9 / 11

第八章 八雲の本心

「――み、南っ!」  掛けられた言葉に息を呑んだ喬久は自らが喫煙所に居る事に気付いた。手にしていた煙草は既に朽ちかけており、紙の焼ける音と共にその灰が床へと落ち黒い灰溜まりを作る。呆然自失状態の喬久を見守るは業務の合間を縫い逃げてきた千景であり、先日に増して呆然自失状態である喬久がこのままでは別の世界に行ってしまいそうな気がして思わず肩を掴み声を掛けた。 「ッ、あ……佐野……」 「大丈夫か? 顔真っ青だけど」  日に日にやつれつつある喬久だったが、この日の喬久に浮かんでいるのは単なる気疲れというよりは魂が半分抜けかけているような気もして、千景は喬久の顔を下から覗き込むようにして腰を屈め、つい年下の子供を相手にする時の様にその頬へ指先で触れる。ここで理性の歯止めが効かなければ千景は額同士を合わせてまで喬久の体調を確認しようとしていたかもしれない。  同僚の千景から子供扱いにも近い状態で心配されている事がむず痒くなった喬久は困ったように苦笑を浮かべ、微かに首を振ってから視線を落とす。 「……大丈夫、ありがと」  頬へと伸ばされた千景の手を取り、その場にそっと下ろす。考えれば誰かに心配されるという経験事態何年振りだろうか。長らく誰かに頼るという経験をしてこなかった喬久は無意識からか伸ばされたその手を拒絶した。拒絶されたという事は目の前で屈む千景にも伝わり、普段の癖ではあったがその対象によっては当然好ましいと思えないのも道理であり、千景は自らの片手へ視線を向けた後下ろし、喬久が腰を下ろして居た真隣へ並ぶように背中を預ける。  口に煙草を咥え火を付けるべくオイルライターに着火する千景だったが、残念な事にオイル切れを起こしているらしく何度着火させようとしても火は灯らなかった。千景はちらりと喬久へと視線を送り指先で落胆気味のその肩を叩く。前髪を片手で掻き上げながら千景からの無言の呼び掛けに気付いた喬久は、千景が口に咥えたまま火の付いていない煙草を上下に揺らしているのを見て意図を察し、自らのポケットを弄ると胸ポケットから取り出したライターを千景へと差し出す。 「事故ったっていうお前んとこの部下のこと?」  受け取ったライターで煙草に火を灯しながら千景はちらりと横目で視線を喬久へと送る。喬久が名物パワハラおじさんである山城の怒号に晒されているのは今更危惧すべき事でも無く、思い当たる節があるとすれば血相を変えて出ていった部下の事故くらいしか無かった。親友と飲みに行くと話していた時点ではあれ程嬉しそうな顔をしていたのにも関わらず、その表情は日に日に暗くなっていきモテ期が来ていると聞いた時には心が追い付いていないだけでは無いかと考えていた。喬久とはそう年齢も変わらないので、厄年という事でもなさそうだった。厄年では無いとしても一度くらい厄払いに行かせた方が良いのでは無いかとそれとなく考えながら千景は薄く開いた唇から細く煙を吐き出した。 「ああ、それもそう……だけど」  目下の懸念点としては千景が指摘した通り八雲の事故に端を発していたが、その犯人が蒼かもしれないという疑念に始まり、幼い頃から共に過ごし誰よりも信頼を向けている和己から明かされた蒼の嘘は喬久の処理能力を大きく上回った。八雲の入院に関する総務への書類手続きも喬久が上司として代理で行う必要があり、蒼のことを考える余裕は正直なところあまり無いというのが本心だったが、失った心の穴は喬久にとってとても大きなものだった。 「……なあ、佐野」 「うん?」  千景から返されたライターを胸ポケットへしまい、喬久は再び煙草へと手を伸ばしもう一服するか悩んだ。千景に声を掛けられるまでどのタイミングで自らが喫煙所に来たのかさえ覚えていない。一服しに来ているという事は粗方の作業は片付けてあり会議の時間にも被っていないはずだったが、無意識で来てしまっているという事が喬久にとっては問題だった。八雲が入院をした日から山城に怒鳴り込まれる事すら無くなり、それ故円滑に行えるようになった業務は考えてはいけない事ではあったがとても平和的だった。八雲の尻拭いというやり直しの工程が発生しない為余暇は必然的に増え、忙しい合間を縫わぬとも今のように喫煙所で過ごす時間が出来るようにもなっていた。 「――恋人が、嘘ついたら。お前ならその相手のこと信じられる?」  和己には出来ない相談だった。当然蒼当人にも聞けるはずが無く、恋愛経験に乏しい喬久は唯一事情を粗方知っていて踏み込んだ話の出来る相手に千景を選び、手にした煙草を咥える事もしないまま視線をその手元へと向ける。  具体的な恋愛相談を喬久からされるとは思っていなかった千景だったが、仕事上での関わりしかしてきていない自分にそんな相談を持ちかけるほど喬久が追い詰められている事を察した千景は吸いかけの煙草を手に取り喬久の横顔へ顔を向ける。 「嘘、かあ……」  喬久に負けず劣らず千景自身も恋愛経験が豊富という訳では無い。今でこそ長年想い続けた相手と共に暮らすに至っているが、そこまでの道のりは決して平坦なものでは無かった。しかしだからこそ千景は喬久の悩みを自分のものとして考える事が出来た。千景の恋人が千景に嘘をつく事は想像に難かったが、ある程度の可能性として想像する事だけは出来る。 「恋人に嘘つかれて、落ち込んでんの?」 「……まあ、そんなとこ」  大切に想う対象である恋人の嘘程度は千景にとって大した問題では無かった。嘘ならば千景の方が恋人に対してより多くついている。それにいちいち傷付かれていては千景の身がもたない為嘘をつく限りは決して本人に悟られぬよう最新の注意を払っていた。嘘をつくならそれを隠し通す事も思いやりの一種であると千景は考える。真実を知れば本人が傷付くかもしれないので話せない真実が嘘と受け取られる事も少なからず存在する。  千景が思い浮かべたのは純粋無垢な恋人の顔で、隠し事どころか何も隠さない相手である為本人よりも本人の事を知っている自負が千景にはあった。その恋人がもし何か千景に隠し事をする可能性があるとするならば――。 「そうだな俺なら――その嘘ごと受け入れるかな」  恋愛初心者の喬久は千景から告げられた言葉に驚き、思わずその手から未着火の煙草が落ちる。 「なんで……?」  千景とは異なり倫理観に強い潔癖感を持つ喬久は嘘をついた相手を受け入れるという千景の考えが理解出来なかった。しかし喬久が望んで相談相手に選んだ人物からの言葉であり、そこで喬久とは全く異なる価値観が飛び出すのならば自らの凝り固まった価値観を軌道修正する良い機会でもあった。千景の価値観は喬久にとってはとても興味深く、喬久は無意識に煙草を落としたその手で千景の背広の裾を摘んでいた。  千景にとっては喬久の反応が物珍しく、以前から多少潔癖のきらいが強い人物であるとは思っていたが、内容の如何に関わらず嘘そのものを受け入れる事を承服しかねる喬久に何故と問われ、千景は理由を言語化する為に視線を斜め上へと送る。  何故恋人の嘘を受け入れるのか、自分が嘘をつく人間だからこそそんな自分を受け入れて欲しいという気持ちは確かにあったが、様子から察する限りでは喬久自身はあまり嘘をつくのが得意では無さそうだった。 「そりゃ恋人だからだろ。嘘つくだけの理由があったんだなって思うから」 「理由……?」  嘘をついた事の無い人間は、嘘そのものを嫌悪している為その嘘の理由には視点が向かない。仕事は出来るがそういった点では意外とぽんこつなのだと喬久に対する認識を改めた千景は、煙草を口に咥えたまま片手を喬久の頭に乗せ普段から恋人にやっているように優しく撫でる。 「無意味な嘘をつくような相手かは南が一番知ってるんじゃないの?」  純粋だからこそ悪意のある相手に騙されているという可能性も否定は出来なかったが、既に相手の嘘に気付いているらしい喬久がその上での心持ちを聞いてくるという事は、喬久の中に許したいけど許せないという複雑な感情があるからではないかと千景は考えた。  子供扱いならば先程もされた喬久だったが、何故か今は慰める千景のこの手がとても心地良かった。隠さずに全てを――元上司の男性と偽装恋人関係にあった事、同性の幼なじみと長年両思いであった事が分かりそれをネタに部下の男から脅迫された事、それらを発端をして恋人だった相手が部下を突き飛ばしたかもしれない事――全てを打ち明けたなら千景ならば建設的な意見をくれるかもしれない。思い悩んだ挙げ句喬久がその重い口を開いた瞬間、喬久の胸元でスマートフォンが通知の振動を示す。 「――あ、悪いメッセ」 「うん」  片手でスマートフォンを取り出し画面ロックを解除する喬久を見た千景は喬久の頭から手を下ろす。今喬久にはそう伝えはしたが、実際に恋人が嘘をついた場合自分はそれを許せるのか、そしてそれはどういう可能性が想定出来るか千景は思案を巡らせ始めていた。  喬久が視線を向けたスマートフォンにはチャットの通知が一件あった。見ればそれは入院から自宅療養に切り替えた八雲からで、メッセージは一切なくただメディアファイルが一件送られて来ているだけだった。 「――ッ!?」 「どうした?」  何気なくそのファイルを開いた喬久は思わず声にならない声を上げ咄嗟に自らの口元を手で覆い堪える。喬久の動揺に気付いた千景は喬久の手元へと視線を向けるが、既に喬久は動揺のままアプリを閉じてしまっており色気のない待ち受け画面だけが表示されていた。 「わ、悪い佐野、話の続きはまた今度」  青ざめる程下降していた血圧が一気に倍以上に跳ね上がった気がした。それはとても久しい感覚で、打ち鳴らす激しい心臓の音を隠すように喬久はスマートフォンをその胸に抱く。 「あ、うん……」  また何か起こったらしい事だけは理解出来た千景だったが、スマートフォンを抱えたまま喫煙所を後にする喬久へそれ以上何も言う事が出来ず、ただ喬久の背中を見送るしか無かった。  午後の業務すら全て捨て置き、喬久は自宅療養中の八雲の元へと辿り着いた。八雲の自宅住所自体は総務の管理下にあったが、入院していた八雲の代わりに諸手続きを行った喬久は八雲の自宅住所を把握していた。連日仕事に穴を空けるのは喬久の良心を苛めたが、八雲の出社が無い時点で部署の仕事は円滑に回っており、また代理に立てた駒場が思った以上に喬久の役割を担ってくれていた。 「八雲っ!!」  施錠すらされていないワンルームアパートの玄関扉はノブを回せば簡単に開き、極小賃貸独特の構造から玄関を開けたすぐの空間にベッドがありそこに八雲は寝転がっていた。腕に負ったヒビは周囲が懸念する程深刻なものでは無く、僅か数ミリのそのヒビはギプスでしっかりと固定しておけば数ヶ月で完治する上日常生活にも然程問題が無いとの事だった。それでも始めの内は心と身体を休める時間も必要で、休養中特にやる事も無い八雲はベッドに腰を下ろし壁に背中を預けたまま片手でスマートフォンを弄っていた。絶対の安静と固定が必要となった右腕のギプスが痛々しくも見えたが、今の喬久に八雲の身を案じている余裕は無く、喬久の訪問に目を輝かせる八雲に対し喬久は自らのスマートフォンの画面を突き付ける。 「お前、何だよこの動画……消すって約束だっただろ!」  それは八雲が喬久へと送ってきた動画ファイルで、内容は先日和己との写真で脅し呼び出した一件での動画で、喬久自身は終始目隠しをされていた為状況を把握出来ていなかったが、それを良い事に八雲は喬久の痴態の一部を録画して保存していた。 「消す約束したのはキスの写真だけですよぉ。動画はその後で撮ったやつですからぁ」  動画の存在は八雲にとって最後の手段であり、すぐに動画の存在を明かさなかったのもこうして最後の切り札として使う為であった。まんまと呼び出された喬久はのらりくらりと追及をかわす八雲の言葉にこれ迄に無い羞恥と怒りを覚えたが、過去のやり取りを思い返せばあの時点で八雲と取引をしていたのは和己との写真を消す事で、確かに写真を削除した事をこの目で確認していた事からその理論に誤りは無いと判断せざるを得なかった。 「……まあ、嘘はついてないな」 「はい?」 「いや、こっちの話だ」  深い溜息と共にスマートフォンを下げる喬久だったが、喬久が巻き込まれている今の状況を知らない八雲はただその返答に首を傾げるだけだった。喬久ならば動画を送れば間違いなく文句を告げに自宅まで来る事は八雲も想定していたが、もっと怒る筈だと思っていた喬久が意外にも許容する言葉を告げた事が八雲にとっては驚きだった。  八雲がこうして動画を出してきたという事は、何かしらの要求があるという理解だけは早かった喬久は苦々しい表情を浮かべつつもスマートフォンを尻ポケットへとしまう。その動画に対する引き換え条件はひとつしか考えられず、あの日の一件で全てを無かった事にしたかった喬久からしてみれば二度と開きたくは無い蓋だった。大人しく自宅にまで現れた喬久にはとうに意図が伝わっていると理解した八雲は左手に持っていたスマートフォンをサイドテーブルの上へと置き、その手で自らのギプスをした右腕を指差す。 「片腕にヒビ入ってるから自分で抜けないんですよぉ。南さん、溜まってる分処理してくれません?」  喬久の嫌いな、にやけた笑顔だった。  専用の玩具を使うなり、専門の業者を呼ぶなり手段としては複数あるが、それでも八雲が自身を呼び付ける理由には薄々気付いている喬久だったが、交換条件がその程度の事である事には内心安堵していた。 「……動画、消すなら」  今度こそこれが最後だと固く心に決め喬久は背広を脱ぎ置く場所に悩むとそのまま床へと置く。今更手淫や口淫を躊躇う程初心でもなく、兎角商売人を自宅に呼んだ時はそういったオプションを別料金で付ける事もあるが殆どが金額などあって無いようなものだった。この部屋を出たら、また全てを無かった事にする。この部屋の中で何かがあったとしてもそれは喬久の今後に何も影響しない。  八雲はベッドの縁に腰を下ろし、両足を開いたその間に喬久はネクタイを緩めながら膝を付く。八雲は入社してまだ二年目、大学時代から住み続けていたとしたらワンルームアパートは妥当だった。しかしその狭さと家賃に比例する程壁は薄い。今が平日の日中という事もあり他の居住者が外出中であるのを願うばかりの喬久だったが、八雲がその意を汲むとは到底思えなかった。 「中出し一発で消してあげますよぉ」 「中はっ、嫌だっ!」  八雲が寝巻きとして着用していたスウェットは脱衣に手間が掛からず、ゴム部分に手を掛けて下ろせばトランクスの上から始めて直視する八雲のその部位がはっきりと分かる。頭の上から投げ掛けられた言葉には咄嗟に反対の意を示した喬久だったが、当の八雲本人は自らの股座の間に顔を埋めようとする喬久の頬へと手を伸ばし、その悲愴感漂う表情に満面の笑みを浮かべていた。下着を下ろそうとするその手が止まり、顎に掛けられた指が喬久の顔を上向かせる。  嫌がる顔は八雲にとってとても魅力的であり、こうでもしなければ喬久が八雲の事をいち個人以上の存在として認識することは無い。喬久の部下になってから丸一年は経過した、納品が完了すれば打ち上げと称して飲みに連れて行かれる事もあったがそれも最初の頃だけ、喬久はどうにも他者との関わりを拒絶しているような節があり、部下と上司以上に関係が縮まる事は無かった。ミスをした時だけ、仕事の手を抜いた時だけ喬久は本気になって八雲へと向かってくる。喬久が自分を庇い山城に怒られる度、その蓄積された怒りはそのまま八雲へと向けられる。  思わぬ偶然が重なって激写する事が叶った写真、喬久に女っ気が無い理由も他人に興味が無い理由もこれで分かった。カムアウトしている様子が無い事からそれは喬久にとって隠したい事実であり、写真の存在をチラつかせて脅すだけで喬久は簡単に墜ちた。 「じゃあ分割払いでもいいですけどぉ」  ベッドの上で腰を浮かせ、八雲はスウェットとトランクスを腿まで下ろす。改めて目前に晒された性器をこれから勃起させ射精に至らしめるという事実が喬久を絶望の縁へと招いた。写真の様に偶発的なものではなく、予め脅す目的で撮られた動画があれひとつとも限らない。この先ずっと八雲に脅され続ける可能性もあった。それが金品や昇進の要求で無い限りまだマシではあったが、部下に脅され性処理の相手に利用される事は喬久にとってこの上ない屈辱だった。 「……これっきりに、してくれ……頼むから」 「それは南さんの態度次第っすねぇ」  八雲の手を振り払い、決して好物とは言えない垂れ下がった排泄器を両手で取る。今日のような日常が今後も頻繁に起こり得るとしたならば喬久の心はそれに耐え切れない自信があった。逃げる事は簡単で、これまでのキャリアを全て棒に振ってしまえば良いだけの話ではあったが、喬久にはまだそれに踏み切れる程心を決められてはいなかった。  腸詰めにも似たそれに添えた手で裏筋をなぞるように擦り僅かに芯を帯びてきた事を確認してからその尖端を口に含む。雄臭い独特の香りが鼻につき思わず嗚咽きそうになるが、瞼を伏せ自ら視界を遮る事で行為そのものに集中する。雁の窪みから付け根をなぞるように舌を這わせ唇で吸うように愛撫すると八雲のくぐもった声が漏れる。喬久にとっては慣れたもので、相手が八雲であると認識すらしなければ問題の無い行為だった。  びくり、と喬久の腰が震える。それは八雲が喬久に対して何かをしたという事では無く、先程喬久が尻ポケットへしまい込んだスマートフォンが着信を告げて振動を始めたからだった。すぐに鳴り止めば問題無かったが、一向に鳴り止まぬその振動に気を削がれた喬久は一度口を離すが唾液と混ざった白濁色の液体が糸を引いた。口元を袖口で拭いつつ一度八雲に制止を掛けつつ片手で尻ポケットからスマートフォンを取り出すとそのディスプレイには【蒼さん】の文字が点灯していた。 「また彼氏っすかぁ?」  にやついたまま八雲が喬久の顔を掴むように手を伸ばす。唇にてらつく液体は喬久が袖口で拭いきれなかったもので、妙に艶めかしく八雲の欲を誘った。親指で唇をなぞられれば喬久はその唇を薄く開き八雲の親指を口腔内へと招き入れる。舌に触れるととぷりと唾液が絡まり口の端を伝い流れ落ちるが、喬久はそれを啜る様子すらみせず指を液晶画面上で滑らせ振動を止めた。  沈黙したスマートフォンを画面を下にした状態でテーブルの上に置いた喬久の表情は、これまでに八雲が嫌というほど見てきた感情の見えない無表情だった。 「あれ? いいんですかぁ? 電源切っちゃってぇ」  以前のように八雲によって勝手に受話されない為にはスマートフォンそのものの電源を切っておくに限る。このタイミングで着信があったのは幸運ともいえて、先の状況へ進んだ段階で掛かってくるよりはずっとマシだった。 「……いいんだ。さっさと終わらせよう」  今でなくとも蒼と向き合う勇気が喬久には無かった。現状ストーカーが存在していない事は間違い無かったが、まだ八雲に対して危害を加えようとしたのかを聞いてはおらず、今この瞬間に八雲と共に居る事が万が一にも蒼に知られては事故以上の事が起こり得るかもしれない――喬久はその可能性を否定しきれなかった。  少し長い前髪を耳に掛け再開とばかりに再度八雲のモノに手を添える。もう支えが不要な程反り勃っており、その成長具合は一種の凶器にも見えた。  完全防音のホテルとは異なり、薄い壁に仕切られた室内では出来る限り声や音を控えなければならなかった。とうに銜えきれる大きさを凌駕したその凶悪な一物を滴る先走りを拭うように舌を這わせる。脈打つそれは心臓のようでその生々しさが気持ち悪い。脈打ちと共に温度も増しこんなにも凶悪な質量を持ったものが自分の中に入っていたという事実は喬久の欲を煽った。 「……は、ぁっ、ん、ぅっ……」  尖端のみを銜え込み頬の裏側や上顎に擦り付けその凹凸で刺激を与える。どこを攻められれば弱いかなどは同じ男である喬久には丸分かりで、始めのうちこそソーセージのように萎びていたそれが口淫を繰り返す度重力に逆らい矛のように勃ち上がる様子は喬久自身の男の矜持をも満足させた。 「どエロい顔……」  奉仕される事は八雲の征服感を満足させ、その相手が仕事上の上司である事は更に背徳感を煽った。放つ熱は蒸気を生み出しおよそ好き好んでいる訳ではないながらも、従順に舌や唇で愛撫する姿は八雲の熱を更に高まらせた。舌で拭いきれない先走りが喬久の顔を汚し、耳に掛けた横髪が落ちそうになると八雲はそっと手を差し伸べ再び髪を喬久の耳へと掛け直した。  開いたままの右足を動かし、八雲は膝を付く喬久の股間を押し上げる。喬久は背中を震わせたが、足でもしっかりとその形は喬久が自らも興奮状態にあるという表れで、足の親指と人差し指を器用に使い喬久のそれをスラックス越しに擦り付ければ、喬久は熱を帯びた吐息と共に潤んだ瞳で八雲を睨み上げる。 「や、くもっ、足……やめろっ、集中、できないっ……」  片手で八雲の足を遮ろうとしても踏み付ける八雲の足の方が強く、無造作に足の裏全体で擦り上げる八雲の所作に喬久は震える尖端に先走りを滲ませた。 「えぇー? 俺の舐めて固くなってる南さんのちんこ可愛そうだなって思ってぇ」  八雲の指摘通り、濃すぎる雄の匂いに喬久の情欲は刺激され加えて八雲の足によって直接刺激を与えられれば、それを享受したいと願ってしまうのは喬久の雄としての本能だった。それは無意識で喬久の腰を揺らし、部下の前で晒す醜態を恥であると理解出来なくさせる程喬久のタガは外れやすくなっていた。  ホテルで嫌がったあの時とはまるで別人のような喬久の従順さに八雲の嗜虐心が疼く。動画がある限り喬久はどんな余裕も甘んじて受け入れるだろう。――だけど、あの日の喬久とは決定的な何かが違う。状況の違いもあるかもしれなかったが、スマートフォンに掛かってきた着信を見た瞬間の喬久の表情が八雲の頭から離れなかった。  八雲が無理に足の上で喬久を押し上げればそれを拒むように喬久の手が押し返してくるので、軽く足で払ってから強く押し込むようにして擦り上げれば喬久の腰が数回跳ねた事から下着の中で果てた事が八雲にも分かった。 「……ね、奥まで銜えて下さいよぉ」  唾液と先走りが混じった卑猥な液体に塗れたまま口をだらしなく開いて呼吸を整える喬久の顔を掴み微笑みかける。部下のモノを舐め部下に足でイかされた喬久の情緒が平常と異なる事は見て明らかで、その顔をもっと歪ませて自らを求めさせたいと願う事は八雲の歪んだ思慕の念だった。 「……撮る、なよ」  次の取引材料にされる事だけは喬久も避けたく、今だけ八雲の要求を受け入れれば証拠は完全に消える。その後に残るものは完全な虚無で、今の喬久に縋れるものは何ひとつ無かった。  下着の中がぬるついて嫌悪感しか無い。凶器を口に含む事は喬久も避けたくはあったが八雲の状態から察するに八雲自身も間もなく果てる。自らの中にで微かに疼く熱もやり過ごせば、それで全てが今度こそ終わる。喬久は自らが開けられる限界まで口を拡げ脈打つ八雲のソレを尖端から飲み込んでいく。 「ん、っく……ぁ、っふ」  顎が外れそうな程腔内いっぱいに広がるそれは呼吸を紡ぐ隙間も無く、いっそ噛み切れば全てから解放されるのではないかと物騒な事を考えてしまう。それ程までに苦痛と屈辱が強く、八雲が喬久の頭部を抑え込み腰を奥へと進めた瞬間喬久の喉奥が痙攣しそうな迄に震えた。 「っは、すっげぇイイ……ね、全部飲んで下さいよぉ……?」 「んん! ッ、ぐ、っ、あ……」  告げられた言葉と共に喉の奥へと注がれた液体は決して美味いものではなく、苦々しく喉が焼ける程に熱かった。  まだ寒さと暑さが入り交じる季節、冷暖房のどちらも稼働していない室内はただ薄暗く静かで、その室内にはふたりの男の生々しい吐息だけが充満していた。 「……南さん、何かあったんですか?」  不完全燃焼、といった様子の喬久の顔には未だ冷めやらぬ色が浮かび、無理に喉の奥へと流し込んだ欲の塊に咳き込む様子はやはり先日の様子とはどこか異なっていた。一番近しい言葉を探すならば〝覇気が無い〟。普段八雲を追う時や先日のホテルの時ですら喬久の中にはぶれない明確な芯があった。それに比べたら今日の喬久はどうか。怒鳴り込んで来るまでは普段の喬久と代わりは無かったが、誰かから着信を受けたあの直後から喬久は気も漫ろでその変化は小さくとも八雲にも見過ごせないものであった。 「けほ、……何、って?」  水のようなもので全てを流し込みたい喬久は室内を見渡しシンクとそこに置かれたグラスへ目を留める。珍しく八雲が心配してきているようだったが、そう思うのならば始めからこんな真似をしないで欲しいと感じながら咳込みが治まった喬久は立ち上がり、八雲に断る事もなくシンクへと向かうとグラスに水道水を汲み喉の奥まで一気に流し込む。それでもまだ喉の奥にへばり付いているような感覚は消え切らず、中で出されるよりは数倍マシだと割り切ると袖口で口元を拭った。  右手さえ自由ならばあの日の様に喬久を抑え付けて無理にでもいう事を聞かせる事が出来たが、少しでも指を動かすと激痛が走り、せめて喬久が自らの意思で来ない限りは指一本触れられないと口惜しい思いを抱きながら、昂りを治めた自らの分身を大切そうに下着の中へとしまい込んだ。 「前はあんなに嫌がってたのに」 「今も十分嫌だよっ」  シンクにガラス製のグラスを叩きつける硬質の音が響く。それでこそ八雲の知る普段の喬久の情緒なのであるが、用が済めばさっさと帰ったあの日とは異なり、今日の喬久は普段よりも重苦しい空気を纏っていた。それに気付いた八雲はベッドから腰を浮かせ、シンク前に佇んだまま今も八雲へ無防備な背中を晒す喬久の背後へと歩み寄る。 「だけど、こないだのアンタと何か違う」  左腕を背後からそっと、喬久の腰を掴むように回す。実際に掴まれるまで八雲の接近にすら気付いていなかった喬久は小さく両肩を揺らすが、遣るべき事は全てやったと割り切った喬久は恭しくもその八雲の手を子供に罰を与えるように叩く。 「……んなん、お前に分かんのかよ」  分かる訳が無い、八雲の様に脅して人を自分の望むままに操ろうとする人間には。喉の奥から込み上がる感情を再度グラスに注いだ水と共に流し込む。八雲の左手は腰から腹、胸を伝い喬久がそれ以上抵抗しないのを良い事に喬久の顔を掴み背後を振り返させる。 「分かるよ。好きな人の事だもん」  そんな些細な変化を見逃さない程、八雲は毎日喬久を見ていた。  ――分かるよ。気にしてる子の事はね。  八雲の告げた言葉が、喬久の脳裏で蒼の言葉と重なる。蒼が告げたあの日の言葉の真意は――あの言葉も嘘だったのか、考えを纏めようとする喬久の思考を遮るように背後から覗き込むように唇を重ねる。  ぬるりと滑り込む舌は意志を持った生き物の如く逃げる喬久の舌を追い回し、何度避けられようとも絡め取り歯先で柔く食んだまま自らの口腔内で吸い上げる。 「……んっぅ」  顔は左手でしっかり掴んだまま、背後からは逃げられぬように自らの身体で押し付け、行動出来る範囲を制限する。八雲の右腕側を狙えば逃げられなくはあったが背中をギプスの質量が梃の様に抑え付けており、それ以前にキスで奪われる思考が喬久から逃げるという選択肢を取り上げていた。  口腔内を弄られるだけで喬久の胸がざわつく。それは喬久が元来よりキスが好きという性分からなるものだったが、そのキスですら今は蒼との事を思い出す切っ掛けにしかならなかった。どういう状況であっても目の前には八雲がいるにも関わらず蒼の事を思い浮かべてしまう事は、八雲にとっても不誠実であると考えた喬久の胸がずきりと傷んだ。 「やくも、やめろっ……」 「なんでですかぁ?」  もう流されまいと喬久は両腕で八雲を突き放す。病人である事から力だけは加減をし八雲を引き剥がすだけに留めた喬久だったが、今は正面から八雲の顔を見られずにそのまま俯く。喬久からの拒絶が予想外だった八雲だが、何故か俯いたままで、いつもの様に睨みつけるような覇気がやはり無い。喬久の顔を覗き込もうとする八雲ではあったが、その度に喬久から顔を反対方面へと反らされ、埒が明かなくなり顔を掴んで避けきれないように固定しようと試みるが、掴んだその手ですら喬久の手で払われた。  今日八雲の部屋に来たのは呼び出されたからだけでは無く、八雲には伝えなければならないと喬久自身が考えていたからだった。訪問してから中々口に出す機会が無かったが言うならこのタイミングを逃して他には無い。先に言わなかったのは狡かったかもしれない。しかしもし先に告げていたとしたら八雲からの要求は口淫に留まっていなかったかもしれない。事実を伝えようとすると口が重くなる、だけれど伝えなければならない。喬久は片手で自らの目元を押さえつつ絞り出すような小さな声で呟いた。 「……お前を事故に遭わせたの……俺の恋人、かもしれない」  正確には元かもしれないし、更にいえば本当の恋人同士だった訳でも無い。この期に及んで細かい説明をするのは気が重いし、そもそも八雲が蒼を恋人である既に認識しているのだからそれで押し通してしまった方が都合が良かった。  喬久の言葉を理解するのに八雲は時間を要した。何故自分が喬久の恋人から手を下されなければならないのか。そう考えかけた八雲だったが、あの日のホテルで電話を掛けてきた相手が本当に喬久の恋人であったとするならば、自らが狙われる理由は分からなくも無い。もし自分が喬久の恋人だったとして、喬久が他の誰かに強姦されあまつさえ電話越しにその声を聞かせられたとしたならば――勿論喬久の身体にねちねちと聞く事もするだろうが、当然その相手には二度と喬久に手を出さないように話を付ける事もあるかもしれない。相手にとってその手段が会話ではなく行動であった、それだけの事だった。 「……だから、大人しく抱かれに来たんですか?」  自らの恋人が第三者を傷付けた。その非を自ら濯ぐ為の行為だとするならば喬久の様子がおかしかった事にも説明が付く。顔を隠す喬久の手首を掴み引き剥がし、八雲は強引に喬久の顔を覗き込む。その双眸には大粒の涙が浮かび、苦痛に歪むその表情は控え目にいっても八雲の嗜虐心を大きく揺さぶった。  喬久の手首を掴んだまま八雲は有無を言わさず喬久をシンク前から再度ベッド前へと連れていき、喬久の身体をベッドへ放り投げる。 「ちがう、そうじゃない……」 「じゃあどうして」  否定の言葉を告げる喬久を壁際に追いやり、両足の間に膝をつき、壁に手を付いて喬久の進路を完全に塞ぐ。喬久の予感は最悪の形で的中し、壁際に追い詰められ行き場を無くした喬久が次に八雲から要求されるのは口淫以上の事か――喬久は浅い呼吸を繰り返した。 「そんな辛そうな顔してるんです?」  喬久が恋人の罪を償う為、もしくは表沙汰にしないで欲しいと頼み込む為にやって来た訳では無いのだとするならば、傷付いたようなその表情が腑に落ちない。恋人からの連絡に出なかったところから察するならば、それは喬久が独断で行っている事であり、そこまで決意を決めているのだとしたら普段以上に芯があってもおかしくない筈だった。もし喬久が恋人から言われて無理矢理来させられているのだとしたら――納得は出来たが、そんな相手とは一刻も早く別れさせたい。  あの日喬久の身体に残っていた鬱血痕から相手が相当執着心の高い男だという事は八雲にも分かっていた。だからこそそんな相手が自らの尻拭いを喬久にさせる訳が無く、喬久を悲しませるこの表情の意味に説明が付かなかった。 「……あの人は、そんな事しない」  全ての状況証拠が蒼を犯人であると示している。しかし喬久の心は蒼が犯人で無い事を知っていた。蒼の言葉が心が、全て本物であるという事に喬久はとっくに気付いていた。だからこそ蒼が犯人では無いという明確な理由が欲しかった。蒼の口から否定してくれればそれだけで喬久は信じられる気がしていた。蒼は誰かを傷付けるような事をしない。喬久の尊敬する蒼は嫉妬のあまりその様な行いをする短絡的な思考の持ち主では無いという事を、他でもない喬久が一番良く知っていた。  涙が次から次へと頬を伝い流れ、シャツをスラックスを、シーツを濡らす。八雲は喬久の独白を聞き情緒が壊れる様子を目の当たりにすると腕の檻から喬久を解放し、左腕一本で喬久を抱き寄せた。きっとこの人は部下に泣いているところなど見られたくはなく、ならばこうして抱き締めれば泣き顔を自分に見られずに済む。 「寝取られた恨みって可能性だってあるじゃないですかぁ」 「俺はお前に寝取られてなんかいない……」  寝取られの定義が何処にあるのか、心まで傾かなければそれを寝取りと言わないのならば喬久は八雲に寝取られた覚えは一切無かった。背中を優しく撫でる八雲の手だけがこの瞬間少しだけ心地良かった。  寝取られを喬久自身が否定したとしても、相手からすれば寝取られたのと同じようなもので、怒りの矛先がこちらに向かってもおかしくはなかったが、喬久本人が犯人は恋人ではないと否定してここまで心を傷めている。ここまで喬久に思われて、深く愛されている相手の事が羨ましくて仕方が無かった。 「俺じゃ、ダメですか?」  横断歩道で押した相手が喬久の恋人では無いとするならば、何故喬久は今ここまで傷付き泣いているのか。元から神経がピンと張り詰められた人で、その実ガラス細工の様にとても傷付きやすく壊れやすい人だと思っていた。目一杯甘やかしたいのと同じくらい目一杯甚振りたくもあり、叱咤しか伝えられた事のないその唇が自分を求めて名前を呼ぶ姿を見たかった。  八雲の想いは本当はあの晩から分かっていた。だけれど到底応えられるとは思っていなかったので気付かない振りをした。その気持は今でも変わらず、喬久にとっての八雲はいち部下でありそれ以上でもそれ以下でも無かった。 「……八雲、お前じゃ駄目だ。俺は…………あの人の事が、……好きだから」  蒼と同じような感情を八雲に抱く事は出来ない。それは出会った順序や立場などの問題では無く、喬久にとっての蒼のみがそういう存在であったというだけの話であった。それは遠い昔に和己に対して抱いていた感情と同じもので、もう二度と誰の事も好きにはなれないだろうと思い続けていた喬久の心に再び芽吹いた感情だった。 「……それ聞いて」  初めから心が手に入るとは思っていなかった。だからこそ身体だけでも無理に繋いで、少しずつでも自分無しでは生きられない身体になってくれればそれで良かった。そんな喬久から目の前で他の男に対する感情を告げられた八雲の中で何かがぷつりと音を立てて弾け飛んだ。 「大人しく引き下がってやれる程俺もお人好しじゃないんですよぉ!」  抱き締めていた状態から喬久をベッドへと押し倒し、全身の体重を掛けて喬久の身体をそこへ縫い留める。少しずつでも良かった、でももうそんな悠長な事は言っていられない。喬久が真面目過ぎるほど真面目な性格である事を八雲は知っていた。それと同時に不倫や浮気など倫理観に背く事を毛嫌いしているのも知っていた。今完全に喬久の心が相手を向いてしまっているのを知った今、八雲の中には一刻の猶予も残されていなかった。 「おまっ、何の話聞いてっ……!」  止まらぬ筈の涙がすっかり止まり、八雲の常軌を逸した行動に目を白黒させながら喬久は貼り付く八雲の身体を押し返そうとするが体格の良い八雲の身体はびくともしない。上から覆い被さる八雲の方が圧倒的に有利で、耳殻をなぞる舌先の動きや股間を押し上げる膝にぞわりと背筋を震わせる。 「アンタの気を引く為に仕事も適当に手ぇ抜いて、飲んで酔った後お持ち帰り出来ないかって毎晩付け狙って」 「いやいやいやいや怖い怖い怖い怖い!」  偶然にもあの写真が撮れたのは日々の努力の賜物だった。それまでは何とか喬久を酒の席で泥酔させてお持ち帰りが出来ないかと考えていた八雲だったが、喬久が男相手もいけると分かった瞬間八雲の計略は動き始めていた。  八雲にとっては情熱的な愛の告白のつもりでも、日々付け狙われていた事を知った喬久にとってはただの恐怖でしか無く、火事場の馬鹿力も合わさり八雲を押し返すと共にその下から抜け出る事に成功した。 「こんだけっ……アンタの事が好きだって、何で伝わんないんですかっ……!」  投げ飛ばされた八雲の顔は今までに見た事ない程真剣で、それが喬久にとっては逆に怖かった。 「……いや、普通に怖ぇだろ。後仕事はちゃんとしろよふざけんな」  再び襲われる前にと急いでベッドから降りた喬久は八雲が伸ばした腕も振り払い、乱れた着衣を整える。八雲の行動心理はこれで明確になり、やはり部下であっても心から苦手なタイプだと喬久は痛感していた。頭が普段以上に重い気がして無意識に頭を抑える。散々八雲の事でも悩まされ振り回された結果、これで本当に八雲との関係を清算出来たと安堵した気持ちが余計に眠っていた頭痛を引き起こしたのかもしれない。 「……お前と、こういう事するのもこれで最後だ」  床に落とした背広を拾い上げ、着るのも面倒だったのでそのまま肩に担ぎ上げた。裏面にしたままだったスマートフォンは再度尻ポケットに戻し、その時点で一度も画面を確認する事は無かった。これ以上引き伸ばしても面倒な事になりそうだったので、喬久は振り返りもせずにそのまま玄関へと向かう。 「……ん。彼氏に物足りなくなったら、いつでも抱いてあげますよぉ」 「お前、人の話ほんと聞いてないな……」  突き飛ばされたままベッドから逆さまに頭を出す八雲は今正に帰り支度をしようとしている喬久の尻に向けてにやりと笑みを浮かべる。喬久の気持ちは面と向かって伝えられはしたが、そればかりが全てではなくこの先喬久と彼氏との間に何が起こるかも分からない、諦めるのはまだ早いと謎の前向き思考で喬久が去る姿を見送った。

ともだちにシェアしよう!