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一章
千景に八つ当たりをして詩緒とも対立した翌日、斎は総務関係の手続きの必要があり、寮から徒歩五分弱の立地にある本棟へ赴いていた。
主な作業は部屋からリモートで行えるとしても、細かい手続きなどはやはり本棟の部署に頼らざるを得ない部分があり、入寮をしてから本棟に足を踏み入れる感覚は新鮮だった。
斎たち分室のメンバーは特例として私服での勤務が許可されており、本棟内にいるスーツ姿の他社員たちの中で斎の存在は浮いていた。一方の社員たちからも私服の斎は第五分室の人間であると即座に分かり、四條が特例として設立した分室を良く思わない一部の社員からの小さな陰口も聞こえる。繊細な詩緒や真香がこの陰口に堪えられる訳もなく、ふたりが本棟に現れることは未来永劫ないだろう。
手続きを終えた斎は早々と寮に戻る気にもなれず、喫煙所で時間を潰してからにしようとしていた。通路の片側がガラスと一部磨りガラスに覆われた会議室が並ぶ中、数ヶ月前までは自分も毎日この本棟に通い詰めていたことが今では何だか夢のようにも思えた。
そもそも寮が出来る以前から第五分室は本棟の隣に捨て置かれた別棟を部署棟としていたので、頻繁に本棟に赴く必要があったのはやはり斎や室長である四條のみだった。
喫煙所までの道を歩む斎は会議室のひとつの中に千景と思しき存在を見付けて意識を奪われる。
「あ、佐野さ……」
第五分室のプレイングマネージャーとして正式に配属された千景だったが、千景は配属に際して四條に条件を付けたらしく他メンバーのように入寮をしていない。千景の勤務地はこれまでと変わらず本棟にあり、私服ではなくスーツ姿のままの千景は定員四名ほどの小さな会議室の中にいた。
何かしらの打ち合わせだろうか、斎は磨りガラスの目隠しの上から会議室を覗き込む。すると千景の向かい側に座っていた男性の手が伸び、千景の手の上へと重なる瞬間を目撃する。
磨りガラスで情け程度の目隠しがあるといっても一面ガラス張りの会議室の中で密会の訳もなく、室内をバレないように覗き込んでいた斎は思わず息を呑む。千景が魅力的であることには同意をするが、先日無碍にされた千景が他の相手と急接近している様子は見ていて面白いものではない。そうしている内に椅子から腰を上げた男は千景に顔を近づけて耳元で何かを囁く。
その瞬間斎の画面は限界に達し、外聞も無く咄嗟に会議室の中へと踏み込む。
「ちょっとアンタ何してんだよっ!」
「海老原?」
突然の乱入者に会議の妨害をされた千景は驚いて斎を見る。椅子から腰を上げて千景と手を重ねたままのその男も目を丸くして斎を見ていた。
磨りガラスという目隠しがなくなり、相手の姿をしかと確認した斎はようやくその人物が誰であるのかを認識した。勿論第五分室を統べる室長である四條が千景に対してそのような真似をするはずがなく、その可能性は始めから除外していた。
「茅萱部長、ですよね? 赤松の上司だった」
社内でこの人物を知らない者は誰ひとりいない。茅萱第三営業部部長は以前詩緒を軟禁した赤松那由多の直属の上司だった。透けるような金髪に白い肌は異国の血を感じさせ、年齢は三十代半ばのはずだがその若々しい見た目は男子高校生か中学生にも見える。
「……だから?」
一見して子供と見間違えてしまうのは茅萱が非常に小柄であることからだった。身長は百六十センチあるかも分からない、肌の色素が薄い割りに目はとても大きく睫毛が長い。本棟の女子社員たちの間でアイドル的な人気を誇っているのも斎は納得が出来た。テレビで良く見掛けることのある男性アイドルのような見た目と表現することが一言で茅萱を現す言葉でもある。
茅萱の聞き返す言葉に、斎は茅萱が未だに掴んだままである千景の手元へと視線を落とす。それは銀のリングが輝く千景の左手であり、途端に斎の脳裏には昨日の拒絶が思い起こされる。
茅萱にはこうも簡単に手を握られ抵抗すらも示していない千景に対して次第に腹の奥に沸々と怒りが込み上げているのが分かった。
それを認識した瞬間、斎は千景の腕を掴んで会議室を飛び出していた。
「お、おい海老原!」
突然乱入してきた斎に訳も分からず腕を掴まれた千景は咄嗟に抗議の声を上げ、立ち去るふたりの姿を茅萱はただ唖然として見つめていた。
斎の耳には千景の言葉など一切届かず、ただ無心に人の居ないところを探していた。そして滅多に使う人がいない非常階段の重い扉を開けたところで千景はようやく斎の手を振り払う。
「何なの!?」
「は?」
開口一番の斎の言葉に千景は呆気に取られる。その言葉を言いたいのは千景の方で、予想外の台詞に千景は訝しげに眉を寄せて斎へ視線を送る。
「隙あり過ぎでしょアンタ!」
こんな言葉を言いたい訳ではないことに斎は自分自身で分かっていた。しかしいざ千景を前にしてしまうと真っ先に感情的な言葉が飛び出してしまう。
「……あのな海老原、お前なんか誤解して」
千景は溜息と共に髪を掻き上げる。その掻き上げた左手の薬指に輝き光を反射する指輪に斎の心臓は強く締め付けられる。
昨日は冷静に話をすることが出来なかったが、今誰もいないこの場所でなら言える気がする。今でも千景を目の前にすると思い出されるのは酔った勢いでキスをしてきた千景の柔らかい笑み。その笑みに昨日の拒絶された瞬間の千景の顔が重なる。酷く絶望したような、青褪めた表情だった。
「そうやって簡単に誘われやすい空気出すから俺とだってっ、それなのにっ……!」
気密性の高い非常階段の空間に乾いた音が響く。
じわりと頬が熱くなって、斎が叩かれたことに気付いたのはその直後だった。
「時と場所考えろ」
あの時と同じ良く通る低い声だった。ここは寮でもなく社内の人間に聞かれてもおかしくない非常階段の一角で、千景の指摘は尤もだった。その制止方法には苦言を呈すことができるものだったが、この状況においては他に手段がなかった。
虚しくて惨めでじわりと斎の目頭が熱くなる。
「茅萱部長は赤松の代わりに分室の営業請け負ってくれてんだぞ」
千景が何か説明しているということは理解できても、その言葉も斎の耳にはもう届いてはいなかった。叩かれた頬がただ悔しかった。何故自分ばかりがこのような目にあわなければならないのか、斎の中にはその思いしかなかった。
千景はそんな斎の様子を見て深い溜息を吐く。斎に何の言葉も届いていなさそうなことは千景にも感じ取れていた。
本棟最上階奥の男子便所も今は懐かしい。斎は備え付けの鏡で千景に叩かれ赤く腫れた顔を見る。目撃した他者に何かしらの噂話を流布されるのは好ましくなく、人が寄り付くことの少ないこの場所が最適だった。
千景に叩かれたという事実が斎の中では大きな衝撃として残り、その時の千景がどのような顔をしていたのかも思い出せない。千景は細身に見えてその実腕っぷしはかなり強い。その気になれば昨日も斎を諌めることなど容易に出来ただろうが、それでも斎と向かい合って話をしようとしていた千景の気持ちを斎はまだ理解出来ていなかった。
老朽化しており建物の中で唯一自動ではない蛇口を捻る。凍て付く冷水が思わず斎の手を引かせようとするが、今はこの冷たさが心地よく斎は冷水で冷やすように顔を洗う。
「えーびはらっ」
唯一改修されていない不便さもあったが、建物最上階の奥に位置する男子便所をわざわざ好んで使う者はいない。突然背後から声を掛けられた斎が顔を上げると入口に立つ茅萱と鏡越しに目が合う。
「……茅萱、部長」
顔から水をぽたぽたと垂らしながら、斎は茅萱を振り返る。入社当時のスーツならともかく、ラフなパーカーを着用している斎は誰にも見咎められなければそのままパーカーの裾で顔を拭っていただろう。
「いやぁ聞くつもり無かったんだけどな? ついうっかり聞こえちゃって」
改めて見ても四捨五入して四十歳には見えない茅萱はアイドルのようなキラキラとしたオーラを身に纏っていた。着用しているのは間違いなく仕事着としての誂えたシングルスーツなのだが、そのスーツ姿でさえ冠婚葬祭に現れた学生のようにも見える。
それでいて斎に対してにっこりと微笑む姿はまるで美少女そのもので、寂れた男子便所に全く不釣り合いだった。
こげ茶色の革靴が便所のタイルを打つ音を響かせ、茅萱はまだぽたりと水を顔から滴らせる斎へと歩み寄る。
「お前、佐野とデキてたの?」
「ッ!!」
茅萱は逃げ道を塞ぐように正面から斎に迫り、背後にある洗面台の為斎は逃げ場を失う。
そして茅萱からの問いに改めて昨日からの行動を頭の中で反芻し始める。千景を部屋に連れ込み、メンバーの前で千景との過去の関係を暴露し、今日も会議中の千景を不躾に連れ出した。そんな千景に頬を叩かれようとも無意識に千景を守ろうとする意識が働き斎は言葉に詰まる。
茅萱に聞かれていたという事実そのものより、経緯はどうであれまずは千景との関係を否定しなければと考えた斎は無言で首を左右に振る。
「なあ海老原、お前抱かれてみるほうに興味ねぇ?」
茅萱はその大きな双眸でじっと斎を見上げ、ゾンビに追い詰められ成すすべもなく固まっているかのような斎の耳元でそっと囁く。茅萱の声は直接斎の耳の中へと届き鼓膜を揺らす。
「は、俺……が?」
これまで抱かれる経験は数える程度の斎だったが、茅萱からそういう対象に見られている事実に驚き思わず返す言葉が裏返る。
茅萱は斎に身を寄せ、その指先がパーカーの上から斎の胸元をなぞる。この場所が人のあまり来ない寂れた便所で良かったと斎は改めて実感していた。
茅萱がどれだけ物理的に近付こうとしてもその身長差だけは埋めることが難しく、真香や千景とも異なる画角で見下ろす茅萱の顔はやはり美少女そのもので、口を開き声を発さなければうっかり見間違えてしまいそうだった。
「大丈夫だぜ? 俺上手いし。絶対お前に損はさせないしさ」
声を落として茅萱は囁く。細められた瞳に濃い陰を落とす長い睫毛は茅萱が瞬きする度に大きく揺れる。
ごくりと生唾を飲み込む斎の喉が鳴る。それは斎自身が抱かれるという可能性に対してのことではなく、茅萱に対する性的な好奇心から自然と生まれたものだった。
言葉を失いつつもその反応は顕著に現れ、茅萱はその斎の反応を見て楽しそうに目を細める。これ以上揺さぶる必要はなく、斎の興味が傾きつつあることに目を見て理解した茅萱は斎を解放するように離れ少しだけ距離を取るとスーツの内ポケットから革製の名刺ケースを取り出す。
その中から取り出した一枚の裏面を確認してから決意が揺れる斎の手を取りその名刺を握り込ませる。大量生産されている仕事用の名刺とは異なり、指先で触れるだけでも分かる光沢のある上質なものだった。斎は無意識に手の中の名刺を握り込む。
「抱かれる気になったら今晩このホテル来いよ」
茅萱は名刺を握った斎の拳を両手で優しく握り込む。呆気に取られたままの斎に考える隙も与えず名刺を押し付けた茅萱は、最後の念押しとばかりにその身長差を利用し斎を上目遣いで見上げてから笑みを浮かべる。斎から見ればそれは天使の微笑みのようなものだった。
そして斎にトドメを刺した茅萱は何事も無かったかのように踵を返して出口へ向かって歩き始める。
「え、ちょ、まだ俺は何も……」
一連の出来事が全て夢か幻かに思えた斎だったが、手の中のカードを握りしめたまま立ち去る茅萱の背中に向けて声を掛ける。
茅萱は一度も斎を振り返らずに手を軽く振るだけだった。
夕方、寮に帰った斎は自室に戻ると抜け殻のように寝室のベッドへと倒れ込む。
寮とはいえその構造は鉄筋コンクリートであり余程はた迷惑な騒音をあげない限り周囲の音が漏れ聞こえてくることはない。しんと静まり返った室内はカーテンの隙間から射し込むオレンジ色の夕陽に照らされ、冬であるというのにどこか温かさすら感じる。
元々詩緒は口が悪く常にツンツンとしており、その態度の悪さも当時の上司だった山城に目を付けられる原因だったが、その棘が丸くなっていった原因には明らかに綜真の存在がある。
三年近く詩緒、真香と共に第五分室のメンバーとして同じ時を過ごしてきていたが、生気を帯び活き活きとした詩緒の様々な面を見ることができるようになったのは綜真が登場してからのことだった。三年間一緒に居ても自分では引き出すことの出来なかった詩緒の表情を綜真はいとも容易く引き出すことが出来た。
セフレ関係になる以前の千景も中途入社をしてきてからどこか他人との間に壁があったが、ある時期を境にその雰囲気が和らいできたのを感じていた。それは千景自身の口から本命の相手と暮らし始めたことを聞かされる直前のことだった。
恋人という存在が詩緒や千景を変えたのだということ自体は斎にも理解ができた。それはただのセフレ関係であった頃よりもずっと――魅力的であり、色気の中に思わず掻き抱きたくなるような儚さも孕んでいた。
〝愛〟というものを斎は理解が出来ない。それは今まで斎が特定の相手と長く交際関係になった経験がなく、愛を誓い合うことも愛を囁かれたことも無かったからだった。
少なくとも真香との間にそういった感情はない。ただの性欲処理の関係性であるからこそ大きなトラブルもなく三年以上続けることが出来ていた。真香にとってそれ程重要な関係では無かったからこそ、真香もセフレ関係の解消を持ち出してきたのだろうと斎は考える。
詩緒は六年を経て綜真を選び、千景も長年片思いだった相手と最終的に結ばれた。詩緒や千景からだけではなく真香からも求められていないという現実が斎の心臓を強く締め付ける。
選ばれない者の気持ちは選ばれた経験のある者には決して分からず、真香だけは自分と同じ痛みを分かってくれているものだと信じて疑わなかった。
詩緒の存在があったからこそ成り立っていたセフレ関係。求められていたのは三人一緒という関係性だけであり、本当は自分自身が求められていた訳ではないという事実はただ斎を長く暗い闇の迷路へと置き去りにした。
枕を抱き締め横向きに眠る斎の頬に涙が伝う。
抱かれることがそんなに魅力的であるのかが斎には想像できない。抱かれた経験がないわけではない。それでも専ら真香と詩緒の三人でいる時は自分が抱く側にまわることが多く、その一番の理由は求められていることを直接実感できるからだった。
それでも一度も抱かれなかったわけではなく、何かの切っ掛けで真香や詩緒を求めたとき拒絶されずに受け入れて貰えたことが斎の心を満たした。
詩緒と綜真の過去に何があったのか斎には分からない。ある程度の内容に関しては綜真と詩緒の口からそれぞれ聞いたことがあるが、それでも全てを明かされている訳ではないことを理解していた。
赤松という余計な存在が詩緒に執着心を抱き、それを起因として詩緒と綜真の過去の遺恨が解消されたのは間違いないが、少なくとも今現在の綜真が詩緒のことを大切に思っているのは先日の一件だけでも十分に分かった。綜真は何よりも詩緒を優先している。照れ屋でツンデレ気味の詩緒ではあったが今は綜真を信じて少しずつでも心を開こうとしているのが分かる。
話に聞くだけでまだ実際に相まみえたこともない千景の恋人も、あのクールと粗雑さを具現化したかのような千景が指輪を肌身離さず常に持ち歩いているところから余程大切にしている相手であるということが分かる。
始めから千景には大切に思う相手がいるということは斎も知っていた。セフレ関係であった時点で何度千景に交際を申し込んだのかも分からない。その度にセフレなら良いけれど付き合うことは出来ないと無碍なく断られ続けていた。それでも時には千景から斎を求めることもあり、恋人という名前に頼らずとも千景とこんな関係でずっと居られるのならばそれでも良いと考えていた時期もあった。
自分が抱くだけを主とするからこそ、分からないのかもしれない。もし抱かれる悦びを今まで以上に知ることが出来たならば、詩緒や千景のように相手を求めることができるようになったならば何か分かるのかもしれない。
斎は徐ろにポケットへと押し込んだものを取り出す。それは茅萱から無理やり渡された名刺であり、ベッドの上で仰向けに寝転んだ斎はそのつやつやとした光沢を指先で楽しみながら名刺に印刷されたホテルの名前と手書きで書き添えられた部屋番号と指定された時間を確認する。
何故茅萱が自分に声を掛けてきたのか斎には分からない。状況から考えると茅萱は千景を誘おうとしていたのかもしれない。当然今の千景が茅萱の誘いに乗るとは思えないが、自分が行くことで少しでも千景に対する償いになるのならばと斎はゆっくりとベッドから身を起こす。
明確に行くと茅萱に約束をした訳ではない。それでも茅萱のあの口ぶりから考えればきっと茅萱は渡された名刺のホテルで斎のことを待っているだろう。
居なければそれはそれで良いとも思い始めていた。身長百八十センチを越える男を抱きたいと考えるほうがおかしい。同じ百八十センチを越える長身であっても詩緒と自分は違う。見るからに儚げで、簾のような長い前髪とレンズの厚い眼鏡の奥に隠された人形のような整った顔、口は悪く威勢だけは良くその割に腕力は皆無で精神的にも脆い部分があり、思わず手を差し伸べて守ってやりたくなるような――その欠片すら有していない自分を抱きたいと能動的に考える存在がいる訳無い。
斎はエントランスの大理石貼りの玄関で靴を履く。からかわれていただけなら帰ってくれば良いだけの話だ。だけれどもし本当に茅萱が待っていたら、と斎の心の中に何とも表現し辛い不安が過る。
「斎っ」
誰もがまだ自分の部屋で仕事をしているはずのこの時間に突然声を掛けられ斎は息を呑む。呼ばれた声に斎がぎこちなく振り返ると、暖かそうな赤い毛糸のカーディガンを羽織った真香の姿があった。
「どこ、行くんだ?」
寮には備え付けの大きなシステムキッチンがあるが、食事を作りに来るような存在はいない。必然的に料理を得意とする真香が名乗り出て、毎日三食の用意をしてくれている。
通勤の必要が無いからこそできることであり、各人の部屋にも小さなキッチンや冷蔵庫はある為揃って食事をすることは義務付けられているものではなかったが、自然と全員が集まって食事を共にするようになっていた。
いわば寮のお母さんのような立場を兼ねていた真香だったが、今の真香には普段のような明るさは無い。それはきっと先日詩緒と揉めた一件で真香との間にも凝りが出来てしまったかだろうと斎は考えていた。
「えっと……買い物、だよ」
斎の口から咄嗟に嘘が飛び出る。昨日の今日で茅萱部長に抱かれる為出掛けるなどということを今の真香に言えるはずがなかった。何故か言ってはいけないことのような気がしていた。
真香は基本的に明るい気質の持ち主であったが、元々は詩緒以上のメンヘラであり自傷癖がある。リストバンドで隠しているその左手首には見てはならない物があることを斎は知っていた。
斎が真香に真実を伝えられない理由は真香を刺激したくないという思いの外に、先に自分の手を離したのは真香のほうであるという思いもあった。だけれどそんなことは間違っても真香本人に告げることは出来ない。斎は喉まで上がってきた言葉をぐっと飲み込む。
「すぐ帰るからさ」
今だけは何も触れないで欲しい。これまではどんな時でも三人一緒にいたけれど、今はそうじゃない。セフレという関係を一方的に断ち切られて孤独に突き落とされた。その上でどこに出掛けるのかという個人的な事情まで踏み込まれたくはないという拒絶の思いが斎の中で徐々に大きくなってきていた。
斎は立ち上がり、内側から扉を開ける為にも使うセキュリティカードを財布の中から出す。
「あ、ねえ斎っ……!」
真香の透き通る声がエントランスに響く。そもそも夕食の時刻にも早い勤務時間内、トイレも各部屋に備え付けられているので用もなく一階に現れた真香の意図が読めなかった。
可能性としては逐一斎の動向を気にしていたという程度しか今の斎には考えられず、予定外の外出に際して何処へ何のためにと詳細を明かす道理が斎には見付からなかった。
もうセフレでもなく、ただの同僚となった真香にこれ以上踏み込まれたくないという思いが強まる。
「昨日の事……だったら、最近ちょっと榊も御嵩さんとの事で不安定になってただけだし。千景さんもっ、あの人メンタル強いし、だから――」
「だから?」
思わず飛び出た言葉に斎は自分自身でハッとして片手で口を押さえる。真香に対する苛立ちが、捨てた相手に対する干渉が、限界を迎えつつあった斎の中から声として悲鳴を上げ始めていた。
ただ放っておいて欲しかった。これ以上他人となった自分の中に踏み込まれたくないだけだった。たったひとり取り残された自分の気持ちを少しは理解してほしかっただけなのに。
目の前に立ち尽くす真香の表情は凍り付いていた。それはまるで真香が被害者であるかのようにも見えた。傷付けられたのはどちらだったのか、それすらも良く分からなくなってくる。
突き放された自分が突き放してはいけない法律でもあるのか、どんなに傷付いても笑って受け入れなければならないのか、それでも目の前で悲痛な表情を浮かべる真香に対しての罪悪感が皆無という訳ではなかった。
ぎしりと誰かが二階から階段を降りてくる音が響く。それは詩緒か綜真以外の何者でも無いが、今この状況を見咎められこれ以上茅萱の元へ向かう時間が遅れることも斎には看過しきれぬ問題だった。
それが詩緒か綜真のどちらであっても、真香を任せる分には事足りる。とにかく今は一秒でも早くこの場から立ち去りたいと決意を固めた斎は降りてくる気配にも意識を傾けつつセキュリティカードを片手に自動ドアへと向かう。
「よ夜には帰るからっ、あ、夕飯要らないから俺の分用意しなくていいよっ」
「あっ斎……」
真香はにべもなく出ていく斎の背中にただ片手を伸ばすことしか出来なかった。
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