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五章
寮から出られないことを除けば、普段と何も変わらない平穏な昼下がりだった。千景は斎が本棟へ赴く必要がないようにスケジュールを変更しており、殆どの作業が自部屋からオンラインで行えるようになっていた。どうしても口頭で確認しなければならない件が発生すればオンライン会議の機能を使い、そこまでの必要がないものは全て文面のみでやり取りを済ませることが出来ていた。
本棟への往復時間がない分作業は捗り、昼過ぎに一通りの作業を終えた斎は椅子に腰掛けたまま伸びをする。伸び過ぎたついでに隣の寝室が目に入り、今朝方まで茅萱が自分の為にこの部屋へ来てくれていたことが今となっては夢のように思えてきた。
しかしそれは決して夢では無く自分の身から仄かに漂う茅萱の香水が、その出来事が現実のものであったと斎に教えてくれた。茅萱の香りに包まれることで今も茅萱が側にいるような感覚を得られ、それは決して斎を孤独には陥らせなかった。
去り際の茅萱が斎に授けた寮を抜け出す方法は目から鱗のようなものだったが、確かにその手段ならばセキュリティカードを取り上げられた斎であっても難なく寮から外出することが出来る。問題はそれをいつ実行するかであり、実行に際し慎重に事を運ばなければならなかった。
もし作戦が失敗しようものならば、芋づる式に茅萱の存在が露呈し会えなくなるどころでは無くなるだろう。それでも構わないと斎は考え始めていた。もし茅萱と永劫引き離されるようなことになるのならば、その時は自分も茅萱に着いていくだけだった。茅萱さえ居れば他にもう何も要らなかった。
そんな思案を巡らせていた斎の耳にこれまでの静寂とは異なる騒がしさが飛び込んできた。
平日の寮内が騒がしいのは非常に珍しく、訝しげに玄関の扉を開けて顔を出してみるとひとつ空き部屋を挟んだ左隣である綜真の部屋の扉が僅かに開いていた。どうやら騒々しさは綜真の部屋から聞こえているようで、はっきりとした言葉は聞き取れなかったが詩緒と喧嘩をするのならば扉は閉めてからにしろと斎は内心毒づいた。
喧騒や物音とは違う何かが聞こえ斎は視線を足元へと落とす。そこに居たのはまだ小さな茶トラの猫だった。猫はするりと斎の足に身体を擦り付け、斎を見上げるとミャアと小さな声で鳴く。
その猫は名前をソルトといい、嘗て斎が綜真に譲渡し、綜真が寮の部屋で飼っている猫だった。
「お、ソルト。久しぶりだなぁ」
斎は屈み込み久々に見るソルトを抱き上げる。寮内はペット禁止では無かったが、小動物が苦手な真香に配慮をして綜真はソルトを部屋から出さないようにしていた。頻繁に詩緒が綜真の部屋を尋ねる理由もソルトに会うという理由が大半を占めており、閉じ切っていなかった綜真の部屋から抜け出てきたのだろうと斎は状況を把握する。
「ねえ、御嵩さんの部屋騒がしいけど何があったの?」
斎はソルトに尋ねるが、ソルトはミャアと鳴くのみ。ソルトと命名したのは綜真であり、その理由は他でもなく詩緒に由来しているものだと気付いた瞬間斎は綜真の詩緒に対する深い愛情を理解した。
猫に尋ねても答えてくれる訳がなく、そうしている内にソルトはするりと斎の手を抜け出して一階へと続く階段の方面へと向かってしまう。
「あ、まずいってそっち行っちゃ……」
綜真の部屋が共有通路の一番奥に配置されているのも真香に配慮してのことで、もし寮内のどこかで真香と遭遇しようものならば真香の雄叫びは避けられない。
あまり気は進まなかったがソルトを綜真の部屋に戻さなければと考えた斎はソルトを追って階段を降りる。しかしその一階には誰の気配も無く、エントランスで仕事をしているかもしれないと思った千景の姿すら無かった。
それでも千景が寮内にいることは確かなようで、エントランスのミーティングスペースには千景の上着と鞄が置かれていた。この場所に誰も居ないということは皆声が聞こえた綜真の部屋にいるのだろうと考えた斎だったが、皆が綜真の部屋にいる中ひとりでソルトを戻しに行くのも何だか気が億劫だった。
ソルトが寮内を探検するのはこれが初めてで、余程物珍しいのかカウチの革カバーに爪を立てるソルトを斎は保護という名目で捕まえる。
やんちゃなところはどちらの飼い主に似たのだろうと考える斎は次の瞬間に息を呑む。ローテーブルの上に放置された千景の上着の下にセキュリティカードが置かれているのに気付いたからだった。千景が上着とセキュリティカードを無造作に置いて綜真の部屋に向かった状況については思い浮かばなかったが、これは斎にとっての好機だった。
個人に貸与されているセキュリティカードはそれぞれの社員番号で管理されており、いつ出入りしたかも実のところ管理されていた。後ろ暗いところがなければそれらは全く留意するものでなかったが、斎が何らかの手段で千景からセキュリティカードを取り戻したとしても何時に寮を出て茅萱へ会いに行ったという情報はその気になれば確認が出来るものだった。まさか千景がそこまでのことをしているとは考えられなかったが――ではもし、斎本人以外のカードで出入りをしたならば?
斎の脳裏に今朝方茅萱から伝えられた言葉が蘇る。自分のカードが使えないのならば誰か別の者のカードを使えばいい。例えば詩緒などは入寮してから一度も外に出ていないのでセキュリティカードの場所さえ分かれば拝借が可能だった。
しかし今目の前に出入りで使用しても全く疑われないセキュリティカードが無防備なまま置かれている状況を見逃すことは出来なかった。そもそも斎のカードを取り上げたのは千景であり、その千景のカードを斎が拝借したとしてもふたりのカードが入れ替わっただけで問題には至らないだろう。
斎は一度階段へ視線を向け、誰も一階へ降りて来そうにない事を確認する。
日が沈みかけた頃、斎は連絡を受けた茅萱と繁華街で合流した。
本棟ではいつ四條や千景に見つかるか分からず、茅萱の提案で合流場所が繁華街となった。バイクを使うとエンジン音でバレる可能性があったので、徒歩で現れた斎は茅萱の姿を見付けて即座に駆け寄るが、ようやく陽の下で茅萱と会えたことに嬉しそうに息を弾ませる。
「茅萱さんっ!」
「おっせーよ海老原」
茅萱とてそこまで暇ではないだろうが、連絡に応じ仕事を片付けると斎の到着を待っていた。斎は茅萱の前に辿り着くなり両手を顔の前で合わせて誠心誠意の詫びを伝える。
数時間前までは確かに一緒にいたはずなのに、少し時間が空いただけでも新鮮で茅萱とこうして会えることがただ嬉しかった。
「ごめんって。出掛けにトラブってさあ」
他者のセキュリティカードを使って寮を抜け出すというのは茅萱が斎に授けた案だった。出るだけならば簡単だったが、残していったソルトが我が物顔で寮内を闊歩していれば真香が卒倒しかねない。どうやってソルトを安全に隔離状態におくかで頭を悩ませてしまった。
「俺と会うこと周りに反対されてんじゃねぇの?」
茅萱の指摘にギクリと表情が引き攣る。誰からも歓迎されていないことは明らかだった。寮の唯一での鍵であるセキュリティカードを取り上げるということは会いに行かせないというその最たるもので、このまま第五分室の所属である限り茅萱との本当の意味での幸せを望むことはできないだろう。
「……そんなことないよ。だって俺が茅萱さんに会いたいんだから」
へらっと笑う斎にはこれ以上茅萱に要らぬ心配をかけさせたくないという思いがあった。
「……ほんっと駄犬」
「え? 何か言った?」
ぼそっと呟いた茅萱のその言葉は斎の耳には届かなかった。
「何でもねーよバカヤロウ」
茅萱は斎の額を軽く小突いてから我が物顔で歩き始める。社内のみならずこの繁華街であっても茅萱の容姿による影響は図り知れず、思わず足を止めて茅萱の顔を振り返る人物がこの数分間の間だけでも何人居ただろうか。それだけのアイドル級の美貌を持つ茅萱が自分を選んでくれたことが誇らしかった。
でもだからこそ、と斎は両手で小突かれた額を抑えたまま小さな声で呟く。
「――このまま、茅萱さんとふたりだけでどっか逃げちゃえればいいのに」
「海老原?」
茅萱は聞こえた言葉に足を止めて振り返る。
「あっごめん今の無し何でもないよ」
斎はハッとして早口で否定する。茅萱と居られる今だけでも十分幸せなのに、もっとと願ってしまう。茅萱の奥底までの全てを知りたくて、思わず口から飛び出た言葉。でももし茅萱がそこまでのことを望んでいなかったらと考えると途端に怖くなる。
茅萱はじっと斎の顔を見つめたその桃色の小さな唇を開く。
「――それもいいかもしんねェな」
夕日に照らされた茅萱の顔が酷く刹那的なものに見えた。
この瞬間に茅萱へと手を伸ばし、走り出していたならばきっと結末は変わっていたのかもしれない。斎は茅萱が浮かべた表情の意味を完全に理解しきれてはいなかった。
「あっれぇ? 征士郎クンじゃなぁーい?」
男性にはそぐわぬ高音の声。大事な局面を迎えていたはずの斎と茅萱の距離感はその一声によってあっという間に現実へと引き戻される。
始めに指定されたシティホテルの立地からも茅萱がこの繁華街に馴染みがあるのはそれとなく分かっていたことで、そうともなれば何処で茅萱の知り合いに出くわしてもおかしくはない状況だったが、茅萱は呼び掛けられた言葉に大きく肩を震わせ、ロボットのようにゆっくりとぎこちなく背後を振り返る。
「……一岐」
その男性は茅萱同様小柄だったが茅萱よりは多少上背があり、その容姿の若々しさから二十代前半程度に見えた。青みを帯びた髪は襟足が長く跳ね、アシンメトリーに整えられた前髪からは左目だけが覗きにっこりと笑みを浮かべていた。
お互いに名前を呼び合う関係性から余程仲の良い間柄であることは伺い知れた。
「茅萱さんの知り合い?」
「あ、ああまぁな」
斎が声を掛ければ茅萱はすぐに視線を斎へ戻し向き直るが、その目線は僅かに泳いでいて斎とかち合うことが無い。繁華街という場であることから、茅萱に顔馴染みがいてもおかしくはなかったが、茅萱の動揺から斎は何か尋常ではない関係性を察していた。
「最近全然顔見せてくれなかったから寂しかったんだよぉ?」
一岐と呼ばれた男性は斎へと向き直った茅萱の背後からべったりと抱き着く。斎はそれが何故か居心地の悪いものに感じられた。
良く言えば愛嬌があり友達を作り易いタイプと言えるのだろうが、一岐に纏わり付かれた茅萱の表情が引き攣っていることに斎は気付いていた。茅萱にも苦手なタイプがいるのだと改めて実感した斎だったが、気付くと一岐がジロジロと斎の顔を見ている。
「ふーん?」
「えっなに……」
見定められるようなその目線に斎の中で何か良くないものが騒ぎ始める。茅萱の知り合いとして片付けるには大分無礼なこの男性とあまり長い間時間を共にしたくないという感情が湧いてくる。
「オイ一岐やめろ」
一岐の不躾な視線に茅萱も気付いたのか、茅萱は一岐の顔を押し返して牽制する。一岐は嫌がる茅萱の顔を指先でなぞり更に顔を近づける。
「ねーぇ、久しぶりだし寄ってかない?」
元々美少女のような顔をした茅萱と、同じ人間とは思えない整った顔をした一岐の絡みはとても絵になる。
何かおかしいと思えば一岐がずっとにこにことその笑顔を崩さないことだった。語気もずっと一定の調子で乱れが見えない。それは元々相手の返答により何かを変えるというより、相手がどう答えようとも自分は何も変えるつもりはないという強い意志のようなものにも感じられた。
「今日は用事あんだよ。見りゃ分かんだろ」
茅萱は一岐を振りほどくことを諦め、わざとらしく溜息を吐き出す。これで一岐とは解散し自分との時間を優先してくれるのだと感じた斎の心は嬉しさに躍った。
「勿論そこの彼も一緒にだよぉ」
「ッ、一岐」
茅萱は慌てたように一岐を振り返る。そこから茅萱は斎に背中を向け一岐とぼそぼそと会話をし始める。その会話の一端も斎に漏れ聞こえることはなく、斎は除け者にされたような小さな悲しみを胸に抱く。
話しぶりから一岐とは久方振りにあったようだし、何ならば自分との約束は次回に改めても構わないと言い出そうと考え始めた斎の心中は、我儘を言って茅萱を困らせたくないという方向へ向き始めていた。
「え、えっと……」
次にいつ会えるかの保証はない。それでも我儘を言って茅萱の機嫌を損ねる事の方が斎にとっては嫌だった。
斎がぐるぐると正解の言葉を頭の中で探しあぐねていると、漸く話が付いたのか振り返った茅萱は目の前のビルを指差す。
「悪ィな海老原。コイツが一杯奢ってくれるらしいからさ、ちょっと寄ってこうぜ」
「え、俺は全然……いいんだけど……」
この場で帰れと追い返されるのではなく、一緒にと茅萱が斎のことも誘ってくれた事が嬉しかった。
てっきり薄暗いバーのようなものを想像していた斎だったが、一岐に案内された店内は眩しいとまではいかずとも明るさは十分にあり、白塗りの壁際の中央にはバーカウンターがありその背後の棚には数種類のアルコールのボトルが並べられていた。
斎の知るバーとは異なり、この数年で一般化してきたラウンジという形式のそれはバーよりはライトな感覚で足を踏み入れやすい店作りとなっていた。
ラウンジに入って早々、茅萱は斎をカウンター席に座らせると同席をせず、隅の席で誰かと話し始める。何か重要な話しをしている事は分かるが、初めて足を踏み入れた店でアウェー状態となった斎は居た堪れない。
バーテンの朱門にこの店は初めてかと尋ねられるも、斎の目線は茅萱と隣の男を追っていた。
「ねぇ、誰か女の子居ないの?」
茅萱の代わりに斎の隣に座ったのは、茅萱をこの場所に連れてきた張本人である一岐で、一岐は斎の肩へ馴れ馴れしく腕を掛けながら朱門に対して声を掛ける。斎は何故か一岐のその手を不快に感じる。それは触れられた箇所から感じる嫌悪感のようなものだった。
「あ、俺は全然別に……」
キャバクラなどとは異なり、着飾った女性というよりはごく一般的に見える女性が席についてくれるのがこのラウンジのシステムらしい。しかし女性に相手をされるよりはただ茅萱に居て欲しかった。
少し赤毛に近い茶髪が襟足まで伸ばしている朱門は、その風紀の軽薄さからこのラウンジの中でも相当上のポジションの人物であるように見えた。年若そうに見える朱門は一岐の言葉に店内を見回してから不思議そうに首を傾ける。
丁度その時バックヤードから女子大生らしき人物が手鏡を見ながら出て来ると、朱門は彼女がどこかの部屋へ向かおうとする前に呼び止める。
「ねえ、ナツメちゃんどこ行ったかしら」
「あー、ナツメちゃんならさっき外行っちゃったけど。何か急いでたみたいでぇ」
女性のような柔らかな口調で朱門は尋ねる。しかしいるはずの女性が今この場にいないという事実を聞くと困惑したような表情を浮かべる。
「仕方ないなぁ」
朱門と視線を交わし何かしらのアイコンタクトをしたらしい一岐はわざとらしいほど大仰な仕草をして椅子へ座り直すとカウンターに頬杖をつく。
「征士郎クンが戻ってくるまで僕がお相手するね」
「え、いや……そんなお気遣い結構なんで……」
一目見た瞬間から一岐には何か嫌悪感のようなものを覚えていたが、それはとても言葉で説明出来るようなものでは無かった。
茅萱だって誘った手前会話が終わればきっとこちらに戻ってくるはずなので、それまで放っておいて欲しいと斎は内心思っていた。
「おニィさんはぁ、名前なんて言うの?」
斎の警戒など微塵も感じ取れていない一岐は見えている左目だけでにこりと斎へ笑みを向ける。一岐との雑談をどうにも避けられない状況となると斎は悟られないように小さく肩を落とす。
「あっ俺は……海老原です」
「海老原、何クン?」
「……斎、デス」
茅萱と同程度小柄な一岐はどう見ても年下であるだろうが、一岐から感じる威圧感が居心地の悪さと嫌悪感の正体であることに斎は気付く。
「へぇ、斎クンかぁ……」
一岐は聞いた名前を楽しそうに繰り返す。それがどこか不気味なものに感じられた。
「あのっ、貴方は――」
「僕ぅ? 僕は一岐っていうの。よろしくねぇ?」
〝いつき〟と〝いちき〟、たった一文字だけの違いであっても、この男とはどうも仲良くなれそうにないと本能的に感じる斎だった。
「一岐、さんっ」
「んー?」
「……あそこで、茅萱さんと話している人は、一体……」
斎は再度チラリと隅の席で茅萱と話すもうひとりの人物へ視線を送る。自分たちがラウンジに入る前からこの店の中にいたその人物がどことなく自分とは住む世界が違う人物だと思えてしまうのは、その雰囲気がまるで異動してきたばかりの綜真に似ていたからだった。
「あー三睦のことぉ?」
「三睦、さん……」
詩緒や千景とは違うが、色の付いた眼鏡を掛けていてどこかインテリの雰囲気が漂っている。ただの会社員にしてはシャツの着こなしなどはラフであり、自分たちと同じような勤め人には見えない。
ふたりの会話は声を潜めて行われていたようで、一切斎へはその片鱗も漏れ聞こえては来なかったが、終始淡々と話す三睦に対して茅萱はどこか焦りを感じているように見えた。
「なんの話、してるんですかね」
「仕事の話でしょ」
「仕事……?」
茅萱の職種は営業であるが、とても取引がありそうな会社の人間には見えなかった。茅萱が焦らざるを得ない相手ということで斎の内心には嫌な予感ばかりが浮かぶ。
「それより斎クンはさぁ」
カランと一岐が手に持つグラスの中で氷が音を鳴らす。琥珀色の液体は恐らく酒であるだろうが、一岐がグラスを持っていると何故か不釣り合いのようにも見えた。
グラスにライトが反射して黄金色の輝きが増す。反射を受けた一岐の瞳もその一瞬だけ金色に変化したように見えた。
「征士郎クンとはもう寝たの?」
「征し、ああ……えっと、まあ……はは」
初めは誰のことかと思ったが、三十半ばである茅萱のことをこの二十代前半にしか見えない一岐が名前で呼ぶというのはアンバランスなようにも感じられた。それだけ親しい間柄であるということに斎の心臓は締め付けられたが、それよりも一岐から問われた言葉に対しての驚きの方が大きかった。
「良かったでしょお? 征士郎クンとのセックス」
「そういう話はっ」
あまりにも下世話な会話が目の前で繰り広げられているというのに、バーテンの朱門は何も聞いていないという態度で斎に視線すら向けない。バーテンとしてはそれが正しい態度なのかもしれなかったが、一岐の横暴は諌めてほしいものだった。
一岐の片腕がするりと伸び、斎の手と重なる。それから一岐は強引に指を絡ませてきたが、その指先は斎が驚くほどに冷たかった。
「色んなトコ、開発されちゃった?」
斎はこの場所に長く居てはいけないのではないかという不安に駆られる。
「終わったみたいだねぇ、二人の話」
一岐のひとことでそれまで止まっていた時間が急に動き始めたような感覚に陷った斎は声に促されるがまま茅萱と三睦が密談をしていた隅のエリアを振り返る。
普段の茅萱と何処か違うように見えたのはどこか暗い表情を浮かべているように見えたからで、去り際の三睦から肩に手を置かれて何かを告げられた茅萱はそれまでずっとバーカウンターで待っていた斎に視線も向けずバックヤードへと向かってしまう。
「え? あっ……」
漸く会話が終わり、今度こそ茅萱とふたりきりになれると期待していた斎は予想外の行動に唖然として届くはずもない片手を伸ばすだけだった。
「あーらら、行っちゃったねぇ」
背後で一岐がくすくすと嫌な笑い声をあげる。しかしそんな一岐の揶揄すら気にならないほど斎にとっては茅萱が居なくなってしまったことに対するショックが大きかった。
「僕ちょっと行ってくるよぉ」
「いやっそんなわざわざっ」
それまでいやらしく斎と絡ませていた指をするりと解き、一岐は上機嫌の様子で席から立ち上がる。出口ではなくバックヤードへ茅萱が向かったことから、待っていればそのうち戻ってくる可能性をまだ胸に抱き、それでも茅萱を追うと言った一岐を止めようと腰を浮かせる。
斎が止めるより早く駆け出していた一岐は話を終えグラスを片手に立ち上がった三睦と二、三言葉を交わす。その合間に斎を指さして何かを伝えているようだった。
そして再びの密談が終われば一岐は長身の三睦を抱き寄せて口付けを交わす。一岐と三睦がこういった関係だからこそ先程あった一岐からの下世話な会話に朱門が動揺を示さなかったのかと斎がひとりで納得していると、一岐は三睦に手を振りひとりでバックヤードへと消えていく。
立ち上がれば分かる三睦の高身長は自分と茅萱の身長差にも似ていて、どちらが抱く側なのだろうと斎は肘をついてぼんやりと考えていた。
「――隣、良いかな」
「えっ?」
突然掛けられた声に見上げると、三睦がグラスを持ったまま斎の隣に立っていた。先程までは距離があってあまり良く見えなかったが、近くで見るとその一般人とは違う裏社会特有の迫力があった。
決して威嚇目的ではないだろうが、排他的なその雰囲気はやはり異動してきた直後の綜真に似ていると斎は改めて実感する。
斎が許可を出すよりも前に三睦は先程まで一岐が座っていた斎の隣の椅子に腰を下ろし、グラスを拭いていた朱門に飲み物を注文する。
「あの、茅萱さんは……」
「少し用があるそうだ。すぐに戻ると言っていたよ」
「そう、ですか……」
初対面である三睦の言葉をどこまで信じて良いのか分からなかったが、茅萱を置いてひとりで帰宅すれば次にいつ茅萱に会えるのかも分からない。待ち構えているのは最悪の状況だけで、斎はただ茅萱が戻ってくるのを信じて待つしかなかった。
そう考えていた斎の前に紙製のコースターが置かれ、朱門がその上に不思議な色合いのカクテルを置く。確かにラウンジに寄る条件が一杯奢って貰うという話だったので、三睦からの勧めではあったが仕方がないので斎は有り難く受け取ることにする。
一杯だけと約束していたこのラウンジから早く立ち去りたくて仕方がなかった。もう今日は茅萱とセックスが出来なくても構わない。ここではないどこか別の場所で茅萱と一緒に過ごせるのならそれだけで良かった。
水滴ひとつも残っていない綺麗に磨かれたグラスの一端に口を付けると横から三睦の視線を感じて斎は一度グラスをコースターの上へ置く。
「え、あの……」
「綺麗な目をしている」
先ほどの女子大生の件もあったので、少なくともゲイバーではないと信じていた斎だったが何故一岐から続き三睦に絡まれなければならないのか、一岐とはまた違う三睦の威圧感も斎は苦手に思った。
三睦の片手が無造作に伸び、その指の腹が斎の頬に触れる。威圧感は苦手だったが生憎と男性同士に関しては耐性があり過ぎる斎は、ただ今は三睦の好きにさせておき時が経過するのを待とうとした。
「征士郎との関係で満たされているはずなのに、どこか満たされていない気がするのはお前が求めているものは別にあるからだ」
聞こえた言葉に斎は耳を疑った。まるで三睦に心を見透かされた気がした。
茅萱と出会ってからのこの数日は確かに斎にとっては充実した毎日だった。茅萱は多少強引なきらいがあったが、茅萱とのセックスは決して嫌でなく、寧ろ今までの何倍も気持ち良いとも思っていた。それは斎が抱かれる側の悦びを知ったからであったが、それを初対面の相手にあけすけに打ち明けるような趣味はない。
「余計なお世話ですよ。俺と茅萱さんのことは貴方に関係ないでしょう?」
斎は首を振り頬に触れる三睦の手を払う。その内心では早く茅萱が戻ってきてくれないかと苛々し始めていた。
漸く大手を振って茅萱と会えるこの時間をもうこれ以上誰にも邪魔されたくなかった。関わらないのが一番だと斎は正面を向き再びグラスを手に取る。飲み干してしまえば一杯の約束故にこのラウンジに長居する理由も必要がなくなる。
視線を外した次の瞬間、斎は三睦から肩を鷲掴みにされる。そのあまりにも無礼な振る舞いに斎がひとこと文句を告げようと三睦を振り返るより早く、三睦の言葉が斎の耳の中へ直接伝えられて内耳を揺らす。
「お前が本当に満たされたいのは心か身体か――俺たちならそのどちらも埋めてやることが出来る」
三睦が告げた『たち』という言い方に少しだけ引っ掛かりを覚える。ただそれよりも斎の頭の中では三睦に告げられた言葉が回り始めていた。
――埋める? どうやって?
茅萱以外にこの心の穴を埋めてくれる人なんて居なかった。千景は恋人を選んで、詩緒も綜真を選んだ。真香は自分を選んでくれなくて、茅萱だけが自分を選んでくれた、見てくれた。誰からも祝福されなくても構わない、茅萱だけが居てくれるならそれだけで満たされる。茅萱しか要らない、それなのに。
不意に斎は顔を掴まれて三睦の方を振り向かされる。
その強引な行動に驚き過ぎて、手にしていたグラスが大きく揺れまだ一口も飲んでいないカクテルが波打って溢れる。
「難しく考えなくていい。ただ頷けば、それだけでお前の望むものを与えてやる」
「な、に……?」
グラスから溢れたカクテルで手は汚れ、早く手を拭きたくて仕方がないのに何故か三睦から目が離せなかった。
まだほんの少ししか飲んでもいないのに、酒に酔った時のような酩酊感があった。カウンターから溢れたカクテルがぽたぽたと斎の足を濡らす。
「ほらどうした……? 答えは『はい』だろう」
目の前にいる三睦ごと視界がぐにゃりと曲がる。それでも斎は三睦から目線を外すことが出来なかった。目の前の光景が渦を巻くように、自分がちゃんと座っているのかも分からなくなっていく。
上手く身体を支えることも出来なくなって、意識を手放す寸前に斎はひとことだけ言葉にする。
「……は、い」
三睦は崩れ落ちる斎を支えそのまま共に立ち上がり、バーカウンターの中でグラスを磨いていた朱門へ声を掛ける。
「朱門、特別室は?」
「ええ、空いてるわよ」
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