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八章

 斎が頭に思い浮かべた様々な不安と最悪の可能性を全て飛び越え、斎は茅萱からの返信である場所に呼び出された。もう返事なんて来ないかと考えていた斎にとっては青天の霹靂のような連絡で、茅萱からの時間指定があり仕事終わりの夕方に寮の外で落ち合うこととなった。  もう寮を出ることを咎められる身分では無かったが、茅萱へ会いに行くといえば難色を示す者はいるうだろう。真香は斎が茅萱に会おうとしている決意を知っていたので、真香にだけ状況を伝えて斎が上着を羽織って寮を出る。  斎が到着した場所はあの日初めて茅萱に呼び出されてセックスをしたシティホテルで、ふたりの関係が始まったこの場所に立つとそれがもう大昔のような気がして懐かしさすらを覚えた。  初めて茅萱に呼び出されたあの日はまだ自分が抱かれるということに踏ん切りがついておらず躊躇いもあったが、もう逃げないことを決めた斎は胸元で拳を握り決意を固める。  あの時と同じ部屋の前で立ち止まり、茅萱に聞きたいこと、聞かなければならないことを改めて反芻しつつノックをしようと片手を上げる。  すると斎が部屋の扉をノックするより早く内側から扉が開かれ、スーツの首元を寛げた姿の茅萱が現れる。 「怖気付いて来ないかと思った」  そう告げる茅萱は微かに笑っていた。最初の時と同じ台詞の何もかもに恣意的な思惑を感じ躊躇いを隠せなかった。 「茅萱さ――」 「入れよ」  斎が伸ばした腕を躱し、茅萱は室内へ入るように斎を促す。  まるでこの空間だけあの時に時間が巻き戻ったようにも感じられた。同じホテルの同じ部屋、同じ言葉で招き入れた茅萱の真意はどこにあるのか、部屋へと入り扉を閉めた斎だったがベッドに腰を下ろす茅萱の姿をただ目線で追う。  違うことがあるといえば、あの日はガラステーブルの上にシャンパンとふたつのグラスが無いくらいだった。ネクタイを外しながら立ったままの斎を見上げる茅萱はどこかその表情に憂いを帯びているようにも見える。 「座んねぇの?」 「茅萱さん、昨日のことだけど……」  斎の言葉でネクタイを外す茅萱の手がぴくりと揺れる。その反応は吉か凶か、会いたいと願った斎の言葉に応じた時点で茅萱は昨日のことに関して隠し立てをする気はないことが分かる。  斎は足を進めてベッドへ腰を下ろした茅萱の前に立つ。何故あの後一度も茅萱から連絡をしてくれなかったのか、何故あの時茅萱は姿を消してしまったのか、聞きたいことは次から次へと湧いてくる。しかし斎が最も聞きたいことはひとつだけだった。 「三睦、さんが言ってた……あんなこと、嘘だよね?」 「あんなことって?」  茅萱は動揺の素振りもなくじっと斎を見上げる。大きな瞳と長い睫毛は相変わらずの美しい造形だったが、普段と何か違うと斎はこの部屋に入った時から感じていた。 「だから俺が……茅萱さんに騙されて売られたっていう……」  その言葉をただ茅萱自身の口で否定をして欲しくて仕方がなかった。嘘でもいい、否定してくれればそれを信じることは出来た。 「それについてなら嘘でもなんでもねえよ?」 「ッ!」  全身の血液が一気に沸騰して一瞬で急降下した感覚があった。腰から下に力が入らなくなり、茅萱の目の前で両膝を付く。 「三睦と一岐は金のある有力者に都合のいい商品をアテンドして見返りを貰ってる」  茅萱は前屈みに手を伸ばし、斎が胸ポケットに入れていた煙草とライターを取り出すと、その一本を口に咥えて火を付ける。今まで一度も茅萱の喫煙姿を見たことの無かった斎はただ茫然と茅萱の仕草を眺める。  茅萱の吐き出した紫煙が室内に拡がり、徐々にその姿を霧散させる。 「俺は奴らに使えそうな商品を提供するデベロッパーってとこ」  |開発者《デベロッパー》、その単語が斎へ強く突き刺さる。  まるで悪夢でも見ているかのような感覚。今目の前にいるのは本当に自分の知る茅萱なのか、あの優しい笑顔で触れてくれた茅萱と本当に同一人物なのか。  茅萱のような天から恵まれた美貌を持つ存在はふたりと居ない。しかし今斎の目の前に居る茅萱は天使というよりはまるで――。 「お、れは……」  斎の頭の中では目の前の現実と記憶の中の茅萱との間に乖離が生じ始めていた。茅萱に肯定されてしまい、斎が最後まで願っていた望みの綱が目の前で断ち切られる。  しかし初めから本当に斎を騙す為だけにわざわざセキュリティの厳しい寮に忍び込んだという事実には疑問が残った。そして時折茅萱が見せた優しい顔だけは嘘だと思いたくない。 「信じないよ、だって茅萱さんはっ」 「最初はさぁ、佐野のこと堕とすつもりだったんだよ」 「――は?」  言葉を遮った茅萱の一言に斎は己の耳を疑う。 「お前も薄々気付いてたんじゃねーの? |佐野《アイツ》が相当場馴れしてるヤリマンだっつうこと」  茅萱の言葉は的を射ており、それを否定できる言葉を斎は持っていなかった。  元々誘ってきたのは千景の方からであり、余程の経験や慣れが無ければ自ら率先して同性に対して身体の関係を誘うことなど出来ないだろう。  茅萱は半分以上残っていた煙草をアルミ製の灰皿へ押し付ける。 「そこにお前が割り込んできたから、佐野の代わりにお前を〝使う〟ことにした」  茅萱は煙草の煙を斎の顔に吹き掛ける。五感全てが失われたような感覚のまま、斎は茅萱の顔を凝視する。 「あ頭撫でてくれたじゃん」 「丁度撫でやすいとこにお前の頭があったんだよ」 「わざわざっ、寮まで来てくれたじゃん!」 「そうすれば、お前が俺のこと信じて誘き出しやすいと思ってな」  斎がそれでも茅萱を信じたいと思う気持ちを茅萱は容赦なく叩き潰す。何もかもを自分を騙す為の策略であり、その状況を作り出したのも間違いなく自分だった。  茅萱はベッドから降り、屈み込んで茫然自失状態の斎と視線を合わせる。  斎が何度も見てきた――のような笑顔を浮かべ、両手を伸ばして斎の頬を包み込む。その手は残酷なまでに冷たかった。  感情が壊れたように涙がただ零れる。茅萱を信じたいから会いたいと願った。三睦や一岐に脅されて仕方なくやったことだと全てを否定して安心させて欲しかった。あの日最上階の男子便所で、このホテルの名刺を渡したあの瞬間から、茅萱は三睦へ引き渡すための策略が始まっていたのだと、そんな現実を認められる訳がなかった。 「俺のこと、愛してるって」 「一言も言ってねぇだろ?」  ――そう、茅萱は今までひとことたりとも斎に〝愛している〟と伝えたことは無かった。  大粒の涙が斎の頬を伝い流れ落ちる。  茅萱は顔を近づけてその涙の軌跡を下から上へと舐め上げ、そして最後に斎を奈落の底へと突き落とす言葉を告げた。 「最後に抱いてやっから、それでもう俺には関わんな」 「ま、待って!」  今までのようにこのまま茅萱に流される訳にはいかなかった。壁際に追い詰められ、下肢へと伸ばされる茅萱の腕を斎は掴んで止める。  無駄な足掻きかもしれなかったが、抱かれて茅萱との関係性を含めてこれまでのことが全て終わってしまうのならば、抱かれなくても良いから納得の行く解決策を見付けたい。もしかしたらまだ茅萱は隠しているだけなのかもしれない、脅されていることを明かせないほど三睦たちが脅威なのかもしれない。 「ほんとのこと、言ってよ……」  否定されても、茅萱を愛していた時間を無駄にしたくなかった。嫌われてもいい、怒らせてでも茅萱の本当の気持ちが知りたい。  茅萱は斎に掴まれた腕へと視線を落としていたが、不意に顔を上げるとそのまま斎へと口付ける。その時に斎は何か別のものを口の中へと押し込まれたような気がした。それはさくらんぼのように甘い味がする〝何か〟だった。  じわりと腔内で溶けていくそれは、初めの時と同じでただのキスでも茅萱に掻き回されるだけで脳を直接掴まれているように痺れた。茅萱の腕を掴む手が痙攣によってびくつく、壁に背中を預けて座り込んでいることも出来ず、溶けるように床へと滑り落ちていく。  半透明の糸を紡ぎ茅萱の唇が離れると、茅萱の顔が普段よりも大分幼く見えた。斎は最初の時に茅萱がラブドラッグだといって飲ませたもののことを思い出す。 「……ねえ、俺に飲ませてたクスリ、なに……?」  白磁のさまに透明感のある肌は、僅かに上気しほんのりと桃色を帯び、黒目がちな瞳は揺れて普段よりも大きく見える。茅萱は微笑み、しかし少し悲しむように眉を落として複雑な表情を向けて斎の頬を撫でる。 「初めっから、全部ほんとのことだよ」  縋るように伸ばした両腕で茅萱を抱き締める。まるで先程までの茅萱とは別人のように、その表情が斎の中で強く印象に残り、ただ強く抱き締めた。  もう駄目だと分かっていた。全身が熱くて、頭も上手く働かない。きっと茅萱が媚薬だと言って飲ませていたものはラブドラッグなんて簡単なものではない。三睦の言葉や注射のことを考えれば簡単に点と点は繋がってしまう。だから、それだけはしたくなかった本当は。 「いやだよ……俺は茅萱さんと離れたくない」  見苦しくてもいい、それでも今この腕を離してしまえば茅萱とは一生会えなくなってしまう気がした。そこに一切感情が無かったなんて信じたくない、縋ってでも茅萱の情に訴えて最後という言葉を撤回して欲しかった。  強く茅萱のシャツを握り締める。滑る材質のそれを爪を立ててでも握り込んで、絶対に離したく相手であることを分かって欲しかった。  茅萱の手が縋る斎の背中を撫でる。その手は優しく、ぽんと頭を撫でられると斎の心は躍るように跳ねた。そして、後頭部の髪を強く掴まれて引き剥がされる。 「誰がお前に口答え許した? 駄犬はワンっつってご主人さまに服従してりゃいいんだよ」  涙を堪えようとした斎の表情が歪む。  信じたいと繰り返し告げれば頬を打たれ、その口に白いハンカチを押し込まれる。それがただ苦しく、低いうめき声を上げながら訴えるように視線を向けると、茅萱はその形のよい眉を歪ませる。舌打ちのようなものが聞こえたかと思うと、茅萱は外した自らのネクタイを両手に持ち、目隠しをして斎の頭部で結びつける。  腕力で訴えれば確実に勝てる相手であるのに、茅萱の腕に触れた手がそれ以上の力を出せず、茅萱によって強引にズボンと下着を剥ぎ取られることを防げなかった。  何も見えない暗闇の中、確かに目の前に茅萱がいるはずだったがそれすらも核心が持てなくなるほど心細くなってくる。それでも肌に触れる感覚だけは鋭敏となり、両足を左右に大きく開かされたことが分かるとそこにあるであろう茅萱の腕を掴んで首を左右に降る。  こんなことはお互い望んでいないことであると斎はまだ信じたかった。  気付くと首が横を向いていて、ワンテンポ遅れて再び茅萱に頬を叩かれたことが分かった。まるで物扱いのように頬を打たれ、痛さよりもショックが大きかった。それは非常階段で千景に頬を叩かれた時に似ていた。その人の為を思ってやったことに対して与えられる痛みは、自分が正しくなかったことを嫌でも知らしめる。  ねじ込まれた指は間違いなく茅萱のもので、細く小さくてそして子供のように柔らかいその指は具合を窺うようなことはなく初めから斎の一点を狙っていた。爪の先で弾くように触れられ跳ね上がった腰と共にはたはたと飛ぶ粘性の水音。  こんな気持の伴わないセックスなどただ悲しいだけで、気持ちが良いはずはないのに一度精を吐き出しても内部に燻る熱は再び硬度を増し、波のように斎を絶頂へと誘う。  溺れてしまうのが一番楽であることを斎はもう分かっていた。それでも今ここで溺れてしまうことは茅萱の言葉を全て受け入れることになってしまう。  抗いたいのに、指の代わりに押し込まれたそれが一気に斎を脳天まで突き上げる。  茅萱が今どんな顔をして自分を見ているのか、斎はそれを知りたいと思いながらも何度目かの絶頂の後そのまま意識を失った。  ぼんやりと浮かぶ視界の中、何度か瞬きを繰り返す。徐々に意識がはっきりしてきても起き上がる気力は無かった。視界はいつの間にか開けていて、そこがホテルの一室であることを認識する。  最後に確認した時点では床の上に滑り落ちて、そのまま茅萱に床で犯されたはずだった。しかし今自分の背中の下にあるのはパリッとした糊の貼られた清潔なシーツの上で柔らかいスプリングが自分の身体を包みこんでいる感覚があった。  そのままぼんやりと天井を見つめ続けていた斎はどこからが夢だったのかを思い出せず、記憶を辿り寄せ始める。茅萱に呼び出されてこのホテルにやってきた。てっきりラブホテルだと考えていたら高級なシティホテルでまずそのグレードに驚いた。指定された部屋に訪れたら茅萱が扉を開けて迎え入れてくれた。それから――。  無意識に舌先が上唇に触れ、さくらんぼのような甘い味がした。そう、茅萱とのキスはいつもさくらんぼの味がした。 「……茅萱、……さん?」  斎は反射的に茅萱の名前を呼ぶ。腰を中心にして軋むように痛んだが、ベッドから身を起こすと斎は自分が服を着ていないことに気付く。ただ汗などのべたつき感は一切無く、咄嗟に布団を捲ると下着も穿いてはいなかったが、後始末などは全てされた状態でそれはまるで風呂上がりのようだった。  幾ら記憶を辿ろうとしても、斎は自分がベッドに上がった記憶がない。また不自然に記憶が途切れていて、茅萱とセックスをした直後は殆どがそうだった。  然程広い訳ではない室内を見渡しても茅萱どころか人の気配すらない。ベッドから飛び出し床に足を付くと腰に激痛が走り斎は苦悶の表情を浮かべる。それでも何とか痛みを押してバスルームやトイレを確認するが、やはり茅萱の姿は室内のどこにも無かった。  全裸のまま部屋に戻った斎はガラステーブルの上に一万円札が無造作に数枚置かれていることに気付く。しかし紙幣以外には何も無く、斎に残すメモのようなものすら何も無かった。恐らくその紙幣の枚数はこのホテル一室の宿泊料金に対しては多過ぎて、何度も利用しているであろう茅萱が金額を間違えて置いていくとも思えなかった。残された金額のその意味を受け取った斎は胸が熱くなり、再び涙が込み上がりそうになった。 「っ……」  カウチの上には畳まれた斎の服があり、その一番上に置かれていたスマートフォンへ斎は手を伸ばす。真香からのトークや着信が何件か来ているようだったが、今はそれをゆっくりと確認している余裕すら無く、斎は震える指で茅萱とのチャットのトークルームを探す。  最後の会話は茅萱から送られてきたこの場所と時間で、それに対する斎の返信だった。最後の斎の返信に対しては既読の文字が付いており、斎は動揺を抑えながらも間違えた場所を押さないよう慎重に選択をして茅萱に対して発信をする。  耳元で無情に鳴り続けるコール音。滅多に茅萱と通話をすることは無かったが、居なくなった茅萱とを繋ぐ接点はもうこれしか残されていなかった。耳元で鳴り響くコール音に呼応して斎の鼓動も高鳴り始める。しかし暫くすると茅萱が応答することなく斎からの発信は途切れる。  これはきっと何かの間違いだと考えた斎は再度茅萱への発信を試みるが、同様にコール音が鳴り響くだけで自動的に切れる。気付いた時にはトークルームは斎からの不在発信のみで埋まっていた。  その無情な液晶画面にぼたりと、そしてぼとぼとと続けて斎の涙が落ちる。 「ふっ、ぐ……うぇ……」  拭っても次から次へと零れる涙はもう斎の意志では止めることの出来ないものだった。  茅萱の見せる表情の端々が、今でも斎にとっては愛おしい。初めて会議室で遭遇した時のあの驚いたような顔も、突然脅すようにこのホテルへ来るよう迫ったあの男子便所での小悪魔のような顔も、何気なく頭を撫でて笑う天使のような笑顔も。全てが大好きだった。  茅萱との関係が周りから祝福されないのだとしたら、今の環境を全て捨てても良いと考えられるほどに茅萱との毎日が自分にとっては必要だった。  騙されていたのだとしても構わない。茅萱がそういった仕事を好き好んでやっているのならば、自分に出来ることがあるのなら協力もする。もし三睦に抱かれろと言うのならば、茅萱が望むのならばそれだって出来たと思う。  だから信じて本当のことを打ち明けて欲しかった。自分はずっとひとりだったから、分室の中でひとりだけ浮いた存在だったから、ひとりじゃないことを実感させてくれた茅萱の為だったらきっと何だって出来た。  その覚悟で今日この場所へ来た。文字よりは言葉の方が茅萱に伝わると考えたから。だから茅萱がこのホテルの場所を伝えてきた時は本当に嬉しかった。  言いたいことの半分も茅萱に伝えられなかった。茅萱の本当を知りたかった。茅萱が自分を受け入れてくれたように、自分も茅萱の全てを受け入れたかった。  斎はこの日この瞬間、茅萱から捨てられたことを自覚した。  兎のように目を真っ赤に腫らしたまま、斎はホテルのフロントで精算を済ませてホテルを出る。  冬の夕方はあっという間にオレンジ色から暗色へと変わってしまうので、今この瞬間に見える綺麗なオレンジ色の夕焼けが瞼を焼き付けるように痛くて、再び涙が浮かびそうになる。  もう引き返せない、全ては終わってしまった。自分では茅萱の側に居ることは叶わなかった。渋りながらも茅萱と話したいという斎の決意を応援してくれた真香の為にも、泣くことはもうここでやめにしようと斎は腕で涙を拭って一歩踏み出す。 「斎」  耳へと飛び込んできたその言葉に、斎は聞き間違いを疑った。繁華街に位置するシティホテル、当然人の行き来も多い。誰か別の人を呼ぶ声だったのかもしれないし、別の言葉がたまたまそう聞こえてしまった可能性もある。  だって、そんなことがあるはず無かった。  その人物は外に出ることを何よりも嫌い、家と職場の往復ですら面倒臭がり職場で寝泊まりをしていたような人間だ。寮制度が取り入れられてからはその引き篭もり気質を遺憾なく発揮し、外に出る必要が無くなったからと必要なものは全て通販などの宅配で済ませ、決して外に出ることをしなかった人物。そんな究極の引き篭もりである人物の声が聞こえた。  斎は錆び付いたロボットのようにゆっくりとその声が聞こえた背後を振り返る。  黒いロングコートに何重にも黒いマフラーを首元へ巻き付け、寒そうに両手をポケットへ押し込んだままの詩緒の姿が繁華街の一角であるその場にあった。 「さ、かき……」  起きてから仕事をして寝るまでを寮から一歩も出ずに済ませ、決して自分の意志で寮から出ようとしなかった詩緒のに斎は目を丸くする。  もしかしたらまだ自分は夢の続きを見ているのかもしれない、そんなことを考えふらつきながら詩緒へと近付く。繁華街という場所に全くそぐわない詩緒がそこに居るだけでも大変驚くべき光景ではあったが、近付いてみると鼻先が少しだけ赤くなっていた。この寒空の中何時間待っていたのかは分からなかったが、出不精に加え暑さ寒さを極端に嫌う詩緒が、この場所で待ち続けていたであろうという事実に斎は驚きを隠せなかった。  詩緒には酷い言葉を沢山言った。身体の関係に執着していたからこそ、恋人でありながら肉体関係のない詩緒と綜真に対して暴言を何度も放った。その間詩緒とはまともに会話をしていなかったが、今考えてみると随分と長くまともに会話をしていなかったような気もする。  その詩緒が今こうして茅萱に捨てられた自分を迎えに現れたという事実は、幾ら泣くのをもうやめようと決めたばかりの斎であっても込み上がる涙を抑えきることが出来ない。  詩緒の正面に立ち尽くし、片手で目元を抑えて必死に歯を食い縛る。これ以上詩緒に格好悪いところを見せたくはなかった。  斎の一挙手一投足を眺めていた詩緒だったが、立ち尽くした斎がその場で泣き出すとポケットに両手を入れたまま一歩ずつ斎へと歩み寄る。 「さかきぃ……」 「あんだよ」  斎は詩緒がポケットに突っ込んでいるコートの袖口を掴む。そんなことをせずとも詩緒が居なくなるわけでは無かったが、縋るように詩緒の存在を掴んでいたかった。吐きそうなほどの後悔に再び胃がひっくり返りそうだった。  詩緒と真香の存在が自分にとってどれほど重要であるのか、昨晩の時点で斎は十分理解したつもりだったが、この瞬間になって改めてその存在の大切さを斎は自覚した。  だからこそ後ででは無く、今この場で詩緒には伝えなければならなかった。 「この前……榊に俺の気持ちは分かんないなんて言って、ごめん……」  嗚咽混じりに斎が告げた謝罪を聞いた詩緒は少し考えるように黙り込む。 「別にいいよ。ほんとの事だし」  その言葉は斎にとって残酷なものだった。本当のことであるとしても、詩緒を大切な友人と考えるのならば幾ら責められていた状態であってもあの場で持ち出して良い内容では無かった。  斎は詩緒の言葉を受けて手を下ろす。 「違うっ、俺ほんとはあんな事言うつもり無くてっ……」  次の瞬間、斎は詩緒に抱き締められていた。繁華街の一角で百八十センチを越える男ふたりが抱擁する姿は異質であったが、オレンジ色の夕焼けが薄闇に変わりつつある中、その光景を気にする通行人は居なかった。  詩緒は黒い手袋をした手でぽふぽふと斎の背中を撫でる。斎は咄嗟に両腕で詩緒を抱き締め返していた。受け入れてくれる友人は真香だけではなく、詩緒が綜真を恋人として選んでも斎が大切な友人であることは揺るがず、斎は詩緒の腕の中で再び涙を溢して泣き出す。もう泣かないと決めたばかりの斎だったが、詩緒の優しさに子どものようにその場で泣きじゃくる。  詩緒は斎が泣き止むまでゆっくりと優しく自分より大きなその背中を撫で続ける。  セックスが出来なくても、友達というものはその存在だけが温かく、斎は迎えに来てくれたその詩緒の優しさにこれまでの自分の愚かしい行動を改めて反省した。

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