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Ⅴ
誰よりも大切な人の幸せを願う――冬榴のその言葉を聞いた夏井の口元は、繊月のようにくっきりと鋭い弧を描いていた。
「僕もね、二人がこのままずっと上手くいってくれればいいと思ってるよ」
夏井の両腕がゆっくりと伸ばされ冬榴の顔を包み込む。氷のような冷たい指先に冬榴は驚く余裕もなく、夏井の手は冬榴の顔を自分の方へと上向かせる。
前髪と眼鏡のレンズが陰になり夏井の表情は良く分からなかったが、異様なほど吊り上がった口角は不気味に見えた。
「春杜さんがこのまま秋瀬に夢中になっててくれれば、僕が春杜さんから冬榴さんを奪う隙が出来るから」
その言葉は何故か明確に冬榴の耳から身体の中へと入り込んだ。予想もしていなかった斜め上からの変化球に思わず冬榴の目は豆鉄砲を食らったように点となる。
「……は?」
聞き間違いであったならばどんなに僥倖だったろうか、しかし残念なことにその瞬間は突風も無く街灯の少ない住宅街の路上で夏井の言葉はただ真っ直ぐに冬榴へと伝わってしまった。
目の前にそびえ立つ夏井から告げられた言葉とこれまでの態度はとても整合性が取れるもののように思えず、その歪さを理解しようとした冬榴の眉がぴくりと顰められた。
「ねえ、丁度良いと思わない? 秋瀬と春杜さん、それで僕と冬榴さんで――」
――〝丁度良い〟。それは冬榴も少なからず考えたことのある単語だった。冬榴はそれを考えるだけで一度も口に出すことは無かったが、改めて他者から口に出されることでその言葉がどれほど侮辱的なものであるかを実感した。
「夏井くん何言ってんの……」
夏井と付き合うことが出来たならと冬榴は考えたことが無い訳ではなかった。しかしそれは夏井の容姿が冬榴にとって魅力的であったからで、ただそこに居て都合の良い存在であるからという理由からでは無かった。
「そうすれば冬榴さんだって二人にあてられたあと一人寂しく帰る必要も無くなるでしょ」
気持ちを見透かされた気がした冬榴の耳が熱くなる。惹かれていた夏井の端正な容姿が酷く悍ましいものに見えた。
冬榴の思考が目の前の状況を理解しようとフル回転で働く中、夏井の顔は少しずつ抑えたままの冬榴へと近付いていきその距離は僅か五センチに迫っていた。
気持ちが一ミリ足りとも冬榴に伝わっていないことに夏井は気付いていた。冬榴の側にはいるでも春杜が居て、二人きりになれる状況など中々作れもしなかった。いつ頃からだったか、冬榴に避けられていることは薄々感じていた。秋瀬にはバレバレだったかもしれないが、夏井は二人きりになれるこの瞬間を前からずっと狙っていた。
「ねえ冬榴さん、僕は……」
「――また、そうやって俺のことからかって遊んでんの?」
「えっ?」
吹き荒む夜風よりも冷たい言葉が夏井の心を貫いた。胸ぐらを弱々しく掴んでいた冬榴の手が夏井の身体を押し返す。夏井は自分の言葉がどれほど冬榴を傷付け続けていたか理解出来ていなかった。
「そういうこと言って俺の反応楽しんでんだろうけど、俺そういう冗談ほんっと嫌いだから」
冬榴の目線は再び伏せられる。吐き捨てるように告げられた言葉に今度は夏井が冬榴の感情という情報を処理することになった。
「違うよ、冗談なんかじゃ」
顔から離れた手でようやく夏井は冬榴の本心を知る。突き刺さる視線は真冬の冷水よりも冷ややかで、月明かりに浮かび上がったその瞳はたった一瞬だけだったが妖しげな色を反射させたような気がした。
そう考えた次の瞬間、夏井は路上に尻もちをついていた。夏井も秋瀬ほどではないが元運動部所属であることからそれなりに体幹も安定しており筋力もあるはずだった。いともたやすく路上に腰を落としたのは体幹を上回る力で冬榴が夏井を突き飛ばしたからだった。
胸ぐらを掴まれた時にも思ったが、その細い腕のどこにそこまでの筋力が隠されていたのか、呆然と夏井が考えている内に冬榴は踵を返して自宅方面へと走り出していた。
「待ってよ冬榴さん!」
ただ冬榴を呼び止めようとする夏井の言葉だけが暗闇に響いた。
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