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六章
暖かな雲の中で泳いでいるような感覚だった。それはまるで茅萱とセックスをしている時のように気持ちが良くて、幸せで。こんな心地よさは茅萱と出会ってから初めて知った。愛されていると感じられることが脳の奥まで伝わって、目の前に映る世界はただキラキラと綺麗だった。
それが突然現実に呼び戻されたような感覚があり、ぽっかりと空間にふたつの穴が空いてそこから見えるのは真っ白ななにか。何重にも薄い膜が重ねられていたような視界が徐々に鮮明になっていく。そして改めて目の前にあるのは馴染み深い真っ白なシーツであることが分かった。
「あ、れ……」
洗いたてのシーツにはパリッとした糊がはられていて、ベッドのスプリングが柔らかく自分の身体を包みこんでくれる。
いつの間に茅萱とホテルに入ったのかと斎は目の前のシーツを見ながら漠然と考えていた。
決して酒に弱い訳ではないが、酒を飲むとすぐに顔が赤くなる体質の斎はあまり進んで酒を飲むことはない。今日だって殆ど酒を飲んでいないはずなのに、酒を飲んだ時以上にずきずきと脳の一部に浮腫んだような痛みがある。
ただ喉だけが異様に乾く感覚があった。茅萱に声がでかいと怒られてからはあまり大きな声を出さないようにしていたが、最初のそれに似たような喉の乾きに堪えきれず水か何かの飲むものが欲しかった。
全身の気怠さは茅萱とセックスした直後は毎回こうで、元から受け入れる仕組みで作られていない男の身体なのだから、抱く側より抱かれる側のほうが消耗の激しさが大きいのは当然なのだと茅萱に言われた。
気怠さにも関わらず感覚だけは何故か鋭敏で、背後に誰かの気配を感じた斎はそれが茅萱であると思って振り返る。
「茅萱さ――」
斎は目を丸くして息を呑む。そこに居たのは茅萱ではなく、先ほど会ったばかりの三睦がカウチに腰を下ろしている。三睦以外の人物の姿は見当たらなかったが、おかれた状況を斎は咄嗟に飲み込めなかった。
何がどうなっているのか、驚いた斎は身を起こそうとするがその時初めて自分の両腕が自由に動かない状態であることに気付いた。何度両腕を動かそうとしてもその度に何か硬いもので両腕同士が背後で引っ張り合う。考えたくないことだったがそれが手錠か何かに似たものであると気付いた時斎の危機感が一気に最高潮に達する。
「三睦、さんっ……!? なん、何なんですかこれっ……!」
なんとか肩と上腕だけを使ってうつ伏せ状態から回転をさせる。両腕が背中の下に回ってしまい痛くて重かったがうつ伏せ状態のままよりは幾分かマシだった。
仰向けとなって自分の状態を改めてみることが出来るようになってから気付いたのは自分が下着以外の何も身に纏っていないということだった。
ただ腰と両足を使って芋虫のように這うことしか出来ず、なんとかベッドの上で上半身を起き上がらせることが出来た斎だったが、すぐに三睦に肩を掴まれてベッドに押し返される。
「察しが悪いな。いや悪いからこそ今ここにいるのか」
「なん、のことですか……」
わざわざ聞き返さずとも斎の脳裏にはあるひとつの答えだけが浮かんでいた。
ここがどこのホテルの一室かは分からないが、この場には自分と三睦しかいない。三睦はラウンジに入るなり茅萱と何か密談をしていた相手で、その茅萱は三睦との会話が終わるとすぐに斎のことなど振り返りもせずにバックヤードへ向かい姿を現さなかった。
直前まで三睦と話をしていたことを斎はぼんやりと思い出し始める。たった一口も酒を飲んでいないはずなのに、三睦と話している最中に襲われた飲酒時のような酩酊感。朱門ですらグルであることは状況的に明らかで、仕組まれていたことだということを斎は認識したくなかった。
「お前は征士郎に騙されていたんだよ」
三睦から告げられる絶望的なひとことに斎は心臓を強く握り潰され、息も出来なくなったような気がした。
三睦は斎を組み敷き、茫然と涙を流す斎の頬に触れる。その手は何故か優しくて、それが何故かとても悔しかった。
「アイツはいつもこんな手口で『商品』を流してくる。それがアイツの仕事だからな」
漫画やドラマで良く聞くような台詞を三睦から伝えられても、斎はどこかこれが現実として自分に今起こっていることであると認識出来なかった。どこか他人事のように思えてしまうのは、先ほどから感じていた部屋に充満する香りのせいか。
「……そ、な……茅萱さんはっ……そんな、」
否定の言葉が上手くでてこない。茅萱がそんなことをする訳がないと言いたいのに口が上手く回らない。三睦の手が、指先が頬から首筋を伝い鎖骨をなぞって胸元を焦らすように触れる。それはまるで茅萱に触れられている時にも似ていて、触れられた箇所がじわりと熱くなっていく。
何故一岐の誘いに乗ってラウンジに連れてきたのか。
何故一度も自分を顧みずにずっと三睦と話していたのか。
何故バックヤードに行ったきり戻ってきてくれなかったのか。
答えを探そうとする度、斎の感情はその答えとして目に涙を止め処なく溜める。
認めたくない。
茅萱の愛は本物だと思っていたから。茅萱だけが自分のことを愛してくれた。自分を必要としてくれた。危険を賭して寮まで会いに来てくれた。
茅萱の喜ぶ顔が大好きで、誰からも祝福されないのだとしたら全てを捨てて茅萱とどこかに逃げてしまいたいと願うほどに愛していた。茅萱だけが自分の痛みを分かってくれて、茅萱だけが悲しい気持ちを理解してくれた。
きっと茅萱には何か事情があり、一岐や茅萱に脅されてこんなことをやらされているのだとでも思わなければ斎の心は保ちそうになかった。悔しくてぼろぼろと涙が次から次へと溢れる。
泣き続けて頭がぼんやりとする。ここが何処で、ここには三睦しか居なくて、自分は全裸で、自分がこの先どうなるかなんてもうどうでも良かった。泣くだけ泣いて、気付いたらこれは全て夢で、目を覚ましたら全て夢だったということにならないだろうか。
ぬるりと斎の中に何かが入り込む感覚があった。その場所は今や茅萱にだけ許している場所で、茅萱以外に容易く侵入されることはただ斎に嫌悪感しか呼び起こさなかった。
茅萱とは全く異なる三睦の指は茅萱よりも長くて太く、柔らかくもなく骨ばっていて、ただ不快でしかないはずなのに、まるで斎の身体を知っているかのように動くその指先は中で大きく広がり斎を内側から押し上げる。
「ッあ、な、にっ、これっ……」
生暖かいほどに気持ちが良くて、内側から熱い何かがじわりと全身へ広がっていくような感覚だった。擽ったいような、ぞわぞわとする感じがした。自分では触れられないその場所へ何かが欲しくて、ただ疼く。
「開発済で手間が省けた」
三睦は喉の奥で笑い、指先を動かすだけで腰をびくつかせる斎の様子を眺めながら器用に細かく時折緩急を付けながら斎の内部を蹂躙する。
指の摩擦だけでも全身が痺れ、自分の意志とは無関係に腰が跳ね上がる。それでも気持ちよさを求めてしまう男の性であり、もっと強く、指だけでは物足りないと痙攣する足の爪先でシーツを掴みながらも脳を直接突き上げるその不思議な気持ちよさに、斎は無意識に腰を上下に揺らし始める。
「なんっ……なん、でっ……何で俺、ッ」
身体が全く自分のいうことを効かず、首から下がただ快楽を求める別人のようだった。三睦の爪が鋭く内部に食い込むと一瞬目の前に火花が散ったように見えた。
「ぁ、あっ……やだっ、やめて、ッ……!」
燻っていた熱が一気に放出され、顔にまで飛んできたその生暖かい体液に斎は茫然としている暇も無かった。直接触れられていた訳でもないのに達したその感覚は斎には初めてのことだった。
それ自体は千景や詩緒とセックスをしていた頃に何度か見たことがあった。一種の才能のようなものだと思っていた斎は自分が中だけの刺激で達してしまうとはこれまで想像すらもしておらず、とても数日前までは想像してもいなかった自分の身体が抱かれる側に変えられてしまった事実に驚きを隠せなかった。それでも初めては茅萱が良かったという思いはまだ消えることが無かった。
逃げることも出来ないこの状況下は本来なら絶望的な状況であるのにも関わらず、絶えず繰り返される脳天を突き上げられるようなその衝動は一度経験してしまえば簡単に断ち切ることが難しかった。まるで麻薬のようなただ溺れていたくなるようなその感覚は、斎が自ら恍惚の表情を浮かべていることにすら気付けないほどだった。
無意識に跳ねる腰と繰り返す痙攣に斎が疲れ始めた頃、ちくりと感じた痛みはこれまでのどれとも違うものだった。斎は何が起こったのかも分からず、ただその痛みを感じた下半身へと視線を向ける。斎に見えたのは、三睦が何かを斎の太腿へ注射している姿だった。
「なにす……やめ、……」
絶対に拒絶しなければならないことであると分かっていたのにも関わらず、射精感にも似た多幸感は治まることがなく、脳の奥の方からどろどろに溶けていきそうだった。
眠気や酩酊感にも似ていて気を抜いたら一気に持っていかれそうだった。溺れてしまえばきっと楽で、何もかもを忘れてこの幸せに浸れるのならばそれも悪くないと手放しそうになる意識を何度も繋ぎ止める。
「お前はこれから必要とされる。心も身体も満たされ――お前にとっての幸せな日々が待っているんだ」
三睦が何を言っているのか斎には理解が出来なかった。自分が何故こんなことになっているのか、その原因すらもぼんやりと霞んでいく。
ただ愛されたかった。ひとりになりたくなかった。誰からも置いて行かれたくなかっただけのはずだった。
茅萱と過ごす日々が幸せだった。あの笑顔をもう一度見たい。最後に茅萱の笑顔を見たのはいつのことだっただろうか。
脳を直接鷲掴みにされて背後へと引っ張られていくような感覚、でもそれすらも気持ちよくて、幸せだった。
「ち、が……」
こんなものは自分の望んだものではない。反論しようとした斎の意識は突然黒く重いものに押し潰され、斎はその意識を再び手放した。
愛していた、千景のことを。中途入社で入ってきたころから。酔うとキス魔になる千景から飲み会の席で唇を奪われて、雪崩込むようにセックスをしてそのままセフレになった。だから好きだった相手と暮らしていると千景に言われた時、むきになって千景を犯した。
詩緒を山城のパワハラ恫喝から助けたのは自分だった。口は悪いけれど押しには弱くて、文句を言うけど快楽には弱い。でも詩緒は自分たちではなく綜真を選んだ。
真香だけは絶対離れていかないと信じていた。そんな真香の手も、離れた。
もう嫌だ。ひとりになりたくない。どうして誰も自分を選んでくれないのか。みんな自分以外を選んでどうして自分だけが選ばれないのか。愛されたい、愛して欲しい。ひとりで居たくない、ただ淋しいんだ。
茅萱だけが自分を見てくれた。そのアイドル級の可愛らしさで、長い睫毛から覗く瞳で自分を見る。茅萱が、茅萱だけが。
待って、どこに行くの、置いていかないでよ。
腕を伸ばして、茅萱の腕を掴む。
「あれ、ここ……どこだ……?」
これまでの悪夢が全て嘘だったように、突然開けた目の前の光景に斎は重い口を開ける。
「起きたか」
掛けられた声に視線を向ける。斎は枕元に居た綜真の腕を掴んでいた。綜真の指先二本は斎の首筋に宛てられており、綜真が抑えているその箇所からどくどくと自分自身の脈拍を感じた。
「……なん、ぇ、御嵩さん……」
この薄暗い部屋は自分の部屋ではなく、そして何故綜真と共にいるのかという状況を咄嗟には理解出来なかった。しかしこの場所にだけは見覚えがあり、シーツの感触から三睦に犯されたあのホテルの一室であることは理解が出来た。
惚けた斎の返答を聞いた綜真は小さく溜息を吐いてから斎の額に手を当てる。その手はひんやりと冷たかった。
「千景に呼び出されたんだよ」
綜真は顎でしゃくるように部屋の隅を示す。斎が視線だけを向けると薄暗い部屋の奥に扉のようなものがあった。少ししてからその扉が開かれ、光源が線のように扉を囲うと中からワイシャツ姿の千景が出て来る。微かに聞こえた流水音からその扉の先は便所であることが分かった。
「――これ、誰の血だ?」
千景の手には大判のタオルが握られており、上半身を起こして目を凝らすと絵の具のように赤いものが飛び散っていた。
「え……」
どこか怪我をしたのかと斎は自分自身の身体を隈なく見るが、見えるところに傷口は無かった。それどころか両腕が自由に動いた上着衣済みだった。
斎は混乱し始めて頭を抑える。その様子がふらついているように見えた綜真はベッドに片膝を乗せて斎の背中を支える。
怪我がないどころか、記憶を辿ればこの部屋で目を覚ましたときは下着しか着ていなかった。それすらも三睦に脱がされ――何かの注射を打たれたらしきことを斎は思い出す。
意識を手放した後何があったのかを斎は一切知らない。気が付いた時には綜真と千景がこの場所にいた。斎ですらも何も覚えていないらしいという状態を察した千景と綜真は目を合わせて息を吐く。
三睦はどこへ行ったのか、血らしき赤い液体が付着したタオルは何なのか、斎にも聞きたいことは沢山あったが、何からどう聞いて良いのかも分からずただ千景の行動を目線で追う。
千景はタオルを放り投げ、カウチに座って足を組む。室内が薄暗いせいか、千景の顔色が普段よりも悪いような気がした。それにどんな時でもスーツの下にはジレを欠かさず着ていた千景が、今に限ってはネクタイも無くワイシャツ一枚というラフな姿も珍しい。
千景は煙草を口に咥えて火を付ける。テーブルの上に置かれていたガラス製の灰皿には普段から千景が吸っている銘柄の吸い殻が幾つも残っていた。
「俺は何度も忠告したぞ」
ぼんやりと千景を見ていた斎に千景の冷たいひとことが突き刺さる。
呆れられても当然で、千景の忠告を無視したのは自分自身だった。前に千景が言っていた茅萱の悪い噂というのはきっとこのことで、千景が茅萱へ会いに行けないようにセキュリティカードを取り上げたのにも関わらず、千景のセキュリティカードを使い茅萱へ会いに行ったのは紛れもなく自分自身だった。
その結果がこれで、どうやって千景と綜真がこの場に来たのかは分からないが、ふたりが来てくれなければ自分はどうなっていたのかも分からない。
「ふ、ぐっ……うぇっ……」
握り締めた斎の拳にぼたぼたと涙が落ちる。
「……ほんと、はっ……ほんとは…………」
綜真がゆっくりと斎の背中を撫でる。これ以上惨めなことなど後にも先にももう無く、千景にこうしてまた怒られることが何よりも怖くて仕方がない。
「……佐野さんの、……気を引きたか、った……」
感情の全てがぐちゃぐちゃで、自分でも本当はどうしたかったのか分からない。
「愛されたかった……愛されたかった佐野さんに……」
茅萱がいればそれでいいという気持ちと、それでも千景に愛されたいと願う相反した気持ちが斎の中には同時に存在していた。
愛して欲しかったから、茅萱から千景を庇った。気にして欲しかったから、反対されても茅萱を求めた。
「なんも、何もない……俺だけ誰からも愛されない……」
誰からも選ばれない。茅萱が自分を愛してくれるなら、千景のことを忘れられると思った。茅萱とセックスをしている間だけは千景のことを忘れられた。
「……榊には、御嵩さんが居るし、真香とももう……セックスしないってことになったし……」
自分ひとりだけが孤独で寂しかった。
綜真は斎の肩を抱き寄せて、その腕をとんとんと優しく叩く。
「……だけど、だけど茅萱さんだけは、俺のこと愛してるって、言って……」
「その茅萱にお前は売り飛ばされかけたんだよ!」
一瞬の出来事だった。千景は激昂の言葉と共にガラス製の灰皿を手に取り、灰を溢しながら斎に殴り掛かる。
「ひっ……」
咄嗟に頭部を庇って両腕を上げる斎だったが、振り下ろされた千景の腕を綜真が掴んで止めていた。
まるでそこだけ時間が止まってしまったかのように千景と綜真は睨み合っていた。千景の吐息だけがやけに生々しく聞こえた。綜真は片方の手で千景の手から灰皿を取り上げベッドの隅へと置く。千景は綜真が掴む手を振り払い、少し横を向いて呼吸を整えるように深呼吸を繰り返す。
「……お前な、もう少し優しくしてやれよ」
「それは俺の仕事じゃねぇんだよ」
ここまで千景から斎に対する心配は一切なく、千景に見捨てられたという現実が斎を絶望へと突き落とした。
心配をして欲しかった。真香からセフレを解消された自分を憐れだと思うのならば、その身体で慰めて欲しかった。
茅萱と関わるなと言うのならば、その身体で繋ぎ止めて欲しかった。
千景に見放されてしまえばもう自分が生きている意味など見出せず、手を掴んだ後で再び突き放すのならば始めからこの手を掴んでも欲しくなかった。
「なんで、何で俺に……」
ぼそりと呟く斎へ綜真は視線を向ける。何だか嫌な予感がしていた。
「こんな現実……見せたんだよ……」
「海老原っ」
ベッドの上で立ち上がり、僅かに背中を見せている千景へ掴みかかろうとする斎を綜真は腕を引いて制止させる。綜真に背後から抑えられても斎は千景に対するぐちゃぐちゃで整理のつかない感情を収めることが出来なかった。
「夢見てたかったっ、例え茅萱さんに利用されてただけでも……!」
こんな事が言いたかった訳じゃない。それは分かっているのに、行き先の分からなくなった感情は全て千景に向けて放たれる。
だからこそ斎は千景の唇が張り詰めていたことに気付けなかった。
「……悪かったな、余計なことして」
千景は静かにそう告げる。千景にとっての斎は元セフレであっても今はいち部下であり、何かあれば当然助けるのは道理であったが、千景はもしかして斎に対する接し方を間違えていたのかもしれないと唇を噛む。
斎と千景、ふたりの過去の関係に口を挟めない綜真は斎の感情が落ち着いたタイミングを見計らってぽんと斎の背中を叩く。
「海老原、寮に戻るぞ。詩緒や本田がお前の事を心配している」
促した綜真に付き添われ斎はラウンジを出る。何処かのホテルの一室だと思っていたあの部屋はラウンジの奥に位置する特別室であったようで、スーツ姿の千景と繁華街に親和性が深い柄シャツを纏った綜真が泣き咽ぶ斎を連れ出す様子を朱門はグラスを拭きながらただ黙って見送る。
外に出るとすっかり日は落ちていて、真っ暗な寒空に繁華街のネオンがただ眩しく斎は目を窄めた。
千景か綜真のどちらかが予めタクシーを呼んでいたようで、ビルの前ではハザードを点滅させたタクシーが停車しており、斎の腕を支えるように掴んだ綜真が近付くと後部座席の扉が自動的に開かれる。
運転手は綜真の名前を確認し、開かれた後部座席に綜真は斎を押し込む。斎はただそれに従うことしか出来ず俯いたまま綜真に従って座席の奥、運転手の真後ろの席へと移動する。
行き先として寮の住所を運転手に告げた綜真はまだ空いたままの扉から顔を覗かせ背広を肩に担いだままの千景へ声を掛ける。
「千景、お前も途中まで一緒に――」
始めから入寮こそしていなかったが、どうせ帰る方向は同じなのだからと綜真は千景へ同乗を誘う。しかし綜真の配慮とは対照的に千景の視線はずっとラウンジの店内へと向けられていた。
「……用事がある。二人で寮に帰ってくれ。……また明日な」
「……ああ、じゃあまた」
それ以上無理に誘うことも出来ず、引き下がった綜真は運転手に伝えて扉を閉めて貰う。タクシーは斎と綜真のふたりを乗せて寮へとエンジンを掛け、項垂れたままだった斎はただ何となくリアガラスを振り返る。
その時、斎は千景が誰かに腕を引かれてラウンジへ引き戻されるような状況を見た気がした。
無言の車内で気まずさを覚えた斎は腕を組む綜真の様子をちらりと見てから口を開く。
「……あ、あの。茅萱さん……は?」
結局ラウンジに足を踏み入れてからは一度も茅萱と会話をする機会がなかった。茅萱は三睦との会話の後バックヤードへ向かってしまい、それから一度も顔を合わせることすらも無かった。
斎からの問い掛けに意識を傾ける綜真だったが、綜真も全てを把握していた訳では無い。
「俺が千景から呼ばれて着いたときには他に誰もいなかったけどな」
斎が寮から姿を消したという事実で寮内は騒然となり、綜真が止めるのも聞かず真っ先に飛び出して行ったのは千景だった。その数時間後突然千景からの連絡でラウンジに呼び出された綜真は、斎が無事に見つかったという状況以外は何も分からなかった。
三睦に何らかの薬を注射され、気が付くとそこには既に綜真と千景がいた。その間に何が起こっていたのかも斎は分からず、三睦から告げられた〝茅萱に売られた〟という言葉がより現実のものとなって斎を襲う。茅萱が三睦に自分を売り渡してしまったからにはもう用済みで、だから本当はバックヤードから裏口でも使って帰ってしまったのではないか。
もっと早くに気付くことが出来たら良かった。千景から止められた時、真香から縋られた時に。
明日からどんな顔をして千景に会えば良いのか、それ以前に寮へ戻ってもどんな顔を真香に向けられるのか。後悔が重圧となって斎の背中からのしかかる斎の目の前に綜真が見覚えのあるセキュリティカードを差し出す。
「お前のカード、アイツから返しとけって言われてたんだ」
「あ、えっ、俺……」
千景はもう斎が茅萱へ会いに行く為寮を抜け出すことは無いと判断してその返却を綜真に託した。斎が寮を出る時に使用したカードは千景のものであり、自分の服にしまった千景のカードを探そうと斎は慌てて全身を弄るが千景のカードを見付けることが出来ない。
「お前が持ってったカードはもうアイツが回収してんよ」
「そ、です、か……」
もしかしたら、綜真より早く到着していた千景なら何かを知っているのかもしれない。何故自分は助かったのか、三睦は何処へ行ったのか。そして茅萱は本当にどこにもいなかったのか。しかしそれを千景に聞く勇気は今の斎には無かった。
「……気のせいかもしんねぇけど」
繁華街の喧騒を抜け、タクシーが信号で停車した時、窓の外へ視線を向けたままの綜真が口を開く。
「海老原、お前自分のこと嫌いつか、自分に自信ねぇだろ」
的確に射抜かれた核心に斎は言葉を失う。両手の拳を再び強く握り、再び涙が込み上げてきそうだった。
「……どうやって、自信持てっていうんですか。分室の中で、俺だけ凡人……なのに」
詩緒や真香と違い、凡人であることを誰よりも一番気に病んでいたのは斎自身だった。
「セックスだけが俺の存在意義だったんですよ。……真香が、榊が俺のこと、求めてくれたのは、セックスがあったからで……」
セックスにだけ自分の存在価値があった。その時だけは凡人の自分にも価値があるのだと信られた。
「そりゃ違ぇよ海老原」
綜真にとって斎の言葉は想定通りであったが、詩緒や真香と共に第五分室のメンバーとして居られるように人一倍の努力を斎がしていたことも綜真は知っていた。
それと同時に詩緒と真香がどれほど斎を友人として大切に思っているのかも知っていた綜真は、その思いが斎にだけは伝わらずここまで拗れてしまったことを今更ながらに後悔する。
「詩緒や本田にとってのセックスってお前が思うほど重要なモンじゃねぇ」
詩緒が斎と真香の存在に救われたのは確かであるし、セフレ関係を解消しようと申し出た真香の気持ちを直接聞いた綜真は今斎と軋轢無く会話が出来るのは自分だけであることも知っていた。
「綺麗事……」
「お前にとってはな」
千景とは二歳、綜真とは三歳しか年齢が離れていないのに何故か自分が酷く子供ように思えて悔しくなった。セックスが重要ではないなどと余裕を抱くことが出来るのは、不安にならずとも迎えてくれる場所と受け入れてくれる存在があるからに他ならない。
自分の手からは結局何もかもが無くなって、自分たちから詩緒を奪った張本人ともいえる綜真のことが急に憎らしく思えてきた。綜真さえ現れなければ、今も詩緒とのセフレ関係は続いていたかもしれないし、真香と三人でこれまでの三年間と変わらない日々を過ごしていくことが出来た。
そうまでして奪っていった詩緒を未だに抱いていない綜真に抱く怒りを見当違いであるとは微塵も疑わなかった。
「……御嵩さんは、未だに榊のこと抱いてないじゃないですか。やっぱり俺らとヤりまくった榊のこと汚いって思って……!」
「オイ」
斎の全身に悪寒が走る。ただ綜真に声を掛けられただけなのに、酷く重いそのひとことは斎からそれ以上の言葉を奪うのには十分だった。
斎がラウンジで三睦と綜真を似ていると感じた理由は、この常人ならぬ異質な威圧感だった。言葉や視線だけで弱い人間ひとりくらいは死に至らしめられそうで、斎は呼吸すらも上手く継げそうになかった。
同じような感覚は灰皿で殴りかかろうとしたあの瞬間にもあった。あの目は人に対して暴力を振るうことに躊躇いなど一切ない者の目だった。
「それ以上言ったら承知しねぇぞ。それは俺と詩緒の問題だ」
「……ごめんなさい」
ただ惨めで、斎にはもう何も残っていなかった。愛していた人も、大切だった友人も、茅萱さえも――全てを失った。
「悲劇のヒロインぶるな、全部自分で選択したことだろ」
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