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#012 Vengeance
世界が割れるような音がして、次の瞬間早苗は扉前に倒れ込んでいた。
「げほっ……」
一度に大量の空気が喉の奥へ入り込み、早苗は思わず噎せ返る。ぼんやりと虚ろな視界のまま振り返ると西日が射し込む窓を背に赤い消火器を携え息を切らせた建巳とその場に崩れ落ちている観月の姿があった。
「早苗っ……大丈夫か……?」
肩を大きく上下させながら息を切らせる建巳の足元には窓ガラスの破片が散らばっており、足元は靴下一枚の状態であったが建巳はそんなことは一切気にせず、消火器をその場に落とすと倒れ込んだ観月へと歩み寄りその胸倉を掴み上げる。
「たけ、み、さっ……やめてぇ……」
見えてはいなかったが早苗には建巳が窓から侵入したままその消火器で観月を殴打したことは分かっていた。これ以上自分に関することで建巳に迷惑をかけたくないと強く願う早苗は建巳に視線を向けたまま左右に首を振る。
早苗からの決死の訴えに毒気を抜かれた建巳はそのまま手を放し、観月はそのまま割れたガラスの上へと倒れ込む。
建巳が一歩ずつ近付く度、限界まで張り詰めた早苗の緊張が解けていき、その双眸にはいっぱいの涙が溜まり始めていた。自分が殺されそうになっていた状況で平静でいられる訳がなく、建巳が両腕を差し出すと同時に早苗は飛びつくように建巳へ抱き着く。
「怖い目に合わせてすまなかったな。お前を狙ってた相手が多賀だってさっき依頼してた探偵から連絡があったんだ……」
建巳の言葉は当然早苗の耳に届いていたが、今は命を狙われていた状態から解放された安堵感の方が強かった。ひたすら涙が出続けまともな言葉も紡げぬままの早苗を慰めるように背中を撫で続ける建巳だったが、観月が意識を失っている今の内にここを出て警察に通報するのが先決であると扉に手を掛ける。
しかしドアノブはガチャと音を立てただけで動かず、片腕で早苗を抱き締めたままの建巳がガチャガチャとドアノブを回している音を聞いた早苗は観月が鍵を掛けていたであろうことを思い出す。
「ん……建巳さん」
もぞもぞと建巳の腕の中で体勢を返した早苗はドアノブを振り返り、観月が掛けたであろう施錠を確認する。ドアノブの真下には内側からのみ掛けられる手動の鍵があり、それが横向きに倒されていた。まだ胸を大きく上下に動かしながら呼吸を整える早苗だったが、ロックに手を掛け鍵を縦に回すと建巳が握っていたドアノブがガチャリと大きく回る。
ふたりの間に歓喜の空気が流れ、思わず顔を見合わせる。こんな危険な場所からはいち早く立ち去るのが最善であると建巳は鍵が開いた扉を内側から押し放つと早苗を立ち上がらせる為に手を差し伸べる。
「立てるか?」
「は、い……」
まだ腰から下に力が入らなかったが、この場から逃げたいのは早苗も同じで先程観月を振り払ったのと同様ここで最後の力を振り絞って立ち上がらなければ命を取り留めた意味が無い。
建巳の腕に捕まりながらゆっくり立ち上がる早苗の視界の端に、徐々に開いていく扉が何気なく飛び込んでくる。室内から見ると外開きであるその扉が徐々に外側へ開いていく。早苗が観月に招かれこの部屋へ入る前はとても薄暗い廊下の奥にあり、それは出る場合も変わらず扉の先は薄暗い廊下と壁だった。
しかしその薄暗い廊下の上に黒い足のようなものが見え、扉が開く度にその影の全体像が明確になっていく。
気付けば早苗の全身はこれ以上無いほど震えており、早苗の異常に気付いた建巳も早苗の見ているものを追うように視線を向ける。
西日が射し込みその黒い影も徐々に明度が上がっていく。早苗と建巳のふたりは揃って視線を足元から顔へと上げていく。それはまるであの《カエサル》が明度を上げた写真同様、部屋の前に立っていたのは死んだとされる太郎の姿だった。
「ひィっ……!」
早苗は思わず声を上げる。太郎の生い立ちを観月から聞いて多少同族意識を持てる部分はあったが、実際既に亡くなっている太郎が目の前に現れると冷静ではいられなかった。
これまで早苗の命を狙っていたのは全て観月の犯行であったということは大凡間違いないが、あれだけ《翡翠メイ》に執着していた太郎が死して尚早苗を連れて行きたいと考えることは無いとも言えなかった。そうでなければ太郎の死後《翡翠メイ》が投稿した写真全てに写り込んだり、配信中の《翡翠メイ》の前に現れるということの説明がつかない。
「た、たろ、く……」
ようやく観月の手から逃れることが出来たのに、今度こそ本当にここで自分は太郎に取り殺されるのかもしれない。早苗の呼吸は上がり始め、その荒い呼吸だけが室内に生々しいほど響いた。
太郎の黒い影はじっと無言のまま早苗を見下ろし、やがて徐ろに右腕を動かす。早苗はびくりと背筋を震わせもし自分がこのまま太郎に取り殺されるようなことがあったとしても建巳だけは守り抜きたかった。
早苗にとっての建巳は救いの手を差し伸べてくれた神にも近い存在であり、たとえ自分の命と引き換えにしてでも建巳の命だけは守り抜きたかった。建巳には心配してくれる多くの友人たちも、大切にしてくれる両親もいる。生い立ちから何もかもが自分とは違い過ぎるが、だからこそ建巳だけはこれ以上自分の問題に巻き込みたくはなかった。
太郎は恨めしそうな視線を向けたまま右腕を上げる。その手は人差し指だけを一本立てていた。ゆっくりと持ち上げられる太郎の手は目の前の早苗を通り越し、その先を指差していた。早苗は思わず指を辿って視線を背後へと向ける。
同時にドサリと大きな音がして、丁度早苗が振り返るとそれは建巳が倒れたままの観月の身体に足を取られ転倒した音だった。
「……建巳さん?」
「や、やめろッ!!」
太郎の黒い影はすぅっと歩くよりは滑るような形で早苗の前を横切る。一方の建巳はその太郎の影を振り払うように両腕を大きく払い、壁際に置かれていた本棚を両腕で倒して牽制する。早苗は本棚が倒れる大きな音に身を震わせるが、そんな建巳の抵抗も虚しく太郎は建巳に近寄りその無表情な顔を近付ける。何が起こっているのか早苗には一切理解出来なかった。
「――オマエガ」
「来るなあぁぁあああッ!!」
建巳は太郎を振り払おうとするが実体の無い太郎の黒い影を擦り抜け、代わりに太郎は建巳との距離を更に詰めていく。早苗はただそれを唖然として見詰めることしか出来なかった。
「オマエガ、ボクヲ」
建巳は机の上に飛び乗る。西日を背に受けた建巳はハッとする。太郎の先で呆然としている早苗と視線が合ったからだった。
「――早苗」
「建巳さんっ……」
ああ嫌だ。怖い。その先を聞きたくは無かった。
「お前の、為だったんだ。早苗、お前を守――」
「ボクヲ、コロシ、タ」
音もなく近寄る太郎の影を避けるように手を払った瞬間――建巳は先ほど自らが侵入の為に割ったガラスの無い窓からバランスを崩して転落した。
――一拍遅れて、とても、とても嫌な音がした。
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