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四章
千景に取り上げられたのがセキュリティカードだけで、スマートフォンまで取り上げられなくて良かったと斎は実感していた。幾ら千景であっても交流ツールであるスマートフォンを斎から取り上げるつもりは始めからなかったが、そんな千景の配慮を斎が理解しているはずがなかった。
何度も茅萱に折り返し電話を掛けて、夕方になって漸く連絡がついた時電話越しの斎の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていた。あの後すぐに茅萱に連絡をすることが出来ず、何度かけても応答して貰えず、本棟に向かい直接弁明することも出来なかった斎は八方塞がりのまま仕事も手につかずただ茅萱への発信を繰り返していた。
千景に反対されているからこそ茅萱に対する思いが募るということもあるのかもしれない。その斎の頭の中に茅萱が四六時中斎のことばかりを考えている訳ではなく、茅萱も部長という立場上その他の仕事が多くあり常時斎と連絡がとれる状態ではないということは失念されていた。
漸く会話をすることが出来た茅萱に斎は千景にセキュリティカードを取り上げられ寮から出られない件を伝える。嗚咽に塗れて非常に聞き取りづらくはあったが、茅萱はそんな斎の言葉を急かすことなく懇切丁寧に聞いていた。
斎が今おかれている状況を一通り聞き、斎が落ち着いた状態を見計らって茅萱はある提案をする。
「じゃあ俺からそっち行ってやろうか?」
斎が寮から出られないのならば、茅萱自身が寮へと赴けば良い。それは至って普通の提案であったが、茅萱自身には寮への入室許可が出されていない。
「無理だよ……分室の関係者以外は寮に入れないようになってるから」
「俺一応分室の営業担当なんだけどなー」
その証拠が茅萱には貸与されていないセキュリティカードであり、茅萱が寮へ足を踏み入れるとするならば、それはカードを持っている四條または千景、そして比較的自由に本棟との行き来をしている綜真の協力を得ることしか方法が無い。
第五分室の内政は就任からまだ数日でがあったが全権を千景が握っていると言っても過言ではなく、到底茅萱に対して寮への入室許可が出る訳なかった。千景がノーというならば間違いなく綜真もノーであり、唯一の可能性として残されている道は茅萱にとっては後輩にあたる四條の存在だった。しかしながら四條も分室を統べる室長という立場上、千景から何も聞いていないとしても茅萱が寮へ入室したいといえばその理由を問うて来るだろう。
そこで営業の打ち合わせがあるなどと偽りの理由を述べれば、茅萱が寮へ行く必要は無く斎を本棟に呼べば良いという話になる。斎のセキュリティカードが手元に無い状態では斎が本棟へ赴く為には恐らく綜真か千景の同行があり、同時にふたりきりになるチャンスは失われる。
目的が逢引であるのならば、当然綜真や千景という不要な存在は避けるべきであり、同行者無しでの方法が無い限り斎を本棟へ呼び出すことは無意味なことだった。
茅萱はあらゆる可能性を頭の中で試算した挙げ句、ゆっくりと口を開く。
「――それなら、お前の部屋に直接行ってやるよ。窓の鍵開けとけ」
呼ぶことができないのならばやはりこちらから向かうしか方法が無く、セキュリティカードが無ければ正面のエントランスから入れないのならば別の場所から入れば良い。
「無理だって……ここセキュリティ厳しいから窓側にも警報装置あるし……」
ただの寮にしてはセキュリティが強固過ぎるのは、第五分室で扱う情報の機密保持の為と分室メンバーの安全確保の為だった。外部からの侵入が厳しいことは同時に内部からも正式な手順を踏まなければおいそれと外出もままらないということで、その唯一の手段であるセキュリティカードを千景に取り上げられてしまっている斎には成すすべが無かった。
ただ茅萱に会いたいというだけなのに、何故こんなにも障害が多いのか。茅萱だけが自分を受け入れてくれる理解者であると信じて疑わない斎は茅萱に会えないことだけが何よりも辛い。
昨今ではスマートフォンにもビデオ通話の機能があり、それを用いれば離れている感覚などあってないようなものではあるが、徒歩五分に距離という近さにいるのにも関わらず会って触れることも出来ない苦しみは同じ経験をしたことがある者にしか分からぬ痛みだった。
通話越しに再び斎の嗚咽が聞こえ始める。元々斎が依存気味であることは理解していた茅萱だったが、短期間でここまで会えないことに焦燥感を抱かれることまでは予想外だった。
それでも茅萱が必死になって斎の機嫌を取ろうとしなかったのは、茅萱にはまだ奥の手が残っていたからだった。
「心配すんなよ。そんなセキュリティなんか簡単に突破してやる」
頼もしい茅萱のひとことに斎の涙が一瞬止まるが、四條が私財を投入して建設した強固なセキュリティを感嘆に突破出来るものだとも思えなかった。
恐らくそんなことが出来るのは斎の知る限り情報システムに熟知している詩緒くらいのもので、今の詩緒が協力をしてくれるとは思えない斎は純粋に浮かんだ疑問を口に出す。
「どうやって……?」
「それは……ヒミツ」
ビデオ設定もなく音声のみの会話だった為、茅萱がどんな顔をしてそれを言ったのかは分からなかったが、斎にとって今の茅萱の言葉ほど頼もしいものはなかった。
「今晩楽しみに待っとけよ」
斎はまだ茅萱のことを何も知らないのだと、改めて実感した瞬間だった。
時刻は深夜零時に近い、真冬の深夜は凍て付く寒さが窓の側にいるだけでも伝わってきて、斎は眠れないままベッドの上に転がっていた。
ただ茅萱の存在だけを求めていた。茅萱の言葉とあの天使のように優しく微笑む姿。少女のような可愛らしい姿からは到底想像も出来ない雄である象徴を。毎日会っていたのに、たった一日会えないだけで、その肌に触れられないことでこんなにも虚無感に苛まれる。
茅萱だけが自分を愛してくれる。誘った癖に無碍に捨てた千景とも違う、詩緒に気を使ってセフレ関係を解消した真香とも違う、茅萱だけが本当の自分を見て、心のそこから自分だけを求めてくれる。
求められることがこんなに幸せなことなのだと、斎は茅萱に抱かれて初めてその感覚を知った。だからこそ茅萱のいない時間を過ごす時間が堪えられない。
ただ泣くだけで何もできない真香、綜真と一線を越えられないことで苛々している詩緒、これ見よがしに指輪を見せつけて茅萱との逢瀬を阻む千景。茅萱だけが会いに行くと言ってくれた、それは少なからず茅萱にも自分を想う気持ちがあるからで、愛されているという実感に斎の口元がだらしなく緩む。
コツンと枕元で微かな音が響く。
「海老原、オイ開けろ」
茅萱を想うあまり幻聴すら聞こえてきたかと困惑する斎だったが、その言葉が幻聴ではないことに気付いた斎はまさかと思いながらも飛び起きる。
ブルーグレーのカーテンを勢いよく開けると、窓の外には茅萱の姿があった。
「茅萱さん……!?」
寒空の中、少しだけ鼻の先を赤くした茅萱が背後に背負う月明かりと、髪が靡く姿は正に幻想的だった。
「どうやって……セキュリティは!?」
斎は茅萱の登場に驚きつつも、咄嗟に窓を開ける。所定時刻以降に窓を開けても警報装置は作動しなかった。斎が覗き込むと工事などで使用するアルミ製の梯子が壁伝いに立てかけられており、茅萱はそれを足場にしていた。
「しーっ。寒ぃんだから早く中入れてくれ」
驚きのひとことしか無かった。警報装置が作動しなかったのもそうだが、言葉通り茅萱が現れたことも斎には信じられない出来事だった。
寒さに身を震わせる茅萱はあたふたする斎を抱き寄せてその耳元で囁く。
「お前のナカ」
囁かれた言葉にぞくりと斎の背筋が震える。
寮の部屋は全て二階にあり、部屋数十に対して現在入寮している人数は四名だった。それ故に各々の部屋の間には必ず空き部屋が挟まれており、ちょっとやそっとのことでは隣人に迷惑が掛かるということはないが、それでも念には念を入れて斎は声を潜める。
部屋の扉の鍵こそかけていなかったが、こんな深夜に訪問する者も無く、窓だけしっかり閉めて毛布を被り、冷えた茅萱の身体を温める。
当然ただの温め合いだけで終わるはずもなく、戯れのキスからそれは徐々に深いものとなり、またあのさくらんぼの甘い味が腔内に拡がると脳の中でぱちぱちと何かが弾けているようだった。
極力声を控えて事に及ぶ様は何かいけないことをしているようで、そのスリルが刺激となって斎は普段以上に茅萱を欲する。
自分のテリトリーである寮の部屋で、茅萱を受け入れていることが何よりも幸せを感じさせた。
その時、深夜であるにも関わらず突然玄関の扉をノックされる音が響いた。
「――オイ、海老原」
「隠れてっ御嵩さんだ」
玄関の外から聞こえる綜真の声。斎の心臓が大きく飛び跳ねた。玄関の鍵を掛けていなかったことを後悔して、無駄な足掻きだと分かっていながらも茅萱を毛布の中へと押し込めるようにして隠す。
「夜中に悪ィな。ひとつ聞きてぇんだけど……お前以外のヤツ中に居るか?」
綜真からの指摘にぎくりと斎の心臓が飛び跳ねる。窓を開けた時確かに警報音は鳴らなかった。茅萱も梯子を上がる時音を立てずに警戒していたに違いない。何故気付かれたのか斎には思い至ることが出来なかった。
当然茅萱を連れ込んでいるなどと言えるはずもなく、セキュリティカードを持たない斎が外部から誰かを連れ込める訳もなく、窓から侵入したことを素直に明かしたところで何故警報装置が作動しなかったのかという新たな疑問が生まれてしまう。
「御嵩さんっ? だっ誰もいないですよ!?」
ここは否定するしか選択肢が無く、現場を抑えられない限りは幾らでも言い訳がきくと考えた斎は、玄関まで良く聞こえるように普段以上に声を張って答える。
その言葉で綜真が納得するかどうかは五分五分の賭けでもあった。茅萱が部屋にいることを、窓に梯子が掛けられていることを目撃されたら言い逃れは出来ない。
ガチャリとノブを下ろす音が聞こえ、斎の背筋が縮み上がる。
「直接確認させて欲しいんだけど、中入っていいか?」
綜真は無遠慮に部屋の中へ乗り込むタイプではないし、玄関から覗かれた程度ではバレるとは限らない。それでも見つかれば一発アウトの状態であり、何としてでも綜真の入室を拒まなければならないと斎は頭を働かせる。
「待っ、おっ俺今丁度今ひとりでシてるとこなんで……ッん!」
男同士ならば自慰行為に耽っていたと言えばそれ以上プライベートな領域には踏み込まないだろう。これが真香や詩緒だったら分からないが、少なくとも綜真とはそこに踏み入るほどの近しい関係性ではなかった。
我ながら突発的に考えたにしては良い言い訳だったと考える斎だったが、毛布の中へ隠した茅萱にあらぬ箇所を触れられて咄嗟に声が裏返る。
こんな時に何を考えているのだと茅萱に対して苦言を呈したくもなったが、それを言葉にすることは自分以外の誰かが部屋にいることを自ら綜真に明かすのと同義で、斎は漏れそうになる声を抑えて綜真の反応を待つ。
暫しの静寂が続き、もしかして今の一瞬で綜真にバレてしまったのではないだろうかと斎は息を呑む。
「――海老原、もう一回確認すっけどお前以外に誰か」
「いないっ、いないです誰も!」
それは綜真に優しさだったのだろうか。何かに気付いていながらも敢えて触れないでいてくれたのかもしれない。斎はそんな綜真の言葉へ食い気味に被せて答える。
毛布の中に潜む茅萱はこの状況すらも楽しんでいる様子で、茅萱に煽られている斎も限界が近かった。これ以上の問答は隠したいものが露呈してしまう可能性もある。どうかそれ以上詮索せずに立ち去ってはくれないだろうか、斎の両足が大きく痙攣する。
「――そっか。中断させて悪かったな」
ドアノブの上がった音がして斎はほっと息を吐く。それでもまだ油断は出来ず声が漏れないように両手で抑え、共有通路を歩く綜真の足音と部屋に入り扉が閉まる音を聞いてようやく斎は安堵の息を吐く。
この危機的状況に非協力的な茅萱に対して抗議をしたい気持ちもあったが、綜真を上手くやり過ごせたことでふたりは顔を合わせるとどちらともなく悪戯めいた笑みを浮かべた。
冬の早朝は同じ時間帯でも夏に比べてまだ薄暗く、ひんやりと窓から吹き込む冷気によって斎は目を覚ます。
常夜灯を頼りにしても物の輪郭が分かる程度の薄暗さの中、無意識に斎は隣にいるであろう茅萱を求めてベッドの中を探る。しかしつい数時間前までそこにあったはずの茅萱の姿は無く、斎はまだ夢半分の頭を無理やり叩き起こし茅萱の姿を探す。
「ん……ちがやさん……?」
知らぬ前に寝落ちていた斎は全裸のままだったが、後始末だけは丁寧に行われておりそれはまるで昨晩何事も無かったかのようだった。素肌に染みる冷気はただ斎の部屋が寒いというだけの理由では説明がつかず、その寒さの原因を探るよう無意識に窓へと視線を送ると今正に窓枠を乗り越えて来た時と同じ梯子を辿って帰ろうとしている茅萱と目が合う。
茅萱を求めたばかりに見た真冬の夢ではなく、事実茅萱は昨晩深夜危険を顧みず会いに来てくれていた。その事実を再び噛み締めじわりと心が温かくなる斎だったが、日の出より前に部屋を後にしようとしていた茅萱の姿にはただ寂しさを覚える。
「もう……帰っちゃうの?」
服を着る手間も惜しみ、毛布を羽織って斎は窓際へと寄る。思えば茅萱と一晩を共にしたのはこれが初めてのことになるだろう。しかも自分が一番落ち着ける場所であるこの寮の自部屋で茅萱と一晩を過ごせたことはこの上ない嬉しさに満ち溢れていた。
斎がまだ寝ている間に部屋を後にしようとしていたであろう茅萱は、起きてしまった斎の呼び声を聞くと梯子にかけていた足を止めて窓枠に腕を付く。
「しーっ。他の奴に聞こえちまうかもしんねぇだろ」
澄み渡った冬の明け方はただでさえ声が響きやすい。近隣住民に斎の声を聞かれる可能性も考慮し茅萱は声を落として唇の前に人差し指を立てて静寂を促す。
自由に寮からも出られぬ状態となり、どんな魔法を使ったのかは分からないが警報装置を作動させずに茅萱が会いに来てくれることなんて何度も繰り返せることではない。次に茅萱に会えるのがいつになるかも分からない。千景の機嫌次第か、ひょっとしたらもうこんな都合の良い機会に恵まれることなんてないのかもしれない。
これが未来永劫の別れとなるかのような恐怖に怯えた斎は静かに涙を流す。
「茅萱さんと、会えなくなるの嫌だよ……」
「――――」
斎の思考は飛躍しすぎだと指摘するのは簡単だった。しかしたった一日会えなかっただけで狂おしいほどに自分を欲する斎を見て、宛てのない未来に期待を馳せてその場限りの言葉で斎を宥めることが、この時の茅萱には出来なかった。
純粋に自分を慕う無垢な存在が、この先会えなくなるかもしれない恐怖に震えて流す涙は茅萱の中にある感情を揺さぶるのには十分で、茅萱はこの時初めて斎に対して動揺を示した。
年上であるだけではなく、恐らくその恵まれた容姿から経験も豊富であろう茅萱はどんな時でも優しく自分を受け止めてくれていた。そんな茅萱が見せた動揺は斎にとっても初めての姿であり、どこかそれが茅萱の素の表情であるようにも見えた。
人間味のある顔を見たことで斎は尚更茅萱が愛しくなり、それは寝不足で頭がよく働いていない状況下を加味した上でも、これ以上ないほどまでに茅萱への想いが募ったことは間違いが無かった。
その感覚にはどこか覚えがあり、既視感を覚えた斎の思考は一瞬だけフリーズした。それが千景や詩緒、真香を大切に思っていた頃と似た気持ちであることに気付いてしまったからだった。今すぐにでも茅萱の手を引き部屋に引き戻し、この両腕に閉じ込めて二度と離したくない、離れていって欲しくないと叫びたかった。
茅萱のことだけはこの先何があっても失いたくない。きっと茅萱も同じ気持ちであってくれているからこそ、わざわざこうして会いに来てくれた。
千景が口に出していた茅萱に関する悪い噂なんて斎にとってはどうでもいいことだった。自分だけが心から茅萱を信じることが出来る。茅萱が自分を愛してくれているのと同じだけ信頼という形で茅萱に返したい。
あまりに美しくて天使のようなこの人は、その妬みからあらぬ誤解を受けることもあるだろう。受け入れてもらったように、自分も茅萱の全てを受け入れたい。もしそれが誰からも祝福されないことであったとしても。それには斎自身が第五分室のみならず職場自体から離れることも選択肢に入っていた。
「――仕方ねぇ駄犬だな」
ぽつりと呟く茅萱のひとことで斎は現実に引き戻される。それは間違いなく成人を迎え声変わりも済んだ男性の声であるはずなのに、斎にとっては鈴の音を鳴らすような神々しいもののように聞こえた。
茅萱は腕を伸ばし、涙を流し続ける斎を引き寄せ、頬を伝う涙を舌先で拭う。それが何か神聖な儀式のようにも思え、自分の涙が茅萱の一部になるその感覚にすら興奮した。
「なァ、海老原」
茅萱はその天使のような整った顔で悪魔のような提案を斎の耳元で囁く。
「お前が本気なら誰にもバレずにココから出る方法教えてやろうか?」
例えば茅萱が本当に悪魔だったとしても、茅萱にならこの魂を全て捧げてもいいと思っていた。
いつもと変わらない朝。決められた時刻通りにダイニングへと降りれば真香が用意した朝食をとることが出来る。寮からの外出を禁じられていても時刻にさえ間に合えば食事には一切困ることがなかった。
いつもと変わらないはずの朝だったが、その日ダイニングに居たのはお通夜状態のようにしんと静まり返った真香と詩緒だけだった。普段が騒がしいというわけではなかったが、殆どの場合微かな談笑が聞こえたり朝のニュース番組の音が漏れ聞こえていたりする。
それが今日に限っては皆無で、真香と詩緒は向かい合った状態で座りひとことの会話も交わさぬままただ黙々と食事をしていた。ふたりが喧嘩をしているとは考えられず、もしそうなのだとしたら詩緒は黙って真香と向き合いながら食事をしたりはしないだろう。内に溜め込みやすい詩緒はそういった時ひとりになりたがる癖があった。
そんなことを考えている内に真香が斎に気付き声を掛ける。
「あ、あれっ今日は早いな斎」
「おはよー」
「今日パンだけど、焼こうか?」
幾ら真香が料理を得意としていても、三食全てを真香に頼り切りな訳ではない。時間がない時は当然食事が簡素なものになることもあり、仕事の追い込みで手が回らない場合にはデリバリーを頼むこともあった。
真香はテーブルに手をつき立ち上がろうとするが、この何故か重苦しい空気の中食事をする気にはなれず片手を上げてそれを制止する。
「あ、いいよ俺コーヒーだけで」
「じゃあコーヒー淹れ……」
「いいよ真香は座ってて」
いつまでも真香に頼り切りという訳にもいかない。詩緒ほど家事が壊滅的でない斎は立ち上がろうと腰を浮かせた真香の肩に手を置き着席を促す。
その時斎からふわりと香水が漂ったことに気付いた真香は咄嗟に斎を振り返る。斎が現れても尚も無言を貫いていた詩緒はその真香の行動に視線を向けながらも黙ってカップの中のコーヒーを啜る。
コーヒーメーカーに残っていたコーヒーは丁度一杯分、容量は四杯分の為ここにいる真香と詩緒以外のもうひとり分が既に消費済ということになる。それは考えずとも分かることで、もうひとりと言えばそれは綜真以外には存在しない。
自分のカップにコーヒーを注ぎながらも斎はその綜真が食卓に揃っていないことに気付き疑問を投げ掛ける。
「そういえば御嵩さんは?」
斎の言葉で詩緒の肩がぴくりと揺れる。
「あ、ああ御嵩さん今日は朝から本棟でミーティングあるんだってさ」
「ふぅん」
シンクに背中を預けたまま、斎はカップに口を付けテーブルに坐する真香と詩緒の様子を観察する。朝からの雰囲気から想像するに詩緒は綜真とまだ揉めていそうだった。それが真香にも波及していることから真香も何かしらの理由を知っている可能性がある。
そういう時ですら自分だけは仲間外れ――斎の心の中にちくりと苦いものの込み上げる感覚があった。
これまでの自分ならば仲間外れにされていることに憤慨して部屋へと戻り再び閉じ籠もっていたことだろう。しかし今の心持ちが大きく違うのは今朝方まで一緒にいた茅萱の存在だった。
愛されていることを実感して、満たされたこの状態では真香たちから仲間外れにされようが大した問題にはならない。会いたいと願って会いに来てくれる存在がいることはこれほどまでに幸せで、素直に思いの丈を伝えるだけで解決することなのに素直ではない詩緒にはそれが難しだろうことも斎は理解していた。
「榊、まだ御嵩さんと喧嘩してんの?」
斎の何気ないひとことによってダイニングの空気が凍り付く。
「いっ斎っ」
途端に慌て始める真香は椅子から腰を浮かせて、斎に何かを暗に知らせようとするが、それとほぼ同じタイミングで詩緒は飲みかけのカップをテーブルに叩き付ける。
「――うるせぇよ。テメェには関係無ぇだろ」
ただでさえ低い詩緒の声が寝起きであろうが関係無く、地を這うほどに低く聞こえた。必死に感情を押し殺しているかのような押さえ付けた声だった。
そうやってすぐに詩緒は自分の周りに壁を作る。その壁は真香でさえも安易に乗り越えられないものであり、真香の慌てぶりを見ながら斎は恋愛において最も必要なものが何であるか詩緒へアドバイスをしようとする。
「おー怖っ、可愛げないと御嵩さんにも愛想尽かされちゃうよ。榊はもっとさ」
「斎!!」
斎の言葉を遮ったのは詩緒ではなく真香の怒声だった。てっきり詩緒が言い返してくるものだと思っていた斎はその予想外の真香の行動にぽかんと口を開けて真香を見る。
「なに……どうしたの真香」
詩緒と綜真が喧嘩をしているのはいつものことで、少しは素直に感情を表現したほうが良いと教えるだけのつもりだった。詩緒に短所があるとするならばその内向的で自分を表現することの難しい性格であり、そこさえ克服出来れば必ず綜真とも上手くいくはずだと教えたかった。
両手をついて椅子から立ち上がり、詩緒はダイニングを飛び出す。
「榊っ!」
詩緒を追おうと真香も椅子から立ち上がるが、激しい足音の元詩緒が部屋に入っていった音を聞くと真香はテーブルに手をついたままゆっくりと斎へ視線を送る。
「――斎? 今日何か機嫌いいよな。何か良い事でもあったのか?」
「そお? 俺は普段通りだと思うけど?」
いつもと変わらない普段通りの朝だと思っていた。この瞬間までは。
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