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七章
斎が綜真に付き添われて寮へと到着した時、既に日付が変わりつつある時刻だった。それでもタクシーから降りて寮を見上げた時、珍しく二階のみならず一階にも明かりが灯っているのが分かった。
夕食の時刻を終えた後、特別な理由がない限り各々自部屋に戻り夜の二十二時にもなればダイニングを始め一階エントランスは真っ暗になっているのが常だったが、今この時間も尚一階に明かりが灯っているというのはこれから帰ってくる存在があることを認識しているからであり、綜真がセキュリティカードを翳し寮のオートロックを開けると寒々しいエントランスで斎を待ち続けていた人物がいた。
赤いガウンを肩に羽織った真香は自動ドアが開く音を聞くと振り返り、玄関へ綜真に続き斎が入ってくるとエントランスのカウチから立ち上がって駆け寄る。エントランスで斎の帰りを待ち続けていたのは真香だけで詩緒の姿は見えなかったが、綜真が玄関にスニーカーを脱ぎ散らかしすれ違う真香の頭をひと撫でしてから振り返りもせずに階段へ向かったことを考えると、詩緒は部屋にいることが分かる。
しんと静まり返ったエントランスの玄関で立ち竦む斎と真香のふたり。斎には真香に対して散々心配を掛け続けてきた自覚があった。何故あの時――背中に泣き縋ってでも止めようとしてくれた時に突き放すような酷い言葉で傷付けてしまったのだろう。
ぱちんと音を響かせて真香は斎の頬を叩く。両目いっぱいに涙を溜めて噛み締める唇は震えていた。
斎はこの真香の平手打ちが今までで一番痛かったような気がする。
寒いのに、たったひとりエントランスで待ち続けていた真香。真香の考えを否定して、浮足立って馬鹿みたいに騙された自分をそれでも待っていてくれた真香。
もうこれ以上流す涙が無くなるほど泣いたのに、目の前に真香が居る、その事実だけで斎の口元は醜く歪み、心臓から一気に水分を押し上げられたような感覚に襲われる。
視界の半分以上を覆う涙で歪んで良く見えなくなる。胸が熱くて、言わなければならない言葉は沢山あったはずなのに、真香を前にするとたったひとことのその言葉ですら上手く紡ぐことが出来ない。
膝から崩れ落ちて、目の前の真香の足に腰に縋り付く。自分が愚かだったのだと、今ならはっきりと分かるから。全てを失ったはずなのに、沢山傷付けたのに、それでも自分を待っていてくれた存在のありがたみを斎はこの時初めて知った。
「おかえり」
真香は少し背中を丸めて、覆いかぶさるように斎の頭部を抱き締めて告げた。
一日の内で何度も泣きすぎたからか、頭に響く鈍痛から斎はダイニングのソファへ横になりぼんやりとキッチンに立つ真香の背中を眺めていた。
今朝このダイニングに降りてきたときにはまだ幸せの絶頂にいた。それは茅萱に騙されているなんて微塵も考えておらず、そればかりか寮からの外出を禁止されていた斎の為にわざわざ茅萱が深夜部屋まで訪問をしてくれたことで茅萱に対する愛情と信頼が最高潮に達していたからだった。
もしかしたらそうやって会いに来てくれたこそすらも、自分を安心させて連れ出し三睦に売り渡す為のただの策略だったのかではないかと考えると再び目頭が熱くなってくる。
茅萱の真意を直接知ることは叶わないが、あれから一度も会ってないどころか茅萱からの連絡がひとつもないことが一番の答えであるような気がした。
身の丈に合わないものを望んでしまった。やはり自分なんかには愛される価値などなく、茅萱に愛されていると思っていたことすら大きな勘違いであったのだ。
ただ初めから全てが嘘だったとしても、茅萱が与えてくれたひと時は斎にこれまでにない幸せを与えてくれた。
寮は、第五分室のメンバーはそれでも自分を仲間として見てくれて、帰る場所として自分を受け入れてくれている。セフレ関係を解消したからといって自分たちの関係が変わる訳ではないとあの時真香は言った。本当に何も変わらず、真香が今も自分を受け入れてくれている現実に感情の津波が再び込み上がってくる。
「真香……心配掛けて、ごめん……」
〝ありがとう〟、〝大好きだよ〟と今の自分が言っても滑稽にしかならなかったが、言いたかった言葉が今漸く言えた。
斎の言葉を受けた真香は、器に注いだ温かいスープを持ってキッチンからソファへ移動して斎の隣に座る。
ほっとする香りは真香の香りで、碌に食事をしていなかった斎はその芳しい家庭の香りに誘われスプーンを手に取り一匙掬う。
透き通った琥珀色のコンソメスープを口の中に入れた瞬間、胃が痙攣を起こしそれを押し返そうとする。内側から込み上がる不快感に斎は口元を手で覆ったままダイニングを飛び出し、一階の共有便所へと駆け込む。
各部屋にそれぞれ便所が備え付けられていることから、一階の共有便所を利用する者はほぼおらず、それ故に新品同様の清潔さを保っていた洋式便所の便座を上げ、引っくり返った胃が押し出した胃液を吐き出す。ただ透明で吐けるものなど何も無かったが、斎は透明で酸っぱいものを何度も吐き出した。
胃の圧迫感と響く頭痛が、あの瞬間の酩酊感を嫌でも想起させる。気付くと真香が斎の背中をゆっくりと撫でていた。
ただ情けなくて、虚しかった。
スープは後で温めてゆっくり食べるようにと真香は器にラップをかけ、それを持って斎の部屋に共に戻った。
斎はベッドに腰を下ろすとそのまま電池が切れたように倒れ込む。真香もベッドの縁に腰を下ろし茫然としている斎の頭をゆっくりと撫でる。碌に食べていなかったこととストレスで胃が驚いただけだと真香は慰めの言葉を掛けるが、フラッシュバックのように三睦にされたあの時のことを思い出してしまったことの方がショックだった。
三睦にされたことを真香に言える訳がなく、言われたところで真香が困るだけであることは分かりきっていた。全身を襲う倦怠感は茅萱とセックスをした直後は毎回そうで、三睦にされた注射のことも併せて考えると嫌な予感しかしなかった。
茅萱にラブドラッグだと言われ飲まされ続けていたものは、果たして本当にただの媚薬だったのだろうか。千景や綜真が何も言わなかったからこそ余計に怖い。
ベッドの上で横になり、自らの身を守るように両手を握り締め、小さくカタカタと震える斎に気付いた真香は、斎が握りしめるその手に自分を手を重ねる。そこから伝わってくる温もりと真香の優しさは、もう到底返せそうにもないものだと斎は感じていた。
「最初は、さ……俺が他の人んとこ行けば佐野さんが追ってきてくれるんじゃないかと、思ってた……」
「ん……」
斎がやけに千景に食ってかかる理由から真香はなんとなくそんな気がしていた。斎が千景に好意を持っているのは誰の目から見ても明らかだったが、それがいつからか不自然なほど斎と千景のお互いがその話題を避けるようになってきたのは、今から考えれば千景が今の恋人と付き合い始めたころからだった。
「……セックス、してないと俺、自分が必要とされてるかも分かんなくて」
少し前にも言ってその言葉が今はら更に強く真香の心へ突き刺さる。
「付き合っててもセックスしてねぇ見本が居るじゃん」
真香は斎がここまで弱いとは思っていなかった。自分がセフレを解消しても問題ないから斎も大丈夫と考えるのは大きな間違いだった。
詩緒との衝突もお互いに最悪な状況が重なってしまったからで、斎のことを考えるのならばもっと慎重にタイミングを見計らわなければならなかった。改めて自分の言葉の選択とタイミングを見誤ったことを真香は深く後悔していた。
「真香と、榊……佐野さんと同じ位、茅萱さんの事……大切だったと思う」
静まり返った寮の室内、斎が告げたそのひとことに真香の表情が凍り付いた。ぴくりと反応を示した真香のその指を斎は握り込み、瞼を落とす。斎の脳裏に浮かび上がるのは、最も消したい記憶。
誰かが側にいてくれることを実感しなければ、きっと心が壊れてしまうかもしれなかった。
千景のことを愛していた。でもそれと同じ位、この短期間は茅萱のことも愛していた。茅萱の愛が本物だと思っていたからこそ。安心して愛しても良い相手なのだと斎は信じていた。三睦のあのひとことを聞くまでは。
「……商品、って……言われたんだ……」
真香は片方の手で拳を強く握り締める。整えられた爪が掌に食い込んで小刻みに震える。それは真香が押し殺そうとしていた怒りそのものだった。
「俺、最初っからあの人に、騙されて、て」
改めて言葉にすると再びほろりと溢れ落ちる涙。千景を守りたかった、抱かれる側の感覚を知りたいだけだった。それなのに茅萱が優しくしてくれたから、茅萱の腕に縋ってしまった。
自分はまだひとりで何も判断の出来ない子供だった。愛されたいなんて願うこどすら身の丈にあっていなくて、やはり自分は千景や詩緒、真香のように特別な才能がある訳ではないから、愛されることを願うこと自体が自分にとってはまだ早すぎたのだ。
涙に濡れたシーツがひやりと斎の頬を冷やす。それでも今ここにある真香の手だけは決して離したくなくて、斎は祈るようにその手へ縋る。
ふわりと温かさが斎を包み込む。真香は片腕で斎を抱き寄せ、まるで母親のようにただ背中を撫でる。自分が犯した大きな過ちに、優しくされればされるほど後悔に押し潰されそうだった。
「……俺と榊が居るぞ」
もう身体の関係があったあの頃とは異なっていたが、それでも真香は優しく、斎は今になって初めて真香が口にしたあの言葉を心から理解できた気がした。
同じ時に同じ年齢で入社して、研修の後はそれぞれ別の部署に配属されたけれど、同期という響きそのものに絆のようなものを感じていた。
詩緒が配属先で上司の山城からパワハラの恫喝にあっていると聞いても、最初の頃は気にも留めなかった。それでもある日ある瞬間に過呼吸を起こした詩緒を助け出して、あの人の来ない最上階の男子便所まで連れて行ったのは――斎にとって詩緒が友人として掛替えのない存在だった。
詩緒とセフレ関係になったのはその少し後のことだったが、少なくとも詩緒を助け出したあの瞬間は身体の関係など皆無で、純粋に友人として心配した詩緒を助けたかった。
真香は眠りに落ちるまでぽつりぽつりと呟く斎の話を聞き続けた。
瞼に突き刺さる日差しで朝を迎えたと分かった。たった一日で斎は天国から地獄ともいう落差を経験し、半分開けたままだったカーテンから覗く青空に苦々しく目を細める。
いつの間に寝てしまったのだろうと昨晩の記憶を手繰り寄せようとする斎だったが、帰宅してからはずっと真香がこの部屋で自分を慰めていてくれたことを断片的に思い出す。その真香はと思い周囲を見るも、ベッドには自分ひとりの痕跡しか無く真香の姿は部屋のどこにも無かった。
まさかまた真香に嫌われてしまったのではないかという不安に襲われる斎だったが、最早セフレではない関係性故にそもそも同じベッドで目覚めることこそが特異だったのだと逸る気持ちを落ち着かせようとする。
もう真香の気持ちを無駄にもしたくない。再び自分が不安定に陥り真香へ迷惑を掛けるようなことになってしまえば、今度こそ匙を投げられてしまう可能性だってあり得る。
ベッドから立ち上がり、開け掛けだったカーテンを完全に開けて、その陽の光を全身に浴びてから深呼吸をするように背筋を伸ばす。弱い自分とは昨晩さよならをした。自分のしでかしたことは決して消えることのない事実で、傷付けた相手が真香のように許して受け入れてくれるとは限らない。
だけれど大切だと思うからこそ、許されなくても誠心誠意の謝罪をしたい、そんな気持ちがあった。だからこそ斎は自分の中でひとつだけけじめを付けなければならないことがあった。洗面台の冷水で顔を洗い、気合を入れる。
昨日一日着続けていた服を新しいセットアップに着替え、顔を洗い気合を入れ直してからダイニングへと降りる。階段を降りている時点で漂ってくるバターの香ばしい香りに斎は小さな日常の幸せを感じる。
ダイニングの扉を開けると食後のココアを飲む真香の姿があった。扉が開く音に気付いた真香は顔を上げ、斎へ視線を向けるとこれまでと変わらぬ笑みを浮かべる。その笑顔にほっと安堵した斎は椅子を引いて定常化していた自身の席に座る。隣は詩緒の席で、既に朝食を終えているのかカップの底の形と同じ円状の水が残っていた。
真香は椅子の背凭れに掛けてあったエプロンを取り腰に巻きながら一度キッチンへと向かう。綜真の姿は相変わらず無かったが、元々綜真は朝が遅く朝食を共にしないことも多くあり特に気に留めはしなかった。
斎は真香から飲み物の入ったカップを受け取る。普段ならばそれはコーヒーであることが多かったが、昨晩斎が嘔吐したことを考え、常備してあったハーブティーを特別に用意した。ハーブの良い香りが心地よく斎の気持ちを落ち着かせた。
両手で持ったそのカップの中身を吐息で冷ましてほんの一口を含んで喉の奥へと流し込む。不思議と吐き気は起こらず、斎が表情を和らげたのを見た真香は同様に安心して息を吐く。無理をせず一口ずつ飲んでいき、やがてその温かさが身体の芯まで染み入っていくのが分かった。
それでもまだ固形物を食べるのは難しいかもしれないと考えた真香は斎が起きる前から仕込んでいたリゾットを浅い皿に少量盛り付け、米の溶け具合を確認してから斎の前へ置く。彩りとして上に乗せられたパセリがとても鮮やかだった。
エプロンを外した真香はそれを背凭れに掛け、斎が食べ終わるまでは此処にいようと椅子を引いて座ろうとし、斎はスプーンを固く握り締めたまま座ろうとしていた真香へ視線を送る。
「俺さ、今日もう一度茅萱さんと話してみようと思う」
椅子を引く真香の手が斎のひとことで止まる。真香には微かに動揺の色が伺えたものの、斜め下を向いて少し考えた後口を開く。
「……やめとけば? もう、関わんないほうがいいと思う」
何故あんなにも酷い扱いをした茅萱に会いたいと考えることが出来るのか、斎の考えは真香には分からなかった。真香は椅子に座った後でココアの中身をスプーンで無造作に掻き回す。その間斎の目を見ようとはしなかった。
「もしかしたらさ、あの人も……誰かに脅されてやらされてるだけかもしれないし」
もしかしたら、という可能性がまだ拭えない。そう思えたのは一岐の登場と茅萱の慌てぶり、そしてラウンジで三睦と話している時の茅萱の焦り方。
あれから茅萱からの連絡が来ていないのは事実だったが、茅萱にも何か事情があるのではないかと考える余地がある限り、斎はその真実を茅萱自身の口から聞きたいと強く願わずにはいられなかった。
真香はスプーンをカップの端に叩き付け、ダイニングに硬質の音が響く。
「もしそうだったら斎はどうすんの?」
真香がそう尋ねると、一瞬斎が泣きそうな表情を浮かべたように見えた。自分を騙した相手にもまだ事情があったかもしれないと考えることすら愚かしい考えで、真香には再度茅萱に事実を突き付けられ泣き寝入る斎の姿しか想像が出来なかった。
しかし斎が茅萱に心酔していたのは事実なので、そんな斎に対して頭ごなしに否定は出来ないと真香は慌てて言葉に潜んだ怒気を飲み込む。
「俺に出来る事があるなら、力になりたい。……と、思う」
斎はまるで怒られた子供のようにしゅんと眉を落とし、音も立てず静かにハーブティーを啜る。
幾ら斎が物語のような逆転劇を望んでいたとしても、現実は物語のように上手くいくわけではないということを真香は知っていた。
それでも、これが斎の新たな一歩を踏み出す為に必要なけじめなのだとするならば、真香は友人として斎の決断を応援することしか出来なかった。
もし現実がこれ以上斎を傷付ける結果になったとしても、今度は迷わずに戻ってこられるように真香は斎の帰る場所でありたいと願った。
もう自由に寮を出入り出来る状況となっていたが、特に本棟での打ち合わせの予定がある訳でもなく、自分の部屋で仕事を片付けながら時折デスクに置いたスマートフォンの液晶画面を見て考え込む。
今日の仕事を開始する前の朝のミーティングでは千景の様子は普段と何ら変わらない様子に見えた。昨晩顔色が悪く見えたのは気の所為だったのか、あの後でラウンジへ戻っていたように見えたが、何があったのか、気になる点は次々と湧いてくる。しかし今の斎には愚鈍にも昨晩のことを尋ねる勇気はまだ出なかった。
千景は中途入社した直後から四條に目を掛けられていたし信頼も厚い。入社当時は人を寄せ付けない壁があったが、ここ数年でその壁もなくなり、何よりもパワハラで悪名高い山城に対して面と向かって抗議をした唯一の存在である千景は今や社内で英雄のような扱いでもあった。
その千景が忠告した茅萱に関わるなという言葉はやはり初めから茅萱の行いを知っていたからに他ならない。だからこそ千景は茅萱の誘いに乗るような素振りが一切なく、あの時点で自分が割り込んで千景を助け出さなくとも実際は何の問題も無かったのではないだろうか。そう考えると途端に顔全体が火のように熱くなった。
勝手に乗り込んで勝手に掻き回して喚き散らして迷惑を掛けて――それでも、千景は自分を助けてくれた。その千景に対して自分は気を引きたかったなどとなんと幼稚な物言いを繰り返していたのだろう。灰皿で殴られても仕方のないことを自分は千景に対して行っていたのだった。
灰皿で殴られそうになる前も頬を叩かれた。あの時も千景は冷静になれない自分の目を覚まさせる為に頬を叩いた。あの日千景がプレイングマネージャーに就任した当日、千景が部屋に現れたのはもしかしたら真香から自分が部屋に引きこもっているということを聞いたからかもしれない。心配して様子を見に来てくれた千景に対して自分は一体何をしたのか。
ずっと自分のことを考えてくれていた千景に対する申し訳無さと共に死にたいほどの罪悪感が襲う。しかし同時に自分を撫でる優しい手を思い出した。それは紛れもなく茅萱の手だった。
呼び出された資料室でセックスをした後、喫煙所へ入る前に突然撫でられた頭。一緒にどこかへ逃げたいと告げた時に見せた物憂げな表情。本当に全てが自分を騙す為の演技だったのか、斎は記憶の端々に残る茅萱の言動を思い出そうと頭を働かせる。
決定的に物事がおかしな状況へ転んだのはやはり一岐の登場からだった。一岐と茅萱のおかしな距離感、一岐の誘いに乗らざるを得なかった茅萱。ラウンジに入ってから茅萱が一度も視線を向けなかったのには何か別の理由があるのではないか。
やはり一岐と三睦に脅されて無理やりやらされているのかという疑問が斎の中に沸き起こる。
だとすれば茅萱は自分を三睦に渡せばどうなるか当然知っているはずだ。それを知っていた上で三睦に引き渡したのだとしたら――フラッシュバックしたように胃が痙攣を起こした。
斎は口元を抑えて自部屋の便所へ駆け込む。喉を込み上がる米粒の不快なぶつぶつとした感触。真香が折角作ってくれたリゾットで便器の中が埋め尽くされる絶望。
「茅萱さんっ……」
斎は再びぼろぼろと涙を流す。何か理由があるのならば言って欲しかった。茅萱が言うのならばきっとどんな言い訳だって信じた。
茅萱が自分に触れる手は優しかった。この部屋から明け方に帰る時、初めて素の表情が見られたようで嬉しかった。
だからせめて茅萱自身の口で否定をして欲しい。あれは茅萱自身の意志では無かったと。三睦に脅されて仕方なく引き渡しただけだと嘘でもいいから安心をさせて欲しい。
まだ茅萱の愛を疑いきれない自分が居たことに斎は気付いた。
真香にはまた呆れられるかもしれない。真香が茅萱に反感を持っているのは今朝のやり取りで何となく察していた。だから真香は自分が茅萱へ会いに行くと告げた時に良い顔をしなかった。
水を流して、洗面所でうがいをしてから再び冷水で顔を洗う。真冬に何度冷たい水で顔を洗っても冷めない熱は、まだ斎の中で完全に鎮火しきれていない疑問があるからだった。
鏡の中の自分を見つめて、再度冷水を叩き付けるようにして両手で自らの顔を叩いて気合いを入れ直す。
作業部屋に戻って椅子に深く座る。ちらりとスマートフォンの液晶画面を見ても通知は何も無く、ただの文鎮のようにそこにあるだけのものと化していた。
出すものが何も無くなるまで口から二酸化炭素を吐き出す。そして肺に入り切らなくなるまで沢山の酸素を吸い込み、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。
もう現実から目を背けたくない。ここで逃げたら二度と茅萱とは会えないかもしれない。何故だかそんな気がしていた。
目を閉じて真っ暗な視界の中気持ちが落ち着くまで深呼吸を繰り返す。ゆっくりと目を開けてからスマートフォンを手に取り、茅萱とのトーク画面を開く。最後のやり取りは昨日茅萱と合流する直前までのもので、茅萱から送られてきたスタンプが今は何故かとても悲しい気持ちになる。
震える指先で一文字ずつ正確に文字を入力していく。たった四文字〝会いたい〟と。送信ボタンを押そうとする指が震える。もし送ったところで一生既読の文字が付かなかった場合にはどうしたら良いのだろう。既読になっても返事が無かったらどうしよう。会いたくないと返されたら――嫌な考えだけがぐるぐると巡る。昨日はあんなに幸せだったのに。今はこのボタンひとつ押すだけでもとても怖い。斎は祈りを込めてその送信ボタンを押して四文字の言葉を茅萱へと届けた。
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