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第四章 越えさせられた一線

 蒼と一線を越えたその翌日、喬久は午前中から再び血管が沸騰しそうな事実に直面していた。  長年想い続けていた和己との両思いが発覚した途端それは失恋と同義になり、自棄のまま訪れた偽装恋人に初めて抱かれた衝撃はその日の出来事全てを吹き飛ばしていた。それでもこうして現実へと引き戻されれば有害な部下の存在が消えている訳も無く、乱雑に残された書類を握り締めて背中を震わせる。 「……ッ、八雲は?」 「あー多分トイレじゃないっすかね」  いつもの事ながら八雲の尻拭いを押し付けられた喬久の絞り出すような怒気を孕んだ言葉に声を上げたのは八雲と同期入社の駒場だった。喬久の部署には比較的若い人材が多く、才能のある若手を集めているというよりは育成目的であり業務のいろはを教え込むのも喬久の仕事であった。社内には優秀な若手のみを集めた特別部署もあるとは聞くが、そんな事は到底自身とは無縁と考えている喬久は今日も八雲の育成に胃を痛めるしか無かった。 「南ィッ!!」 「いッ……」  決して薄い訳では無い壁を隔てた向こうから聞こえてくる怒号。いつもの事ながら反射的にその声に反応を示した喬久は怒りと緊張の狭間で判断力が鈍っていた。 「主任、逃げた方がいいんじゃないですか? 山城さんまた来ますよ」  八雲の失態を上司である喬久が被るのは恒例となってしまっていたが、それに意義を唱える者がひとりも居ないのが社内の悪習ともいえた。決して喬久が八雲の指導に対して手を抜いている訳では無いという事を知っている駒場は、一度くらい逃げても構わないだろうと精一杯の助け舟を出したつもりだった。 「逃げていいなら俺も逃げたいよ……」  完全裁量労働制である喬久の部署は個人に任された仕事をこなす事が大切であり、幾ら同期であっても駒場が八雲の仕事上でのフォローをする謂れは一切無かった。本来ならば八雲も自身へ与えられた仕事を時間内に片付ける義務が発生しているのだが、それらを毎回のらりくらりと交わして後始末を全て喬久へ押し付けている事が、喬久のストレスの大きな原因となっている。 「あ、南主任。八雲のヤツ休憩所で休んでましたよ」  ハンカチで手を拭きながら部署へと戻ってきたのは用足しを終えた平町で、彼もまた八雲、駒場と同じ同期入社の人物だった。どちらかと言えば融通の利かない真面目な駒場とは異なり、平町は何でも要領良くこなすタイプの社員で、その情熱の全ては退勤後のガールズバー通いへと向けられている。何度か喬久も誘われた事はあったのだが八雲の仕事を片付けきれない喬久は容易に誘いに乗る事が出来ないままでいた。 「はあッ!?」  午前中までに片付けなければならない仕事を放置した上、呑気にも休んでいると平町から聞かされた喬久は余裕無く声を荒げる。振り返った拍子に触れた手が机の上の書類を落とし床へと散乱する。どれがこの後の会議で使う書類であるかも判別が付かない状態へと陥りつつ、間近に迫る山城の怒声からも逃げ出したいと考えてしまう喬久は自分の中で何か異変が起こっているのを感じていた。 「俺、行ってくる。山城さん来たら居ないって言っといて!」  それは蒼という存在に手を伸ばしてしまったからこそ生じてしまった弱さなのか、逃げるという選択肢など今まで一度も考えた事の無い喬久だったが、優先順位の問題として今は第一に八雲の捕獲に走る事に決めた。山城の相手を駒場と平町に任せる事は忍びなかったが、平町は兎も角駒場ならばある程度山城を宥める事は可能であると判断し、床へと散った書類に足を取られつつも慌てて部署の扉を開けて飛び出す。  慌ただしく走り去っていく喬久の足音と、近付いてくる山城の怒号を耳の端に捉えたまま自席の椅子へと座り直した平町は、その背凭れに体重を預けながら向かいに座し規則的なタイピング音を響かせる駒場へちらりと視線を送る。 「八雲もさあ」 「なに?」  平町が自分に話しかけているという事に気付いた駒場は、タイピングの手こそ休める事は無いものの一度だけ平町に視線を向けてから再びモニターへ戻す。 「主任に構って欲しいからってやり過ぎてんだよな」 「あー主任の気ィ引きたいの見え見えだもんな」  知らぬは本人ばかりなり――誰がどう見ても八雲の行動は喬久の気を引きたいだけのものであった。同期入社である駒場と平町のふたりは八雲の本来の実力をある程度把握しており、喬久が率いるこの部署へ共に配属されてから現在のような行動を取り始めた意味に薄々勘付いていた。少なくともふたりにとって喬久は信頼出来る上司であり、八雲に日々振り回される状況を憐れに思う事もあれど、八雲を諌めようと感じた事は一度も無かった。決して無能では無い喬久がいつかは八雲の行動の意図に気付く筈だと思い早数年――喬久と八雲、ふたりの追いかけっこは日常茶飯事のようなものになってきていた。 「多分、それ気付いてないから主任キレてるけど」  仕事の能力と人の気持ちを察する能力は必ずしも等しいものではなく、駒場は一通り処理を終えたファイルをCtrl+Sで保存し左肩を抑えて首を回す。まだ能力を見くびられているのか回される仕事は駒場にとっては簡単なものばかりであり、本日分の業務を早くも終えてしまった駒場は背凭れに背中を預け組んだ両腕を天へと伸ばす。 「だって仕事だし」  平町が用足しから戻って間もなく入れ違い状態で部署を出ていってしまった喬久であったが、すれ違いざま覚えた違和感を拭い取る事が出来る頬杖を付いたまま右手で無為にマウスを動かしていた。今は迫りくる山城の襲来でやる気こそ失っている状態であるかもしれないが、本気さえだせば平町であっても定刻までに課せられた仕事を片付ける事は可能だった。山城の襲来も普段見ている喬久の真摯な対応を真正面から受け止める事で比較的被害を少なく抑える事が出来る筈だと考えていた駒場はふと頭に思い浮かんだ内容を平町へ伝える事にした。 「なあ何か今日の主任ってさ……」  殊に八雲が起こす不祥事により山城に詰められる喬久は日頃からげっそりとした何処か影の印象が強い人物だった。それがこの半月程は妙に上機嫌である事が多く、彼女でも出来たのではないかという結論が駒場と平町双方が出した結論だった。喬久の部下になってからも親しく飲みに行くような関係にこそなってはいなかったが、喬久が独身で彼女も居ないと公言していた事はふたりのみならず八雲も認知している事だった。喬久の変化に八雲が気付いているのか定かでは無かったが、八雲はそれでも相変わらず喬久をからかうように仕事の手を抜き続けている。  駒場の告げた言葉の意図を察した平町は手慰みに手の上で無造作にボールペンを回し始める。平日のみではあるが毎日の様に顔を合わせている関係であるからこそ、今朝喬久から受け取った違和感は平町もつい言及せざるを得なかった。 「分かる? なぁんか色っぽいっていうか……フェロモンだだ漏れみたいな?」  およそ彼女の存在だけでは承服しきれない、異質な雰囲気を喬久は纏っていた。喬久も大枠で括ればもうアラサー、年を重ねる毎に大人の色気や魅力は増すと聞くがとてもそんな言葉で割り切れるような簡単なものでは無いような気がした。  大人の魅力といえば山城などは比較にならないが、山城と同期の四條などは物腰も柔らかく正に大人の魅力という言葉にぴったりの人物だった。ふたりの更に先輩にあたる営業の茅萱という人物が居るが、その人物もまた四條とは違う魅力がある。しかし茅萱は大人という言葉とはまた掛け離れており一見すると男子高校生、良くて大学生程度の若々しい容姿の持ち主であった。年を経ても尚美しい女性を美魔女というのならばさながら茅萱は美魔法使いとでも形容が出来た。皺ひとつない目元に黒々と長い睫毛、大きな瞳を有する茅萱はそのルックスで男子アイドル並みの人気を誇っていたが、その反面四條と異なり後ろ暗い噂も幾らか耳にした事がある。  究極の二択として考えれば今日の喬久から受ける印象は四條寄りのものではなく茅萱寄りのものに近かった。他に選択肢の無い二択ならばそう分類するしか無かったが、それ程にこの日の喬久は異性のみならず同性すら引き付ける何かがあったような気がした。 「耳の裏にキスマーク付いてた」 「ひゅー、やるぅ」  それは駒場が作業内容の確認をする為午前中に喬久の側へと近寄った時の事だった。喬久の手元に参考となる前例データがあったらしく、それを取り出すべく袖机を引いた喬久を斜め後ろから覗き込んだ時駒場は気付いたのだった。恐らく喬久本人すら気付けないその位置に残された紅い鬱血痕。視力が悪く眼鏡を掛けている駒場の目にもはっきりと焼き付いたそれは相手のせせら笑う唇の形にも似ていて、一種の警告であると駒場は即座に判断した。 「気付いて無いのかな」  平町が知る限りの喬久は容姿に鈍感では無い。常日頃からもみあげから顎にかけて無精髭を蓄えている山城とは異なり、毎朝鏡に向かって髭も剃っているだろうし喬久に目脂が残っていた事も無い。そんな喬久だからこそ気付いていたならば絆創膏で隠すなりしていた事だろう。見せ付ける事で優越感を覚える人間では無いという事をふたりは理解していた。 「気付いてたら隠すでしょ」 「まあそっか」  数機の自動販売機とプラスチック製の長椅子が並べられた休憩エリア。飲料だけでは無く菓子パンや栄養補助食品も購入出来る事から福利厚生が充実していると考えられるが、それは反面帰宅する暇もなく社内で食事を済ませる事も可能だというブラックな一面も覗かせている。  片手にぐしゃぐしゃの書類を握り締めたまま喬久は休憩エリアに到達した。既に背後に聞こえていた山城の怒号は小さなものとなっており、部署に残した駒場や平町にその対応を押し付ける事は身を切られる思いではあったが生憎喬久の身体はひとつしか無い。山城に頭を下げる事より八雲を取っ捕まえて書類の再提出を行わせる事が優先的かつ有要であると判断した喬久は鬼の様な形相で八雲の目の前に現れた。 「八雲ッ!!」  その意図は明確でなかったが、エリアの一番奥に置かれた長椅子へ腰を下ろし神妙な面持ちでスマートフォンの液晶を眺めていた八雲は唐突に投げかけられた言葉に心臓が口から飛び出る程驚き、大きく背中をビクつかせると同時に液晶画面を下に向けると恐る恐る声を掛けられた背後を振り返る。 「ゲッ、南さん……」  そこには当然鬼の形相の喬久が迫っており、その片手に握られているのは先程八雲が確認用にと回した書類だった。喬久が何に対して怒っているのかは明確であり、喬久の性格上探し回りに来る事も想定していたが、それでも唐突に声を掛けられれば誰であっても八雲の様に驚くものだった。それが常日頃から喬久が山城にされている事と同じものであるとは八雲はまだ理解していなかった。  提出必須の書類もおざなりに休憩エリアで油を売っていた八雲を発見した喬久は獲物を決して逃さない肉食獣の威圧感で八雲へ歩みを進める。あたふたと手元のスマートフォンを何処に仕舞おうかと苦戦する八雲の正面へと周り土足のまま長椅子へと足を落とせば、それは回避不可能な牢の様に八雲をその場に縫い留めた。 「『ゲッ』って何だよ『ゲッ』って! お前なあ、何回言えば分かんの!? こないだも同じ間違い教えたばっかだろ!?」  パワハラはいけない事であると認識していながらも朱に染まれば赤くなるのは喬久も同じで、八雲の所為で毎日のように山城の怒号とパワハラに晒されていた喬久もまた無意識の内に似たような行いを部下の八雲に対して行ってしまっていた。 「あーハイ、そっすねえ……」  目前の上司に足を上げて威嚇された八雲の目が泳ぐ。その姿は普段と異なり非常にバツの悪そうな様子に見えた。 「聞けよ、人の話」  へらへらと笑う口元は普段と変わりないものの、喬久がこんなにも余裕なく鬼気迫る姿で現れていても八雲に対してはのれんに腕押しにも近い状況で、喬久から見た八雲の目線が右下に落ちたかと思うと次の瞬間八雲は怯みもせず喬久へと顔を寄せていた。 「まあそんなにカリカリしないでくださいよぉ」  舐めた目付きは相変わらずで、時と場合を考えず伸ばす語尾も喬久は苦手だった。八雲が喬久に対して舐めた態度を取る度、蒼の様に部下の指導が出来ない自分自身を無意識に比べて自己嫌悪に陥っていた。蒼の様な尊敬される上司にもなれず、山城の様に部下を恫喝するが為に声を荒げてしまう。蒼という理想の姿からどんどん掛け離れてしまっている喬久に追い打ちを掛けるのはいつでも八雲の言動だった。 「……何かお前今日距離近くない?」  自己嫌悪の中、一時意識が飛んだ喬久ではあったが気を取り直した時八雲の右手は向かい合う喬久の左腕を掴んでおり、これではどちらが捕まえたのか判断が付かない状態になっていた。 「えーいつもこんなモンでしょ」  八雲に上司として尊敬されていない事には喬久も気付いていた。八雲からの信頼を得られていないからこそ八雲はまともに仕事を覚えようともしないし、八雲を管理しきれない事で山城からも毎日の様にせっつかれる。 「俺が近寄るといつも逃げる癖に。その上話もロクに聞かねぇわ――」  喬久は八雲が掴む腕を振り払い後退して距離を取る。八雲のこの態度が上司の器に向いていないと喬久に嫌でも知らしめた。喬久を主任という立場に引っ張り上げたのは当時部長である蒼だったが、その蒼が数年後退職してからは喬久がひとりで部署を纏め続けていた。管理する立場に向かない事など喬久自身が一番良く分かっており、上と下に挟まれ胃が引っくり返る思いをした事も一度や二度の事では無い。 「ところでぇ、南さんにちょっと見てほしいモンがあるんですけどぉ」  八雲の一言で喬久はハッとして現実に引き戻される。後退して距離を取ったはずの喬久だったが、今度は八雲の方が喬久を背後の壁際へと追いやる様に距離を詰めており、パーソナルスペースを侵すその距離は瞬きの音ですら聞こえそうで、とても部下と上司の適切な距離では無かった。  少し前に視線を落として何かを考えていたような八雲だったが、喬久へぴったりと身体を寄せつけながら片手に持ったスマートフォンのロックを指先で解除するとその液晶画面を見せるように喬久の目前へと突き付けた。 「これ、なぁーんだ?」  それは薄暗い路地を撮影したような写真で、見せられた瞬間喬久はすぐにそれが何かは分からなかった。人影の様なものが確認出来たが全体的に照明が足らずに薄ぼんやりと輪郭が確認出来るかもしれないという程度のものではあったが、眉を寄せて見てみればその人影はひとりではなくふたりあるようだった。手前よりは奥の方が明るく、何処かのトンネルか高架下の一角を映したものだと喬久が理解し始めた時、ひゅっと喬久の喉が鳴った。  ぴったりと重なるふたつの影、それは片方が壁際に押し付けられているようにも見え、ふたりの唇は重なり合っていた。それは疑う余地も一切無い、昨晩の喬久と和己のガード下での瞬間だった。 「ッ、おま、これっ……」  蒼との事ですっかり頭から抜け落ちてしまっていたが、不意打ちの事故のようなものであっても誰が見ているかも分からない往來でそれは起こったのだった。喬久は自らの性的嗜好を社内でカムアウトした事は無く、これからも誰にも明かすつもりは無かった。それでも今こうして部下に見せ付けられているこの写真はバレたも同然で、喬久の喉の奥に冷たい汗が流れ落ちた。 「いやぁ昨日偶然? 南さんの事見掛けちゃってぇ。何してんだろ? って思ったらいきなりキスなん」 「待てっ、言うな此処でこんな事言うな」  喬久は咄嗟に両手で八雲の口を覆い隠していた。八雲の言葉だけでは喬久と誰のキスであるかは他の誰にも分からないものではあったが、ただ八雲に見られていたという思いが先行してしまった喬久はそれ以上八雲の口から何も告げさせないように口を覆う事しか出来なかった。  八雲の口を覆い隠したまま喬久は思考をフル回転させてどの様に昨晩の出来事を誤解の無いように説明出来るかを考えていた。ただでさえ普通に説明しても理解出来ない八雲に対して、間違った説明をしてしまえばあらぬ噂が部署内に広がらないとは断言が出来ない。ただの酔っ払いの戯れであるというだけで躱せるものなのか、そもそも八雲が何処まで見ていたのかも分からない喬久の視線はこれまで無い程に泳いでいた。ぬるりと生暖かい感触が指と指の間を無理やり抉じ開けてきた瞬間、喬久は思わず悲鳴を上げてしまいそうになった。 「――ッ!」  五感の全てを放棄し思考だけを動かしていた喬久はその突然の感触に咄嗟の声も出なかった。八雲の舌は喬久の指を伝い、指の股を舐め、それでもじっと視線は喬久を見つめていた。それはまるで捕食する蛇か何かにも似ていて、喬久は背中全ての毛穴に鳥肌が立ったような感覚を得た。 「言わないだけでいいんですかぁ?」  喬久の目は向けられている八雲の目とその手前にある八雲の唾液に塗れた自らの手に釘付けになっていた。和己や蒼とは違う、拒絶出来ない目線がそこにはあった。八雲は見せ付けるように喬久の指に舌を這わせ、指先から根本へと舌先を這わせていく。振り払う事など簡単なはずなのに喬久にはそれが出来ないでいた。 「消して欲しいんですよねぇ? このしゃーしーん」 「なに……」  八雲が何を望んでいるのか察せない喬久では無かったが、自然と言葉が口から零れていた。分かっているのに問うてしまったのは喬久自身が自意識過剰に思い込んでいるだけであるかもしれなかったのと、普段通り八雲が斜め上の発言をするかもしれないからだった。  喬久からの回答を受け取った八雲はその舐めた目尻を更に落とし、嬉しそうに口元を歪めた。それは喬久が初めて八雲を部下として迎え入れた着任の日の表情にも似ていた。 「写真消す代わりに一回だけヤらせて下さいよぉ、南主任っ」 「やく、も……お前……」  何が原因でこうなったのか、何処で引き返せば良かったのか、分からないまま喬久は目の前の八雲を異質な何かとして見ていた。  ――誰にも悟られぬように。  何食わぬ顔で定時退勤をした八雲がメールで送って来たのは駅近くの裏路地へ入ったホテルの住所と部屋番号だった。こういう時でさえ八雲は仕事を卒なく片付けるという事は無く、普段通りに散らかしたまま中途半端に未完了の作業を残していた。当然その後始末を付けるのは上司の喬久であり、伝えられたホテルへ喬久が到着出来たのは連絡を受けてから二時間も後の事だった。  職場の最寄り駅付近は誰に見られるかも分からず、別の場所をと釘を刺したつもりの喬久だったが当然八雲にそれの意図が伝わる訳も無く、時間差が二時間も空いてしまったのは喬久にとっても都合の良いものだった。  しかし一方の八雲は先にひとりで入ったまま二時間も何も出来ずに待たされていた訳であり、喬久が部屋番号を確認して扉をノックしたのと同時に待ってましたとばかりに開かれた扉から伸びた腕は風のように素早く喬久を連れ込み、その扉が閉ざされるのと同時に喬久は扉へ押し付けられるようにして八雲に唇を塞がれた。  昨晩から尾を引いている和己との一件、そして息をつく間もない内に越えた蒼との一線。それだけでも並みの人間ならば許容量がオーバーしてしまうものではあったが、喬久の場合それに加え現場を目撃された八雲に半ば脅されるという状況を受け神経は擦り切れる寸前の状態だった。その一因として和己への想いを引き摺ったまま蒼に抱かれたという負い目もある。気持ちの整理を付けるには日が浅すぎて、唇を割り滑り込む八雲も舌を受け入れてしまったのは反射に近いものもあった。 「はあっ……、んっ」  ほとほと疲れ果てている――という事も確かにあった。喬久の身体にはまだ蒼に抱かれた感触が残っており、八雲が両手で喬久の顔を掴み角度を何度も変え、態とらしく唾液を啜る音を響かせながら繰り返す口付けも、目を閉ざせば記憶に新しい蒼との行為の様に受け取れてしまう。  蒼には劣るが八雲も喬久よりは上背があり、上から落とされるように繰り返される口付けはアラサーである喬久のなけなしの抵抗力を否が応にも奪っていき、喬久の口から薄く声が漏れた事を確認した八雲は唾液の糸を伝わせつつ唇を離すが、上気して潤む喬久の顔をじっと見つめてから呟いた。 「……やらしー顔」  たかが粘膜を擦り合わせるだけの口付けで反応を示し始める事など喬久にとっては有り得ない事であり、ただタイミングの不幸であると反論を頭に浮かべる喬久ではあったが、そんな負け惜しみはこの場では何の意味も示さず、燻る熱が身体の奥からじわりと喬久を侵食し始めている事だけが事実だった。  それでも立つ事もままならなくなっていた喬久は無意識に目前の八雲へ縋るように腕を掴むが、八雲はそんな喬久を見てにこっと軽い笑みを浮かべ徐ろに喬久を解放すると、自分はそのまま踵を返し部屋の奥へと歩き始める。八雲という支えを失った喬久はそのまま重力に従い膝から崩れ落ちて床へと腰を落とす。入り口から一直線にすぐ見えるベッドの前で立ち止まった八雲は振り返りベッドの上に腰を下ろして顔の前で指を組む。 「……ね、自分で全部脱いで見せて下さいよ。勿論パンツもぜーんぶ」  緩む口元をその手で隠しながら八雲は言う。ここまで思惑通りに進むとは八雲すらも考えてはいなかった。 「馬鹿、なこと……」  口の端から唾液を伝わせたまま視線の先に居る八雲の言葉に喬久の血の気が引いた。男同士で何も恥じらうものでは無い。しかし行為を目的とした上での投げられかけるその言葉は喬久をそういった対象で見ているものであり、喬久は無意識にその場で首を小さく横に振っていた。喬久は上司で八雲は部下、明らかに間違っているこの状況を打開する術を喬久は持っておらず、何故自分が今このような状況に置かれているのか考えを巡らせた。 「ほぉら、これ」  八雲がベッドの上に置いていたスマートフォンを手に取り、何やら操作したかと思えば喬久に向けられたその画面には喬久である事がはっきりと分かるように色調補正された件の写真が映し出されていた。喬久の鼓動が大きく高鳴り始める。 「あんまり焦らすと間違って社内メールで送っちゃうかもしれませんよぉ」  にたりと笑う八雲の顔は酷く醜悪なものだった。これは紛れもない脅迫であり喬久に拒否権は一切なく、ただ八雲に写真を消させる為だけに喬久はこの場所に来た。もし社内にバレようものなら何が起こるか、喬久の中で最悪のパターンだけが駆け巡る。ずっと隠し通してきた、和己に対する秘めた恋心ですら気付かれないままこれまでずっと過ごしてきた。起こり得るは嘲笑、侮蔑――主任の職を解かれるだけならばまだ良い。この業界は噂が回るのが早い、情報化社会で人の口に戸は立てられず転職も難航するかもしれない。 「だめだって……」  その写真を流出させる事だけは避けたい、自分の事だけならまだしも和己にも迷惑を掛ける可能性があった。和己の幸せは壊せない。気配りの出来る優しい妻と可愛い子どもと――和己の幸せな家庭を自分ひとりの我儘で崩壊させることなど喬久には出来なかった。求めるように伸ばした喬久の右手は八雲へ届く事は無く、やがて諦めたように喬久はその右手を落とす。 「……なら、脱いで下さいよ。早くぅ」  スマートフォンを放り重心を後ろに傾けながら、八雲は扉の前で座り込む喬久に向けて楽しそうな笑みを浮かべる。喬久にその要求を断る道は初めから用意されていなかった。  シャツは僅かに汗で湿り気を帯び、喬久の緊張が伺えた。右足から順に立ち上がった喬久が歩き出す姿は亡霊のそれにも似ていて、元々少し緩めてあったネクタイの結び目は指を掛け引っ張る事で簡単に解けた。シャツのボランはそのひとつひとつがとても小さく、微かに震える喬久の手では全てを外すのに時間を要した。その間も八雲はベッドに腰を下ろしたままにやにやと喬久に視線を送るばかりで、その視線の真の意味に喬久が気付かなかった事はある意味幸運だったのかもしれない。  薄いグレーのワイシャツから片腕ずつ腕を抜いていくと、その下に白色が眩しいVネックの肌着が覗く。身体の形にぴったりと沿ったその肌着こそ、喬久の隠したい秘密を守る最後の砦でもあった。全部脱ぐという事は勿論それには肌着も含まれており、身体の前で両腕を交差させ裾を掴んで喬久が肌着を脱ぎ去った時には露出した肌に鮮明な鬱血痕や歯型が残されていた。  蒼が喬久に刻み付けたのは耳裏のキスマークだけではなく、耳裏こそ見落としてしまったが生々しく残る鬱血痕が透けては一大事だと喬久は肌着を着用していた。酒の勢いがあったとはいえ何故蒼とあの様な事になったのか、喬久は明け方に帰宅した自分の部屋で鏡を見て後悔した。  それでも知らない蒼の一面を見る事が出来た気がして気分が高揚したのも事実だった。長い付き合いがあっても知る事の無かった喬久が知らない蒼の夜の一面は、まるで――。 「わぉ、随分情熱的な人なんですねぇ。あの写真だと全然そういう風に見えないけど」  喬久は再び八雲の一言で現実に引き戻される。上半身に残る夥しい痕跡を付けた相手が和己であると誤解している事はすぐに分かり、訂正をしようにも蒼との関係をどこまで伝えるべきか悩んだ喬久は言葉を濁す。 「違う、これは……その人じゃなくて」 「誰に抱かれたんですかぁ? 昨日、あの後……」  写真の相手と分かれた後で向かった偽装恋人によって付けられたものだと馬鹿正直に話す必要までは無いと喬久も感じていた。八雲が和己との情報しか知らないのであれば態々親切にそれ以上の情報を与える必要も無く、湿った肌着を脱ぎ捨てたシャツの上に落とした喬久は平静を装いベルトのバックルへと手を掛ける。 「……そんな事まで、お前に答える義理は無い」  一度八雲に抱かせさえすれば和己との関係を残した写真は削除されるという取り決めの筈だった。ならば少しでも早くその責務を果たしてしまおうと感じた喬久はベルトを外しスラックスを下ろすべく前立を緩める。一度抱かせさえすれば全て無かった事に出来る、それ以上の情報を与える必要も無い。何度も自分に言い聞かせながら片足を抜こうとする喬久の腕を唐突に八雲が掴んだ。 「なら、身体に直接聞くだけですよぉっと」  まだ完全に脱ぎ切っていない状態で腕を引かれれば足元は縺れ、倒れかかった目前のベッドへと喬久は飛び込む。焦らしたつもりは無い喬久だったが、既に二時間以上も待たされていた八雲は喬久が突っ伏すと同時に足へ絡み付くスラックスを強引に脱がせ、喬久の頭部をベッドへと押し付けたまま残された砦である下着へ指を引っ掛ける。 「八雲っ、やくっ……」  覚悟は出来ているはずだったがあまりにも性急過ぎる展開に抑え付けられたままの喬久は藻掻く。しかし藻掻く程抑えつける八雲の手は強まり、同時に八雲の手で下ろされていく下着の感覚に喬久の恐怖は限界に達していた。  八雲の手は確かめるように喬久の尻肉を掴み、手の中で玩具の様に揉みしだいたかと思えば確認も一切ないまま無遠慮に指先を収縮する襞の奥へと進めた。その場所は和己にすら触れられた事も無く、昨晩初めて蒼を許し何度も抽出を繰り返した場所だった。今その場所に部下である八雲の無粋な指先が意図も容易く侵入し様子を窺うように内部をなぞっている。 「うわー真っ赤。充血してるじゃないですかぁ」 「やめ、何してっ……」  蒼だけに許したその場所が、蒼以外のもので乱暴に掻き回される。その感触は喬久にとっては許し難いものだった。それでも一度その感覚を知ってしまった喬久は、それが八雲のものであっても触れられ高まる熱に抗う事が出来なくなっていた。  本位では無いのに蒼を思い出して求めるように動いてしまう収縮は浅はかであると喬久自身も分かっていた。容易く受け入れてしまった八雲の指はまだ無造作に内部を探るだけのものだったが、その跳ねる指先の一瞬でさえも喬久の背筋を跳ねさせるのには十分だった。 「たぁっくさん可愛がって貰ったみたいですねぇ。その相手に」  凡そ排泄行為でしか使う事の無いその箇所は八雲自身も驚く程柔軟に八雲の指を受け入れ、喬久自身もそれに対して拒絶や痛みを感じている様子も無い事から、気を良くした八雲は逸る気持ちを必死に抑えながら指の中でも一番長い中指を根本まで捩じ込むとぎりぎり指先が抜けない部位までの抽出を繰り返しながら喬久の様子を確認していた。 「んぅっ、やめっ」  たかが指であっても繰り返される抽出は嫌でも昨晩の事を喬久に思い出させ、喬久に――足りない――という気持ちを抱かせてしまっていた。指なんかで満足出来るほど昨晩の記憶は薄らいでおらず、このまま八雲の指で侵されていく感覚を耐えるしか無い喬久は目前に広がるシーツを強く握り締めた。  内臓を掻き回す音と耐える喬久の押し殺した声だけが室内に充満する。女性と違い勝手に潤うはずの無い箇所から響く水音は八雲の指の滑りを良くし、指を増やし何度も抽出を繰り返されるその箇所は心臓の様に大きな呼吸を繰り返していた。その指が漸く喬久の中から居なくなった時、喬久は呼吸も絶え絶えに八雲を振り返ろうとしていた。しかしそれより早く喬久の身に起こった強烈な違和感に喬久の心臓は拳で打ち付けられたように大きく高鳴った。ぬるりと孔に感じるざらついた感覚、目一杯引き伸ばされた襞に触れる生暖かい空気――。 「なに、お前っ……舐、め、ッ……!?」  それでも喬久は湧き上がる衝動に対して必死に抗っていたつもりだった。幾ら八雲が策を弄したとしても自身が何の反応も示さなければ八雲も気も削がれるかもしれない、喬久はそうも考えていた。その喬久の想像を遥かに越えた八雲の行動、押し込まれた舌先で広がる襞は耐える事が出来ず、喬久の脳天を一気に衝動が走り抜けた。 「……もう堪え切れないんですかぁ? 可愛い人ですねぇ」  無様どころの話ではない、今ここで舌を噛んで死ねるのならば喬久は迷わずそうしていたことだろう。部下に脅され抱かれるだけでも屈辱であったが、物理的に舐められるという羞恥は喬久のプライドを粉々にするのに十分過ぎた。  腰を震わせ喬久が達したのを確認した八雲は口の周りに塗れた体液を音を立てて啜り、口元を拭うと先ほど喬久が脱ぎ捨てた衣類の残骸に視線を落とす。それからにやりと口角を釣り上げるとベッドの上で短い呼吸を繰り返す喬久の背後から覆い被さり、脱ぎ捨てられたネクタイでその目元を覆い隠す。  視界を奪われた喬久にとって今の状況は恐怖でしか無かった。何をされるかも分からない、そして何をされるのかも見えない純粋な恐怖だった。自分がどのような状況に置かれていようが、身に恐怖が差し迫っていればそれに抗ってしまうので人間であって、無意識に振り払った喬久の手が八雲の何処かに触れた。  腕を掴まれた喬久は息を呑む。見えていないからこそ今の八雲がどんな表情をしているのか確認することが出来ず、掴まれた喬久の腕は震えていた。それは本当に喬久も何が起こっているのか理解が出来なかった。掴まれた腕を自らの背中に回されたかと思えば、両腕が触れ合った、そして何かで強くその腕を締め付けられた。 「まだこれからじーっくり可愛がってあげますからねぇ」  左耳に突然八雲の言葉と吐息が掛かり、喬久の心臓は跳ね上がる。何かで縛られたことだけは理解出来た喬久であったが、それが何であるかは思い浮かばないままだった。見えない恐怖、動けない恐怖、頼りになるのは聴覚のみとなった喬久は耳に届く音だけで八雲の位置を察しようとした。 「……八雲、いや、だっ……やぁ、っあ、ン、ぅん」  抗議の言葉は八雲によって掻き消される。開かれた足、上げられた腰、そして無遠慮に押し込まれた硬い質量のそれは見えもせず抵抗も出来ない喬久を貫き、漏れる声を手で塞ぐことも出来ない喬久は顔を濡れたシーツに押し付けることしか出来なくなっていた。無理やり捩じ込れ、身体の中が燃やされているように熱い。それでも漏れ出る声色は苦悶よりかは甘さを帯び、見えない視界にはチカチカと閃光が舞う。 「めっちゃ可愛い声で啼くじゃないですかぁ。好きなんですねぇ、こういうの」 「ちが、うっ……はあ、っ……俺、そんなん、っじゃ」  口から漏れた唾液がシーツを汚し、限界を訴えるように喬久の腰が何度も跳ねる。八雲から見れば言葉よりも身体の方が雄弁で、上司が自分の下で善がる姿は八雲の興奮を更に煽った。  頭の中は強い靄が掛かったように思考が正常にも働かず、ただ肉をぶつけ合う音と衝動的に漏れる色めいた吐息のみが室内を占拠していた。――その空間に突如亀裂を生じさせたのは重量感のある一定的な機械音だった。先に気付いたのは八雲で、音の出どころを探すことに気が逸れると腰の動きは緩慢となり、やがてその動きを止めた。 「……何の音?」  呼吸すらままならない状態の喬久は内部を蹂躙する八雲の動きが止まれば引くように酸素を求める。身体の中も脳の奥も痺れ過ぎていてもう何回達したのかも分からない。シーツはぬるつきそれが再び肌に触れる事で更に気持ちが悪かった。八雲の感覚が無くなった事でうやく終わりかと薄っすら安堵の息を漏らした喬久は両腕の拘束を何とかして解けないものかと両腕に力を込めて揺らす。 「南さぁん、着信ですよぉ? その彼氏からかな? 写真の相手かな?」  八雲の舐めた声色と規則的な振動音、それが喬久のスマートフォンに掛けられた着信であるという事に気付くまでそう時間は掛からなかった。視界を奪われている喬久にはそれが誰からの着信であるのか確認する術が無かったが、八雲の言葉から察するに職場関係者で無いことは確かだった。 「ッ、やめ、ろっ、スマホ……さわっ、んなっ……」  尚も鳴り続ける振動音は気付けば喬久の顔横すぐにあった。一定時間対応しなければ大抵の人は諦めて一度発信を切る、それが無い時点で相手は喬久が応答するまで発信を中断するつもりは無いことが分かる。  八雲だけが分かるその液晶画面に表示されていた発信者の名前は【蒼さん】。名前だけでは性別すらも分からない状況でありながら、都合良くこの時間に掛かって来た着信相手の存在に八雲の背筋がぞくりと震える。その時点で八雲が考えたことはあまりにも単純で醜悪な悪戯で、後先のことは何も考えていなかった。 「えぇー? 折角だし出てみましょうよぉ」  平日の夜に相手が出るまで続く着信、喬久の身体に残した痕跡の関係者とみてほぼ間違い無いだろうと八雲が考えたのは殆ど勘に近いものだった。着信だけならばパスコードを入力せずとも応答出来る、八雲は面白半分で喬久の顔横に置いたスマートフォンの応答ボタンを受話へと切り替える。そしてすかさず通話状態をスピーカーに切り替えてから、こちらからは一切何も話さず相手の出方を待った。  一方の喬久は振動が鳴り止んだことだけは分かったが、指の操作だけでは八雲が何をしているか分からず、不穏な空気に気配を探るだけに留めた。着信は切れたのか、それは誰だったのか、夜間に予告なく着信をしてくる人物を喬久は知らない。それとも、気付かなかったが着信の前に一度確認の通知が入っていたのではないか。返事を待てぬほど急を要する着信が無いとも言えない。和己か蒼か――別の誰かか、そもそも着信自体が八雲のブラフであった可能性は無いのだろうか。ただ喬久を焦らせる為の罠だとして――八雲ならばそういったこともやりかねないと喬久が起こり得る可能性を考え始めた時、鋭敏になった聴覚へ飛び込んできた電子音声に喬久は息を呑んだ。 『――ああ、喬久? 昨日、無理させたから……身体、大丈夫か?』 「ビィンゴ。昨日の男ォ」  電子音声は本人のものでは無いが、聞こえた声は確かに蒼の物だった。恐らくもう喬久の仕事が終わっているだろう時間を目算し何かしらの影響が出ていないか心配した蒼は、通話相手が出たことに気付くとそれを喬久であると疑わずに問い掛ける。  喬久にとっては何よりも最悪の状況で、例え蒼と偽装恋人の関係で無かったとしてもこの状態でまともに蒼と会話が出来る訳が無かった。 「あおっい、さんっ……」 『喬久? どうかした?』  昨晩とは何かが違う、切羽詰まった喬久の声色。求めるようにも聞こえたその呼び声は蒼の危機感知を研ぎ澄ませるのには十分だった。何故ならば蒼にはその声色に聞き覚えがあった。求めるように絞り出された声、微かに上擦って語尾が僅かに跳ねる。昨晩何度も喬久に呼ばせた自らの名前だった。途端に昨晩我慢出来ず一線を越させた喬久の姿が思い浮かび、蒼の中にも生々しい熱が蘇る。ごくりと生唾を飲み込めば喉仏が大きく上下し自然と漏れた吐息はどこか熱を帯びていた。  そんな蒼の耳に飛び込んで来た、期待を裏切る下品な声色。 「もっしもぉーし、南主任の彼氏さんですかぁ?」 『誰だ』  喬久では無い、聞き慣れない男の声を聞いた蒼の眉間に深い皺が刻み込まれる。それでも確かに喬久の声はした。その男が喬久と一緒に居ることは明確で、蒼にとって看過しきれない状況になっていることは相像に難くなかった。  小さな長方形から聞こえる不機嫌そうな男の声、アタリを付けた喬久の恋人でほぼ間違いが無いと確信した八雲は目下の喬久を見下ろす。たかが一枚の写真で意図も簡単に自らの手に墜ちた気高き高嶺の花。この瞬間を何度八雲は想像したことだろう。この後で恨まれようが、罵倒されようが現実は目の前にあって、小さな板の先の人間には邪魔することも出来ない。幾らでも想像で完結してしまえる音声のみでは無く、カメラボタンをオンにしてしまえばきっと八雲にとっては更に愉快な状況へ喬久を追い込むことが出来た。それをしないのは喬久への同情では無く、見えないのはお互い様であるからこそ幾らでも都合の良い状況を作り上げることも出来た。 「アンタの可愛い声、聞かれたくないなら精々声ガマンして下さいよぉ?」  拾われないように声を潜めて八雲は喬久の耳元で問い掛ける。怯えながらも未だ蜜を零す喬久を握り込めば喬久の両肩が大きくびくりと跳ねた。八雲が伸ばす手を妨害する手段は喬久には無く、露出し最も敏感な箇所を指先で撫で回されれば抗う術の無い喬久の身体は電流が駆け巡るようにびくつく。八雲の五指が喬久のそれを握り込み尖端部を撫で回しながら上下に動かし始めれば抑えようにも堪え切れない声が喉の奥から這い上がってこようとする。蒼が聞いている前でこれ以上の醜態を晒したくはないと切実に願う喬久は誤魔化せるものではないと分かっていながら、蒼に聞かれる前に一度蒼の側から通話を切断させられないかと舌の巧く回らない口を考えながら開く。 「蒼さん……お、折り返すんで、い、一回、切っ、あ、待って、まだっ……や、ぁ」  八雲がそれを待つとは始めから期待していなかった喬久だったが、喬久の頭に過った最悪の展開の通り喬久が話し終わらない内に穿たれる熱。もう気力すらそれ程残っていないながらもはたはたと散る薄まった白濁、同時に喬久の目に涙が浮かんだ。  聞かれたくなくて、蒼に失望されるのが嫌だと感じてしまうのはきっとまだ自分の中で蒼の部下であったという習慣が抜け切れていないからだと喬久は感じていた。 『喬久、誰に何されてる?』 「ごめん、なさ、ぁ、っン! あっ、ぁ、ぅ」 「彼氏に聞かれて興奮してるんですかぁ? 腹に付く位ガッチガチじゃん」  心では拒絶しているのに、八雲は的確に喬久の弱い箇所を狙って腰を打ち付け、喬久に考える暇も冷静になる隙も与えさせずにただ乱れさせ喘がせ、頭を真っ白にさせて貪欲に快楽だけに溺れさせるように――何度も、何度も八雲は繰り返し喬久をその矛で刺し貫いた。  何度絶頂を迎えたのか数えていた喬久では無かったが、もう何度も精を放たないままの絶頂を迎えていた事には気付いていた。性器に直接的な刺激を与えられずとも何度も頭がおかしくなる程内臓を掻き回され、内側から押し上げられその都度――喬久は、その感覚を認めたくは無かった。 「あっ、あんッ……やくも、頼むッ、通話……切、って、ぇ」  ――もういい。蒼に失望されようが、この部屋へ来てしまった時からその可能性は考慮していた。蒼からどんな目を向けられようが覚悟するしか無い喬久だったが、せめて傷は浅い内が良いと考え八雲が抑える気も無く、自らの声も隠し通せないのならば通話を切るしか方法が無いと八雲に懇願するしか無かった。もう蒼と今までと同じ関係では居られない。全く関係は無いが和己ともまともに顔を合わせる事は出来なくなるだろう。それ程までに喬久は自身が這い上がれない泥沼へと墜ちていっている状況を認識していた。 「中に出したら切ってあげますよぉ」  八雲の言葉に一瞬だけひやりと喬久の背中に冷たいものが走る。感触の違いを見ずに判断出来るほど喬久は玄人では無い。それでも確かに何かが違うという事を感じつつあった。同性同士での行為ならば避妊という目的を以て着用をするそれだが、同性同士であろうがその着用の必要性は大いにある。一重に性感染症の予防であり、昨晩の蒼は確かに挿入前に避妊具を着用していた。 「ひゃうっ、おま、ゴムっ……んあっ、やぁ、ゴム、付けろっゴムッ……!」  ずっと覚えていた違和感はそれの事だったのだと認識した喬久は八雲の発言を受け、果てる前に装着を促そうと息も切れ切れに背後に居るべく八雲へ振り返ろうとするが、その瞬間を待っていたかのように打ち付けられた腰に押し上げられ、再び内部を痙攣させながら果てるに身を委ねた。 「普通のだとサイズ合わないんですよぉ。ほぉら、こんなにくっきり俺の形出てるぅ」  体力の限界などとっくに越えていて、もしこれが何かの罰だというのならば許して欲しいと喬久は嗚咽にも似た声を上げながら、腹部をなぞる八雲の指先にただシーツの上へと唾液を落とした。拒もうとすればする程身体の中で鮮明に理解してしまう八雲の形。蒼はどこまでも優しくて、最後まで喬久の身体に無理をさせないように労り続けていた。その蒼の好意をこんな形で裏切ってしまった事実は決して消える事がない。それでも、昨日初めて抱かれたばかりの喬久が与えられ続け追い立て続けられる衝動に抗える筈も無かった。 「やだぁ……八雲、ッあ……んっン、イ、き、もっ……」  墜ちて、委ねて、もう何も考える必要は無い。どうせ蒼との関係もこれで終わる。それならば憂いに頭を悩ませる事は無く、そこが自分にとっての性感帯であり刺激されるだけで昇天しそうな場所である事を伝えたとしても、誰にも責められる事は無い。 「腹ン中にたぁんまり注いでやるからさぁ、全部飲みきってよ」  身体の中で八雲が更に肥大したのを感じた。八雲が肥大する分内側からの圧力は高くなり、喬久の意志など完全に無視して腰はがくがくと震え始める。苦しくて、しかし同時に気持ち良くもあって、つうと透明な液体が尖端から零れてシーツを汚す。喬久の手は自らの拳を握り続けた為掌に爪が食い込み血が滲んでいた。 「やだっ、八雲、頼ッ、やめっ――!!」  緊張の糸が切れた喬久はそのまま意識を手放した。八雲に喬久を労る気持ちは一切なく、動かなくなった人形の様に転がる喬久から腰を引くと同時に顔横へ転がしたままだった喬久のスマートフォンへ視線を落とす。 「――なァんだ、切れてら」

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