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二章
茅萱から渡された名刺に書かれていたホテルは駅前の繁華街の一角に位置していた。遠ければバイクを使用する可能性もあったが、その必要性もない距離であることを考え徒歩にて向かうと到着する頃は既に日が沈みきっており頼りは目映いばかりのネオンのみとなっていた。
口ぶりから察する限りてっきりそれに適したラブホテルかと考えていた斎だったが、少し高級なシティホテルだったことに驚いた斎は手元の名刺とホテルの名前を何度も見比べる。
新しい自分の生き方を見付けるために決意を固めて来たつもりだった。それでも斎がホテルのエントランス前で立ち尽くしてしまうのは、頭の中にちらつく先ほどの傷付いた真香の表情だった。
もしかしたら、自分は大きな間違いをこれから起こそうとしているのかもしれない。ただひとり自分のことを心配してくれる真香を起き捨てて、茅萱の誘いに乗って得られるものは一体何なのだろう。
詩緒が抜けて真香とふたりだけになったとしても、これまでと変わらぬセフレ関係を続けていられたならば良かった。ふたりだけで続けても意味がないという真香の言葉は、斎にとっては価値がないと言われているのと同義だった。
千景、詩緒に続いて真香まで。セックスだけで繋がっていた相手が自分から離れていくことは身を裂かれるほどに辛い。そこに恋愛感情が生まれなくても、ベッドの中だけでは愛しているとその場限りの言葉を囁いて、温かな肌に触れることで心の安定を図っていた。
今の自分にはもう何も無い。詩緒は元より真香とも以前のような関係に戻ることは出来ない。寮という同じ屋根の下で暮らしておきながらその状態は斎にとっては生殺しと同じ状態だった。
だから、この茅萱からの呼び出しは渡りに船でもある申し出だった。それでもまだ斎の中に躊躇いが残っているのは、殆ど初対面である茅萱に声を掛けられたことだった。
歩くだけでも女子社員からの黄色い歓声が上がるほどの人気を誇る茅萱は我らが室長である四條とは真逆のタイプであり、サービス精神も旺盛らしい。つまりは引く手あまたで相手に困るはずがないのだった。茅萱の趣味嗜好にもよるが、男女問わず茅萱が誘いをかければ千景のようなタイプを除きそれに応じない者はいないだろう。
何故自分だったのか。それだけが斎にとっての疑問だった。
幾らエントランスで斎がひとり納得のいく答えを探そうとしても、この先にその答えは用意されている。思い悩むだけ時間の無駄で、斎は頭の中でもやつく思考を全て振り切り、フロントに歩み始める。
予め茅萱から伝えられていた部屋番号と茅萱の名前をフロントに伝えると従業員からエレベータを上がって該当の部屋へと向かうことを伝えられる。ラブホテルと異なるところは従業員の対応が丁寧であることと、他の宿泊客と顔を合わせても気不味くならないところだった。
この数年間はお互いの家か、まだ寮制度が導入される前の分室があった別棟で事に及ぶことが主だったため、待ち合わせでホテルに来ること自体が久々だった。最後に千景とホテルに入ったのはいつのことだっただろうとぼんやり考えている間にエレベータは目的の階へ到着し、音も立てずに扉が左右に開く。
来ること以外の条件を斎は聞いた覚えがなかった。だからこそ財布とスマートフォン以外はほぼ手ぶらで着てしまったのだが、このような場所だと分かっていればジャケットの一枚くらいは羽織ってくることが出来た。
従業員に部屋へ向かうことを伝えられたことから、茅萱が部屋にいるであろうことは明確だったが斎はその扉の前で再び立ち止まっていた。どう贔屓目に考えてもこの場所にパーカー姿の自分は不釣り合いな気がして、やって来たは良いが今すぐにでも踵を返して退散したい衝動に駆られた。
――だけれど、それでは一生自分は今のまま変わることが出来ずに終わってしまう。
不審であっても、踏み込まずに逃げ出せばいつまでも真香や詩緒に依存していた自分から抜け出すことは出来ない。意を決した斎は片手を持ち上げて部屋の扉をノックする。
茅萱が出てこなければそれは理由になる。行ったけれど結局からかわれていただけだったと斎は納得できる。斎の浅はかな逃げ腰思考など簡単に飛び越え、数秒後扉は内側から開かれる。
中から顔を見せたのは数時間前に本棟で顔を合わせた時そのままの茅萱で、首周りを多少寛げた状態の茅萱はほぼ時間通りに現れた斎の顔を見上げてから黒目がちな目を細める。
「怖気付いて来ないかと思った」
その言い方は実際に斎が現れたことに対する侮辱のようにも受け取れ、斎は少しだけムッと表情を歪める。
「――俺が来なかったらどうするつもりだったんですか?」
こちらだって実際には茅萱が部屋で待っていない可能性を考えていた。扉を開けた茅萱に招かれた斎は茅萱の後を追って部屋へ入る。
やはり性行為だけを目的とするラブホテルとは内装の造りも異なり、広々とした室内は薄暗くもなく寮の部屋よりも豪奢に見える。恐らく高級であろうガラス製のテーブルの上にたふたつのグラスとジャンパンのボトルが置かれている。
「んー? そん時は適当にデリでも呼ぼっかなって思ってたけど」
茅萱はグラスのひとつを手に取り、内装のギャップに面を食らっている斎に手渡す。折れそうなほど繊細なステムを指で摘むと、ふわりとシャンパンの爽やかな香りが斎の鼻腔を擽る。
「でも、来ただろ?」
まるで悩みに悩んだ末、それまでの全てを捨て去ってでも斎がここに来ることを見越していたような言葉を告げる茅萱は内容量が少ないグラスを片手に取ると、斎へ押し付けたグラスに軽く当てる。
全てが茅萱の掌の上で操られているような感覚は否めなかったが、斎は手の中のグラスに視線を落としシャンパンを一気に飲み干す。
先にシャワーを浴びた斎はバスローブを身に纏ったまま、入れ替わりでシャワーを浴びに行った茅萱を待つ時間を持て余してベッドに腰を下ろしてただ待っていた。
ここまで来てしまってはもう引き返すことが不可能だと斎は重々承知していた。これまでにない緊張が斎を襲う。言葉通りに茅萱が部屋で待っていたことや、茅萱自身も斎が来ることに対して半信半疑だった点が迫りくる現実を表していた。
シャワーを浴びる時に脱いだ衣類の上に何気なく置いていたスマートフォンの違和感に斎は気付く。この三年間連絡を取る相手は真香と詩緒に集中しており、それ以外の誰かと連絡を取るようなことは限りなく少なくなってきていた。何かの通知を知らせるライトの点滅に斎はベッドから立ち上がり、スマートフォンを手に取る。
ロックを開けずともその通知内容だけは確認が可能で、液晶画面の一面に表示されている通知は全て真香からの着信とチャットアプリの文面だった。
買い物という理由だけでは言い逃れの出来ない時間が既に経過しており、それでも出掛ける直前に夕食は要らないと伝えたことから帰宅が遅くなることは真香も既に理解をしていること考えられる。
それでも表示される真香からのチャットの文面は斎が今どこにいて戻りは何時になるのかという問いかけだった。これがまだセフレとしての関係性が残っていた時期ならば心配をしてくれる真香に対して可愛らしいという感情を抱くこともあっただろう。しかし今の斎にとってはセフレでもない同じ寮で生活するだけの同僚から帰宅に関してあれこれ詮索されることが苦痛とも言えた。
今になって気にするくらいならば、どうしてあの時自分を突き放したのか。セフレ関係の解消なんて真香が言い出さなければ自分はここまで思い悩んで苦しむことは無かった。真香に対する一方的な憤りを抱いた斎はスマートフォンの電源を切ってから液晶を下側に向けて元の位置に置く。
後悔にも似た感情はやはりあった。それでもやはり今後以前までのように触れることが許されない真香よりは、今目の前で起こり得るチャンスを掴んでみたいという斎の考えを否定できる者は誰もいない。その背中を更に押してしまったのが真香から来た斎を心配する連絡にあたるだろう。
どれだけの時間が経過したのか、斎にとっては長い時間のようにも思えた。シャワーを浴びた茅萱がバスローブの腰紐を巻きながら出て来ると、ふわりと湿度の高い甘い香りがした。
茅萱は男性であるのだから、当然元より化粧をしていた訳ではないが、蒸気で赤く染まる頬が扇情的で斎は生唾を飲む。幾ら可愛らしい顔をしているとはいっても間違いなく茅萱は男性であり、斎が腰を下ろしていたベッドに膝を乗せた茅萱はそのまま斎をベッドへと手慣れた仕草で押し倒す。
「お前と佐野って付き合ってたの?」
長い戯れのキスの後、茅萱は斎の上に乗ったまま見下ろしながら尋ねる。
茅萱がどの時点から自分と千景の会話そ聞いていたのか分からない斎だったが、この期に及んで否定するのはナンセンスだった。それでも今更千景とのことを持ち出されたくないという気持ちもあり気まずさから咄嗟に顔を背ける。
「……ただのセフレですよ。あの人絶対に付き合ってくんなかったし」
一度でも付き合ってくれていたならどんなに良かったから。事あるごとに本気であることを千景に伝えていた斎だったが毎回上手く躱されてきていた。どんなに長い間心に想う相手がいたとしても、実るかも分からない相手より目の前の自分とのことを考えて欲しいと何度斎は千景に対して願ったことだろうか。
それでもいつかは千景が自分を選んでくれると信じて疑わなかった。ある時唐突に本命の相手と付き合うことになったと言われて、千景の選択肢の中に初めから自分の存在など無かったことを斎は知った。
「え、でも佐野指輪してたじゃん」
斎が第五分室の所属になってからはただでさえ薄かった千景との接点は皆無と言って良いほどとなり、今年の夏以降斎が気付いたころには千景はその左手薬指に指輪をするようになっていた。
銀色に輝く指輪を嵌めた千景が喫煙所で煙草を吸っている姿を目撃し、絶望したことは今も鮮明に覚えている。あんなに柔らかく微笑む千景の姿なんて今まで一度も見たことがなかった。
「佐野さんのことはもういいでしょ……」
愛してくれないのならば、始めから声を掛けないで欲しかった。斎の心中にはあの時の惨めな思いが再び湧き上がり、手の甲で目元を覆い隠しつつ涙を堪えるように吐き捨てる。
喫煙所に乗り込んで、千景の指から指輪を奪い取り、窓の外へ放り投げたらどんな顔をするだろう。そんな考えが一度だけ頭に過ぎったこともある。
茅萱は斎の胴を跨ぎ、背けた斎の顔を正面へと向けさせて真っ直ぐに視線を向けてくる。
「好きだったんだな、佐野のこと」
もしかしたら自分は茅萱に呼ばれたホテルへ向かう間に死んだのかもしれない。ここはホテルではなく本当は天国で、自分を見下ろしているのは天使なのだと斎は目の前の光景をぼんやりと眺める。その透き通る金髪がただ綺麗で、核心を突かれた斎の目頭がじわりと熱くなっていくのを感じていた。
「お前初めてだしなー」
斎を組み敷いた茅萱は一度身体を起こし、ベッドサイドに置いていた自らの荷物の中を漁りプラスチック製の小さな半透明のケースを持ち出す。そしてそのケースの中から切手のような紙状の何かを舌の上へ乗せてから再び斎に顔を近付ける。
「ほら、口開けな」
唖然とする斎の顎に手を掛け、その唇を親指の腹で撫ぜ開口を促す茅萱だったが、斎は茅萱の両肩を掴んで接近を止める。
小柄なだけあってその制止は千景よりも容易く、茅萱の身体はあっさりと押し返される。斎も一度上半身を起こし茅萱が舌に乗せた不審な物体に対して動揺を顕にする。
「ちょ、なにそれっ」
「知んねぇの? ラブドラッグだよ」
茅萱は舌に紙を乗せたまま答える。正にそれは切手そのものにも似ていて、表面には鮮やかな絵のようなものが描かれていたが、茅萱の口腔内ということもあり詳しくは分からなかった。
「ドラッグ?」
ただ茅萱が告げたドラッグという言葉を不安視した斎は眉を寄せる。その単語に良い反応を示さないのは当然であり、男に抱かれる決意だけは固めてきていてもドラッグに手を出す気は毛頭なかった。
斎の不安を感じ取った茅萱は途端にふと優しげな表情を浮かべ、斎の額から頭部への髪を梳くように撫でる。その手付きはとても優しく、思わず流されてしまいそうだった。
「今一番流行ってる媚薬みたいなモノだよ。お前初めてだからこれあったほうが緊張も解れるかなーって」
茅萱はそれが何であるか、違法なものではないということを斎に明かす。あまりにも軽いノリで茅萱が勧めてくるだけあって本当に違法性は無いのだろうが、斎はまだドラッグという言葉に抵抗感があった。
「今そんなの流行ってんの……?」
三年近くの間千景、真香、詩緒以外とセックスをしてこなかった斎は如何に自分が世間の常識に疎くなっていたのかを自覚する。真香や詩緒が媚薬と称してドラッグを持ち出すことなど今まで一度もなく、千景に対してはその存在だけが媚薬のようなもので他の力を借りる必要など一切なかった。
「お前全然遊んでねぇのなー。佐野とだけかよ」
「ちがっ、」
茅萱は斎が真香や詩緒とも過去にセフレ関係があったことを知らない。ここで敢えて千景以外にもセフレがいたことを茅萱に伝える必要はなかったが、ほぼ初めてのような状態で千景や詩緒のように抱かれるだけで快感を得られるという自信が斎には無かった。
それならば媚薬の力を借りたほうが容易い上、もしここで茅萱の勧める媚薬を拒んでしまい茅萱に萎えられてしまったらという不安が過ぎる。
ただでさえ茅萱よりも上背があり、見た目から考えても抱かれる側でないことを斎は自ら認識していた。それでも抱こうとしている茅萱の気を削いでしまうことだけが今この時点で斎にとっての最大の恐怖だった。
「ああもういいや」
考えたところで何かが変わる訳でもない。ガシガシと後頭部を掻き未だ及び腰だった自分の考えを改めた斎はひとつ大きな溜息を吐いた後で茅萱の腰を抱き寄せる。
「ソレ、下さい」
「イイコだ、海老原」
そう言って微笑む茅萱の顔が何だか嬉しかった。期待に応えられたことで得られる充足感。
考えるだけ無駄で、瞼を落としされるがままに唇を重ねると薄く開いた隙間から茅萱の舌がするりと入り込んでくる。それは媚薬のせいなのか、熟れたさくらんぼのような甘い味がした。
それと同時に茅萱の片手がバスローブの合わせから侵入して斎の肌に触れる。千景や真香とは違う子供のように柔らかくて少し温かい指先だった。
久しぶりにキスをしたような気がした。先日無理やり千景としたばかりのはずなのに何故か新鮮さを感じてしまうのは茅萱が舌先で腔内を探る度にそれが直接斎の脳を刺激するからだった。キスでここまで興奮したことなど今まで無かった。それが媚薬のせいなのか、相手が茅萱だからなのかは斎には分からなかった。
互いの唾液の音と、漏れる吐息だけがそぐわないホテルの室内に響く。セックスをする為の場所ではないホテルでこれから行うことを考えるだけでも斎は余計に興奮するだけだった。
茅萱の指先が斎の胸元を探り、屹立を現す突起を悪戯に擦り、肌を撫でそれなりに引き締められた腹筋をなぞり下腹部へと伸びていく。頭の奥まで痺れるような感覚で、茅萱の舌先が首筋をなぞるだけでも斎の腰の奥がぞくぞくとする快感に襲われる。
茅萱がその中心部に指先で触れた時、斎は自分が勃起をしていることに気付いた。
「キスだけでこんなになって……悪いコだな」
「ちがっ、ひさしぶり、だからっ……」
耳の中へ直接囁かれる言葉が呪いのように斎の中へ浸透していく。キスだけで勃起するような性を覚えたばかりの中学生のような反応を自分がする訳なかった。幾ら頭で否定しようとしても実際に示している反応が全ての答えであり、茅萱がその舌や唇、指先でどこに触れても神経を直接触れられているような気になる。
真冬にも関わらず真夏のように体中の血液が沸騰しているような感覚に陥る。先程口にしたシャンパンの影響もあるのか、元より飲酒をしたらすぐに顔が赤くなる体質の斎は呼吸が荒くなってきているのを実感していた。
茅萱の指先は半透明の蜜を零すその箇所を伝い、その行き着く先である秘された入口を撫でる。
「――ココ、使ったことあんの?」
「ッ、あ、少し……だけっ」
これまでならば不快とまではいかないが多少の抵抗があるその場所は茅萱の指を難なく受け入れ、自分の身体の中に自分の意思以外で動くものの存在があることですら斎の高揚感を助長するに過ぎなかった。
「それじゃあ、じぃっくり慣らさないとなぁ」
そう言いながら笑みを浮かべる茅萱の顔は天使にも悪魔にも見えた。
「……煙草取って」
ベッドの上に横たわったまま、斎はバスローブ姿でカウチに座り自らのスマートフォンを見ている茅萱へ声を掛ける。
あの高揚感は一体何だったのか、残るのは途方もない倦怠感。おまけに腰も痛い。何度休憩を願っただろうか、何度も絶頂へ追いたてられる感覚に最後のほうは自分でも何を口走ったのか分からない状態になっていた。
斎が目を覚ましたことに気付いた茅萱は見ていたスマートフォンをガラステーブルの上へ置き、意地の悪い笑みを浮かべながら斎を振り返る。その表情ですら愛しいと感じてしまうのは、斎の身体と脳に茅萱の体温や掛ける言葉の優しさが刻み込まれてしまったからだろう。
「動けねぇの? そんなに良かった?」
「うっさい誰の所為!?」
徐ろに手で掴んだ枕を斎は茅萱に投げ付ける。一回だけで終わるとは斎も思っていなかったが、何度絶頂に達しても斎の熱は果てることがなく、結局五回も繰り返されたその行為は斎をただ絶望させた。
茅萱は投げられた枕を受け止め、ベッドに横たわる斎へ寄ると頭をくしゃりと撫でて額に口づける。
「可愛かったよ。恥ずかしがる事ねーじゃん」
斎が得たのは絶望だけではなく、抱かれる感覚の本当の良さというものをこの日初めて知った。
買い物に行くと言って出掛けて、連絡も全て無視をした斎が寮に戻った時、一階のエントランスは真っ暗でしんと静まり返っていた。
それも当然だろうと考える斎がエントランスに足を踏み入れると、小さな靴音が冷え切った一階の空気に響く。その直後ダイニングの扉が開き、先程と同じ赤いカーディガンを肩に掛けたパジャマ姿の真香が姿を現す。
「斎っ」
「真香……まだ起きてたんだ」
あれから何時間待ち続けていたのか、連絡ひとつも返さないまま無言で帰宅した斎のことを真香は夕食の後からずっとダイニングで待ち続けていた。
玄関で靴を脱ぎ室内用のスリッパに履き直す斎へと真香は駆け寄り、飛び込まんばかりの勢いで斎に抱き着く。斎は腰の鈍痛から少しだけバランスを崩しかけたが片腕で真香を抱き留め、こんな深夜まで自分を心配して待っていてくれた真香の背中を撫でる。
「……もう帰って来ないかと思ったぁ……」
抱き着いた真香の声は震えていた。安易に想像できることだったが詩緒は恐らく真香に自分を待っている必要などないと言ったのだろう。そして綜真もきっと詩緒の言葉に迎合する。それでもたったひとりで待ち続けた真香の心中は如何ばかりか、後ろめたさから斎の胸がずきりと痛む。
こんなにも自分のことを心配してくれる真香を無視して、つい先程まで情事に溺れていた自分に対して愚かしさすらも覚える。斎は自らの片手で視線を落とす。その手は今さっきまで茅萱を求めて欲に溺れていた汚らしい手。その手は後悔か、真香に対する贖罪の気持ちからか、震えていた。
真香にだけは知られてはいけないと何故だか分からないけれど本能的に感じていた。斎はもう片方のその手で真香の背中をぽんと叩いて抱き寄せる。
「そんな訳無いじゃん。真香と榊と、御嵩さんの居る此処が俺の帰る家なんだから」
それは嘘偽りのない斎の本心だった。帰る場所は此処しかない、それは疑いようのない事実。だからこそ斎は真香に悟られることなくその言葉を口にすることが出来た。
斎の両腕に抱き締められて安心した真香だったが、ふわりと斎から石鹸の香りがしてくることに気付く。最近の斎の様子から考えるならばそれは間違いなく寮の外で誰かを求めたということであり、それ自体は真香が斎を咎められるものではない。宿泊をせずに戻ってきてくれただけでも安心しなければならない、そう考えた真香は石鹸とは別の匂いがすることにハッとして顔を上げる。
真香の驚きの意味に気付いていない斎は僅かに首を傾けつつも普段通りのえみを浮かべる。へらりと笑うその緩い笑顔は今までと何も変わらない斎そのものであり、昨日を発端とした斎の気落ち具合を一番近くで心配していた真香は安堵した反面唐突な変わりようを見て斎に対する疑惑を深める。
当の斎本人はこれで心の安定が図れたということを実感していた。もう真香に対して苛ついた思いを抱くこともなく、今ならば詩緒とも冷静に話をできるような気がしていた。
時刻が既に遅いとはいえ、詩緒が零時すら回っていないこの時間に寝ているとは考えられない。仕事後の深夜こそが本番と考える詩緒が確実に起きている時間であり、もしかしたら綜真と一緒にいる可能性も考えられたが謝るだけならば綜真が同席していても問題はない。寧ろ綜真が一緒にいてくれたほうが手間も省けるというものだった。
斎は真香の不審な視線にはこれっぽっちも気付かず、腕の中から真香を解放すると二階へと続く階段に視線を向ける。
「榊、まだ起きてるかな」
「着いて行こうか……?」
斎の気持ちにどういった変化があったのかは分からなかったが、詩緒の側はそういかない。相手側に受け入れる態勢が整っていなければ先日以上の言い合いになってしまうことは目に見えていた。これまで斎と詩緒が掴み合いの言い争いをするところなど見たことが無かった真香は、ひとりで斎を詩緒の部屋に向かわせることへの一抹の不安を抱いていた。
子供ではないのだし、そこまで真香に迷惑を掛けられないと感じた斎は不安そうに尋ねる真香の頭をぽんと撫でる。
「大丈夫だよ、俺一人で行ける」
「いつ……」
外へ出掛ける時に着ていたコートを片腕に持ち、スリッパの音を響かせながら斎は真香の隣を擦り抜けて階段へと向かう。その間斎は一度も真香を振り返ることは無かった。真香は詩緒の部屋へ向かおうとしている斎の背中へと手を伸ばすが、ただの一度も斎が真香の気持ちを慮ることは無かった。
二階の共有通路へと上がった斎は、自分の部屋の左斜前にある【Ⅺ】というプレートが掲げられた詩緒の部屋の前に立つ。いざ話そうとするとどう切り出して良いか悩むものだったが、今の斎に迷いは一切なかった。何よりもまず詩緒との不和を解消することが斎の優先事項だった。
片手を上げて部屋の扉をノックする。
「――榊、起きてる?」
深夜型の詩緒はいつだって朝方は眠そうにしている。しかし少なくとも今ならまだ起きているはずだと考えていた斎だったが、幾ら待っても部屋の中からは返事がくることは無かった。
「寝てるのか。珍しいな」
寮では滅多なことがない限り各人の部屋に施錠をすることは殆どない。もしかしたらヘッドホンか何かをしていてノックの音が聞こえていない可能性もある。直接部屋を覗いてみようかと斎はドアノブに手を掛けようとする。
案の定、詩緒の部屋に鍵は掛かっていなかった。時折綜真の部屋に泊まることがある詩緒だったが、その場合部屋にはいないことを示すために鍵を掛けることもある。詩緒の部屋に鍵が掛かっていた場合は綜真の部屋を訪ねれば良いだけだったが、部屋が施錠されていなかったことで詩緒が今部屋の中にいることが分かる。
ノブを下げて部屋の中を覗き込んで声を掛けるだけで良かった。しかし斎は部屋のドアノブからそっと手を離し黙って自分の部屋へと戻っていった。
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