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 立ち止まり振り返る夏井の脇をすり抜け冬榴は再び歩き始める。既に帰路は半分以上を進んでおり普通に歩いても自宅までは三分程度という距離だった。幾ら進んでも変わり映えなく静かな住宅街ではあったが、半年間で何度も往復していれば冬榴の身体自身が覚えてしまっている。  冬榴を追うように夏井も歩き出す。この辺りで引き返しても誰も咎めはしないが律儀に夏井は歩調を合わせて冬榴に着いていく。 「多分……」  風に乗り冬榴の僅かな呟きが夏井の耳へと流れてくる。冬榴が何を言っているのか正確に聞き取ろうとした夏井は僅かに歩幅を広げて冬榴の背後へと追い付く。 「あの二人、そんなに長く続かないと思う」 「なんで?」  夏井の声が真後ろから聞こえてきた冬榴は視線のみを水平に動かし夏井の位置を確認する。何故そのような言葉を口にしたのかと純粋に疑問を抱いた夏井は冬榴の肩へと手を伸ばすが、一歩だけ冬榴の進みが早く夏井の手は虚空を掴んだ。 「別に……」  夏井は伸ばした手を見つめ、ゆっくり下ろすと上着のポケットへと押し込んだ。夏井が足を止めるとそのまま冬榴との距離が広がる。そのまま冬榴の背中を見つめた夏井は笑みを浮かべた口元を歪める。  深夜の静観な住宅街に夏井の低く透き通る声は良く響いた。 「自分の好きな男、他のヤツに紹介するの辛かったんじゃないの」  策略に嵌ってしまったかのように冬榴はその場に足を縫い留める。周辺住民の誰かに聞こえているかもしれないという心配はそこには無く、聞き逃し難いその言葉を頭の中で数度反芻してから冬榴は右手で胸元に拳を握り込む。 「それ、どういう意味?」  軽やかな足音が背後から冬榴に近付く。ふわりと漂う香水は夏井が好んで付けているもので、先程までよりずっと近くに夏井の存在を強調させた。  人の形をしたものが、その圧力が背後から迫ってきているのを冬榴は感じていた。 「冬榴さん、春杜さんと身体の関係あるでしょ」  耳元で直接紡がれる残酷な言葉。血の気が引いたように冬榴が感じたのは僅かに一瞬だけのことだった。 「だから二人の関係が壊れればいいって思ってるんじゃないかなって」  夏井の言葉が吐息と共に冬榴の耳の奥へと突き刺さる。  秋瀬が居なければ、春杜が秋瀬の部屋に行く度呼び出されることは無くなる。秋瀬が居なければ春杜は自分だけを見てくれる、少なくとも秋瀬を紹介するまでの春杜はそうだった。ただそれは夏井のような第三者が軽々しく触れても良いものでは無い。  冬榴は振り向きざま開いた掌で夏井の頬を打ち付ける。その乾いた破裂音は冷え切った空気にとても良く響いた。 「ふざけるなっ」  夏井の無遠慮な言葉はこれまで抑えていた冬榴の逆鱗に触れた。冬榴は呆然とする夏井の胸ぐらを掴む。春杜ほどではないが、その細い腕のどこからそんな力が出るのかと夏井は感心せざるを得なかった。冬榴の逆鱗に触れたことより、冬榴が自分に対して感情を露わにしていることが今の夏井にとっての悦びだった。 「下種な勘ぐりもいい加減にしろ、俺と春杜さんはそんな関係じゃない!」  怒り、悲しみ、失望、侮蔑、様々な感情を織り交ぜた瞳を向けながら冬榴は腹の底から絞り出すように言葉を紡ぐ。  一方の夏井は冬榴のそんな思いなど一向に介さない様子で叩かれた頬を片手で抑えてへらりと笑うばかりだった。 「あれ、そうなの? そうだったならごめんね」  出会った当初から厄介な人物だとは思っていたが、これ程までに夏井が厄介な人物であるということを冬榴はこの時改めて自覚した。  こちらの感情など夏井にとってはお構いなしで、真摯に説明をしようが本当に激怒していることを伝えようが何ひとつこの男には伝わらない。  冬榴は何もかもが虚しくなった。ずっと側にいた春杜は秋瀬中心の生活に変わり始め、夏井からはただ暇つぶしの玩具のように感情を弄ばれる。秋瀬との関係を疑われるまでならまだしも、春杜との関係すらも疑われ――ただ虚しかった。夏井の胸ぐらを掴む冬榴の手が震える。 「俺は春杜さんが笑顔でいてくれるなら何でもいい、それが紘臣だとしても」  冬榴には春杜しかいなかった。冬榴にとって春杜は存在意義の全てだった。春杜には笑顔でいて欲しい、秋瀬ならば春杜を笑顔に出来るかもしれない――そう思って冬榴は春杜に秋瀬を紹介した。  春杜のことを誰よりも分かっているから、春杜にとって秋瀬が相性の良い存在であることを秋瀬と出会った二年前から分かっていた。春杜にとって都合の良い相手だと分かっていたからこそ春杜に秋瀬を紹介した。自分には出来ないことを秋瀬ならばやってくれるという事を冬榴は始めから分かっていた。 「アイツとも……ほんとにただのバイト仲間だよ」  どんなに訴えても夏井には伝わらないことを冬榴は分かっていた。言葉で伝えて理解してくれるならば今ここまで苦しい思いを抱いていない。自分にも好みがあり、秋瀬のことは全く好みでないということを伝えたところでこれからも夏井は皆の見えないところで同じことを言ってくるのだろうと冬榴は感じていた。 「お前こそ、友達なんだろ……」  高校時代からの同級生で長年共に暮らしていけるほど仲の良い相手である秋瀬に対してならば、きっと幸せを願う感情くらいは持っているのだろうと冬榴は夏井に期待をした。

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