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第六章 八雲の事故
振り返ってみれば怒涛の日の連続だった。発端はやはり蒼からストーカー対策の偽装恋人を持ちかけられた時に始まっていたのだろう。部下の八雲が仕事をおざなりにするのは今に始まった事では無く、切っ掛けは久し振りに幼なじみである和己との再会だった。
和己とは幼なじみという間柄、子供の頃から常に一緒に居た。それが恋であるという自覚をしたのは思春期の頃だったが周りの目を気にしていた上、何よりも和己の幸せを第一に考えていた喬久はその想いを心に秘めたままこれまで過ごしてきていた。蒼の偽装恋人となった事を切っ掛けに和己の想いを知る事が出来た喬久だったが、何より大切だった和己の今の幸せを壊すことが出来ず、お互いにこれまでと変わらぬ友情を持ち続けようと約束をした。
喬久が初めて蒼に抱かれたのはその日の晩だった。表面上は納得したつもりの喬久だったが、蒼の部屋に招かれ優しく理由を尋ねられれば感情が爆発してしまい、今まで秘めていた和己への想いを吐露した。蒼と関係を持ったのは話の流れやアルコールの影響というものが大きかったが、蒼は優しく、喬久の心を縛り続けていた感情を解放させた。同性に抱かれる事が初めての喬久ではあったが、恐怖や苦痛もそこには無く、その瞬間だけは喬久は和己のことを忘れる事が出来た。
事態が大きく急変したのはその翌日の事で、仕事を放り出して逃げ回っていた八雲に和己とのキス写真を撮られていた事に端を発した。喬久の中で再び秘められたその和己への感情は八雲によって大きく揺さぶられ、和己の家庭を守る為にも喬久は八雲から提示された取引に応じる他道は無かった。
その数時間は喬久にとっては屈辱の時間で、普段から舐めきられていた部下に凌辱にも近い扱いを受け続けた喬久だったが、撮られた写真を消させるという目的の為だけに八雲に身体を許した。ただ喬久だけが耐え切ればそれで良かった。しかしそれだけで済まなくなってしまったのは、事もあろうに最中に蒼からの電話が掛かってきてしまい、更には八雲がその着信に応じてしまった事だった。
蒼との関係は偽装だと割り切っていた喬久ではあったが、八雲との行為を蒼に知られたしまった事は喬久の中で強く尾を引き、喬久は蒼に失望され見捨てられる事が恐怖とすら感じるようになっていた。八雲に写真を目の前で消させた後、喬久の家の前で喬久を待ち受けていたのは蒼だった。
前日に蒼と身体の関係を持たなければこんなに苦しいと思う事は無かった。和己の家庭を守る為にした事が、いつの間にか蒼をも失ってしまったという絶望の中現れた蒼の存在は喬久の堪えていた感情を決壊させるのに十分過ぎた。
その晩は蒼に何度も好きだと繰り返し言われた気がした。しかし一方の喬久はその欠片ほども蒼に言葉で返す事が出来なかった。喬久にとって最初で最後の恋は和己にのみあり、それから十年以上誰に対しても恋愛感情を抱く事は無かった。喬久自身が和己以外の誰かを好きになる事など考えた事も無かった上、そんな喬久だからこそ蒼は偽装恋人として声を掛けたのだと考えていたからだった。
長年に渡り麻痺してしまった感情はそう簡単に治るものでもなく、第一に喬久がそれを自覚していない事が問題だった。
それで全てが終わった筈だった。喬久の中では八雲に写真を撮られ脅される前の変わらない日常が続いていくものだと疑っていなかった。八雲との間には何も無かった。呼び出されたホテルを出たあの瞬間から、中であった事は全て忘れ再びただの上司と部下という関係性に戻るものだと喬久は考えていた。
「八雲は?」
その日定刻を迎えても八雲の姿は部署の中に見当たらなかった。査定に響くと分かっていながら八雲は毎日の様に五分十分の遅刻を当然の様に繰り返していたが、この日に関しては始業からゆうに一時間は経過をしていた。何度も確認をしたが遅刻や欠勤の連絡が入っていた形跡は無く、喬久が八雲の好意を拒んだ事で気落ちからの無断欠勤をする程繊細な人格を持っているとはとても思えなかった。
「無断欠勤時間更新中でーす」
「あのヤロ……」
同期という間柄個人的な連絡先は交換済みである平町も八雲から何の連絡が入っていない事を喬久に伝える。八雲と喬久の追いかけっこはいつもの事で、先日もふたりは相当やりあったばかりだったが、それを原因として欠勤するような人間ではないという事を平町も理解していた。
駒場は喬久に何か用事があったようで手にしたメモを持って座席から立ち上がる。駒場も勿論八雲の同期ではあるが、子供では無いので自ら連絡も入れられない八雲を気遣う必要は無いと考える程度にはドライな思考を持っていた。駒場が声を掛けると喬久は視線を傾け、子供染みた反抗しかいない八雲の存在を一気に脳内から吹き飛ばした後駒場がメモを見ながら伝える言葉に耳を傾ける。
八雲ひとりが居なくとも仕事は周り、寧ろ居た方が円滑に回らないとも言えた。その中でも駒場は断トツに仕事が出来る人材で、喬久は駒場に高い評価を与えていた。
伝令が終わり時計に視線を落とした喬久の横顔を見た駒場は一瞬ギョッとして目を丸くする。しかしすぐにまた元のポーカーフェイスに戻り何も無かったかのように自らの席へと戻っていく。今日のタスクをどこから順序立てて片付けようかと考えていた平町は向かい側の席へと戻った駒場から向けられる視線に気付く。駒場は目線で何かを平町へと伝えようとしていたが、その意図は平町へは一切伝わっていなかった。
午後になっても八雲からの連絡は一切なく、昼食から戻ってきた喬久は何かあればすぐに応対出来るよう社用携帯を胸ポケットに入れたまま喫煙所の窓辺に寄りかかっていた。元々は綺麗な白色だったに違いないその壁は長年のタールやヤニで黄色く変色しており、うっかり触れると服や肌が汚れてしまう可能性があった。換気扇が回っていても室内に溜まる煙は空気を澱ませ、靄の様に白く漂っていた。
八雲が居ないという事は八雲のやらかしにより怒鳴り込んでくる山城の存在も無いという事で、思ってはいけない事だと分かってはいたがこの日の喬久は八雲が居ない事に安堵感をも覚えていた。それでも無断欠勤は喬久の監督不行き届きにも繋がる為、この煙草を吸い終わり部署に戻った時点でまだ八雲からの連絡が無ければ一度直接連絡をしてみようと溜息をひとつ吐いた。
「……南、どうした?」
八雲の事でこれ以上頭を悩ませるのは御免被りたい喬久だったが、気付けば八雲の無断欠勤理由を探るように頭を働かせてしまっており掛けられた千景の声に弾かれ慌てて顔を上げる。箱から一本飛び出した煙草を唇で挟み、右手ではライターに指を掛けた状態の千景が様子を窺うように喬久を見ていた。
「佐野……え、何が?」
今となっては千景のみが喬久にとって唯一の良心であり、特別な感情の絡まない対等に居られる存在だった。千景がライターで煙草の先端に火を灯す様をぼおっと見つめていた喬久だったが、一方の千景はこの数日で一気にげっそりと陰が濃くなった喬久の状況を読み取ろうとしていた。数日前と何が決定的に違うのかと考えれば雰囲気から醸し出される妙な色気で、数日前にこの喫煙所で遭遇した時にはそんな傾向は無かった筈だと考えながら肺の奥へと煙を循環させる。
「フェロモンだだ漏れしてるけど」
「まさか」
千景の記憶が正しければその時の去り際喬久は友達と飲むと嬉しそうな顔をしていた気がする。部署が違えばタイミングも合わず、それから顔を合わせる事は無かったがこの数日でここまで憔悴する程の何があったのだろうかと思案したまま細く紫煙を吐き出した。千景の疑惑が確証に変わった瞬間は、喬久の薄桃色をしたワイシャツの襟口に視線を向けた時だった。
「後首筋に真っ赤なキスマーク」
ワイシャツが暖色であった事から傍目からは分かり辛いものではあったが、喬久の左首筋に鮮明に残る痕跡はその色の濃さからもこの数日以内に付けられた物のようだった。
「ッ!?」
千景の指摘を受けて喬久は咄嗟に左手で首筋を覆い隠す。どちら側という指摘も無い時点で喬久が左側を覆ったのは、千景の立ち位置から見える可能性があるのは左側のみである事と、喬久自身にも左側には覚えがあったからだった。未だ全身に残る生々しい痕跡は今日もワイシャツの下に肌着を着る事で隠せている筈のものだったが、首筋だけは隠し切れなかった。
好きだ愛していると耳元で何回も囁かれ、身体中へ嬲るように口付けを落とされ、その記憶は今も生々しく喬久の記憶に残っていた。首筋のみならず肌着で隠し切れない箇所にもその痕跡は残されており、中でも喬久が絶句したのは腿の内側だった。何を思って蒼がそんなところにまで痕を残したのか計り知れない喬久だったが、その時の事を思い出しただけで今も身体が熱くなる。
「後顔何か赤くない? 風邪?」
風邪ではなく抱かれた時の気恥ずかしさを思い出してしまったと言えば流石の千景も引くだろうと感じた喬久は、ネクタイを上げ首筋を隠しつつぱたぱたと手で熱くなる顔へ風を送る。煙草の灰を灰皿へと落とす千景の指先は蒼の様に整えられており、恋人が居るらしい事は以前聞いた事があるがその相手を余程大切にしているのだとうなと考えた喬久は、自らの煙草を挟む指先へと視線を落とし再び朽ち掛けたその煙草を口元へと運ぶ。
「――なあ佐野」
「うん?」
口に出してはいけない事のようだったので喬久は今まで一度も千景にそれを言った事は無かったが、喬久から見た千景は顔立ちが女性的でとても男からもモテそうな気がしていた。前にもこうして喫煙所で用を足している時に後輩から呼び出され強引に連れて行かれるという様子を何度も見た事がある。本当は蒼もどうせ抱くならば千景の様に少しでも女性に重ねられる容姿の方が良かったのでは無いか。八雲も自分に好意がある旨を口に出していたが、自分が八雲の立場だったならば少なくとも千景を選ぶ。和己に対しても何故自分なのかという想いは過ったが、喬久自身も何故和己だったのかと問われればそれは答えられなかった。
「俺、今モテ期みたいなんだ」
「ぶッふぉ!」
モテそうな千景ならばきっと自分の今の悩みも理解してくれるだろうと考えた喬久だったが、唐突な喬久の告白に煙が気管に入りかけた千景は噎せ返る。首筋のキスマークと醸し出す妙な色気、そして今聞いたモテ期という言葉を総合して考えれば喬久の相手が一人だけでは無い事が覗える。たった数日で何やら急展開を迎えているであろう事は把握出来た千景だったが、今は気管に入り込んだ煙が辛く、屈み込んで咳き込みを繰り返せば心配そうに喬久がその背中を撫でる。
「……わ、悪い。それってこないだ言ってた友達のこと?」
ぜえぜえと辛そうな呼吸を繰り返す千景は既に役に立たない煙草を灰皿へと放り込み、苦しさから双眸に涙を浮かべたままどこまで踏み込んで良い内容なのか様子を伺いながら喬久へ視線を向ける。
「んー、それもあるけど……」
涙を浮かべ瞳を潤ませる姿は年相応よりは幾分か若く見え、妙なしがらみが無ければ間違い無く抱けると喬久は確信していた。元々喬久の性質は抱く側であり商売人のキャストもそうだが、男らしい見た目というよりかは中性的な容姿がタイプだった。かと言って実際に手を出すかは別問題であり、職場関係者など言語道断である喬久はただそう夢想するだけに留めた。
やがて咳き込みが落ち着いた千景は深い息を吐いた後最後煙草に火を付けるか悩んでいた。時間的にはもう一本の余裕は十分あったが、知り合いと顔を合わせたのならば滅多な事が無い限り共に出る傾向にある。喬久の煙草が尽きかけようとしている今、千景が新たな煙草へ火を付けると双方の終煙時間に差異が生まれてしまう。
「南さん!」
喫煙所の扉を開けたのは、喬久を探し一目散に飛んできた平町だった。パワハラが蔓延る社内の空気はいつでもどんよりと澱んでおり、その中でけたたましい平町の登場は喬久と千景のふたりを驚かせた。喬久が部署に居ないとなると考えられる場所は喫煙所以外に無く、それは第三開発部の共通認識だった。
「何だよ」
慌てた様子の平町を見て喬久は残り少ない煙草を灰皿の中へと捨てる。何かしら用事があって喬久が部署に呼び戻されるのなら良い頃合いだから自分もついでに戻ろうと千景も屈んでいた状態から立ち上がる。結果的に喬久が誰にモテているのかは聞きそびれてしまった千景だったが特に急ぐ必要の無い内容でもあったので、また機会を改めて聞ける時に聞こうと考えた。
血相を変えた平町は部署から全力疾走で階段を駆け上ってきたように息を切らせていた。状況を知るにはまず平町が落ち着くのを待たなければならないと腕を組む喬久だったが、そんな喬久の方を叩いて千景は一足先に喫煙所を出る。
「今病院から連絡があったんですけど、八雲が車に撥ねられたって!」
「なっ……」
それは社の代表電話から総務経由で入った連絡だった。喬久は社用携帯を持って喫煙所に来ていたが、部署に置かれた固定電話の内線に取り次がれ、偶々その受話器を取ったのが昼食から戻ってきた平町だった。
その連絡は八雲が運び込まれた病院からであり、八雲がポケットに携帯していた社員証から社の代表電話へ連絡を入れたとの事だった。平町のメモで八雲の入院先を聞いた喬久はひとり病院へと急いだ。八雲は地方の出身であり親族に声を掛けようとも呼んですぐ来られる距離に親族は居ない。恋人でも居れば話は別だったが、八雲があんな性格で恋人が居たら何重もの意味で驚きであり直属の上司という責任上喬久が向かうしか無かった。実質開発部を纏める部長である四條には千景から話してくれるという事で、喬久は部署を駒場に任せて職場を後にした。
出勤中の事故ともなれば労働者災害補償保険――労災の対象ともなり、八雲の代わりに手続きを行うのもこの場合は喬久となる。面倒臭い手続きはこの際後回しにするとして、今は怪我の状況を把握しなければ何の判断も出来ない。幸い八雲の事故が職場最寄りの駅近くである事が幸いし病院への到着は時間が掛からなかった。
自らの身元を明かし八雲が運び込まれているであろう事を伝えると、社に連絡を入れてくれた救急隊員が八雲の病室まで案内をしてくれた。聞くところによれば命に別状は無いとの事だったがそれでも喬久は気が気では無く、八雲を振った事に対しては一切の罪悪感を覚えていない喬久だったが、それが巡り巡って事故の遠因となっているのだとしたらミジンコ程度の罪悪感を抱かざるを得なかった。
「八雲!」
処置を終えたばかりだという八雲は個室が宛てがわれており、他の入院患者に迷惑を掛ける事は無かったがそこまでの気が回らなかった喬久は勢いよくその扉をスライドさせて引き開けた。一面真っ白なその部屋は普段使われていないのか目に眩しい程の白さで、その病室の中央にぽつんと置かれた昇降式ベッドへ背中を預けた八雲が呑気にスマートフォンを見ていた。
「あっれぇ、南さんじゃないですかぁ。俺の事心配してくれたんですかぁ?」
「……元気じゃんか」
最悪の事態を想定していた喬久にとって、気の抜ける八雲の普段通りの口調は必要以上に気力を削ぐものとなった。扉を開いたままその敷居を跨ぐ事すら出来ず張り詰めた緊張が解けたのと同時に喬久はそのまま屈み込んで膝を付く。救急隊員が告げた命に別状は無いという言葉はその通りで、平町から伝え聞いた話でも病状の詳細までは把握して居なかった。ただ八雲に何かあった場合の責任問題などの考えが先行し、それらが全て杞憂であると分かった瞬間の徒労感は半端が無かった。
「ちょーっと腕にヒビ入って打撲しただけっすよぉ。そんなに息切らして急いじゃって……やっぱ俺の事忘れらんなかったんすかぁ?」
八雲は八重歯を見せて笑い、喬久はその舐めた笑顔を見て殺意すら覚えた。そんな事が有り得る筈は無いと考えながらも心の何処かで喬久は自分の責任を感じていた。もし先日の事が原因で八雲が退職を考えるような事になったとしたら、自らの人事査定評価に大きく響く事にも無い。あっけらかんとした八雲の物言いにこれまでとは比にならない殺意が芽生えるのは当然の事であり、許されるのであれば喬久自身が八雲を車の前へと突き飛ばしてやりたくなった。
「寝言は寝て言え。そうやってふらふらふわふわしてるから車に跳ねられるんだろ」
わざとらしい程深い溜息を吐き扉の手摺に手を掛けながら立ち上がった喬久は緊張から解放された反動で堅く留めていたネクタイを緩める。そんな事をすれば再び首筋が晒され蒼の残した痕跡が八雲の目にも入る可能性があったが、今の喬久にはそんな事を考える余裕も無かった。
言動は怪しくとも病室では流石に八雲もおかしな真似は出来ないだろうと考えた喬久はベッド脇に置かれた丸椅子へ無造作に腰を下ろして足を組む。
「あー、いやぁ」
指先で頬を掻き何かしらの切り返しをしようとしている八雲へ喬久は視線を向ける。社内でもふらふらしている八雲ならば車に撥ね飛ばされようがさもありなんといったところだったが、八雲の顔からは普段のにやけた笑みが消えていた。
「信号待ちしてたら押されたんすよ背中」
「……は?」
八雲の性格上どこかで恨みはかっていそうであったし、事実喬久も八雲を車の前へ突き飛ばしたいという衝動に駆られたのは事実だった。しかし頭の中で思い浮かべる事と実際に行動するのでは意味合いが大きく異なり、その行動には結果が伴う。少なくとも喬久は考えただけで実行だけはしていない。それでも押されたと主張する八雲の言葉を信じるならば、それを実行した人物が喬久以外に存在するという事だった。
「俺はちゃんといつも通りに出勤しようとしたんですよぉ? 南さんがどんな顔してるか早く会いたかったしぃ」
にたりと八重歯を見せて笑うその顔は正しく喬久の知る八雲そのもので、腕以外に頭は打っていなさそうだった。仕事に影響はなさそうだと考える反面、頭でも打って少しは真面目に仕事をしてくれる気にでもなってくれれば良かったのにと喬久は内心思っていた。
「あーうっさいうっさい」
軽口を打てるレベルならば急いで駆け付ける必要も無かったと後悔の念すら抱く。部署は駒場に任せてあるので何か問題が起こり対処しきれなければ連絡が入る手筈となっていたが、思っていたよりも深刻な状況では無さそうだったので予定よりは早いが帰社をしようかと腕時計に視線を落とす。この時間からなら八雲が居ない分円滑に仕事を片付ける事も可能で、久し振りに自宅でゆっくり出来そうだと密かに心躍らせていた。
「わくわく股間膨らませながら信号待ちしてたらぁ」
「変態じゃねぇか。捕まれよ」
これ以上八雲の会話に付き合う事は単純に時間の無駄であると判断した喬久は丸椅子から腰を浮かせる。しかし八雲としても折角自分を心配して来てくれた喬久をこのまま逃してなるものかと喬久が帰宅する気配を察すると咄嗟にその手首を掴む。その手首には先日八雲がベルトで縛り上げた擦過傷が今も克明に刻まれており、心の何処かではまだ八雲に対する恐怖心が拭い去れていなかった喬久の全身に緊張が走る。
声も出さずに喬久は八雲に視線を送る。喬久の気持ちはホテルの部屋を出る時に言った限りで、喬久にとって八雲の存在はそれ以上でも以下でも無い。掴んだ腕から伝わる緊張感に気付かない程八雲も無粋では無かった。上司という責務上ではあっただろうがこうして喬久が様子を見に来てくれた時には心が弾んだ。これを好機と捉えるのならば、今日のような絶好の機会はもう二度と巡って来ないかもしれない。名誉挽回をするなら今しか無く、部下としての八雲を切り捨てきれない喬久の意識をもう少しでも自分に向けさせたかった。
「ま、それは冗談としてぇ。いきなり背中をドンってね」
病室内に異様な緊張感が走り、八雲が事故の状況を話し出した瞬間喬久は掴む八雲の手を振り払った。八雲は急いでもう片方の手で再度喬久の腕を掴む。ベッドから身を乗り出すような形にもなり、八雲は全身で喬久に縋っていた。この腕を放したら二度と喬久は自分の事を見てくれないような気がして、八雲は両手で喬久の腕を懸命に掴む。
何時になく真剣な八雲の姿を喬久はただ蔑んだ目で見ていた。事故に遭ったと聞いて責任感から見に来たのは事実だったが、写真をネタに身体の関係を強要するなどという行いを喬久は許せる筈が無かった。我に返った八雲もこれ以上しつこくすれば完全に喬久からの信頼を失ってしまうと考え慌てて掴んでいた手を放す。八雲が手を放しても喬久はその場を離れずに八雲を見ていた。柄にもなく必死になってしまったと気付いた八雲は普段通りの表情を取り繕い顔を上げる。
「そこに運悪く丁度車が来てたもんだからぁ」
「――誰に押されたんだ?」
八雲に放された手首を喬久は自らの手で支えるように抑える。蒼に触れられる事は平気だったのに八雲に触れられる事は無意識の内に拒否反応が出てしまう。蒼だけが特別なのかとも考えられたが、喬久にとっては千景も蒼同等触れられるのが平気な存在だった。千景のみならず駒場や平町相手にも拒否反応が出る事は無く、大枠に分類するならば山城でさえも煩いだけで自分には害の無い存在であると考えていた。その切っ掛けは間違い無く先日の出来事だった。
喬久に興味を持って貰えた事が嬉しい八雲は嬉々として事故の状況を説明する。八雲にとってもそれは一瞬の出来事であり、突き飛ばされた瞬間迫りくる車と悲鳴をあげる人々――全てがスローモーションに見えていた。振り返る八雲がその目にしたのは今正に自分を突き飛ばしたであろう両手をしまい込もうとしているひとりの男性だった。
「んー顔はちゃんと見てなかったんっすけどねぇ。男でぇ、こう……結構髪が長い感じの」
その男の髪は肩に付くほど長かった。オフィスとなっていた駅付近では出勤途中のサラリーマンが多く、その誰もが男性は髪を短く切り揃えているような姿が印象的だった。髪を伸ばそうものならそれこそ山城や古株連中から男らしくしろ等と訳の分からない言い掛かりを付けられる。社内で長髪や染髪を許されているといえば八雲には縁の無い分室の連中か、それなりに社歴と実績のある更に上の連中のみだった。
「……え?」
八雲が手で示した髪の長さに喬久の表情が凍り付き小さく声を漏らす。八雲の交友関係を全て把握している訳では無い喬久だったがその特徴的な髪の長さには覚えがあった。しかしそれと同時にそんな訳が無いという思いも抱いていた。みるみる内に喬久の顔色が青ざめていく。
「どうしたんすか?」
「いや、何でもない……」
喬久の変化に気付いた八雲は声を掛けるが、これ以上八雲の側に居たらボロを出すかもしれないと考えた喬久は口元を抑えてそのまま病室を後にした。繋ぎ止める事が出来たかもしれないと考えた矢先に踵を返され、八雲は訳も分からず伸ばした手で空を掻いた。
病室を出てすぐ、喬久は閉じた扉に背中を預けていた。そんな都合の良い偶然があるものか、八雲ならばもっと様々な人から恨みもかっているだろうから、喬久の頭に過ったその人物であるという確証を持つには時期尚早過ぎた。
「まさか……」
その人はあの晩なんと言っていただろうか。――『嫉妬』、その感情はそれ程までに人を駆り立てるものなのだろうか。一度湧き上がってしまった疑惑はそう簡単に頭から離れてはくれない。喬久はその場で膝から崩れ落ちていた。
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