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第七章 蒼の嘘

 横断歩道で信号待ちをしていた八雲の背中を押し交通事故に遭わせたのは蒼かもしれない、その考えは帰宅をしても喬久の頭の中から消える事が無かった。  喬久は八雲の病室を出た後どのようにして自宅まで帰宅してきたのかを全く覚えていなかった。自宅で一息つく事ですら隨分長い間出来ていなかったような気もして、背広も脱ぎかけのまま喬久はベッドの上へと倒れ込む。  鉄筋コンクリート構造の部屋は上下左右隣室の生活音が響いてくる事が少なく、ただ静かな室内は喬久が考え事をするのには最適な空間だった。この数年は寝に帰るだけの場所となっており、稀に招くデリヘルの商売人以外は誰も部屋に入れた事は無い。つい最近初めて蒼を部屋に入れた位で、和己ですら引っ越した当初数回遊びに来ただけだった。 「蒼さんが八雲を? まさか、そんな訳が――」  心の中だけで留めておくつもりだった言葉がつい口を衝いて出てしまう。やけに重い頭では正常な思考もままならず、蒼のことを考えようとする度にずきりと痛む。  喬久の知る蒼はただ優しくて、信頼出来る上司だった。女性関係が派手だったという印象が強かったが、それがトラブルになっていたことも無かった。恐らく相手に対して真摯に向き合う性格であるのだろうと、それも喬久が尊敬をする蒼の一面だった。誰かひとりに執着しているような姿を見たことも無かったし、何よりも相手の自由を尊重しているように見えた。抱かれて初めて分かった蒼の愛し方――濃厚で情熱的で、蒼ならば有り得るのかもしれないという考えたが過ったのは事実だった。  そう考えてしまうこと自体が蒼に対して不誠実だということは喬久にも良く分かっていた。きっと八雲に見えた姿は見間違いだったかもしれないし、偶然特徴が似ていたことからそれが蒼であると喬久が思い込んでしまったのかもしれない。そもそも突き飛ばされたという認識自体が誤りである可能性もある。  思考に塗れた意識の中、意識外でくぐもった機械音が鳴っていることに喬久は気付いた。それは喬久のスマートフォンが知らせる着信で、溺れる思考の海から呼び戻された喬久は気怠い身体を無理やりベッドから起こし、鞄の中に仕舞ったままのスマートフォンを取り出す。 「――和己?」  そこに表示されていた名前は数日前に出会ったばかりの親友和己だった。和己と最後に会った日が隨分遠い日のように思える。あの日まで、和己への想いをずっと内に秘めていた。その笑顔を守りたいと願うからこそ決して表には出さないと誓っていた。想いが通じ合っていたと知る事が出来た時、それがどんなに嬉しかったか。その結果が分かっていたならばもっと早い内に自分の想いを和己へと伝えていた事だろう。もっと早くにそうしていれば――和己が大切にする女性に嫉妬する事も無かったし、恋の仕方を忘れる事も無かった。  掴んだスマートフォンが手からぽろりと落ちる。それでも尚も鳴り続ける着信音を受け伸ばした手がスマートフォンに触れた時、喬久の視界がぐらりと大きく揺れた。ただでさえ過重労働の上、体力的にも精神的にもこの数日の出来事は明らかに喬久のキャパシティをオーバーしていた。指先でスマートフォンをひっくり返し、そのまま通話ボタンを押す。音量をスピーカーにしたまま喬久は同時に部屋着へ着替えようと手首のボタンを外し始める。 「どうした和己、こないだぶりじゃん」  普段の和己ならば用事がある時には着信より前にメッセージを入れる。いつも帰宅の遅い喬久が通話に出られる状況であるか分からないが為だった。しかし今このタイミングに関してだけを言えば直接通話で話せる事が嬉しかった。恐らく予めの連絡を貰ったところでそれに返事をする余力すら無かったかもしれない。じっとりと汗ばんだ肌に纏わり付いていた肌着を脱ぎながら聞こえる音声へ耳を傾けると、僅かなノイズの後に和己の声を模した機械音が届く。 『うん、喬久がどうしてるかなって思ってさ』  スマートフォンから伝わる和己の言葉は相変わらず優しく、滅多な事が無い限り数ヶ月連絡を取らない事も当然となっていたが、こうして連絡を貰える事自体が喬久にとっては嬉しいものだった。脱いだ肌着は後で洗濯機に放り込むとして、朝に脱いだままベッドの上に投げ捨ててあった寝巻き代わりのトレーナを着込む。物持ちが良い方なのか、気に入った物は長く大切にするタイプなのか、襟ぐりもうほつれてよれよれとなってしまっていたが、部屋で過ごす分には問題が無かった。 「あはは俺? 俺は変わらず元気だよ」  襟ぐりから顔を出し、形だけでも寛ぐ体勢を整えた喬久はそのままスマートフォンの前で胡座を組むように座る。スマートフォンの液晶には和己の名前と経過時間のみが表示されており、顔を見られないで会話が出来る通話というものは状況によっては都合が良い時もあった。学生時代の頃だったか、喬久は和己から顔に感情が出やすいと指摘された事があった。言われてからは何とか悟られないようにと試みてきていた喬久ではあったが、それでも和己は見透かしたかの様に喬久が隠す感情を言い当てる事が過去多くあった。 『例の部下とも相変わらず?』  八雲の事を指摘された喬久の心臓がどくんと大きく高鳴った。和己は恐らくあの日写真を撮られた事には気付いていない。写真自体は八雲のスマートフォンから既に削除させているので、今後永劫その写真が世間へ流出する可能性は無い。前回和己と飲んだ時には主に八雲に関する愚痴を吐露していた為、他に伝えるべき緊急の用件が無いのならば話題として真っ先に上がるのは、喬久の胃痛の原因でもある八雲の話だった。 「あー……」  相変わらずかと問われれば八雲はやはり相変わらずであった。今日までの間に八雲との間に起こった出来事の一部は和己には決して明かす事が出来ないが、八雲の件で今喬久が和己に相談出来る内容としてはやはり事故の件だった。  自分ひとりでは良くない方向へ考えが巡ってしまうし、こんな事をおいそれと第三者に相談出来る訳が無かった。同僚の千景ならば相談出来たかもしれないが、その為には蒼と偽装恋人の関係である事や八雲との間に起こった出来事を説明しなければならない。誰かの性別を偽って説明すれば問題無く説明出来る可能性もあったが、それでも何処かでボロが出てしまいそうであり違和感の無い説明をするには難儀しそうだった。その点和己は喬久が蒼と偽装恋人の関係にある事は知っているので、八雲との事を多少暈すだけで千景相手よりは説明が容易かに思われた。  それでももし――和己の前でボロを出してしまったら、と喬久は考える。どの道八雲との関係で隠し事をしたとしても和己相手にはそれがバレてしまう可能性は大いにあった。もし和己が八雲と自分との間に起こった件を知ってしまったら、と喬久は一度喉の奥まで出てきた言葉を呑み込みかけた。 「和己、ちょっと話を聞いて欲しい事があるんだけど――」  自分以外の意見を取り入れて凝り固まった思考の舵を取りたかった。欲を言えば和己の口から蒼が犯人とは言えないという自分の安心出来る言葉が欲しかった。  急な相談だったのにも関わらず和己は喬久からの呼び出しに快く応じ、先日と同じ居酒屋側の喫茶店で待ち合わせをする事にした。一度部屋着に着替えたのにも関わらず再度外出の為に着替えるのは多少億劫ではあったが、通話で話すよりも会って話そうと持ち出したのは和己の方だった。顔色で和己に悟られてはならないという緊張感はあったが、対面であるからこそ齟齬なく伝えられる事もある。伝え方ひとつで相手に大きな誤解を生ませてしまう事だけは避けたかった。  真面目な相談をするのならば居酒屋の喧騒よりは喫茶店の静寂が適しており、指定された待ち合わせ場所に喬久が到着した時点ではまだ和己は到着していなかった。互いに喫煙者である為選ぶ店は必然的に全席喫煙可の店か、喫煙ブースのある店に限られていた。喬久は和己の到着を待つように入り口が見える席を選び、注文を取りに来た店員へアイスコーヒーを注文する。最近は煙草が吸える店も少なくなってきており利用する店も決まった店ばかりになってきていた。今の季節にはニットにジャケットを羽織る程度で丁度良かったが、生憎喬久の所持している私服のニットはどれも首周りが広く空いており、仕方なく時期外れの黒いハイネックセーターを着る事にした。上着を着なければ問題無い程度ではあったが、店に到着するまでには大分暑さを感じるようになっており、店員が運んできたアイスコーヒーの冷たさが喬久の緊張を多少和らげた。  火を付けた煙草を半分ほど消費した頃、軽やかな鈴の音が鳴り、和己が店内に入ってきた。和己は足を踏み入れるが早いか一通り店内を見渡し、和己の来店に気付いた喬久も軽く手を上げてそれを知らせる。時影響の和己は自らの勤務時間をある程度自由に決められるが、時間の調節をする余裕も無くすぐに自宅を飛び出した和己は余程慌てていたのかトレーナーにスウェットパンツというとてもラフな格好をしていた。加えて仕事時以外に滅多に掛ける事は無いと言っていた眼鏡も掛けたままで来ており、家を出る前に鏡を見る余裕すら無かったのかくせ毛に近い柔らかい髪は幾らかあらぬ方向に跳ね上がっていた。  土日は家族サービスに徹する和己とはこの数年休日に会う事は少なく、先日の様に喬久の仕事が終わった時間に数時間酒を酌み交わす程度だった。和己のラフな格好を見るのは久々で、和己にとってもスーツ姿以外の喬久を見るのは学生時代振りのことだった。 「ごめんな、こんなに続け様」 「良いんだよ。俺も喬久に会いたかったし」  喬久の向かい側へと腰を下ろした和己だったが、余程急いで向かったのか微かに呼吸を乱している様子が喬久にも伺い知れた。和己はウーロン茶を店員へ頼むと先に運ばれてきたサービスの水を一気に飲み干した。グラスをテーブルに置く際多少力が入り過ぎたのか強めの音が響き、和己自身も気付きそれを隠すように照れ臭そうな柔らかい笑みを喬久へと向ける。  和己にとってはこうして再び喬久と会えた事が嬉しく、もしかしたら二度と直接会う事は出来ないかもしれないという思いすらも抱いていた。その上で喬久に何か悩み事があり、その相談相手として自分を選んでくれた事は喜びを噛み締めずにはいられない事で、抑えきれない感情が和己の表情に出てしまっていた。和己の手は無意識に伸ばされ、テーブルの上へと置かれていた喬久の手を握っていた。それには喬久も動揺を隠し切れず、触れた指先に緊張が走った事を和己は見逃さなかった。  もしかしたら和己にとってとても残酷な事を自分はしているのかもしれない、と喬久は考えた。相思相愛が分かったのと同時に失恋も自覚した喬久だったが、和己を一度拒んだ事で喬久が和己を振った事も同義となっていた。喬久の都合で和己の想いを拒絶しておきながら頼れる者が周りに誰も居ないと分かった途端、今のように和己に縋ってしまうという事は和己に対しても不義理な事ではないかと感じた喬久は苦笑を浮かべながら腕を引いて和己の手の下から抜け出る。 「……ばーか、親友だろ俺ら。その線は越えないって約束したじゃんか」  気持ちを自覚してしまってからはどこまでは正常な付き合い方であるのかすら分からなくなった。だからあの日以降和己には連絡すら取る事が出来なかった、今日和己から連絡が来るまでは。  喬久のぎこちない表情と引かれた手にずきりと心が痛んだ和己ではあったが喬久の手に触れたその一瞬、指先から伝わった違和感に和己は自らの手に一度視線を向けてから再度喬久の様子を窺うように視軸を移す。 「そうだけど……」  長過ぎた冬もようやく終わり夏が始まろうという時期には不釣り合いなハイネックのセーターは喬久の切羽詰まった心境を表しているのか、何か気がかりな事があればそればかりに意識が集中してしまい、それこそ身の回りの事に関しては気が回らなくなってしまうのが幼い頃から喬久を側で見続けていた和己の印象だった。  心配な気持ちを持ちつつも今ここで再度喬久へと手を伸ばしてしまえば、不興を買うどころか更に喬久の表情を歪ませてしまうとも限らない。衝動的な行いを自ら制す為にも和己は両腕を組んでから肘をテーブルの上へと置く。多少行儀悪くはあったが、これからも喬久と友好な関係を築いていく為の苦肉の策だった。 「喬久、具合悪い?」 「え?」  和己の指摘とほぼ同タイミングに喬久のグラスの中で氷が溶け落ちからりと音を立てる。口元にあったストローはそのお陰で半周し、喬久は指先で再度ストローの呑み口を自分の方へと運びつつ耳へと届いた和己の問い掛けを訊き返すように首を傾ける。つい最近同じような事を誰かに言われた気がした、しかしそれが誰であったか思い出せないまま喬久は単なる既視感であると自らを納得させようとしていた。 「顔色悪いけど。――聞いて欲しい事って?」  訊き返す喬久の表情にはそれを誤魔化そうとしているような意図は見られず、単なる思い過ごしだったのかもしれないと和己は考えを切り替える事にしようとした。涼しさが気持ちの良い時期ではあったが、首元までを覆い隠すハイネックセーターはさぞ暑かろう、その所為であるとするのならば喬久の自業自得であるとも考えられた。通話口であそこまで思い悩み切羽詰まった声を絞り出した喬久ならば、外気温の事を一切考えられずに斯様なコーディネートで外出してしまったとしても仕方無いともいえる。  今気にすべきは喬久の服装に関してではなく、服装にすら意識を巡らせられない程喬久の意識を占領している悩み事についてであり、和己は努めて優しい口調を以て喬久へと問い掛けた。 「……その事なんだけどさ」  呼び出したは良いが、どう話すべきかまだ心が決まらない喬久は指に持ったストローでからからとグラスの内容物を掻き混ぜながら視線を泳がせる。幾ら気心の知れた親友といえど貴重な時間を割いて貰っている事には代わりなく、いつまでも言い淀む訳にはならないと考えた喬久はその重い口を開いた。喉の奥にこびり付いた何かが焼けるように熱く感じられた。 「……俺の、恋人、なんだけど」 「ああうん、職場の元先輩だっけ。ストーカー対策の偽装彼氏だろ?」  和己は眼鏡を外し折りたたんでからテーブルの上へと置く。そして両腕を組むと今度は椅子の背凭れへと背中を預けた。二人がお互いの気持ちを自覚する切っ掛けになったのが、喬久に偽装彼氏が出来たという話題でその記憶は今も生々しい。喬久からその話を聞く事が無ければ和己も自らの思いを打ち明けるという事はしなかっただろう。和己にとって蒼の存在は面白くないものであり、切っ掛けであると同時に苦い印象も抱いていた。もしその相手との関係で喬久が傷付くような事があったとしたら、和己は本人の目の前に乗り込んででも偽装の交際関係をやめさせるつもりでいた。 「んまあ……その、人がさ」  和己の口から告げられる「偽装」という言葉に喬久は改めて自分と蒼の関係が普通では無い事を自覚する。喬久の視線は自然と斜め下へと落ち、喉の奥に引っ掛かった言葉が中々出てこない。唇で軽くストローの先端を食み、半透明のストローが暗色に染まっていく様子に横目で視線を送り、その冷たいコーヒーが喉の奥へと流れて行くとごくりと喬久の喉が上下する。 「俺の部下……突き飛ばして事故に遭わせたかもしんなくて」  臆病を呑み込んだことで絞り出された喬久の言葉。可能性のひとつである筈なのに嫌な汗が背中を滑り落ちて悪寒が堪らない。和己が蒼に対して余り良い感情を持っていない事は喬久にも分かっていたし、それでも和己ならば自分が望む言葉を、思わず考えてしまう最悪の状況を否定してくれるかもしれないと心のどこかで期待していた。 「部下って……例の子の事?」 「うん、そう」  これで喬久が部下の話題を出した時に言い淀んだ理由が和己はようやく分かった気がした。仮でも恋人関係にある相手が部下を害したとなれば間に挟まれた喬久は気が気でないだろう。見れば先程よりもずっと顔色が青ざめていた。昔から喬久は顔に出やすく、今この状況に於いてその考えを否定して欲しいと願っているに違いないと和己は小さく息を吐いた。 「心当たりあんの?」 「……ある」 「そっか……」  和己が問えば喬久は小さく頷く。もう和己へ視線を向ける余裕も無い程喬久の頭の中は蒼に対する疑惑でいっぱいになっていた。こんな状態にまで追い詰められた喬久を見るのは何年振りだろうか。今まで誰とも付き合った事の無い喬久ではあったが、高校時代に一度だけ彼女が出来そうな時期があった。相手の女子生徒から好意も伝えられており喬久も前向きに考えていた。暫くすると喬久が今のように真っ青な顔をして和己に相談を持ちかけてきた事があった。――相手が他の男と寝たかもしれない、と。その頃から喬久は潔癖で、もしかしたらその一件が喬久の潔癖さに拍車を掛けてしまったのかもしれない。  和己は背凭れから背中を離し、椅子に座り直すと両手を伸ばしストローを摘む喬久の手を握り締めた。恐らく今の喬久は高校時代のあの時の様に良くない思考で頭がいっぱいになってしまっている。巡る思考を現実に向けさせなければ現実的な考えも出来ない。 「――あのさ、喬久。これをお前に今言うべきかは悩んだんだけど」  予想通り和己が手を握っても喬久は先程の様な反応を示さない。自分との間にあった先日の一件よりも偽装恋人相手に意識が向いている証拠で、和己が喬久の手を握ったままその手をテーブルの上に置かせると喬久はその動きを視線で追ってからゆっくりと目線を上げて和己を見る。 「……なに?」  あの晩も今のように喬久の手を固く握って放さなければ良かった。喬久がどんなに嫌がったとしても誠心誠意の気持ちで喬久を引き留める事が出来たならば、喬久にこんな顔をさせる事は決して無かった。  ――これから先、喬久は更に傷付く事になる。それもこれも原因は喬久を止められなかった自分にあると和己はひとりで責任を負う覚悟を決めた。 「お前の彼氏、そのストーカー被害にあってるっての嘘だよ」  時が止まったように喬久には感じられた。和己から告げられた言葉が衝撃的過ぎて、自分とその周りの全ての時間が止まってしまったかのように何の音も聞こえなくなった。望んでいた言葉とは百八十度異なる和己の言葉は、蒼の関与を否定してくれるものではなくその根本をも否定する言葉だった。和己に掴まれた手が石の様に硬くて重く、呼吸をする事も少しの間忘れていた。 「そん、なはず……」  ストーカーが諦める迄、期間限定の恋人の振りだった。蒼にストーカーが居ないとなるならば、蒼はあのバーで何故そんな話を持ちかけてきたのか。蒼の離婚理由にも説明が付かない。喬久がようやくの思いで絞り出した言葉は微かに上擦っていた。  思った通り、喬久にとっては事故への関与よりも衝撃的な事実だったらしく、掴んだ手をゆっくり撫でながら喬久の感情をこれ以上昂ぶらせないように和己はゆっくりと言葉を選ぶ。 「信じられないと思うけどほんとの事なんだよ。信頼できる機関に調べて貰ったんだ」  喬久から元上司との偽装恋人関係を聞いた翌日、和己はすぐに行動に出た。以前から喬久の上司であった蒼の話は聞いており、対象を絞る事に時間は掛からなかった。その結果が出たのが今日の午前中で、事実を知った和己は少しでも早く喬久にそれを伝えなければならないという使命感に駆られた。  喬久の目線は一点に向けられたまま何も捉えてはおらず小刻みに震えていた。今の喬久には視覚からの情報は何も入っておらず、握っているこの手と聴覚からの情報が唯一の感覚器官だった。腰を下ろしているソファから滑り落ちやしないかと和己は不安そうに視線を送るが、喬久の身体は硬直したまま微動だにしなかった。 「……俺、嘘つかれてた……?」 「喬久、その人の事本当に信じていいの?」  心配する和己の一言が喬久へさらなる追い打ちを掛けた。蒼がどんな目的を持ってあの日偽装恋人を持ち掛けて来たのか、根本が否定されてしまうとそれに連なる様々な出来事も全て虚構の上に積み上げられた虚像のようにガラガラと音を立てて崩れ落ちていくような気がした。  あの後和己とどんな話をしたのか、どうやって店から出たのか喬久は何も覚えていなかった。気付いたら和己とは分かれていた。去り際に和己が何かを話していた気もするし、駅前で和己と分かれた事は確かだった。ただひとり取り残された喬久は駅前の繁華街で立ち尽くしていた。頭の中が処理しきれない情報で溢れかえっていて、後ひとつのピースで全てのパズルが埋まってしまいそうだった。  心の中に湧き上がる感情は怒りなのか哀しみなのか――それとも虚無か、埋め尽くせない大きな穴が空いている事を喬久は感じていた。重い頭と怠い身体を今すぐにでも休めたいのに足は自宅へと一向に向かわなかった。ガードレールに腰を下ろすとずしりと重い何かが喬久の上へとのしかかる。喬久の思考を埋め尽くすように背後からのしかかる黒い靄が喬久に悪魔の囁きをする。  蒼は初めからそのつもりで自分を呼び出した。もしあの時喬久が嘘でも恋人が居ると伝えていればこうはならなかったのかもしれない。咄嗟の事で上手な嘘も吐けず、自らの性癖のみも暴露してしまった瞬間、蒼の中にその企てが浮かんだとしたならば――。一体いつからだったのか、再会したあの日か、それとも蒼が退職するもっと前からだったのか。和己と分かれた瞬間を狙ったように掛かってきたあの電話、改めて考えるならば奇妙な程タイミングが良かった。  抱かれたあの晩の出来事ですら全て蒼の策略だったとしたならば、八雲との行為の最中に着信があったのも意図的なものであると考えたならば――蒼には八雲を道路に突き飛ばす確かな理由が生まれてしまう。  内側から混み上がるものを必死に堪える喬久の唇が歪に震えた。喬久にとっての蒼は新卒で入社してからずっと信頼の出来る先輩であり上司だった。男としての生き方が格好良いと尊敬してもいたし、蒼のする事ならば間違い無いとも思っていた。だからこそ内心偽装恋人を頼まれた時は嬉しかった。信頼する蒼から頼りにされた事が喬久にとっては何よりも心震える事でもあったからだった。  喬久はガードレールに腰を下ろしたまま両手にスマートフォンを握り締めていた。ぼんやりと視線を落とすその先には蒼の名前と携帯番号が表示されていた。八雲の発言で蒼が八雲を突き飛ばしたかもしれないと疑った、そして和己の言葉で蒼にストーカーが居た事自体が嘘であると知った。だけれどまだ蒼自身の口から何も聞いてはいなかった。蒼から八雲を突き飛ばしていないと言われれば――それを信じられるのか、喬久には自信が無かった。ストーカーが居ないのにストーカーが居ると言った蒼の言葉の何を信じたら良いのか、以前までのように蒼の事を信じられるのか、喬久の心は大きくぐらついていた。  喬久の指は発信ボタンを押していた。呼び出し音が繰り返される度に喬久の心臓が冷たい手で握り潰されていくようだった。蒼がどれ程才のある人間であるか、部下として側で見ていた喬久が一番良く知っている。そんな蒼であるからこそ、ストーカーが本当は居なかったという事実を喬久が知り得たという事を、既に知っているかもしれない。嘘がバレたと知った場合蒼はどのような行動に出るのか。この発信が蒼に伝わる事無く切られる可能性が喬久の喉元に冷たい刃を突き付けていた。  社長業をしている蒼の仕事が何時に終わるか喬久には想像が付かない。だからこそ今のように自分から唐突な発信をする事は一度も無かった。喬久から連絡をする事も無く、全て蒼の都合に合わせていた。蒼は今仕事中であるかも知れないし、発信を切られたとしても真実を知られたからとは限らない。今話せないのならば蒼の手が空くまで何時間でも待つつもりだった。もし発信を切られたとしても、これまでの蒼ならば都合が付く時に折り返しの連絡をくれるかもしれなかった。それでも切られるかもしれないその瞬間の恐怖が漠然と喬久の中にはあった。  しかし喬久の不安は杞憂に終わり、数回続いたコールの後応答した蒼は数秒空けた後スマートフォン越しに普段と変わらない口調で喬久の名前を呼んだ。 「……蒼さん」  直接本人から聞く前に切られるという可能性には打ち勝った喬久だったが、板一枚を隔てたその先に蒼が居るという事実に感情が混み上がる。聞くべき内容は明確であるにも関わらず、その核心が喉の奥から出て来ようとしない。顔も見えない状況で疑惑をぶつけ、それらを全て肯定されたとしたら――その瞬間に全てが終わるのだと覚悟した喬久の喉が貼り付いたように苦しくなった。 『んっ、どうした喬久。少し声の調子おかしい?』  喬久からの連絡は蒼が知る限り仕事以外ではこれが初めてで、自分から掛けるばかりだった蒼はスマートフォン越しに聞こえる喬久の声に違和感を覚えていた。先日喬久に無理をさせた自覚はあった上、まさか自身が感情のままにあのような行いをするとは夢にも見ていなかった蒼は、その震えているかのような微かな声の違いを聞き取ると不安を露にして声を掛ける。  蒼の声はそれでも優しく、こちらが蒼の嘘を全て知っているという事には気付いていないかの様に心配の言葉を投げ掛ける。喬久は全身の震えから咄嗟にスマートフォンを耳に当てる片腕をもう片方の手で押さえ込んだ。唇が様々な言葉を生むように震え、肝心の言葉が何ひとつ出て来ない。八雲の事故があった時間何処に居たのか、ストーカーが居たという話は嘘だったのか、蒼に聞きたい事は決まっているのに、それを今尋ねる事が出来なくなっていた。八雲との事があったあの日、自分が帰るまで部屋の前で待っていた時の煙草の吸殻の量、一晩中ずっと伝えられた愛の言葉のどれもが嘘だったと思いたく無かった。  信じたい筈なのに、たったひとつの嘘がその全てを否定しようとしている。初めからストーカーの話等なく蒼に交際を申し込まれていたなら自分は受け入れていただろうか。それは絶対に有り得なかっただろうと喬久は考えた。恋人の振りだったから喬久は受け入れた、その時点では喬久の中で和己への想いが揺らいでいなかったからだった。振りでも蒼とそのような関係になったからこそ、蒼の事をもっと知る事が出来た。触れる手が自分に対しても優しい事を、抱き締められる腕が力強くて安心出来る事を。 「い、まから、そちらに伺っても宜しいでしょうか……」 『どうした改まって。勿論いいに決まってるだろ』  これで終わりになるかもしれない。その不安が喬久の中にあった。和己とは親友の関係、八雲とは上司と部下の関係を維持していくつもりのあった喬久だったが、蒼との関係が一度壊れたならばもう元の関係には二度と戻る事が出来ない。嘘を肯定されてしまえばそれまでの蒼の行動のどれが真実であったのか判断が付かなくなる。それでも、最後はちゃんと蒼の顔を見て、蒼自身の口から真実を告げて欲しかった。  蒼から訪問の許可を得た喬久は少しでも早く蒼の元に到着する為、駅前のタクシー乗り場で拾った車に飛び乗った。両手で強くスマートフォンを握り締めたまま、何故か気分は死刑判決を言い渡される直前のようだった。  駅前から蒼の自宅まではタクシーを使えば数十分程度で到着し、その頃にはとうに陽は落ちていた。突然の訪問にも関わらず蒼は喬久を快く受け入れ、初めてこの部屋に足を踏み入れた時と同様、玄関にふわりと広がる芳香はつい昨日の事のように喬久の記憶を蘇らせた。 「いらっしゃい喬久」  薄いブルーのストライプシャツにノーネクタイで玄関扉を開け喬久を出迎えた蒼は、普段通り整った清潔感漂う装いの中傷んだ髪が少し目立った。表情は少し疲れている様子だったが柔らかい笑顔はこれまでと変わらず、心から喬久の訪問を喜んでいた。当初の目的としては玄関先で話を済ませるつもりだったが、それでも蒼の言う通り釣られて部屋へ上がり込んでしまったのは喬久にとって蒼という存在が今も逆らえない存在である事を表していた。  電話口での様子から喬久に何らかの心境の変化がある事に蒼は気付いていた。嫉妬という感情のままに喬久を抱いてその身に幾つもの証を刻み付けた。態度だけではなく言葉を用いても喬久に伝えたつもりもあった。想いを伝えきってからは喬久にも考える時間が必要と考えると、衝動を抑え喬久と連絡を取る事を控えていた。蒼にとってもこの期間は判決を待っているようで、喬久からの連絡を受けた瞬間は期待と落胆が入り混じっていた。その状態で家に来たいと言われれば当然蒼にはこれを断る理由が無い。 「突然すみません」 「いいんだって」  蒼は自室リビングの一角を執務エリアにしており、高価そうなパソコンデスクと複数枚のモニターは先日訪問した時にも目にした。蒼に促されるようにしてリビングへと案内された喬久はソファを薦められるが、喬久の足は竦みリビングの入り口に立ち尽くしていた。連絡をしてから到着まで十分足らず、以前ほどの準備時間があった訳でも無くリビングはどこか片付け切れていない様子だった。パソコンデスクのみならずソファ前のローテーブルにも茶封筒や書類が散らかったままで、書類の存在に気付いた蒼は手早くそれらをまとめパソコンデスクの上へと置く。 「喬久から来たいなんて言われたの初めてだからさ。嬉しくって」  テーブルの上を綺麗に片付けさえすればソファで寛ぐ事も躊躇わないだろうと考えた蒼だったが、蒼が書類を片しても尚喬久はリビング扉の前に足を留めたままだった。声の調子以前にただの上司と部下という関係に戻った時のような硬い口調に蒼は言い表せぬ不安を抱かずにはいられなかった。それでも訪れたからには寛いで欲しいと願う蒼は立ち竦む喬久に向けて困ったような笑みを向ける。 「……あ、いや、そんな」  蒼に歓迎されている事は喬久にも良く分かっていた。それは蒼がお世辞や社交辞令などで他者に純粋な嬉しいと思う気持ちを口に出す人物では無いという事を知っていたからだった。こんな蒼がどんな事情があったかのかは分からないが自分を騙そうとしているとは喬久には到底考えられなかった。それ程蒼は人間として魅力的な存在であり、喬久の決心は崩れ落ちそうな程揺らいでいた。  事実を確認するだけで結果はすぐに分かる。その内容如何によってすぐに失礼する事にもなるが、蒼に疑念を抱かせない為にもここは従っておいた方が得策と考えた喬久は重い足を引きずりソファの前まで歩き付く。背凭れに手を掛けソファの端へ腰を下ろせば、蒼はそんな喬久の様子を見て安堵したのかほっと息を吐きキッチンへと足を向ける。 「何か飲む? コーヒーで良いかな」 「あの、お構いなく」  商談の時先方が出した飲み物を安易に飲んではいけないと喬久に教えてくれたのは蒼だった。蒼にとってはそんな意図は無くただ寛いで欲しいだけの問い掛けだったが、キッチンを振り返る喬久の表情はどこかぎこちなかった。この日の喬久は珍しく仕事帰りのスーツ姿では無く私服姿だった。顔色も余り良くは無く休みを取っていたとしても不思議ではなかったが、訪問を求めるのには常識的であるとはいえない時間でもあった。喬久は昔から何でもひとりで抱え込む傾向があり、今日一日熟考した結論が今出たのかもしれないと捉えた蒼は残念な気持ちを抱きつつも用意しようと手にしたマグカップをそのままシンクの上に置く。  突然の訪問を希望した事からそこには喬久なりの理由があり、メールや通話でもなく直接話さなければならない理由があるのだと理解した蒼はケトルの電源を入れてから手を拭き、冷蔵庫に身を預けるようにその身を傾けた。 「……何か、あった?」  それはとても悲しそうに取り繕った笑顔だった。蒼には喬久が言おうとしている事の意味を察しており、それは決して蒼にとっては良くない内容だった。そうでなければ喬久がこんなに重苦しい雰囲気を纏って訪問する事は無く、先程からも何度か何かを言おうとしてその言葉を呑み込んでいたのを蒼は知っていた。 「蒼さんに、お尋ねしたい事がありまして」  喬久の言葉は蒼にとっては予想外だった。蒼が想定していた喬久の言葉は蒼との関係をここで終わりにするという決断であり、元上司という立場の蒼にそれを伝える事を思い悩んだ挙げ句ここまで憔悴しきっているのだと考えていた。その予想の斜め上を行く喬久からの質問に意表を突かれた蒼だったが、それ以上に喬久との間に感じる距離感が気がかりだった。 「……今日は随分他人行儀なんだな」  一度は縮まったはずの喬久との距離が再度分厚い何かに阻まれたような気がした。急き過ぎたのかもしれないと蒼は自らの行いを憂う。冷蔵庫から身を立て直し、キッチンの換気扇を回すと意識は喬久へと傾けながら蒼はその唇に煙草を咥える。指先が微かに震えている事は蒼にも分かっていたが、動じていないように振る舞いマッチを擦った火を煙草の先端に灯す。ライターとは異なる独特なリンの香りが鼻腔をつき少しだけ気持ちが和らいだ気がした。  深呼吸をするように肺の深くまで煙を吸い込みそれからゆっくりと、体中の空気を全て押し出すように煙を吐き出す。 「聞きたい事ってなに?」  極めて冷静に努めた蒼の言葉が、喬久にはとても怖いものに感じられた。振り返り様掴んだソファの手を握る手に力が籠もる。もう前置きは必要無く、後は喬久が聞きたかった事を聞くだけだった。覚悟は決めてきたつもりだった。それでもいざ蒼を前にすると中々言葉が出てこない。頭がとても重くずきずきと痛む。事実を問うた時蒼の表情が変わるかもしれないという事を考えただけで、胃がひっくり返りそうな気持ちだった。  喬久はソファから立ち上がり一歩、二歩と足を進める。そして蒼の前に立つもその顔を正面から見る事は出来ず思わず視線が泳ぐ。それはあの日八雲に写真を突き付けられた瞬間よりも心臓が縮こまる感覚だった。弱々しい視線が蒼へと向けられる。その視線の意味にすぐ気付く事の出来ない蒼だったが、喬久が薄く唇を開いたその直後蒼はその意味を知る事となる。 「……ストーカーの件、嘘なんですか?」 「お前なんでそれ……」 「教えて下さい」  蒼の指先から煙草の灰が落ち、磨かれた銀色のシンクの上へと落ちる。沸騰を告げるケトルの音がリビングに響いたが、それは正に今二人の間に入った亀裂を表す音の様だった。  喬久がいつどのタイミングでそれを知ったのかは分からない。蒼にもそれを告げるつもりはあった。結局言えないままなあなあな状態になってしまっていたのは否定出来ないが、突然の訪問や感じる距離感、向けられる視線の本当の意味に気付いた蒼の頭の中では全ての合点がいってしまった。  ガラス製の灰皿に残りの煙草を押し付け、身体の中に残存する煙を僅かにも残さぬよう肺から押し出して吐き切る。喬久がここまで思い詰めた上心を決めて来たのならば自らも真面目に向き合わなければならない。蒼が一歩足を踏み出すと弾かれたように喬久は一歩後退する。それが今の喬久の中での結論であり、蒼に向けられた感情の全てだった。 「……確かに。今はストーカーは居ない」 「ッ!」  物理的な距離を詰められないまま、蒼はただ事実のみを喬久に告げた。回りくどく説明をするよりも喬久が今欲しがっているであろう結論のみを先に伝えた瞬間、向けられていた喬久の瞳が大きく揺れた。  ――しまった。と蒼が感じた時には既に遅かった。喬久は確かに真実を求めていたが、事実だけを目の前へ突き付けられた瞬間、ここまで堪えていた喬久の全ての感情が堰を切ったように溢れ出した。悲鳴にも似た声が口をついて飛び出してしまいそうになり、咄嗟に喬久は口元を覆い隠す。感情の制御が上手くいかず震え始める身体を抑える為に片手で腕を押さえ付ける。内側から胃が痙攣して、言葉が出るのを遮るように細かく何度も酸素を求めた。  喬久が想定していた答えのひとつでもあったに関わらず、実際に蒼から告げられたその言葉を受け一瞬確実に意識が遠のいた。膝から崩れ落ちそうになるところを根性で堪えた。蒼は咄嗟に支えようと手を差し出したが、今の喬久自身がそれを望んでいないかもしれないと考えるとそのまま手は宙を掻いた。 「……俺の事、騙してたんですか……?」  来たばかりの時よりも明らかに体調や顔色も悪そうで、今の喬久の中に自分への感情などの様なものへと変質していようがその身体を休ませたいと願う蒼の気持ちは変わる事が無かった。蒼はその時喬久から初めて向けられた表情に言葉を失いかけた。それは憎悪と悲哀が入り交ざった複雑な色をしていて、蒼は全てがもう手遅れである事を悟った。 「だけど喬久聞いて。全部が全部嘘って訳じゃ……」  それでも蒼は喬久に手を伸ばす。蒼が告げたのは事実のみで、当然それに至る過程も存在する。落ち着いて説明する事が出来ればきっと喬久の事も納得させる事が出来る。そう考え倒れ掛かる喬久の腕に手を添えるが、喬久は無碍もなくその蒼の手を振り払った。 「ごめん、なさい、今日はもうこれで……」  喬久の性格は非常に潔癖で、不貞行為は元より嘘が嫌いだという事を蒼は知っていた。今の喬久が何に傷付いて自分の事をどう思っているかなど蒼にとっては考えなくても分かる事だった。喬久の信頼を失った事は聞かずとも分かる事だったが、それと喬久の身を案じる事は別問題だと蒼は考えていたが、喬久はその蒼の手すらも振り払った。  裏切りと失望、後悔と蒼との関係が終わってしまった喪失感、様々な感情に支配されたまま喬久はふらりと踵を返し玄関へと向かう。喬久の想定した最悪なパターンは的中してしまい、信頼する上司だった蒼の何も今は信じられない。 「喬久ッ待って!」  蒼が喬久を呼び止めようとする言葉だけが玄関へと続く長い廊下に虚しく響いていた。

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