に新しい箸を頼みながら、最近の喬久のストレスの元凶である八雲という人物に対して余り良い印象を抱いていなかった。どうも話を聞く限り八雲は敢えて喬久に被害が及ぶような行動をしているようにしか思えない。社会人たるもの少しでも早く貢献出来るよう努めるものでは無いだろうかと考える和己だったが、勤め人である喬久の心境は喬久にしか分からないものがあるのだろうとただ愚痴を聞く事だけに徹していた。 「ぜーんぜん、まだ下っ端だよ」  主任という立場上、何人かの部下を纏める立場にいる事は間違いないが、かといって社の方針に口を出せる程の権限がある訳ではない。主任の上には本来部長という立場があるものだが、喬久の第三開発部は多少特殊で部長であった蒼の退職後、特に別部署から部長を任命された者が来る訳でも無く喬久は事実上部長職を兼任しているようなものだった。加えて蒼の退職後間もなく山城がパワハラ恫喝事件を起こし部長から主任に降格されたことで第一開発部、第三開発部は揃って部長が存在していない状態となっていた。他所から部長が来る代わりに第一と第三を纏めていたのが当時第二開発部の部長であった四條だった。その四條も分室が出来てからは分室長を兼任しており、そんな四條の補佐をしていたのが中途採用で入ってきた千景だった。 「なーにが『南くんなら上手く出来る』だよ」  千景は直属の上司である四條を慕っているようだが、喬久から見れば四條も山城とそう変わらなかった。ただ山城のようなあからさまな恫喝が無いというだけで、相手にノーと言わせないような威圧感が喬久は苦手だった。しかしそれらの全てを改めて考えてみたところ、喬久の中で意外な程素直に事実が見えてしまった事も確かだった。何故一般的には人当たりが良いとされる四條を苦手としてしまっているのか、その理由は喬久が蒼以外の人物を上司として認められないという強い拘りに起因していた。  喬久が新卒として入社してすぐに蒼が上司となった。社会人として初めての上司が蒼であり、その印象が強く焼き付いてしまったからこそ以後どのような上司であっても蒼と比べてしまっていたのだろう。その事実に気付いた時喬久は自らの浅薄さを恥じた。今部下を持つ立場になってから始めて分かる四條や山城の気持ち、だからこそ威圧や恫喝だけは部下には絶対しないと心に堅く決めていた。 「日に日に俺の胃がダメージ蓄積してってる……」  その決意すらも守れなくなる日がじきに来るのではないかと喬久は考え無意識に右手で胃を押さえていた。それを見越してか喫煙所で胃薬を渡してきた千景は喬久が考えるよりもずっと社会人としての経験値が高い。今でこそ笑い話として嘗ての勤め先の事を話したりもするが、当事者であった頃はとても笑ってやり過ごせるような事ばかりでは無かっただろう。つい最近引っ越したばかりだと聞いた事があったが、喬久が知る限りこの半年近くの千景は以前にも増して前向きになっているような気もした。 「溜め込み過ぎんなよー? ただでさえお前気ぃ遣い屋なんだから」  喬久が気を遣い過ぎる性格である事は昔からで、特に顕著だったのが高校時代に告白をしてきた女子生徒への対応だった。人生の半分以上共にしている和己から見ても喬久が誰かと付き合っていたという事実は無い。勿論和己に知らないところで誰かと付き合っていたというのならば話は別だが、隠す余裕も無い程の時間を喬久と過ごしてきていた。それでも高校生ともなれば同級生は色めき始め、和己も告白をしてきた後輩と付き合った事があったがその程度の時間しか喬久と離れた事は無かった。女が苦手という風にも見られず、特に女子に対しては優しすぎる程だった。だからこそ勘違いをしてしまう女子も出てきてしまい、そんな子に対して真摯に詫び続ける事を繰り返した喬久を悪く言う者は誰ひとりいなかった。 「そぉんな喬久クンにも可愛い彼女が出来たら癒やしてくれるのにねぇ」  喬久にだけは幸せになって欲しい、それが和己の願いだった。テーブルに突っ伏し指先で円を描く喬久の頭へ手を伸ばして撫でると、喬久は少し硬直した後視線だけを一度和己に向けた後再び眠るように目蓋を落とす。 「彼女……彼氏なら出来た」 「は? ……なんて?」  今確かに喬久の口から放たれた言葉は喧騒の中であっても和己の耳へとしっかり届いた。普段に比べてごくか細い声ではあったがはっきりと聞こえたその言葉を疑い和己は思わず聞き返す。 「いや会社の元上司なんだけどね。ストーカー避けって言うの? 相手が女だから逆に男の恋人作れば諦めてくれるだろうって。振りよ振りー」 「……それって、相手の事逆上させたりしない?」 「んー、そうなのお?」  一体何杯飲んだのか、数えてはいなかったが程よくアルコールも周り気分の良くなった喬久はゆらりと体勢を起こしながらぽかんと口を開ける和己にへらっと笑って見せる。これが喬久にとっての初めての恋人というならば和己にとっては大問題だった。和己がグラスを握る手が怒りの余り震える。いくら振りと言っていても恋人関係にあるならばそこから本当の関係に発展していく事は難しくない。だとしても何故その相手が男でなければならないのか、男に女がストーカーをしていたとしてもその対策として喬久に白羽の矢が立てられてしまったのは何故なのか。今までに誰の告白も受け入れてこなかった喬久を知っている和己からしてみれば、元上司という立場を体よく利用しているようにしか見えない。 「嫌なら、断っていいんだぞそういうの」  女子生徒にしてきたように、本当に自分が嫌であるならば例え元上司であろうが断って良いものであると和己は考えていた。しかし次の瞬間和己の耳に届いた喬久の言葉は衝撃的なものだった。 「別に、振りだし……それに、その人相手なら嫌でも無かったし……」  振りだからという言葉に誤魔化されてはいないか、考えてみれば喬久は嘘が吐けない程素直過ぎて何度も騙されていた事があった。中でも和己が一番驚いたのは中学生までサンタクロースの存在を信じていた事だろうか。頭は決して悪くないのに多少常識に欠けているところがあるので、小学生の時には知らないおじさんに付いて行ってしまわないかどきどきしたものだった。しかし思いの外喬久が困っているように見えなかった事が和己には意外だった。

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