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終章
詩緒は斎が孤独を感じないように、寮まで手を繋いで帰った。それはすれ違う通行人から見れば異様に見えたかもしれなかったが、他人からどう見られようともそんなことは詩緒自身には何の関係も無かった。
それは例えば小学生の男子が喧嘩の後仲良く手を繋いで帰っているのと同じような感覚で、時折寒さからか鼻を啜る斎を横目に見ながら詩緒はただ静かに斎の横を歩いていた。
セキュリティカードを翳し寮へと入ればこれまでの外の寒さとは裏腹に、一階フロアに広がる暖房の暖かさがじんわりと冷えた身体に染み渡る。詩緒の眼鏡はじんわりと温度差で白みを増していき詩緒が眼鏡を一度外すのと同時にふたりは手を離す。
エントランスの明かりは無く節電のためか真っ暗だったが、その先に位置するダイニングからは暖かそうな明かりが漏れているのが分かった。
詩緒は普段通りのずぼらな気質から玄関にスニーカーを脱ぎ散らかして上がる。斎は自分の靴を脱ぐと玄関へと屈み込み詩緒が脱ぎ散らかしたスニーカーを揃えて整えるが、その時詩緒が履いていたスニーカーをどこかで見たことがあることに気付く。外へと出ない詩緒の詩緒のスニーカーを目にする機会など滅多になく、詩緒がずぼらなのは知っているが、横着をしたのか踵を踏み潰したような形跡があった。
詩緒はダイニングへと視線を向けていた。少しの間を空けてダイニングの扉が開くとそれと同時に真香が飛び出してくる。
「斎っ……」
真香は帰宅した斎と詩緒の様子を見て安堵の表情を浮かべる。そしてスリッパを脱ぎ捨てて駆け出すと玄関前に屈む斎へと飛び付き、咄嗟に両腕を出した斎は真香の身体を支える。
「無事に帰ってきてくれて良かったぁ」
「真香……」
真香の声は少し涙声になっていた。また斎が傷付くになってしまったらどうしようと真香は気が気ではなかった。自分を心配してくれる存在がこんなにも近くにいることを改めて実感した斎は、真香の背中へ両腕を回して抱き締める。
「榊とも、仲直り出来たんだな」
「うん……」
失ってはならない大切な存在は真香のみならず詩緒も同様で、本来ならば斎から謝罪に行かなければならなかったが、予期せぬ幸運に恵まれたことに対して斎は少し気恥ずかしそうな笑みを浮かべる。
小さな破裂音が聞こえ、斎と真香はお互いに顔を見合わせてからエントランスに立ち竦む詩緒へと視線を上げる。元々寒がりの詩緒は脱いだロングコートを片腕に持ったまま鼻を抑えて小さく数度肩を揺らしていた。
「さっみぃ」
「あーコーンスープ温めてやるから」
ある程度の空調が整えられている寮内とは異なり、真冬の夜は急激に冷え込むため寮を出た夕方頃にはまだ寒さを感じない状態であったとしても帰宅時には身体が芯から冷え切っている場合もある。
真香は斎に抱き着いていた状態から起き上がり、目元に浮かぶ涙を指先で拭ってからダイニングへと戻る。真香に続いて詩緒もダイニングへと足を向けるが、ダイニングへと入る直前で玄関前で座り込んだままの斎へと声を掛ける。
「斎も、早く」
「あ、うん……」
ダイニングから漏れる明かりに照らされた詩緒がぺろりと舌を出したような気がした。それは斎に対しての何らかの合図のようで、斎は手をつき立ち上がりながらその詩緒の行動の意味を考える。
そしてダイニングに入ろうとしたその瞬間、斎は詩緒の合図の意味に気付く。詩緒のくしゃみを切っ掛けとして真香は先んじてダイニングへ向かったが、それがなければ斎と真香はエントランスで抱き締めあったまま次の行動へ移ることが出来ないままだった。
「榊ぃぃいー!」
いわば詩緒のくしゃみこそがその場の空気を一度リセットするための助け舟であり、そのことに気付いた斎はダイニングへ入るなりソファに座る詩緒へと飛び込むようにして抱き着く。
「うおっ、あっぶね」
「榊ぃ、ありがとう。本当にありがとう……榊大好き」
「あーハイハイ」
二、三人は余裕で座れるそのソファの大半が斎と詩緒という大男ふたりに占拠され、詩緒は斎の頭をまるで大きな犬でも撫でているかのようによしよしと撫でる。
「仲直りした途端愛情表現過激だなー御嵩さんに殺されんぞ」
真香はキッチンでコンロの火にかけたコーンスープをかき混ぜながらふたりの様子を見て笑う。
「そういえば綜真は?」
ソファの上に仰向け状態で押し倒された詩緒は、長い前髪を掻き上げながらコンロに向かう真香へと視線を送る。霜が下りた眼鏡のレンズは既にその姿を元に戻しつつあったがそれはまだ詩緒の頭の上にあり、眼鏡もなく顔を隠す長い前髪を掻き上げた詩緒の顔は人形のように綺麗だと斎は改めて感じていた。
「メシ食う前に四條さんに呼び出されて本棟行ったからまあそろそろ帰って来るんじゃない?」
真香は温めたコーンスープをふたつのカップに入れてソファ前のテーブルへと置く。そして自分も入れろとばかりに斎と詩緒にスペースを空けさせると斎を真ん中に挟む形でソファに並んで腰を下ろす。
「こりゃ斎のクビ確定だな」
綜真が四條に呼び出されるのは今に始まったことでもなく、またその理由は本来の業務に関することばかりだとは限らない。ふたりは従兄弟同士であり何かと雑務を押付けるのに丁度良いからと四條は度々綜真を寮から本棟へと呼び付ける。
しかしこのタイミングで綜真が四條に呼び出されたということは斎の進退に関する可能性が高く、取引先へと送った見積書の金額ミスを含め綜真が年長者として管理不行き届きを責められている可能性もある。
詩緒の言葉にサッと斎の血の気が引き顔色が青くなる。
「ええっ、嘘ぉ!?」
「榊の冗談だって。騙されんなよ」
そんな冗談を言い合える関係性こそが、斎が望んでいた〝帰る場所〟だった。
ただなんとなく、部屋に戻る気もしなかったのでその場にいた。真香が温め直したコーンスープは甘くて、優しく身体の中へと溶け込んで行った。
同じ職場に同期として新卒入社したのが五年前。研修の後それぞれ配属先は異なったけれど斎が詩緒を助け、詩緒の頼みで真香を助け、四條が設立した第五分室に異動してからはもう三年が経過していた。
そこには長い時間を共に過ごした家族にも似た強い絆があり、その繋がりを失ってしまうことを斎は何より畏れていた。
「落ち着いた?」
「うん……」
真香や詩緒のように特別秀でた能力がある訳でもない。それでもふたりと一緒に居たかったから身の丈に合わない無理もしてきた。
まるで子供をあやすように真香に頭を撫でられ、斎は真香の側へと身を傾ける。
「俺らはさ、何も斎のこと見捨てた訳じゃないんだぜ……?」
「……俺は、さ」
詩緒は両脚の間にカップを挟むように持つ。深い青色のカップは詩緒のものであると分かる目印でもあった。斎は真香へ倒れ込むようにして身を傾けたまま視線を詩緒へと向ける。
「真香が俺と……アイツのこと考えてああいうこと言ってくれたの、……嬉しかったし」
手元のカップを見るように俯いたままの詩緒も一端の責任を感じていた。
それは入寮より少し前、入院した斎の代わりに四條が神戸支社から呼ばれた綜真と六年振りの再会を果たした時の話だった。
「ただ昔のことを乗り越えられなかったのは……俺自身の問題だった訳だし……」
詩緒と綜真は六年前の大学生の頃付き合っていた時期があったが、その時一度も身体の関係を持つことなく別れる道を選んだ。それは復縁をした今でも簡単に解決が出来る問題ではなく、斎はこの時初めて詩緒がずっと思い悩んでいたことを知り驚きの表情を浮かべる。
「榊はねぇ、勝手に御嵩さんと千景さんの関係疑って、勝手に病んでただけだから」
まるで斎を大きなぬいぐるみか何かのように抱き着く真香は斎越しに詩緒をからかう。斎の知らないところで詩緒と真香だけが知る一件もあり、真香からそれをバラされた詩緒はカップを持ったまま真香を振り返る。
「あっ、おいバラすなっ……」
「佐野さんと御嵩さん……?」
斎は千景が初めて寮へ現れた日にプレイングマネージャーとなった事実を聞かれたが、あの一件がありふたりの関係性を知る術が無かった。初めて千景と綜真のふたりが揃った場面に出くわしたのはラウンジからの救出時であり、あの時は斎も自分のことで手一杯だったが残る記憶を辿ってふたりのやり取りを思い出そうとする。
確かに千景は綜真に対して気心の知れているような節があり、千景が綜真を呼び出したということからもそれなりの信頼を置いていることは分かる。しかし過去に身体の関係があったような仲かと問われれば斎は首を捻らずにはいられなかった。
「あのふたりは……そういう関係じゃないと思うよ榊」
「……それはもう解決したことだからいいんだよもう」
詩緒は照れ臭さを隠すように片手でぐしゃぐしゃと頭を掻く。そして手を下ろすと冷静になった詩緒はゆっくりと斎へと視線を向ける。
「……千景先輩が、お前のことめちゃくちゃ心配してたの分かってんのか?」
「うん……」
千景が初めから茅萱に関わるなと斎に忠告をしてきたことは、もう何度も斎の心の中に蘇ってきていた。
「昔のことだとしてもセフレだったのバラした奴のことをよくここまで心配してくれたよね」
「ま、真香ぁ……」
「俺が千景先輩だったら完全に蹴り殺して見捨ててる」
「榊もぉ……」
ふたりの言葉に斎はおろおろと左右を見遣る。確かにそれはふたりの言う通りであり、隠し続けていた過去のセフレ関係をあんな形で暴露したのにも関わらず、茅萱との関係性を懸念して忠告をした上で助けにも現れてくれた千景に対しては感謝をしてもしきれない。
そんな千景に対して自分がどんなに酷い態度を取り続けてきたのかを斎は思い出す。それは詩緒に投げた言葉よりもずっと罪深く、善意を何度も踏み躙り続けたようなものだった。
一度治まったはずの涙がぽろりと斎の頬を伝う。その様子を見た真香と詩緒はぎょっとして斎を注視する。
「……俺、佐野さんに酷いことばっか言ったんだ」
真香とのセフレ関係解消にショックを受け、部屋に引き篭もり続けていた斎を心配して様子を見に来た千景を自棄になって襲い、それを拒まれたので皆の前で過去にセフレ関係だったことを暴露した。真香と詩緒を失う痛みに堪えきれず、繋がりを千景に求めてしまった。
「千景さんは、昨日だって助けてくれてたんだろ?」
それでも自分を助けに来てくれた千景に対して、とても酷い言葉を投げ掛けた気がするがその言葉が何であったのかすら斎は思い出せなかった。ガラスの灰皿で殴りかかろうとした時の千景がどんな顔をして自分を見ていたのか、それすらも分からなかった。室内の薄暗さが問題だった訳ではなく、斎は愛してほしいと求めながら千景のことを見てはいなかった。
幸いにも綜真が千景を止めたので大事には至らなかったが、千景が物理的手段に出るほど激昂した姿を初めて見た。千景に掛けた心痛は図り知れず、きっと多くの迷惑と心配を掛け続けたことを斎は自覚する。
「そうだよ、なのに俺……佐野さんが俺のこと、全然見てくれないからっ……」
千景は前職がブラック企業だったこともありストレスには耐性があるようだが、第五分室への異動とプレイングマネージャーへの就任、立て続けに斎が起こした事件はどれほど千景に負担をかけてしまったことだろう。
そして斎は思い出す。綜真と共にタクシーで寮へと戻る際、千景が誰かによってラウンジへと連れ戻されたことを。千景をラウンジへと引き戻したその腕は明らかに茅萱のものでは無かった。
「……千景先輩は、ずっとお前のこと心配してたじゃねぇか」
詩緒の言葉で斎は現実へと引き戻される。それが斎の求める形ではなかったとしても、千景はちゃんと斎のことも仲間のひとりとして気にかけていた。無言のまま斎は頷き、涙が一滴ズボンの上へと落ちる。
斎が千景に対する罪を自覚したのとほぼ同じ頃、四條からの追及を躱した綜真が漸く寮へと帰宅する。玄関に揃えられていたのは見覚えのある自分のスニーカーで、いつの間にか無くなっていたがダイニングに明かりが灯っていることに気付いてその意味を察する。
「――おう、お前らこんな時間に」
綜真はダイニングに顔を出すが、ソファに三人が並んで座り中央に位置する斎がぼろぼろと泣いている姿を見て少しだけぎょっとする。
「え、なに?」
「反省会ですー」
確かにこれまでの流れを理解していない第三者が初めて見れば驚く光景であり、真香は帰宅したばかりの綜真に対して挙手をして現状を伝える。
「ああ……」
この数日間のことを考えれば真香が説明した〝反省会〟という言葉は綜真に対して的を射た説明であり、自分が神戸から異動してくる前から長く仕事を共にしていた三人の間にある揺るぎない絆を見て安堵を覚える。
甲斐甲斐しく詩緒と真香に世話を焼かれる姿を見る限り、体格で見れば斎が最も高身長であったがやはり三人の中では末っ子の扱いをされていることを感じる。
「……明日、千景さんにちゃんと謝んないとな」
詩緒に渡されたティッシュで鼻をかむ斎は、真香に言われた言葉に対して頷く。
「許して……くれるかな。俺のしたこと……」
斎が何に対して畏れているのかを真香と詩緒は理解することが出来なかった。何故ならふたりは千景から頬を叩かれたこともなければ、ガラス製の灰皿で殴り掛られたことも無い。鋼のメンタルを持った尊敬すべき先輩という印象しか持っていなかったからだった。
しかしだからこそ斎のしたことを考えれば、表面上だけは斎を許す姿勢を見せることはあるかもしれない。これから改めて自分たちの上司となる千景に対して斎が不安を抱くのは仕方が無いことでもあった。詩緒はめそめそと眉を落とす斎へ凭れ掛かる。
「……もし、許して貰えなくても、俺らはずっとお前の側にいてやるよ」
「うぅ……榊ぃ……」
斎は決してひとりではなく、寄り添ってくれる友達の存在があることを斎は今になって再度実感する。
三人の話をダイニングの入口から黙って聞いているだけの綜真だったが、自分が知る千景の気性を頭の中で思い浮かべながら首を大きく捻る。
「アイツは、そんなに気にしてねぇと思うけどな」
それは千景が根に持つ性格ではないということを言いたいだけだったのだが、綜真の無神経なひとことで詩緒はぴくりと肩を揺らす。
「……は?」
これまでの和やかな雰囲気が一変し、途端に不機嫌そうな視線を綜真へと向ける詩緒。ただでさえ美しい顔をしている詩緒が不機嫌になるとその凄みが一層増す。
「御嵩さん榊の地雷踏んでる」
真香のひとことで綜真はしまったと気付き口を噤むが既に遅すぎた。
その日はいつもと何も変わらない朝だったが、ひとつだけいつもより大きく違うことがあった。
普段通り迎えた定刻に開始されるエントランスでのミーティング。千景への謝罪タイミングを狙っていた斎は申し送りの間ずっと落ち着きなくそわそわと身体を揺らしていた。
斎がこのミーティングの後を狙って千景へ謝罪しようとしていることを知っている真香、詩緒、綜真の三名は斎の落ち着きの無さに気付いてはいるものの、我関せずと視線すら向けないという状態を作り出していた。
そんな異様なエントランスの雰囲気は流石に千景でも不審に思うところがあり、その疑問を口に出すべきかと悩むが結局面倒になって何も見なかった体をとることにした。
「――本日も宜しくお願いします」
それらの不穏な空気感はビデオ通話越しの四條に伝わることはなく、年末に向けてのスケジュール調整の連絡を四條から受け始業開始の挨拶が終わると千景は大画面に映し出していた四條の画面をシャットダウンする。
何も見なかったことにして藪を突かないのが一番であると考えた千景は、急いで本棟に戻る必要もないことから一度ノートパソコンを閉じると胸元に手を入れる。
「じゃあ俺は午後にある会議までこっちにいるから、何かあったら直接声掛けてくれ」
ミーティングが終わり、まだ千景が寮に滞在することを知った斎は各々が散開し始める今が絶好のチャンスであると考え、意を決して千景に声を掛けて立ち上がる。
寮の屋上には形ばかりの喫煙所があり、雨天時は到底傘が無ければ利用が難しいものであるが、今日のように寒くとも晴天の広がる日中にはとても気持ちの良いものであった。入寮はしていなくとも第五分室のメンバーである千景には屋上の喫煙所を利用する権利があり、物味遊山がてら利用してみようと考える。
「あっあの佐野さんっ」
「あ、榊ちょっと」
「はい?」
栄養剤代わりの野菜ジュースにストローを挿した詩緒は千景に声を掛けられて視線を向ける。そして同時に斎から呼ばれたことに気付いた千景は斎へと視線を向ける。
「タイミング悪……」
天命としか表現のしようが無いタイミングの悪さに綜真が思わず小さな声で呟く。
「どうした? 海老原」
千景は一度胸元に入れていた手を下ろし、自分に対して何か用がありそうな雰囲気を醸し出す斎に言葉を返す。斎はそんな千景の様子を見て勘ではあったが何となく千景の気分がこれ以上ないまでに落ち込んでいることを察する。
「あ、俺は……お先にドウゾ」
斎は萎縮してしまい、これ以上自分の用件を千景に優先させたくないと考えて千景の用事を先に済ませようと手を出して促す。
斎の態度を気にする千景だったが、譲り合って時間を浪費するのはただの無駄であると考え、斎に言われた通り詩緒への用件を済まそうとして再び胸ポケットへ手を入れストローを噛んでいる詩緒へ向き直る。
千景が何かしらの用事を詩緒に頼んでいる間、千景の用事が済めば次は自分の番が来ると考えた斎はそれを意識することで心臓の鼓動が早くなってきているのを感じる。千景の気分が普段以上に落ち込んでいるのは自分が振り回し続けてしまったことで心労を重ねてしまったのではないかと思い悩む。
そんな不安な心情を察したのか、斎の背中が軽くぽんと叩かれる。
「大丈夫。緊張すんなって」
真香が小さな声で斎に告げて親指を立てる。どこまでも自分の応援をしてくれる友人の存在に斎の心がじわりと熱くなる。ここで泣いたら全てが台無しになると分かっていた斎は両手に拳を握り真香に対して数度頷いてそれを返す。
普段ならばミーティングの後はすぐに部屋に戻るか本棟へ向かってしまう綜真も、斎がつけるけじめの行く末を気にしているのか、わざとらしくその場でスマートフォンを開きさも重要な内容を確認しているかのように振る舞う。
「――分かりました。やっておきます」
「助かるわ。サンキュ」
千景が詩緒に何かを手渡しているのが見えた。千景がぽんと詩緒の腕を叩きふたりの会話が終わったことを理解すると途端に斎の緊張が高まる。
詩緒が千景から受け取ったそれは手の中に握り締められるほどに小さく、べこべこに凹んだ野菜ジュースの紙パックを口先で支えながら椅子から立ち上がり、一足早くひとりだけ部屋へ戻ろうと歩き出す。
そしていよいよ千景と対峙する出番になり不安と緊張から視線を足元へと落とす斎の前で詩緒は一度足を止める。すれ違い様自然に緊張する斎の胸元にそっと手を触れ、背後に立つ千景には聞こえないような小さな声で斎に囁く。
「大丈夫、いける」
まだ千景が許してくれるかも分からないのに、斎の心は温かい幸せの気持ちで満たされていた。真香や詩緒、そして綜真でさえも斎が千景に謝罪をするという決意を前向きに捉え、その一歩踏み出す勇気を応援しようとこの場に今も居続けている。
明らかにその光景が普段と異なることは千景にも見て取れ、彼らが何をしようとしているかは千景にも汲み取ることが出来る状況だった。
いつもと変わらない朝だった。だけどひとつだけ決定的に大きく違うものがあった。
「――それで、海老原の話は?」
詩緒との会話が終わり、千景は待たせてしまった斎へ声をかける。いざ自分の番となるとそれが来ると分かっていても斎はびくりと跳ね上がる。
第五分室に所属するメンバーの中で最高身長を誇る斎ではあったが臆病な性格も相成り、怯えるその姿はまるで大型犬のようだった。
気付けば朝のミーティングはもう終わっているのに部屋に戻った者は誰ひとり居らず、全員がこのエントランスに佇んでいた。
「あの……」
斎から発せられる緊張の度合いから用件の概要を察した千景は、無造作に並べられたスツールに腰を下ろし頬杖を付いて斎を見上げる。エントランスは重い静寂に包まれ、誰かの呼吸ひとつであっても大きく響いてしまいそうだった。
斎はごくりと生唾を飲み込み、真香、詩緒、綜真のくれた勇気に応えようと拳を握り締める。
「みんなの前で昔のこと……バラしちゃってすいませんでした!」
エントランスに響き渡るほどの声を張って斎は千景に頭を下げる。エントランスの大理石はそんな斎の言葉を静かに吸収し、一帯は再び静寂に呑み込まれる。
スマートフォンに視線を落とす振りをしていた綜真はちらりと千景に視線を送り、それから何事も無かったように瞼を伏せる。千景もその綜真の視線に気付き、恭しく息を吐き出すとその口をゆっくりと開く。
「……で?」
千景の冷たいひとことが無情に響く。千景に対して直角に頭を下げたままの斎はその張詰めた空気の中、自らの胸元を強く掴んで深呼吸する。千景に言わなければならない言葉は沢山ある。恐らく千景が望んでいるのは単なる謝罪の言葉ではなく、謝罪の上でこれから斎がどう行動していきたいかだった。
「沢山……俺のこと心配してくれたのに、俺、佐野さんに酷いことばっか言って……本当に、すみませんでした」
全身が心臓となってしまったかのように大きな鼓動が斎の耳に響く。殴られても構わない、千景にしでかしたことに対する謝罪はこんな言葉だけでは到底足りないことを斎は自覚していた。
千景は向けられた斎の頭部をじっと見つめ、それからエントランスに佇む詩緒、真香、綜真へ順に視線を向ける。斎が以前の斎とはもう違い、仲間たちに支えられている状態だということを理解するのに時間は要らなかった。少し考えるように視線を落とし、それから長い息を吐いた。
「……もういいよ。お前がそこまで気にすることじゃねぇ」
「佐野さんっ……!」
斎が顔を上げて千景を見た時、その瞳は涙で潤んでいた。まるで大型犬のようだと思いながらも千景はふっと笑みを浮かべて口元を緩ませる。
斎は自身の胸元をしっかりと掴んだまま直立して千景と向かい合う。その表情はまるで憑き物が落ちたかのように晴れやかで、こんなに吹っ切れた清々しい表情をする斎の顔を千景は久々に見た。
「俺、佐野さんのこと好きです」
斎の言葉が耳に飛び込んできた綜真は、その閉ざした瞼を再び上げて斎を見る。
「真香も、榊も。勿論御嵩さんや四條さんのことも好きです」
詩緒と真香は顔を見合わせ静かにアイコンタクトを取りつつも嬉しそうに笑みを浮かべ合う。
「あと、これからは……」
服を掴む斎の拳に必要以上の力が入る。
「俺は、俺自身も好きになれるようになります」
そう思えるようになっただけでも十分だと、斎の新たな決意を感じ取った綜真は安堵をしたように手にしていた見せかけだけのスマートフォンをズボンの尻ポケットへとしまう。
「いいんじゃねーの? お前は同じ間違いはしない奴だから」
もう斎には自分の力は必要が無く、周囲で支えてくれる大切な存在に気付くことの出来た斎はこれから自分のことも大切にしていくだろう、そう感じることが出来た千景は手を付いてスツールから立ち上がる。それとほぼ同時に駆け出した真香が千景へ抱き着くようにしてその腕の中へ飛び込む。それは安堵した真香によるちょっとした場の和ませ方でもあった。
「俺も千景さん大好きー!」
「ほ、本田ちょっと待て重っ……」
突然真香に抱き着かれその体重を支えきれない千景を見た詩緒はそっとふたりへと近付いていき、真香の更に上から千景へと抱き着く。
「俺も千景先輩、大好きなんで」
両膝はしっかりと床に付け、決して千景に体重という負担をかけないように配慮しながら詩緒は真香とふたりで作り出したこの光景にくすくすと笑う。
「はいはい、ありがとよ」
ふたりの悪ノリであることを理解しながら、これ以上この空間が重い雰囲気とならないように敢えて派手なパフォーマンスを示したこのふたりは本当に心から斎のことを考えているのだなと安心して詩緒の頭をぐしゃりと撫でる。真香だけならばまだしも詩緒すらもそれに便乗していることは斎の人徳に至るものであるということを千景はまだ暫く斎本人には黙っていようと考えた。
千景と詩緒の間に挟まれた真香はにやにやしながら自分は無関係というような表情をしていた綜真へ視線を送る。
「御嵩さんはぁ?」
突然真香に話題を降られた綜真は二階へ戻ろうとした足を止めてその団子状態を振り返る。
「え、俺?」
「え、いらねぇ」
綜真が答えるのとほぼ同時に千景は心底辟易した表情を浮かべて吐き捨てる。
「やめて傷付く」
エントランスには楽しそうな笑い声が響き渡る。
斎はこの当たり前のような日常を、改めて掛替えのない大切なものであると実感していた。
続
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