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三章
茅萱は間違いなく斎の欠けた心の穴を埋めつつあった。
元々真香や詩緒と違い諸手続きの為に本棟へ赴いてもおかしくない立場だった斎は、業務とは別件で茅萱に呼び出されれば何の疑問も持たずそこまでの仕事を放り投げてでも茅萱の元へ会いに行っていた。
鍵を掛けた最上階の男子便所で声を潜めながら行う逢瀬はこれまでにない高揚感を斎に与え、事後の口付けを茅萱と交わす度に愛しさが増していった。
茅萱の存在は既に斎の救いとなりつつあり、茅萱から求められることだけが斎の存在価値を見出していた。
部長という立場上茅萱も重要な会議の合間でしか斎との時間を作れなかったが、業務の合間に重ねる密会はスリルがあり、秘密の共有という点ではより茅萱との絆を深めていく。
長時間の不在を誤魔化しきれない斎は寮へ戻る前に本棟の喫煙所で一服をして、少なくとも本棟に居たという印象を付けようとする。茅萱も次の会議の時間が差し迫っているらしく、喫煙所前まで同行してそこで別れることとなった。
並んで歩いていればその身長差はまるで大人と子供のように歴然だったが、茅萱はすれ違う女子社員からの声掛けにも丁寧に言葉を返し、つい先程まで男子便所で自分を求めていた雄の顔からは到底想像も出来ない爽やかな笑顔を向ける。
喫煙所の前へと到着し、いよいよ別れの瞬間が近付く。次に会う日なんて決めていない。いつだって茅萱の空いている時間に突然本棟へ呼び出されるので、斎はただ待つことしかできなかった。
人の目があるフロアでなければ別れのキスくらいは出来ただろうか、口寂しくなり無意識にポケットから取り出した煙草を一本口に咥える。それでも喫煙所までの短い間だけでも茅萱と共に居られたことが嬉しくて斎からは自然と笑みが溢れる。
そんな斎の表情をじっと見上げていた茅萱は不意に両腕を伸ばして斎の頭をわしゃわしゃと撫でる。
「わっ、何すんの」
他の社員からはただ戯れているように見えたらしく一瞬の黄色い声と微かな笑い声が斎の耳にも届く。
茅萱は何も言わず小悪魔笑みをニッと浮かべるだけで手を振って去っていく。折角セットした髪型を不用意に乱されはしたが、そんな戯れであっても斎の心は躍り、去っていく茅萱の背中が更に小さくなっていくのを見遣ると喫煙所のノブを回して扉を開く。
その瞬間に斎は息を呑む。
窓の外から入る西日に照らされ眩しい室内の中に煙草を片手にする千景の姿があった。
「ッ!」
茅萱との時間で培った幸せで温かい思いが途端に凍り付くかのような感覚だった。当然喫煙者であり本棟勤務の千景とはこういった機会で遭遇する可能性が多分にあった。一切憂慮をしていなかったのは斎の頭の中が既に茅萱のことで埋め尽くされていたからだった。
突然の千景との遭遇に驚いた斎だったが、すぐに気持ちを切り替えて不審に思われないよう笑みを浮かべて挨拶をする。
「お疲れ様でーす」
「――お疲れ」
千景はちらりと斎に視線を向け、手元の煙草へと視線を戻す。その千景の表情はどこか物憂げに見えた。
特に千景から何も言われないことは逆に怖くもあったが、唇で咥えたままの煙草を上下に揺らしながら斎は自らの着衣を弄る。しかしすぐに現実に引き戻され自分の今日の着衣の中にライターがないことに気付く。
「あっ、と……」
「ライター?」
「あ、ハイ」
斎の言葉からライターを持っていないことを知った千景は灰の朽ち掛ける煙草を唇で挟んだままスーツの胸ポケットへ手を入れる。取り出したのは綺麗に磨かれたシルバーのジッポであり、千景はそのジッポを斎へ差し出す。
仕事以外のことに関してはがさつであるにも関わらず、千景がシルバーのジッポを昔から大切に持っていることを斎は知っていた。
「ほら」
もしこの場所が職場の喫煙所ではなく誰も見ていない所であったならば、吸いかけの煙草から直接火を受け渡すシガーキスをしてくれたこともあったと思い出す。
もう千景にとっては自分がそういった対象にもならないという現実に再び斎の心がずきりと痛む。
「あ……ありがとう、ございマース」
斎はジッポを受け取る為に片手を差し出し、微かに指先が触れ合う。コンビニで売っている大量生産のオイルライターとは異なり、少し固めのホイールを回すと火花が散って温かな色の火が灯る。
何故かオイルライターで火を付けた時よりは味が違うと感じてしまうのは、そのジッポという存在の高級感から来るものだろう。千景が何年前からこのジッポを持っていたのかは定かではないが、鏡のように反射する表面には指紋ひとつ付いていない。
「……お前、そんなに冷え性だったっけ?」
「え?」
キャップを閉じて返却しようとした時、千景はその手元ではなく斎の顔を見ていた。斎は千景から告げられた言葉の意味が分からず困惑する。
すると突然ニットの襟元をぐいと掴まれ、斎は煙草を口から落としそうになりながらも千景に引き寄せられる。
「え、ちょっ……」
千景はその薄いレンズ越しに斎の目を覗き込む。鼓動が高まっていく斎だったが、何故か千景の口元には先程まであった煙草の姿が無かった。返却しようとしたジッポは床に落ち、閉じたキャップが反動で開いて床を滑る。
「――海老原」
「はイぃ?」
思わず声が裏返る。このままキスをしてもおかしくない距離感、間近に千景の顔があって平静を装うことは出来なかった。
「お前、茅萱部長と関わんのやめろ」
途端に嫌な汗が斎の全身から吹き出す。どこで千景に見られていたのか、男子便所にはちゃんと鍵をかけてあったし、中に人がいないことも確認をした。
決して千景を裏切って浮気をしたというようなことでもないのに、何故か斎は居た堪れない気持ちに苛まれる。
千景に返すべき言葉が複数同時に浮かび、何を真っ先に告げるべきであるか対応に迷った斎の唇はただ金魚のようにぱくぱくと何も告げられずに震える。
暫くじっと斎の目を見ていた千景だったがそっと掴んでいたニットを離し斎から顔を背けるのと同時に屈み込み床に落ちたジッポと火が付いたままの煙草を拾う。
「……あの人の良くない噂知らないのか?」
吸いかけだった煙草を灰皿へ落とすと中に溜まった水で消火されジュッと小さな音がする。キャップを閉じる鉄製の音を響かせてから千景は再びそれを胸ポケットへ仕舞い込む。
千景の言葉の意図がどこにあるのかは分からなかったが、斎にとってはただ茅萱を蔑ろにされたような気がしていた。
千景のことを想い続けていた自分がただ滑稽に思えてきた。
「噂……? それが俺にどう関係あるって言うの?」
結局は千景も真香と同じであり、一方的に関係を断ち切って突き放した癖に斎が茅萱という光を見付ければそれを否定してくる。ゴミのように捨てた相手がその後誰を選ぼうと、もう口を挟まれる謂れはなかった。
ただ、怒りに震えていたのだと思う。
これ以上もう誰からも茅萱との関係を邪魔されたくはなかった。
喫煙所で茅萱との関係を咎められた斎はその直後寮へと戻ると自部屋に飛び込み、その扉がけたたましい音を響かせて閉ざされる。
千景に拒絶され、それでも千景を守りたいという気持ちがあったから茅萱の誘いに乗った。茅萱に求められて煙のように失いつつあった自分の存在意義をようやく見付けられた気がした。しかしそれすらも千景から否定され、あまつさえ茅萱との交流を制限するような言葉にやり場のない怒りが斎の中に渦巻きつつあった。
大型の枕を抱き締めて、口元に押し付けて決して声が外に漏れ聞こえたりしないように考えながら言葉にならない叫びを上げる。
悔しい、それはただ悔しいという感情だった。ようやく見付けることの出来た幸せを、受け入れてもくれなかった相手に否定される筋合いなどどこにもないはずだ。何の権利を以て幸せになろうとするのを邪魔するのか。
自分の中にあった目一杯の雄叫びを吐き出しきった頃、コンと部屋の扉を叩く音が響く。
騒々しい足音と苛立ちによって轟音を響かせる扉の開閉音は自室で作業をしていた真香の耳にも届いていた。今このタイミングで感情を荒立てているのは斎か詩緒のどちらかでしかなく、激情的ではあるがどちらかといえば感情を内に秘めやすい詩緒のことを考えると、何かの用事で本棟へ赴き戻ってきた斎であると考えることが最善だった。
斎の部屋を覗くと日の入りが早くなっているこの時期夕方は既に薄暗くなってくるのにも関わらずその部屋の中は真っ暗で電気ひとつも付けられてはいなかった。
真香は誰よりも今回の斎と詩緒の諍いに際しての責任を感じており、幸い詩緒は綜真に任すことが出来ているが、斎には誰も頼れる相手がいないことを知っていた。
先日の深夜帰宅の時点で真香は斎が誰か他の相手と肉体関係となっていることに気付いていた。薄暗い室内でも配置は自分の部屋と変わらず、真香は勘に頼って寝室へと向かう。するとやはりそこにはベッドに突っ伏し枕を抱き締める斎の姿があった。
斎が涙を流したあの時に、もっと斎の気持ちを分かってやれば良かった。そうしていれば斎が千景との関係を暴露することも避けられたし、詩緒と衝突することも恐らくはなかった。それでも真香は斎に誠心誠意伝えてきたつもりだった。
「俺たちがいんのに、お前はそれじゃダメなのかよ……」
部屋の扉が叩かれ、誰かが入ってきた時点でそれは真香であると分かっていた。真香以外の人物ならば、千景のように玄関から声を掛けるだけで決して部屋の中までは踏み込んでこない。
捨てた癖に今更何をと斎の中で真香に対する悲しみを怒りが渦巻く。枕から手を離してゆっくりとベッドから身を起こす。
「――榊が、さ……御嵩さん選んで、真香との関係も終わった俺にはもう何も無かったんだ」
それは紛れもない斎の本心であった。斎の言葉を聞いた真香はやっぱりと自分があの日伝えた言葉を後悔する。
「そんな事……ないだろ。俺も榊も何も変わんねぇって言ったじゃん……」
何故あの日の言葉を信じてくれなかったのか。ただ身体の関係が無くなるだけで大切な友人であることは変わらないと決めていた真香は身体を起こした斎の背中に縋る。
斎はその背中にじわりと水分を感じる。もう冬であるのに汗のような冷たいものが背中いっぱいに広がっていくような気がした。泣き落としならばあの日の斎もしようとした。だけれど真香の決定を優先してそれ以上の駄々を捏ねなかった。
だからこそ、その後で自分が選んだ道をこれ以上否定しないで欲しい。
「正直、限界だった」
斎から放たれた一言に真香は目を丸くする。
「真香と榊と一緒にいたいから頑張ってきたけど、所詮凡人の俺にはこれが限界だったんだ」
同じ日に同じ会社へ入社して、同期入社ということで少しだけ親近感を抱いていた。それでも上司から一目置かれ始めた真香や詩緒と自分は根本的に何かが違う。側に居ながらもふたりに対していつも劣等感を抱いていた。
自分の価値を見いだせたのはふたりとセックスをすることで求められる時だけだった。
いつか見た詩緒と真香が自分から離れていく夢。そんな日がこんなに早く来るとは思っていなかった。
「真香みたいに、友達がいるからそれでいいなんて簡単に切り替えらんない……」
セックスの出来ない友達なんて要らない。ただの友達なんてそんなものは斎にとって他人も同然だった。
その一言は真香にとっては大きなショックであり、真香はもう斎に自分が必要とされていないことを悟りゆっくりと斎から離れる。
真香を傷付けたことは斎にも理解が出来た。真香がどんな思いで言葉を選んであの日伝えてくれたのかは分かっていたはずなのに。背中に感じていた真香の温もりが無くなっていき、斎はたったひとりの真香を失った自分自身に絶望する。
何故こうも上手くいかないのか。何もかもが上手くいかない。生きるというのがどういうことであったのかも分からなくなるほどに、斎の感情は混迷を極める。その次の瞬間斎は感情を受け止め続けた大きな枕を壁に叩き付けていた。
「なんでっ、何で俺だけ愛されないの!? 俺だけ愛されちゃいけないんだよ!!」
重力に従って落ちる枕を拾い再び壁へと叩き付けた後、自分の行手を阻むようなその壁を拳で叩き付ける。
「なんで、なんでっ……!」
斎の変貌に真香はただ怯えることしか出来なかった。どんな言葉を掛けるのが正しかったのか、それすらも今はもう分からなくなってきている。言葉を失い双眸には涙を溜め、感情を吐き出す斎をそこで見続けることしか出来なくなっていた。
単発的な騒音ならばやり過ごすことも出来たが、続く騒音と怒声に痺れを切らした詩緒は部屋から顔を出し、半分開いている斎の部屋からその声が響いていることを確認する。扉が開いているということは閉め忘れでない限り誰かが訪問しているということで、恐らく真香だろうとアタリを付けた詩緒は一言文句を言おうと斎の部屋を覗き込む。
「斎、真香? なに騒いで……」
玄関から部屋の奥を覗き込んだ詩緒は、寝室で壁を叩き付ける斎と怯えている真香の姿を認め即座に真香へと駆け寄る。
壁には血が滲み、壁を打ち続けていた斎の拳にも血が滲んでいる。一回り以上も体格に差がある斎を真香が止められるはずもなく、カタカタと肩を震わせ涙を流す真香を詩緒は背後から支える。
斎が何かに不満を持っているのは気付いていた。そうでないとあの日に千景との過去の関係を暴露した原因として納得が出来ない。それでも八つ当たりにも程があるというもので、長く協力しあっていた仲間である上、誰よりも友達思いである真香を無碍に傷付けて良いという理由にはならない。
「……真香の気持ちも少しは考えろよ」
「榊には俺の気持ちなんか分かんないじゃん」
「アァっ? 喧嘩売ってんのかテメェ!」
詩緒は立ち上がるとベッドに足をかけ、この期に及んで子どものような我儘を振りかざす斎に掴みかかる。
天地が引っくり返ったとしても、持つ者は持たざる者の気持ちなど分からない。血が滲む拳はじんじんと痛んだが、その痛みだけがまだ自分を正常に保たせてくれているような気もした。
守るべきものがあり失敗や挑戦を恐れるものより、失うものなど何も無い今の自分に怖いものなど何もない。斎は怯まず詩緒を見返す。
「榊、斎やめろっ!」
一触即発の雰囲気を劈く一声にふたりはふと我に戻り、ベッド下でただひとり中立の立場を崩せない真香へ視線を送る。
「やめて、くれ……」
真香だからこそ、斎と詩緒どちらの肩を持つことも出来ない。真香にとってはどちらも大切な友人であり、ふたりが仲違いする姿など見ていられる訳もない。何も出来ない自分が無力で悲しくて、ただぼろぼろと涙を流して肩を震わせていた。ふたりはゆっくりと互いの手を離す。
もう元の関係になんて戻れない。そんな空気が漂っていた。
千景はプレイングマネージャーという立場上それを崩すことが出来ず、その日の朝も寮へと姿を現し本棟の四條と通話を繋いで朝のミーティングを淡々とこなしていた。
寮制度を導入してから四條が直接姿を現すことは極端に少なくなり、四條の代わりともいえる千景が日々寮と本棟を数度往復する体制が整いつつあった。
朝のミーティングが終われば千景は滅多な理由が無ければすぐに本棟へと戻る。幾ら本棟までの距離が徒歩五分弱であるとしても日に何度も往復するのは負担にもなるだろう。それは千景が入寮を拒否した上でプレイングマネージャーの就任した際の障害のひとつでもあった。
ミーティングが終わり、四人はそれぞれ自分の部屋へ戻ろうとしてカウチから腰を浮かせる。今までのような和やかな談笑はそこに無く、分室内の不和は千景の頭を悩ませていた。
「海老原、ちょっと待て」
重い空気を断ち切ったのは綜真のひとことで、その場にいた千景以外の三人が綜真の呼び掛けに反応を示す。
「……何スか?」
「おいお前っ」
不機嫌そうな斎が振り返り、綜真が言おうとしている何かを理解しているような千景がそれを制止させるべくカウチから腰を浮かせる。
「テメェは黙ってろ」
立場上庶務の綜真よりも明らかに千景の方が上位だったが、どうやら綜真が以前に居た神戸での顔見知りだということを何かの話のついでに聞いた覚えがあった。
だからこそ綜真からの千景に対する「テメェ」呼びであり、親しい間柄であることは理解できるのだが、それを安易に看過できない存在もいる。
それは綜真と六年の時を経て復縁した恋人の詩緒であり、綜真が神戸に居た時期は丁度詩緒が綜真と別れた直後のことでもある。詩緒は綜真と千景が顔見知りであるという事実を知った瞬間からふたりの仲を疑っており、綜真のひとことを聞いた瞬間に詩緒は一目散に二階へと駆け上がっていく。
事情を知っている真香は詩緒を心配して一度階段へと視線を向けるが、この場へ残されることになる斎のことも心配しており、直ちにこの場を離れられずに右往左往して双方に意識を傾ける。
「お前昨日先方に送った見積書、金額いくらって出した?」
「昨日……?」
協力会社に対しての見積書の作成などは営業事務である斎の主な仕事のひとつだった。綜真が投げかけた昨日という言葉に意識を巡らせる斎は昨日が期限だった見積書を総務部に頼んでバイク便で出して貰ったことを思い出す。そしてその直後偶々茅萱からの呼び出しがあり労せず男子便所で合流をしたが、茅萱との時間に上書きされてしまいその直前の行動を今の今まで忘れていた。
「――あっ!」
斎の感嘆の声がエントランスに響く。その声の大きさに階段を上りつつあった詩緒もその足を止める。
斎がようやく自体を把握したことを認識した綜真は、ローテーブルの上に書類を叩き付ける。それは確かに昨日斎が作成した見積書であり、先方企業の名前と納期、見積金額が記載されていた。ただ、その見積金額は第五分室が規定する金額とは異なっていた。
「桁がひとつ足りてねぇんだよ。テメェふざけてんのか?」
「あ、その……」
ひとつ足りない桁数のまま先方に提出し、それが承認されてしまった場合第五分室は通常より十分の一の金額にて請け負わなければならない。金額自体は四條も承認している適正なものであり先方に提示出来る妥当な金額のはずだった。
それに気付いた斎からはサッと血の気が失せて青褪める。犯してはならない失態であり、しでかしたことの重大性は斎も理解していた。
綜真が最後に書類の上へ叩き付けたのは、昨日確かに斎が総務部に発送を依頼したバイク便の封筒だった。
「昨日の内に先方から連絡が来て、俺がすぐに取りに行ったんだよ」
もし金額の誤記載に気付いた場合でも、発送前ならばまだ取り返しがついた。今回においては受け取った先方側がこれまでの金額と異なることに気付き連絡をくれたことから発覚したこのミスは、一度先方の元へ渡ってしまった時点で取り返しのつかないものとなっていた。
まだバイク便で届けられる距離の企業であったからこそ救いとなり、もしこれが長距離トラックや飛行機を使うような内容であった場合発覚にすら時間を要する。訂正した見積書を再度作成して送り直すだけでも時間の浪費は避けられず、それだけでも割りを食らうのは実際に業務に取り掛かる詩緒と真香だった。金額の訂正するしても、そのままの金額で請け負うとしても不利益を被るのは第五分室のメンバーであり、自らのしでかした失態に斎は頭の中が真っ白になっていた。
「すっすいません俺っ」
「なァ海老原、お前その間何してた?」
「なに、って……」
先方から連絡を受けた綜真はすぐさま自らのバイクを使って送付された資料を引き取りに向かった。本来ならば斎自身が行わなければならなかったその行動を、斎ではなく綜真が行ったのは何故か。それは斎と連絡が付かない状態にあったからで、総務部へ発送の依頼をした斎はその直後茅萱と男子便所でセックスをしていた。そして喫煙所で千景に咎められ、舞い戻った寮で真香や詩緒に八つ当たりをしていた。斎は昨日の行動を思い返して小さく震え始める。
「――御嵩、そん位にしとけ。お前だってミスくらいすんだろーが」
これ以上斎を追い詰めても何にもならない。斎の精神状態については千景も理解していた。綜真が斎の責任を問いたい気持ちも分かるが、何とか大事となる前に回収も出来た。小さな誤差に目くじらを立てる必要もないと綜真を諌める千景だったが、千景の吐いたその小さな溜息が斎にとっては千景に失望されたかのような気持ちを抱かせた。
茅萱との情事にかまけて、自らの業務で大きなミスを犯した斎の動揺はとても大きなものだった。しかしそんな落ち込みも茅萱から連絡があれば容易に霧散し、斎は茅萱の「慰めてやる」という言葉に甘えて特に予定も無かったが本棟へ向かうこととなった。
いつまでも仕事のミスで落ち込んでいても仕方が無い。一度だけ深く落ち込んで、同じ間違いをしでかさなければ良いだけのことだと前向きに捉えることが出来るようになったのも茅萱からのアドバイスのお陰で、斎は昼食もそぞろに上着を羽織ってエントランスへ向かう。
「――海老原」
静まり返ったエントランスに響く静かな声。普段ならば朝のミーティングの後は本棟へ戻っているはずの千景がエントランスでノートパソコンを広げ仕事をしていた。
スリッパが奏でる軽やかな足取りは千景の声で呼び止められ、斎はまるで茅萱との逢瀬をまた見咎められているような感覚に陷る。
「どこに行くんだ」
「え、えっと……」
目的を問われれば斎の目線が泳ぐ。茅萱へ会いに行くとは当然口に出せず、かといって咄嗟に上手い言い訳も思い浮かばなかった。もし外出の理由を千景に問われるということが予め分かっていたのならばもっと自然な言い訳も用意出来ただろう。
斎の動揺を見た千景はローテーブルの上に置いていた煙草の箱から一本を取り出し、口に咥えて火を付ける。置かれた灰皿は誰の私物か分からなかったが、吸い殻の本数から察するに朝のミーティング後からずっとこの場所に千景は居たのだと考えられるものだった。
肺を循環させた煙を細く口から吐き出す。真っ黒な大理石貼りのエントランスに揺蕩う紫煙は幻想的にも見えた。
「お前の今日の予定に本棟でのミーティングなんて無いだろ」
「……はい」
上司である千景がメンバーのスケジュールを把握しているのは当然のことだった。一度も本棟へ戻らずエントランスに居続けていた千景は、始めから斎が茅萱と会う為に外出する可能性を想定していた可能性もある。
地を這うような一定間隔を繰り返す音がどこからともなく聞こえだす。それは斎のポケットの中で振動を繰り返すスマートフォンの通知であり、斎はすぐにそれが茅萱からの連絡であると気付く。
冷えたエントランスには上司である千景と斎のふたりきり、そして鳴り続ける茅萱からの着信の通知。千景は灰皿に灰を落としながら斎へ視線を向ける。
「鳴ってんぞ、出ろよ」
千景の前で茅萱からの通話に出られる訳がなく、それこそ千景に対して茅萱との繋がりを明示してしまうことになる。
ポケットの上からスマートフォンを押さえるも振動は未だに続き、徒歩五分で来られるはずの斎が姿を現さないことの催促であると考えられた。一刻も早く千景の追及を躱し向かわなければと斎は感じていた。目の前の千景よりも茅萱に見放されることが何よりも怖かった。
「え、いや、多分大した用じゃないんで……」
「そうだよなあ。勤務時間内だもんな、お前も――茅萱部長も」
隠していたつもりだったのに、千景に見透かされていたことを知り斎の顔が熱くなる。敏い千景を躱して茅萱へ会いに行くのは難しく、事情を茅萱に説明して日を改めなければならないと斎は方向性を切り替え踵を引く。
「おっ俺部屋に戻るんで」
「海老原ぁ」
もう既にスマートフォンの鳴動は無かった。茅萱に愛想を尽かされたかもしれないということが怖かった。一刻も早く弁解をしなければならないと部屋へ戻ろうとした斎は千景に呼び止められてびくりと背中を跳ねさせる。
吸い掛けの煙草を灰皿に押し付けて消火した千景はカウチから立ち上がり、一歩また一歩と斎に歩み寄る。喫煙所で突然顔を覗き込んできたあの時のように、硬直して動けない斎の前まで来ると途端に斎の身体をべたべたと触り始める。
「あ、あの、佐野さん……?」
もしかして――などという都合の良い解釈が一瞬だけ斎の頭に過る。茅萱の元に行かれるのが分かると途端に惜しくなり身体を使ってでも千景が自分を取り戻そうとしているのだとしたら、と斎の心臓は大きく早鐘を打ち始める。
「あった」
そう言った千景が手に持っていたのは、斎がズボンの尻ポケットに入れていたセキュリティカードだった。普段は財布の中に入れたままのセキュリティカードだったが、いつ茅萱に呼び出されるとも分からず、スムーズに取り出せるよう尻ポケットに入れることが常態化していた。
寮の玄関はこのセキュリティカードが無ければ出入りが不可能で、外から戻る時は勿論だが中から外に出る時もこのカードが無ければならない。それ故ただのカードでありながらもその価値はとても希少であり、量産は難しく現在このカードを有しているのは入寮している四名と室長である四條、そして千景の六名のみだった。
「これ、暫く俺が預かるから」
千景は斎の前でカードをちらつかせ、斎の顔色が変わる。千景にカードを奪われるということは斎が自由に寮を出ることもままならなくなるということで、本来ならばパワハラやモラハラとも受け取られる言動ではあったが、こと第五分室に関しては特例としてハラスメント全般を不問にされておりそれが裏目に出た状況となる。
「なんっ、俺だってコンビニ行く時とかあるしっ」
「本田とか榊と一緒に行けゃいいだろ」
カードはひとりに一枚貸与されているものであり、ふたり以上が一枚のカードで出入りするのは禁止されてはいない。
千景は取り上げた斎のセキュリティカードで斎の顎を下から持ち上げる。
「それとも、お前ひとりで外出なきゃいけない理由でもあんのか?」
「ない……です」
そう答えるしか無かった。千景のこの方法は非常に効果的であり、セキュリティカードを奪われた斎は今後出入りの際カードを持つ誰かに頼らざるを得なくなり、それには理由の説明が伴う。
そうまでして斎の外出を封じ込めた千景の「暫く」がいつまで続くものであるのか今の斎には考えも及ばなかった。
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