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序章
第五分室の室長である四條の私費にて建設された寮はその目的の通り日常生活を送ることに何の不備もなく、中でも専用回線の引き込みや内外に配置された高性能監視カメラ、唯一の出入り口であるエントランスは強固なオートロックと居住者である第五分室のメンバーの身の安全を第一に設計されていた。
「――斎、俺らもうこんな事やめよ?」
戯れによる真香の冗談ではないかと斎は思った。
到底冗談を言っているようには見えない真香の眼差しに斎の心臓は早鐘を打つ。何か真香の機嫌を損ねるようなことをしてしまったのだろうか、秋も終わり冬を迎えたのにもかかわらず、斎の全身が不快な汗で覆われるような感覚があった。
自らの部屋である寮のⅢ号室でそれを突然真香から伝えられた斎は理解が追い付かずにただ茫然とする。
「ど、して……?」
セフレとしてだけではなく友人としても真香と斎を大切に思っていた詩緒に対して、関係の解消を言い出したのは真香だった。それぞれに特別な存在がいなかったからこそ成り立っていたセフレという関係、そこから詩緒が抜けてしまったことで残されたのは真香と斎のふたりだったが、それまで三人で成り立っていた関係を二人のみとなってからも継続すべきであるかは一度改めなければならないことだった。
入寮に際しての慌ただしさで斎と話をする時間を作れなかったことを真香は今になって後悔する。
四條により第五分室が設立されてからの約三年間、斎と真香そして詩緒の間に存在していたセフレ関係。それが終焉を迎えたのは詩緒が六年の時を経て元彼である綜真と縒りを戻したことが理由だった。
「俺たち二人でこんな事続けてても仕方無いだろ……?」
同じ職場へ同じ年に入社した所謂同期である真香と斎はお互いに恋愛感情を抱いていた訳ではない。外で自由に遊ぶ時間も少なく、性欲の解消相手として紡がれてきた関係をふたりだけとなった状況では継続すべきではないと真香は考えていた。友人として斎を大切に思う気持ちが真香から消える訳ではなく、肉体関係だけでもこの入寮を期に精算すべきだと真香は以前から考えていた。加えるならば元々真香と詩緒、斎と詩緒の関係から成立していたものであり、その要ともいえる詩緒が抜けてしまえば遅かれ早かれ瓦解は目に見えていた。
「榊も御嵩さんとああなったんだし。俺らもそろそろ変わるべきなんだよ」
同じ屋根の下で暮らして行くからこそ、その線引きははっきりとさせておかなければならないことだった。セフレという名目が無くなっても友達である事には変わりがない。真香自身も詩緒や斎に依存し続けたことを反省し、自らも詩緒の復縁を期に今一度自身を見つめ直したいという変貌の気持ちを抱いていたが、それは今の斎にとっては到底受け入れ難いものだった。
斎の伸びた手は無意識に真香の服の裾を掴もうとしていた。求めること、求められること、求めることに対して拒絶されないことで斎は真香や詩緒の存在を近くに感じ続けていた。斎にとっては詩緒も真香と同程度に大切な存在ではあったが、斎は真香や詩緒が自分以外の誰かに幸せを見出して離れてしまうことを何よりも恐れていた。身体の関係だけが全てではないと頭では分かっているつもりでも、斎の心は離れて行くことを無意識に拒絶していた。離れてしまうことが自分に価値が無いと言われているような気がした斎の頬に涙が伝う。
「真香も、榊も……俺の前から居なくなるの……?」
「何も変わらねぇよ? 俺も榊もお前の友達だ。いなくなったりしねぇし、榊だって同じ事言うよ」
真香は斎の涙を指で拭いながら言い聞かせるようにゆっくりと話す。無くなるといってもそれは身体の関係だけ、それ以外は今までと何も変わらない。斎と真香、詩緒、そしてこれからは綜真も含めて四人で。家族にも似た友達よりも近しい関係はこれからも何ひとつ変わることはない。
今この場で泣いて縋ったならば真香だけでも引き留めることは出来ないか、斎の頭の中に打算が巡った。身体の関係を継続させる為だけに愛していると口にして、恋人関係として変わらない関係を続けていけないか、斎の意識は真香との関係を失わないことだけに傾けられていた。
「……そ、だよ……ね」
ベッドの上で向かい合った真香に抱きしめられたまま斎は静かに涙を伝わせる。真香との関係もこれで終わってしまい、近くにいても決してその存在を肌で感じることは出来なくなるのだと、斎はこれまでの関係の終焉を感じていた。
「今までと何も変わんねぇ。だからそんなに悲しい顔すんなよ……」
触れる真香の唇はこれまでとは異なり頬へ。それは優しいキスだったが、今までの関係性とは異なることを斎へ明確に示していた。
真香の苦しそうな顔を斎はこの時初めて見たような気がした。だからこそこれ以上身勝手な我儘を言えないことも斎は理解していた。
ただひとり自分だけが取り残された感覚に魘われた斎は、真香が部屋を出ていった後声を押し殺して泣いていた。
真香からセフレ解消を言い渡されて数日。
寮のそれぞれの一室はひとつの居住空間でもあり、風呂トイレも備え付けられていることから一階のダイニングで食事をとることを除けば四六時中部屋から出ずに仕事が可能だった。
平日の朝に行われるミーティングだけは全員が定刻にエントランスへ集合をして、本棟で勤務している四條とのビデオ会議をすることとなっていた。
唯一の救いだった真香からも見捨てられた気がした斎はミーティング以外の時間を全て自部屋に籠もり切っていた。
グルーグレーのカーテンを閉めた斎の室内は日中であっても暗く、あれから何日が経過したのかも正確には把握出来ない状況になっていた。
真香と詩緒のセフレ期間は自分とのそれより一年長く、セフレを解消してもふたりは親友と呼べる間柄だった。斎は自分だけが途中からふたりの間に割り込んでしまった形となってしまったことに苦悩をしていた。
元々四條が第五分室を設立した理由も詩緒や真香という才能のある若手を横行しているパワハラを始めとしたハラスメントで潰されない為の保護目的であり、ふたりに比べて何の特出した才能も無い斎はただふたりとの関係を維持する為だけに必死で営業事務という仕事をこなしてきていた。
斎の事故を切っ掛けに神戸支社から呼び寄せられた綜真が詩緒の元彼であることが分かり、詩緒がセフレという関係性から抜けても真香という存在は側に居続けてくれるものだと思い込んでいた。
真香にとっては親友である詩緒の気持ちを優先するのは当然のことで、その決定には斎も納得が出来た。しかし真香からも三年間続いていたセフレ関係の解消を告げられた今、自分に何が残っているのか斎は分からないままでいた。
不意に部屋の扉が外から叩かれる音が斎の耳に届く。しかしそれでも斎は反応ひとつ返さずに寝室のベッドに突っ伏していた。
今は誰とも会話をする気分にはなれず、それが詩緒や真香であっても、もしくは綜真であったとしても今の斎の神経を逆撫でするだけの存在でしか無かった。
斎の意思に反して部屋の扉を開く重厚な音が響く。寮とはいっても侵入者や盗難を警戒する必要はなく、設備としての鍵はあれど施錠をしている者は誰もいなかった。
「――海老原、居るんだろ?」
玄関の外から様子を伺うように聞き覚えのある声がする。それは詩緒や真香、綜真やましてや四條のものでもなかった。
微睡みの中自分にとって都合の良い夢でも見ているのではないかと考える斎だったが、その声の主に対する輪郭が鮮明に浮かんでくるとベッドから四つん這いの状態で起き上がり視線のみを玄関へと向ける。
真っ黒な輪郭が徐々に彩度を増していく。そこには寮に居るはずのない千景の姿があった。
「……佐野、さん?」
佐野千景の年齢は斎よりも二歳年上だったが元々斎の後から中途入社をした男性であり、斎と共に一時期四條の元で働いていた時期があった。
「なんで……ここに……」
本人は触れられたくないようだが、顔の造形は女性に近く中性的という印象を受け当時は近寄りがたい存在でもあった。
切っ掛けは数年前にあった部署の飲み会であり、酔った千景にキスをされた斎はなだれ込むような形で千景とセフレ関係になった。それは詩緒や真香とセフレ関係になるよりも前の話だった。
しかし今から約一年前、突然よそよそしくなった千景から避けられるようになり、一方的に関係を断ち切られた時の傷はまだ完全には癒えていなかった。
「ああ――」
千景の声を聞いた斎はゆっくりとベッドから起き上がる。寮は部外者の出入りを固く禁じており、勿論分室メンバーではない千景も例外ではない。
第一に寮へ入る為のセキュリティカードすら持っていないはずの千景が部屋まで現れているという現実が斎には信じられなかった。
玄関から顔を覗かせる千景の姿は、共有通路より射し込む光によって逆光に照らされてはいたが、斎には今も鮮明に千景の姿が見えていた。
「俺分室のプレマネになったんだよ。今日は四條さんに連れて来られてな」
千景から告げられたその一言はただ残酷だった。よりにもよって何故今このタイミングで、と斎は言葉を失う。
一方的にセフレ関係を解消されてからも、千景は斎が入院をした時には代わりに仕事を請け負ってくれたり、詩緒のストーカーだった那由多を危険視して詩緒の部屋へ向かう切っ掛けもくれた。
詩緒のメンタルを追い込んだ元上司である山城に対しても毅然とした態度で向かうその姿勢は尊敬に値する。それでも、千景が斎以外を選んで斎を捨てたという事実は変わらない。
詩緒に続き真香を失った斎にとって最後の砦であった千景の存在。一方的に捨てられようが千景を想う気持ちは今も色褪せることはない。
玄関へと歩む斎は千景の姿を捉える。開いた扉から半身のみを覗かせた千景へ今すぐ駆け寄りたい衝動に駆られるが、六畳程度のリビングへと歩み出た瞬間千景の左手薬指に輝く指輪を見て息を呑む。
斎の中で何かが弾け飛んだ気がした。
斎の歩幅は自然と大きくなり、千景を求めて玄関へと向かう。その腹の内にある感情は羨望、焦燥、嫉妬――斎の感情は斎自身にも理解しきれない状態となっていた。
唐突な斎の接近に怯む千景の一瞬の隙を突き、斎は千景の腕を引いて部屋の中へ引き入れる。
扉は千景の背後で閉まり、薄暗い室内の玄関前でふたりの男が立ち竦む。斎は閉ざした扉に千景を押し付けて、衝動に駆られるまま唇を重ねる。
唐突な斎の行動には千景も抗議の声を上げようとするが、その唇は斎によって塞がれぬるりと生き物のように侵入した斎の舌先が口腔内を蹂躙する。
唇の隙間から漏れ聞こえる小さな息継ぎの声に欲を唆られた斎は、それ以上の抵抗を見せない千景の頭部に手を回し押さえ付けながら千景の最も弱い部分を舌先で探る。
びくりと千景の背中が跳ね、腕の中に収まる懐かしい細身の身体を独占したい欲が内側から滲み出てきた斎は肉付きの薄い千景の太腿に己の下半身を押付ける。
硬度を持ち熱を帯びるそれを押し付けられた千景の背筋は震え、口の端から飲み込みきれぬ唾液を伝わせたままの千景は反射的に斎を押し返す。
「まっ待て待て……落ち着いて話聞け、な?」
「……アンタのイイところなら全部知ってる。何回抱いてきたと思ってんの?」
千景の動揺とは裏腹に、既に目の前の千景のことしか頭に無い斎は千景を背後の扉に押し遣ったまま片手で千景の下肢を弄ろうとベルトの金具に手を掛ける。
「――それ以上はやめろ」
そこを許してしまえば後戻りは決定的に不可能となる。制止を告げる千景の良く通る低い声が斎の脳を直撃する。それが戯れなどではなく本気で拒絶している時の声色であると恐れをなした斎の一瞬の隙を突き千景は玄関のドアノブに手を掛ける。
斎は千景に逃げられることを本能的に察してドアノブを握る千景の両肩を掴む。
「俺、アンタの事好きだって何回も言ったよね? 好きな奴が居るって何度も断られてきたけどさ、だけど」
「言うなッ!」
言葉と同時に千景はドアノブを下ろし、閉ざされた部屋を開放する。通路から入り込む目映さに斎の目が眩む。
この部屋に斎とふたりきりでいることが危険であると本能的に感じ取った千景は開いた扉から共有通路へ斎と共に倒れ込む。
少し前からの喧騒を自室で聞き取っていたⅪ号室の住人である詩緒は、騒ぎの原因を突き止めようとして自室の扉を開ける。詩緒が部屋から顔を出すと右斜め前に位置する斎の部屋の扉が開かれており、通路に倒れ込む千景とその上に覆い被さらんとする斎の姿が見えた。
「なに……」
それは詩緒にとっては予期せぬ光景であった。同期入社であり長く時間を共に過ごしていた斎が、詩緒の尊敬する先輩である千景へ掴みかかろうとする姿に唖然として目を丸くすることしか出来なかった。
騒動を耳にしたのは勿論詩緒だけではなく、一階のダイニングに居た真香も階段を駆け上がり何事かと様子を伺いに姿を現す。
そこで詩緒と真香のふたりが目撃した光景は、これまで知る由のなかった斎と千景の隠された関係を一瞬で理解するのに十分なものだった。
「抱かれてたじゃん俺に! 何度も!!」
「それは……」
千景のスーツを掴み激昂する斎と、そんな斎から気まずそうに顔を背ける千景。千景も詩緒ならびに真香の登場には気付いており、背けるその表情は心なしか青褪めているように真香からは見えた。
詩緒は共有通路に反響した斎の言葉に耳を疑う。千景と斎が先輩後輩の間柄であることは周知の事実であり、第五分室が出来る前には上司である四條の元何度かプライベートで飲みに行っていたという話も聞いたことがあった。
斎は倒れ込む千景の上に跨り、スーツを掴んだまま俯く。それは誰から見ても一方的な恋慕の成れの果てであり、先に誘ってきたのが千景であることや、恋人が出来たことで捨てるのは身勝手であるなどという斎の主張は同情の余地はあるものの、斎の肩を持つことが出来ないのはその相手が詩緒の尊敬する千景であったからだった。
詩緒にとって友人の優劣は無い。真香や斎は大切な友人であり、綜真との復縁を受け入れてくれたことに関しては大恩もある。しかし詩緒にとって初めて尊敬の出来る相手といっても過言ではない千景の窮地に直面をした詩緒はこの瞬間に親友の斎ではなく先輩である千景の味方をすることに決めた。
斎は部屋から飛び出してきた詩緒に襟元を掴まれ、無理やりに千景から引き剥がされるがまま壁へと押し付けられる。詩緒の腕力は決して強くなく、その気になれば簡単に振り払える程度のものだったが、それが許されなかったのは今までに類を見ない詩緒の激怒だった。
「斎テメエ、千景先輩に何してやがんだ殺すぞっ……」
地を這うような低い声で凄まれ、見えているのかも分からない簾のような長い前髪から覗く鋭い眼光に睨まれ、斎は思わず言葉を失う。今までこれ程までに詩緒が本気で激怒する姿を見たことが無かったからだった。
「榊っ落ち着いて!」
これには流石の真香も焦りを覚え、咄嗟に詩緒を宥めようと駆け寄る。真香にとっても千景は尊敬する先輩であり、嘗てあった斎と詩緒とのセフレ関係のような身体の関係が無くとも信じられる存在だった。
それ故に斎の蛮行には許し難いものがあったが、詩緒のように真っ向から斎を責めることが出来なかったのは、その責任の一旦が自分にあることを自覚していたからだった。真香は今程までに斎とのセフレ関係の解消を後悔した瞬間は無い。
詩緒がどれ程千景を慕っているかも知っている真香は詩緒が千景を庇わんと斎を責め立てる気持ちも痛いほど分かり、どちらも大切な親友であるふたりの間に挟まれた真香は心が引き千切られそうな痛みを抱いていた。
詩緒に責められ、仲裁に入る真香もどちらかといえば詩緒と親友であるという関係性が強く、斎はひとり壁に押し付けられたまま孤独を感じる。自分の味方だけがこの世のどこにもいないようなこの感覚は、恐らく実際に体験を経た者でないと理解することは出来ない。
千景は恋人が出来たと言って斎を捨てた。そして詩緒も元彼の綜真と縒りを戻すことになり、それまで三人で上手くいっていたセフレ関係から抜けた。本人は大切な存在が出来たからそれで良いが、置いて行かれる側はただその背中を見つめることしか出来ず、直接捨てた訳ではない詩緒に対しても身勝手だという怒りが斎の中で静かに燻り始める。
「榊だって……」
「はぁ?」
呟いた小さな言葉を詩緒は聞き返す。その本心が音として口から放たれなかったならば、斎はまだ引き返せた。それでも一度言葉にしてしまった思いは引き下がる術を知らず、刃となって孤独を生み出した元凶へと斬りつける。
斎は襟元を掴む詩緒の手首を掴み返し、憎しみの籠もった責める目線を睨み返す。
「榊なんかまだ御嵩さんとセックス出来てないじゃん! 俺のこと言ってないで自分のこと何とかしなよ!!」
詩緒は綜真と一時期付き合っていた六年前の当時であっても一度も綜真とセックスをしていなかった。詩緒が綜真と縒りを戻してからはまだひと月も経ってはいなかったが、未だにセックスに至っていないことを斎は知っていた。再会してからの期間やこれまでの詩緒の気質を考えても、セフレ関係であった時点では何の躊躇いもなかった詩緒が自分たちを捨ててでも選んだ綜真と身体の関係に至っていない事実は斎の格好のネタとなった。
「喧嘩売ってんのかテメェ!!」
当の詩緒も斎の目論見通り綜真との関係に踏み切れないことは常々気に病んでおり、それを持ち出されれば更にコンプレックスが大きく揺さぶられる。斎を睨み上げる詩緒の目には涙が滲んでおり、千景を庇う詩緒を言葉で遣り込めたことが斎の充足感を満たす。
詩緒を遣り込めたことで満足しつつも、詩緒や千景のような存在が守られるべき立場であることを斎は理解していた。芯は強いのに何かに依存していないと自分すら見失ってしまいそうな程不安定なきらいがあって、抱き締めて身体で愛を伝えてその時にだけ見せる甘えた顔がただ愛しくなる。この両腕に掻き抱いて一生守り続けたいと願う時期もあった。反面、自分にはその価値がないから簡単に捨てられるのだと。
愛したい人には愛して貰えず、自分は誰かを見付けるまでの繋ぎなのであると、そう考えると自分がただ哀れで滑稽で、笑いすら込み上がってくる。
――全てを壊してしまいたい。もう何もかもを。
「詩緒!」
張詰めた二階共有通路の空気を切り裂いたのは、誰よりも遅れて二階へ上がってきた綜真の一声だった。
開かれた斎の部屋の扉と、その扉の前に倒れ込む千景、そして壁に追い詰められる斎と追い詰める詩緒、それを止める真香。この四人の間にどのようなやり取りがあったのかということは、綜真が幾ら勘の鈍い人物であったとしても察することが出来るものだった。
綜真の呼び声で詩緒の両肩はびくりと震え、詩緒が斎を掴んでいた手を離した直後に真香も詩緒を諌めようとしていた手を下ろす。
どんな状況であっても詩緒を優先する綜真は真っ先に詩緒へと歩み寄り、自分よりも上背のある詩緒を抱き寄せる。高身長の詩緒は少し背中を丸める形で綜真の肩口に顔を寄せる。
綜真がどこから会話を聞いていたのかは定かでは無かったが、斎と詩緒ふたりの怒鳴り声は同じ建物の中にいればどこであっても聞き及ぶことが出来る声量で、それは即ち詩緒が綜真と身体の関係に至れていない悩みを綜真に知られたことを意味する。
「……海老原も、その位にしとけお前ら」
少し前に第五分室の一員となり、詩緒の恋人であるということを差し引いてもこの場では最年長となる綜真は少し精神的に危うい斎、詩緒、真香の設立メンバーをフォローする役回りでもあった。
斎も退院後には綜真に仕事のフォローをして貰ったという恩もあり、綜真に物言いたげな視線を向けながらも乱れた着衣を整える。
これまで三人を纏められる立場の者がいなかったということもあるが、当初より元ヤン疑惑の拭えなかった綜真の言葉に逆らう者は誰もいなかった。
第一に詩緒のフォローを考える綜真だったが、部屋の前に倒れ込んだままの千景へと視線を落とすと呆れたように口を開く。
「お前も何やってんだよ」
「っせーな」
これまで神戸支社にいたはずの綜真が今日初めて着任した千景に対して気安い態度を取るのにはふたりが既知であるという理由があった。
しかし千景を尊敬している詩緒であっても、その千景が恋人である綜真と親しげなやり取りをしている姿を目の当たりにするのは堪えきれるものでなく、詩緒は荒々しく綜真の手を振り払い自分の部屋へ駆け込んだ。
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