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第五章 蒼の嫉妬

 何もかもがどうでも良くなって、この日以上に最悪な日は二度と巡って来ないだろう。瞼を開けると薄暗いながらも視界は明瞭だった。気付けば両腕は自由になっていて、喬久は重い頭と気怠い身体を無理に起こし何時間意識を飛ばしていたのだろうと確認する為、枕元に置かれたままのスマートフォンへと手を伸ばす。液晶画面が告げる時刻は日付が変わる直前で、今から帰宅するよりはシャワーや洗面台もあるこのホテルに泊まっていったほうが楽かもしれなかったが、喬久はこれ以上この空間に居たくは無かった。  ベッドから上体を起こせばずきりと痛む腰は腱鞘炎の痛みにも似ていて、触れてみるとじわりと肌の奥にある筋肉が熱い。仕事への取り組みを見れば分かる通り八雲は何でもやりっ放しで、特に意識を飛ばした喬久をシャワーに連れて行くなり服を着せるなどという気遣いは一切無く、全裸状態の喬久は自らの中にまだ八雲の痕跡が残っている事を明確に感じていた。クーラーの効いた室内で全裸のまま意識を失っていた喬久の頭は割れるように痛かったが、いつまでもこのままでは居られないと考え床に落とされた下着へ目を向ける。  ただ身を起こそうとしただけでふらりと身体がぐらつき、転がり落ちるように床へと倒れ込んだ喬久は薄暗い部屋の中、下着の表裏や前後を確認した上で片足ずつ足を通す。 「――起きましたぁ? 可愛い寝顔、ご馳走様です」  寝ているかの確認は一切取らなかったが、シングルサイズのベッドの片隅に寝転がり片肘を付いたままの八雲が相変わらずの舐めた表情で喬久を見ていた。片足ずつゆっくりと立ち上がった喬久はまず先に拾い上げたスラックスを履いてから一緒にあった筈のベルトを探す。するとベルトはベッドの上へ無造作に置かれており、真っ赤に腫れ上がった両腕の擦過傷は喬久の両腕を拘束していたものが喬久自身のベルトであった事を示していた。  ベルトを手に取り、ベルトループへと通し身体の前でバックルを留めながら喬久はひとつ溜息を吐いてから八雲へと視線を向ける。八雲自身はシャワーでも浴びたのかやけにさっぱりとした様子で白いバスローブを身に纏っていた。 「――写真、消す約束だろ」 「ハイハイ、今消しますよっと」  取引だけは律儀に守る八雲はへらへらと笑ったまま自らのスマートフォンを手に何やら操作を始める。  これで約束は果たした。八雲に抱かせる事が取引の条件で、責務を全うした喬久は汗で湿りすっかり冷え切ってしまった肌着を一蹴し素肌の上からワイシャツを羽織る。これで明日から喬久と八雲はただの上司と部下に戻り今後この件で八雲からの脅迫を受ける謂れは無い。蒼との関係も先の一件で終わってしまったが何も変わらない、蒼と偽装恋人になる前の状態に戻るだけの事だった。和己にも迷惑は掛からない、喬久にとって大切な親友である和己の家庭が脅かされる心配もしなくて良くなる。 「もう二度とこんな事すんな」  湿った肌着やネクタイを徐ろに鞄の中へと押し込み、喬久はベッドの上へ置いたままだった自らのスマートフォンを取るとその液晶画面に時刻以外の何も――蒼からの連絡ひとつも無いことを冷めた目で確認してから尻ポケットへと押し込む。 「さっきまで俺の銜えてアンアン言ってた癖にィ」 「ふざけんな」  八雲がニィっと笑うと特徴的な八重歯が覗く。その醜悪な笑顔を一瞥した喬久は袖口のボタンを留め直している時に自らの声が微かに掠れている事に気付いた。同時に非常に喉も乾いており水か何かを飲みたいと考え室内を見渡すが、ガラス張りの冷蔵庫が目に留まると諦めて帰宅途中に何か飲み物を買おうと決めた。  八雲に写真を見せられたあの瞬間から碌に物が喉を通らず、全て片付いたと安堵した次の瞬間喬久の身体は空腹を訴えてきていた。二十四時間営業のコンビニエンスストアならば食べ物を買う事には困らないし、目下の不安は終電に間に合うかという事だけだったが喬久が左手首に巻いた時計で時刻を確認していると、ベッド上から喬久に近付きつつ上体を起こした八雲がへらりと笑っていた。 「それとも彼氏に聞かれて興奮したんですかぁ?」  たった一言で喬久の心臓は大きく高鳴る。 「ッあ、おい、さん……」  蒼との偽装恋人はこれで完全に終わりを迎えたはずではあったが、改めてその事実を反芻すると喬久の動悸が強くなる。ただ蒼との関係が切れる、それだけの事だった。元々蒼に対するストーカー対策として引き受けただけの役割であり、必ずいつかは終わりを迎える筈のものだった。任期を満了する前に思い掛けずそのタイミングが来ただけなのだと頭では理解している筈の喬久だったが、落ち着いたはずの汗が再び喬久の背中を滑り落ちた。  同性の喬久から見ても蒼は相当なイケメンで、資産のある企業のCEOでもあり、料理も上手くて夜のテクニックも同性相手には初めてと思えない程テクニシャンだった。自分の代わりならば幾らでもすぐに見付かるだろう。蒼とだけはもう元上司と部下という関係にも戻れないかもしれなかったが、それは仕方の無い事なのだと喬久は自らを納得させようとした。 「ねぇ!」  弾かれたように喬久が顔を上げると八雲の顔がすぐ目の前にあり、喬久の腰に手を回して引き寄せていた。咄嗟に喬久はベッドに膝をつき体勢を保つが、八雲は喬久の腰に手を回したまま自らの身体を喬久へと寄せてくる。それは、喬久が今まで一度も見た事が無い真剣な八雲の表情だった。 「彼氏より俺の方がずっと南さんの事満足させてあげられますよ」  喬久は八雲の告げた言葉の意味を理解する事が出来なかった。八雲は勘違いをしているが、確かに喬久は男性相手にした劣情を抱けない部類の人間ではあったが、抱かれるよりは抱く側の人間であった。八雲が提示する満足というものが喬久を抱くという意味である限り喬久の満足はそこに存在せず、百歩譲って喬久が八雲を抱くという意味で捉えるのならば喬久にも相手を選ぶ権利はあった。  鞄の中から長財布を取り出し、入る時に見た宿泊分の料金に足る紙幣を数枚取り出しベッドの上へと置く。それが例え八雲からの申し出であったものでも部下にホテル代を出させる訳には行かず、帰るにしてもひとりで一晩泊まるにしても好きにすれば良いとして喬久は八雲の手を下ろさせると早々に背中を向けて入り口へと歩き始める。 「――金、置いてく。釣りはとっとけ」  あまりにも呆気なく、余韻ひとつ残さずその場を後にしようとする喬久の背中を見た八雲は慌て始める。あたふたとスプリングの効くベッドの上から下りるとバスローブの腰紐を結びながら今正に扉を開けてその場を立ち去ろうとしている喬久へ駆け寄る。 「良かったんでしょ? あんなにトぶ位――」  無理やりであった事は否めない、それでも気持ち良くなければあんなに何度も果てる訳が無いと八雲はまるで犯罪者の様な思考を肯定するように向けられる喬久の背中に問い掛ける。切っ掛けとしては確かに強引過ぎたかもしれない、それでも喬久は自分の意志で此処へ来て、嫌がる素振りを見せながらもその半面シーツがどろどろになるまで欲を放ち身体は素直に八雲を受け入れていた。八雲から見ればこれは合意の上の行為以外の何物でも無く、幾ら賢者タイムがあろうが、上司という立場を気にしているのだとしても次に繋げる為の確かな何かが欲しかった。 「明日からはちゃんと人の話聞いて真面目に仕事しろよ」  ――冷たい一言。喬久からすれば全て終わった事で、この部屋から出たら全て無かった事にするつもりの事だった。明日からは今までと変わらないただの上司と部下、この部屋で起こった事は何も無かった事となる。最後に一度だけ八雲へ一瞥を向けると喬久は無情にも部屋を出てその扉を閉めた。 「南さんっ!!」  扉を閉める音と八雲の悲痛な叫び声だけが室内に残った――。  空腹である事は理解出来ていても、特定の何かを食べたいという欲求が起こらないのは仕事が忙しくなった時に良く起こる現象だった。何かしら栄養になるものを胃袋へと流し込めばそれで良かったので喬久は帰り道のコンビニエンスストアで購入したゼリー飲料を飲みながら自宅までの道を歩いていた。  帰宅をしたらすぐにシャワーを浴びたい。布団に入る時間は大分遅くなってしまうだろうが、このままでは細胞のひとつひとつが八雲の体液と混ざり合ってしまいそうで気持ちが悪かった。シャワーさえ浴びてしまえばすぐにでも寝入ってしまえる自信が喬久にはあった。朝起きたら寝癖を直すのが大変そうだなと考える喬久は無意識の内にスマートフォンを取り出し、ブックマークをしているページのひとつを開いていた。それは喬久が何かあった折に良く利用している男性専門のデリバリー風俗のウェブサイトで、一年程前に初めて利用をしたその日から喬久は決まって同じキャストを指名して自宅に呼んでいた。  シャワーさえ浴びれば全身の疲労からすぐに眠れる自信はあったが、誰かの肌を身近に欲しかった。馴染みのキャストならばどんなに深夜でも空いてさえいれば来てくれるのだが、そのキャストのページを開き料金表を見た時喬久はつい先程大枚を八雲に渡してしまっていた事を思い出した。予め伝えておけばカード決済も可能ではあったが、短期間で消費するには惜しい出費だと考えた喬久が次に意識を向けたのは常用しているチャットアプリだった。馴染みのキャストとは予め日程を合わせる為に個人的なやり取りを行う事もあり、初回時から余程相性が良かったのか利用を重ねる内に相手から「店を通さずにプライベートで会ってもいい」と言われた事もある。  暫し考えた挙げ句喬久は小さく息を吐き画面を閉じて再びスマートフォンを尻ポケットへと戻した。常識外れの深夜、料金が発生するならまだしもプライベートでの呼び出しをする事は気が引けたのもあったが、一番の理由はやはり相手と商売以外の関係になりたくは無かったからだった。  大人しく酒でも飲んで寝てしまえば、朝は時間にしっかりと起きられるはずだった。犬に噛まれたなどと考える事も煩わしい。無かった事にするのが喬久にとって一番楽な解決方法だった。  喬久が自宅アパートの前に到着し鍵を探そうとポケットに手を入れた時、視界の端に見えたものに思わず指先の動きが止まった。 「……蒼、さん」  アパートの前、集合ポストの手前に屈み込んでいたのは確かに蒼そのものだった。喬久の呟きは静寂の深夜に響き、蒼はゆっくりと視線を向けてから立ち上がる。何時間前からそこに居たのか、蒼の足元には数十本の煙草の吸殻が散っていた。セットされていない洗いざらしの乱れた髪、いつでもジャケットを着こなしていた蒼らしからぬ首元が縒れたニットと色あせたジーパン姿の蒼は喬久に近寄るが、蒼の姿を確認した喬久があまりにも凍り付いていた為掛ける言葉も見付からず、伸ばした手もそのまま空に停滞していた。 「……」 「……」  何故、何故蒼が此処に居るのか、喬久の頭は目の前の現実を理解しきれずに硬直していた。電話の相手は確かに蒼だった、それは声や会話の内容から考えても間違いでは無かった。蒼は確かに聞いたはずだった、喬久が欲に溺れはしたなくも乱れた声を上げた事を。蒼にだけは聞かれたくなかった、昨日の今日で脅迫されたとはいえ他の男に抱かれたという事実を蒼にだけは知られたく無かった。  何かを言おうとして口を開くが、唇だけが動いても喉の奥から何も言葉が出てこなかった。「ごめんなさい」、あの時も確かにそう告げた気がした。それは何に対しての謝罪なのか、偽装恋人である喬久が誰に抱かれたとしても本来蒼には関係の無い事で、謝るべき理由がそこにあったのか不確かなままだった。  蒼はずっと喬久の表情を見ていた。通話だけでは何も状況が分からず、すぐにタクシーで喬久の部屋まで来たは良いが喬久は不在で、そのまま喬久が何処かに泊まってくる事も十分に考えられたが直接喬久に会って事情を聞きたかった。会って何を聞くつもりだったのか、元々喬久に恋人が居ないという事で偽装恋人を頼みはしたが喬久の自由恋愛まで束縛するつもりは無かった。「ごめんなさい」と謝られはしたがそれは何に対しての謝罪だったのか、とにかく何が何でも喬久に会わなければならない衝動に駆られた。  喬久の目は一点を見つめたまま固まり尽くしており、口元だけが何かを告げようとして僅かに動く。その顔が何かを必死に蒼へ訴えているように見えて、蒼は一歩踏み出すと伸ばした片手でそっと喬久の頬に触れた。 「何があった?」  蒼の一言にぼろりと大粒の涙が零れ落ちる。涙などあの時に全て出し尽くしたはずだった。喬久が覚悟していた蒼からの侮蔑、憤怒、呆れ――そのどれでも無く優しく触れられた頬に、喬久の感情は決壊を迎えた。 「……ッく、」  凍り付いていた喬久の表情が震え始める。眉がハの字に寄り眉間には深い皺が刻まれる。喬久の口元がわなわなと震え始め、思い掛けず蒼はその場で喬久の顔を隠すように抱き締めていた。喬久の反応や今の表情からも分かる通り、あの通話での喬久の応対は本意で無かったのだと察した蒼は路上にも関わらず喬久を両腕で抱き締めた。男らしく確りとしたその体格は小刻みに震え、それだけでもう蒼は喬久の口から語られずとも喬久の気持ちが分かってしまった。  あの通話は予想外の事で、きっと喬久にとっても屈辱的だった事だろう。昨晩蒼に抱かれるまで喬久は誰にも抱かれた事が無いと言っていた。蒼が言い包め騙くらかしたようなものなのでその責任は感じていた。何がどうなって今晩その様な状況に陥っていたのかは把握しきれるものでは無かったが、何かしらの理由で喬久は今深く傷付いている。  もしかしたら喬久は自分が怒っているのかもしれないと考えていたのかもしれない。だからこそ対峙したばかりの瞬間あの様な顔をしていた訳で、今一番喬久に伝えるべき事は怒っていないという事だと考えた蒼は喬久の感情が落ち着くまでゆっくり背中を撫でる。 「喬久、大丈夫だよ」  喬久が泣く姿を蒼は初めて見た。新卒で喬久が入社し蒼の部下となった頃、初めの頃は確かに何度か失敗をした事もあったが歯を食いしばり堪え、次に活かそうとする逞しい精神を持っている人物だと蒼は思っていた。初めから強い人間なんて何処にも居ない、喬久は自分の弱い面をずっと歯を食いしばって耐え続けていたのだと感じた蒼はただ腕の中にある喬久の存在が愛おしかった。  背中を撫でる手が暖かくて優しくて、何だか懐かしい気もして硬直していた喬久の身体が徐々に融解していった。蒼は怒ってもおらずただ心配して来てくれた事は喬久にも理解が出来た。蒼の肩口に頬を当てたまま蒼が知りたい情報を選んでひとつずつ言葉を紡ぐ。 「……昨日、の……親友との写真、部下に撮られて……脅されて」  喬久が掠れた声で懸命に絞り出した言葉を聞いた時、蒼の胸が締め付けられる程苦しくなった。喬久が件の親友をどれだけ大切に思っていたか、それを知る蒼は今晩喬久が受けたであろう屈辱を自分の物のように噛み締めていた。きっと不本意だったに違いない、あの通話での喬久の声はとても苦しそうに聞こえた。  男として生を受けた者が同じ男に身体を無理やり拓かれる屈辱――本当の意味で蒼はその痛みを知る事は出来なかったが、喬久が傷付いている事は厭でも分かる。出来る事ならばあの時謝罪の言葉ではなく――そこまで考えて蒼はやめた。その想いを抱く権利が今の蒼に無い事を、蒼自身が一番良く分かっていた。 「もう、大丈夫だ……大丈夫だよ、喬久」 「蒼さん、蒼、っさん……」  腕の中で声を殺して泣く喬久の背中を、泣き止むまでずっと蒼は優しく撫で続けていた。  蒼の暮らす4LDKのマンションに比べれば月給手取り三分の一にも満たない安アパートは恥ずかしいものだった。場所を選んでいる余裕は無く感情が落ち着いた喬久はこんな深夜まで自分の帰宅を待ち続けてくれた蒼を自宅へと招き入れた。どうせ寝に帰るだけの家なのだから寒さ暑さを凌げればそれで良く、風呂とトイレが別である事だけが誇れる事だった。  玄関扉に鍵を掛ける暇もなく蒼は喬久を抱き寄せ唇を重ねる。躊躇いがちに開かれる唇の隙間に無理やり舌を捩じ込み、掬い上げ自らの口腔内へと招き入れれば喬久の背筋がぴくりと跳ねる。舌先に柔く歯を立てるとそれから逃れようと舌を引こうとする姿が可愛らしく、舌先を少し撫でてから一気に吸い上げると喬久の膝ががくりと落ち、蒼は腰に手を回して慌ててそれを支える。 「んっ、……は、あ」  昨晩も自ら求めてきた事から恐らく喬久は口付けが好きなのだろうとあたりを付けた蒼は、腰以外に喬久の頭部へ手を回し距離を空けられないようしっかり固定したまま再び唇を重ねる。身長差の関係から覆い被さるように口付けてから舌の表面同士を軽く擦り合わせる。側面から掬い上げるようにして舌の裏にある軟らかい箇所を擽れば喬久の喉元が痙攣したようにひくりと動く。  嫌ならばこのまま舌を噛みちぎってくれても構わない、そんな風に蒼は考えていた。しかし蓋を開けてみれば上気した頬は桃色に染まり年齢より幾らか幼くも見える。潤んだ瞳は物欲しそうに蒼へ視線を送り、やけに熱い口腔内にくらりと蒼の理性が揺れた。 「今日、泊まってっても……良いかな?」  成人男性に使うべき言葉では無いかもしれなかったが、心の傷が癒えないのならば何もせずに一晩眠るだけでも良い。喬久に一瞬でも拒絶を示され傷付いた表情をさせてしまったならば、それを挽回出来る自信が蒼には無かった。  蒼が再び顔を傾け喬久の口の端を伝う唾液を舐め取る。触れた箇所が火の付いたように熱くなり、加えて今晩泊まるという蒼の言葉に喬久の心臓が早鐘を打ち始めた。昨晩身体を重ねたばかりで今日もと言えるほど蒼と喬久も若くは無い。喬久はともかく、蒼はただでさえ責任も重く常に忙しい立場にある存在なので明日に響くような無理もさせたくは無かった。女性の扱いが上手いプレイボーイだという事は部下時代から知っていたが、昨晩の様に優しく甘く、そして深く求められたら――と考えた喬久は再び昂りそうになる熱を必死に抑えた。 「……あ、はいどうぞ。だけど、その前にちょっと……」 「うん?」  自分にとって都合の良い妄想を必死に頭の中から追い出した喬久だったが、ぞくりと背中に冷たい物を感じ自身の中に八雲の痕跡がまだ残っている事を思い出した。帰宅したらすぐにシャワーを浴びたいと考えていたのも事実で、蒼の顔を見たら何もかもが吹き飛んでしまっていたが、勝手な妄想より前にいの一番に風呂へ向かいたいと思い直した。  それを告げれば蒼の機嫌を損ねるかもしれないと感じたが、客人を待たせるのならば納得のいく説明が必要であるとも考えた。 「俺シャワー……その、後処理、してないんで」  喬久の言葉を受けた蒼は考えてみれば喬久から風呂上がりの気配が一切しない事に気付いた。喬久が自宅以外の何処に居たのかは定かでは無かったが、意に沿わぬ行為をしたのならば喬久の潔癖な性格上必ずシャワーを浴びてきている筈だった。それが無いという事は元々時間制限があったのか相手に追い出されたか――喬久自身が一刻も早くその場を立ち去りたかったか。そのどれかであると感じた蒼はほんの少しだけ思考を巡らせた後ちらりと喬久に視線を向ける。 「一緒に入っても良いか?」  出来れば片時も喬久から目を離したくないというのが素直な蒼の気持ちだった。言葉通り捉えるならば相手の体液がまだ喬久の中に残っていて、慣れ親しんだ自宅の風呂場ならば後始末も難しくないだろうが、相手の体液が喬久から排出される時喬久は再びその時の事を思い出し心を痛めるのでは無いだろうか。それが例え一瞬の出来事で喬久がすぐに気持ちを切り替える事が出来たとしても、一瞬でも喬久が表情を曇らせる可能性があるのならばそうならないよう側に居たい。  腰に回した手を臀部へと滑らせ、中指でその丘の中心に柔く触れる。引き締まって適度な筋肉もある、昨晩初めて蒼が拓き傷を付けないように慈しんで大切に扱った場所――その場所に何処の馬の骨とも知れない男の体液が残されているという事実は蒼の心を掻き乱すのに十分だった。努めて表情には出さず喬久を怖がらせないように、それでも蒼の指先は今にもその箇所を抉じ開けて全てを掻き出さんばかりに震えていた。 「一緒に!? え、でも、だけどっ……」  蒼の心中など図り知れない喬久は突然の申し出に動揺を示し、蒼の指先が今どんな動きをしようとしているのか等想像だにしていなかった。中に残った痕跡を掻き出す事は初めてだったが勝手だけは何となく心得ていた。しかしそれは他者に見せられるようなものでは無くよりにもよって蒼の前で八雲の痕跡を処理する様を見られて良いものなのだろうかと喬久の思考がぐるぐる巡る。  ふたりで入るには狭すぎると断るべきか、それでも蒼ならば何らかの対応策を出してきそうだと予見した喬久は再び蒼の前で硬直をして困惑の表情を浮かべていた。これまでの蒼ならば喬久が困っていると分かれば喬久の迷惑にならないよう自らの意見を引っ込める事もあったが、この時ばかりは蒼も譲る気は一切無かった。 「なあ喬久。お願い」 「うっ……」  まるで子犬が耳を垂らすように、眉をハの字に落として蒼は首をも軽く傾ける。蒼にお願いとまで言われてしまえばそれを無碍にする事は喬久には出来ず、渋々ではあったが頷くしかなかった。  単身者向け1LDKアパートのバスルームは成人男性ふたりが入るにはやはり狭く、湯冷めをしないようにと浴槽に貯めた湯を蒼へと勧め、喬久は洗い場に膝を付いてその身体にシャワーの湯を浴びる。喬久宅に現れた時点での蒼はどう見ても風呂上がりから数時間経過した体裁で再度湯に浸る必要は無いようにも思えたが、屋外で蒼を待たせてしまったのは自分の責任であると感じた喬久は何とも苦々しい思いを抱きながら体中の不快感をシャワーの湯で洗い流す。  蒼には既に一糸纏わぬ姿を昨晩見られている喬久だったが入浴中の姿を見られるのはまた別の話であり、乱雑に頭から湯を被りそのついでに湯で顔を洗う。  何故か蒼は湯船の中からじっと喬久の裸体を眺め続けるばかりで、その刺さるような視線に気不味さを覚えた喬久はちらりと目線を送る。視線が絡むと蒼はにこりと笑みを浮かべその笑みの真意すら分からない喬久は困ったように笑みを浮かべるだけだった。冷静に考えれば間抜けな状況であり少しでも早く処理を終えて出ようと思案する喬久だったが、自らその場所を指で拓くという行為そのものはとても人前で出来るようなものでも無かった。  昨晩の行為痕もまだ生々しく、その全てを自分が残したものだと把握している蒼は薄っすらと耳裏に残る鬱血痕を見て目を細める。喬久の事だから耳裏の鬱血痕には今日一日気付いていないだろうと考える蒼だったが、まさか昨日の今日でその肢体に残る痕を第三者に見られるような事態が発生するとは考えていなかった。 「……見られた?」 「はい……」  皮膚の下の内出血は数日も経たず消えるものではあったが、正にそういった行為をしたと表明しているかのようなその痕はこの日の喬久が肌着の着用を選択せざるを得ない状態だった。喬久の身体に残る痕は蒼が残した鬱血痕や歯型のみならず、その両手首に残る真っ赤な擦過傷もそれだった。喬久は手首に湯が当たる度僅かに眉を動かし、何があったのかと問う必要も無いほど蒼には状況が見えてきていた。  八雲が触れた箇所、吐息の掛かった部位、蛞蝓のように舌が這った場所を湯で全て洗い流した後喬久の手は意を決してその一番の痕跡が残る部位へと伸びる。少しでも気を抜けばだらしなくもその場所から漏れて出てしまう痕跡を気合だけで締めて帰り、後は掻き出すだけのその状況となった喬久は再びちらと蒼へ視線を送る。 「……あ、あの。あっち向いてて貰っても良いですか?」  人からじっと見られる中行う行為では無く、蒼の同室を避けられないのは仕方無かったがせめて顔を背けるか目でも瞑っていて欲しいと願う喬久は今も尚浴槽の縁に頬杖をついてじっと見つめる蒼に声を掛ける。 「なんで?」 「なんでって……」  一方の蒼は喬久の意を一切介していないのか、何故そんな事を言われるのか分かっていない様子で首を傾ける。蒼に対してそれ以上強く言えない喬久は困惑した表情を浮かべたまま作業を進めるかを悩む。すると蒼の目線が頬杖を付いていた状態から上へと移動し、浴槽から立ち上がった蒼は縁を跨ぎそのまま喬久と同じ洗い場に出る。どう考えても狭すぎると喬久が再度困惑を表した時、蒼は喬久の腕を引いて自らの方へと抱き寄せた。 「恋人なんだから、少し位嫉妬しても良いだろ……?」  手首の擦過傷は痛々しく、気付かない振りは幾らでも出来たが喬久の目元は赤く腫れていた。蒼が今ここで出来る事など限られている、最もしてはいけない事は喬久をひとりきりにする事だった。昨晩付けた耳裏の同じ箇所に唇を寄せる。耳の形を確認するようにじっくりと舌を這わせてその耳奥を細くした舌先でなぞる。こんな硬くて小さな孔ではなく、もっと別の――拓く程喬久の身体が火照り、溶けて、見た事の無い切羽詰まった表情に染まるその場所に、自分では無い男の体液が今も残っているという事実は蒼の心の奥を強く駆り立てた。 「蒼さん……」  音を立てて耳元で響く水音に喬久の両肩がぞくりと震える。バスルームという場所の所為かその淫靡な音はやけに響いて聞こえ、ぎりぎりの状態で堪えていたその箇所への力が今にも抜けてしまいそうだった。しかし今の状態で力を抜く事は別の何かをも垂れ流してしまいそうな不安に駆られ、力を込めて堪える程違和感に近い液体が喬久の内部を刺激する。  蒼は喬久を抱き締めたまま床のタイルへと腰を下ろし、片方の足を両足の間へと割り入れる。見られたくないのならば見ている事が分からない状態になれば良い。蒼は先程と同様に喬久の背中をゆっくりと撫でながらもう片方の手を緊張で震えるその箇所へと滑らせる。 「喬久、俺に捕まって。膝付いて……尻上げて」  自分でやる事も憚られる事なのによりにもよって蒼自身がそれを行うと聞き驚きを隠せない喬久だったが、蒼の指先は既にぬるつく襞を撫で回しており耳元で優しく囁かれる言葉も相成り、喬久は促されるまま浴槽に背中を預ける蒼の首に両腕を回す。  焦らすように蒼の指は喬久の襞を撫で、見えないながら場所を探り慎重に指を進める。とぷりと指先が埋まると同時に何かが伝わって漏れ出る感覚があり喬久は嗚咽の様に声を切らせた。少し引っ張ればその箇所は容易く蒼の指を受け入れ八雲の残した体液が蒼の指を伝う。指の腹で内壁を探ればこびり付いているようにへばり付いていたその体液を指の腹で優しく撫でると喬久の腰が震え始めた。少量であっても喬久の中に残しておきたくはなく、余裕のありそうなその場所に隻手をも回した蒼は両側から各々指を埋めていき体液の逃げ場を作るようにその場所を広げる。  蒼の指によって常時からは考えられないほどその箇所を拡げられている事を理解している喬久は、複数の指が無造作に内部を撫で回すその動きを受けて中心部に熱が集まりつつある事を感じていた。 「……ッア、蒼さんっ……あんま、その、拡げないで……」  ある程度の体液は既に流れ出たかもしれなかったが、どこまで相手の侵入を許したか分からなかった蒼は更に奥へと指を進めていた。全身は先程喬久がシャワーで洗い流していたが、内部にはまだ相手の触れた箇所が残っている。その全てを自分の感触で上書いてしまいたくて拭き取るように内壁を擦れば蒼の腿に粘度の高い液体が滴る。その色は水の様に色が無かったが、堪えきれない欲が喬久から漏れ出してきているのだと認識した蒼は少し指先の動きを早め内壁を叩くようにして喬久を内側から呼んだ。 「拡げないと出せないだろ? それとも、ぐちゃぐちゃに掻き回される方が好き?」  指先だけでは喬久の奥まで触れる事が出来ない、もっと奥まで、触れれば触れる程喬久が押し殺しきれない嬌声はいやらしく浴室内に反響する。その堪える姿がとてもいじらしく、押さえ付ける理性をぶち壊して、抉じ開けて、奥まで捩じ込んでどろどろになるまで甘やかして溶かしたい衝動に駆られる。蒼は既にその感情の名前を自覚していた。 「はっ、やめ、蒼さ……頭、おかしく、なるっ……」  昨晩確認した喬久の一番弱い箇所を内側から擦るように何度も押し上げれば、蒼の肩口に冷たい何かが落ちる。喬久は蒼の指を強い圧力で締め付け全身が痙攣しているように震える。目の前にちかちかと閃光が弾け締まりきらない口から唾液が流れ落ちる。蒼の指が優しく何度もその箇所を擦る度喬久の脳天を突き上げる衝動が無意識に指以外の物を求めさせていた。 「……嫉妬で、俺の方が頭どうにかなりそうなんだよ喬久」  言い聞かせるように蒼の指は尚も抽出を繰り返す。その度に沸き起こる衝動の所為で喬久の頭がずきずきと痛み始めていた。やがて指の感覚が喬久の中から無くなると安堵した反面物足りなさも確かに感じていた。堪える喬久の腕には喬久自身が食い込ませた爪の後が残り、蒼はその腕をそっと解かせると倒れないように喬久の両腕を掴む。欲に塗れたその顔はあの時の通話の時とは異なり、蒼が蒼自身の手で迎えさせたものだった。我ながら子供じみていると感じる蒼ではあったが、今まで誰とも付き合った事が無いと言っていた喬久は考えてみれば隙だらけの状態でもあった。こんな無防備な姿を他の誰にも見せたくは無い、もっと早く手を打っておけば良かったと蒼はこの時ほど強く感じた事は無かった。  抜いた指の代わりに喬久を求めて天を仰ぐ主張を宛てがう。避妊具の用意などしている筈もなく危険な行為ではあったが、蒼はその衝動を止める事が出来なかった。 「蒼さん、ッん、」  ひくりと喬久のそこが熱の感覚に収縮する。触れていながらも焦らすように襞を擦り付け、葛藤に歪める喬久のその表情を蒼は目を細めて見遣る。欲しがるその姿が可愛らしくて、自分から腰を落とす事が出来ないプライドがいじらしくて、その顔に先程までの傷付いた表情は一切見えず、目の前に居る自分の事しか考えられていない喬久がただただ愛しかった。 「他の男の精液なんか全部掻き出して、お前の中を全部俺で埋め尽くしたい」  偽装なんて言葉は無かったように踏み倒して、喬久が自分だけを求めるように、自分だけを必要とするように――「助けて」と言って貰えなかったあの瞬間の悔しさを二度と思い起こす必要が無いように、喬久の腰を抑えてその狭い襞を押し広げて蒼は喬久を抉じ開ける。 「ンんッ」  ゾクゾクと全身が震え、蒼が肉を割って侵入して来る状況に喬久の背中が大きく反れる。昨晩と同じでも昨晩とは決定的に何かが違う、蒼が怒っていなかった事、蒼に見限られなかった事、その上でまだ自らを求める蒼の言葉を純粋に嬉しいと感じる余裕は今の喬久には無かったが、この時の喬久の頭の中には数時間前に起こった八雲との出来事は完全に忘れ去られていた。  反れる身体を支えるように蒼が喬久の腕を掴む。向かい合って蒼の上に乗って、自分の昂りすら明確に見えるこの状況で、蒼の事がただ欲しかった。 「……喬久、好きだよ」 「蒼、さんっ、」  蒼の頭部を抱え込むように腕を回し、吸い寄せられるようにそのまま唇を重ねた。口付けが深くなるのと同時に蒼は喬久の奥へと進んでいき、蒼は喬久の五感全てをその晩のうちに全て塗り替えた。

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