15 / 15
#015 Additional Time
何よりも、建巳にその手を汚させてしまったことで早苗は自分を責めていた。
しかしその原因も裏を返せば早苗が太郎に対して上手く対処出来ず逃げるような態度をとってしまい、建巳に全て頼り切ってしまったことが要因だった。
太郎に対して毅然とした対応をとれなかったことも、元々太郎に自宅を突き止められるような隙のある投稿をしていたのも全て自分の油断によって起こってしまったことだと考えていた。
それもこれも全て自分のせいであり、早苗は自分自身の存在をただ悔やんでいた。
自分が生まれなければ、誰も傷つくことは無かった。自分が存在しなければ自分のせいで誰かを不幸にすることは無かった。
起こってしまったことは変えられず、早苗に出来ることとすればただこれ以上の不幸の生み出さない行動を起こすだけだった。
屋上の縁に立ち、ビル風が響く地上を見下ろす。底が湾曲しているブーツはアスファルト面で少しぐらついたが、早苗は胸の前で軽く拳を握り両目を閉じると顎を軽く上げて天を煽る。
一歩踏み出せばそこにもう地面はなく、ソールを蹴り出してまだ見ぬ世界へ歩みだす。
途端に心も身体も軽くなって、これ以上もう何も――苦しまなくて良いと思えたことが嬉しかった。
「わああぁ待って待って待って!」
屋上に上がる鉄製の扉が開かれ、シームレスな空の中誰かの声が響く。
がくんっと早苗の身体は何かに引っ張られるような感覚に陥り、先程まで風を感じて自由だった身体が突然魂を縛り付けられたように何も感じられなくなる。ただ片腕だけが天へと伸びていた。
少し遅れてカコンという軽い音が周囲一帯に響く。それは早苗の足から脱げた片方の靴が先行して地面へ落ち砕け散った音だった。
覚悟を決めて閉じた瞼をゆっくりと開けその様子を目線で追った早苗だったが、何故自分はあの靴と同じく落下していないのか呆然としながらもゆっくりと頭を上へと向ける。毒々しいほど真っ青な空には直視するだけで目が潰れそうなほど眩しい太陽が輝いており、とても目を開けていられるような状態では無かった。
天へ縫い留められた早苗の片腕は何者かによって掴まれており、目を細めて見上げる限りでは眩しい太陽を背中に受けるその人物の姿は早苗の目からは真っ黒なそれに見えた。
「……あ、あの、上がれ……ますか?」
「えっと……」
次第に早苗の目が慣れてくると次第にうっすらとその黒い影の人物像が見えてくる。
不揃いな黒髪は目元に掛かるほど長く、目元付近は無機質な何かで覆われておりそれが眼鏡であると分かった時耳元から弦がずるりと滑り落ちそうになる。片手では錆びが酷くいつ崩壊するかも分からない柵を握り、もう片方の腕を懸命に伸ばし早苗の細い片腕を掴んでいた。
しかし人ひとりの体重を支えるのは容易ではなく、これが建巳のように普段から鍛え抜かれた筋力のある人物ならまだしも、見るからに早苗と同様の生っ白い細腕では支えきれないことは明白だった。
じりじりと照り付ける太陽が体温を上げ、腕を滴る汗が決死の覚悟で握る腕を滑らせてくる。
「あのあのっ、出来れば両腕で捕まって貰えると助かるんですけど!」
焦った様子で青年は言う。早苗も無意識に腕を握り返してはいたが、汗による滑りと早苗自身の重みによって徐々に下降してきているのを感じていた。同時に突然現れた見知らぬ男性の存在にも困惑しており、状況が呑み込めないままだった。
「……だぁれ……?」
言われるがままもう片方の腕も上げようとする早苗だったが、思わず思っていた言葉が口から漏れ出る。誰かを傷付けることしか出来なかった自分に救いの手を差し伸べてくれる人がいるとは思えず、そもそも使われていない廃ビルの階段を使わなければ上がってはこれない屋上、ただの偶然としてはあまりにタイミングが良すぎた。
「そっか、僕《カエサル》です。初めまして!」
柵がいつ崩れ落ちるか定かではなかったが、《カエサル》と名乗ったその男は早苗が両腕で捕まったのを確認すると血管が切れんばかりの踏ん張りを利かせ、ぶら下がった状態だった早苗の身体を屋上へと引き上げる。
余りにもその勢いが良すぎて早苗は受け止めた《カエサル》の上へ覆い被さるようにして倒れ込む。
「イテテ……」
「ご、ごめんっ大丈夫?」
慌てて身を起こした早苗は身体の上から降りるが、《カエサル》はそのまま屋上で大の字となるように両腕を拡げて寝転がったままだった。もしかして衝撃で頭か何かをぶつけてしまったのではないかとおろおろする早苗だったが、暫くぼーっと青空を見上げていた《カエサルは》ゆっくりと眼鏡を外して頭に掛ける。
「――あの、配信の後さ」
《カエサル》こと涼は《翡翠メイ》の引退配信を見た時点で、《翡翠メイ》が自分の命に幕を引くつもりであることに気付いていた。それはやけに綺麗に片付けられていた《翡翠メイ》の私室が如実に物語っており、それにストーカーだった太郎の死亡とその直後からの心霊現象、建巳の死と観月の逮捕を繋げて考えれば《翡翠メイ》が悲観してそういった選択をするのも可能性としては大いに有り得るものであると思った。
「絶対死ぬつもりだろと思ったから、もぉ、速攻で新幹線飛び乗ってさ」
そこまで言った涼はようやく腕をつき半身を起こすようにして身体ごと早苗へと向ける。
「だけど……どうしてこの場所……」
「だってあなたは優しい人だから」
涼は早苗からの問いに対してすぐに起き上がるということはなく、まるでそこが自室であるかのような寛ぎようで立てた腕に頭を乗せる。
「ストーカーの件でも絶対自分のことを責めてる。だとしたら貴方が最期の場所として選ぶのはこの場所しかないと思うよね?」
対面したのは初めてのはずなのに、涼はまるで古くから知っている友人かのように寝転がったまま早苗の頬へと手を伸ばす。それは早苗が双眸に沢山の涙を溜めていたからだった。涼が指先でその涙を拭うと早苗の揺れる瞳が見えた。
「――知ってるよ、ずっと貴方のこと画面の向こうから見てきたから」
ぼろぼろと落ちる大粒の涙が乾いたアスファルトに濃い染みを繰り返し作り出す。
いつまでも泣き止まない早苗を見かねた涼はゆっくりとその場から身を起こし、早苗を向き合うように座り直す。しかし目の前で泣き続ける早苗を見ても人を慰める方法を中々思い付かない涼は両腕を組むと頭を悩ませる。
涼とて人と対面して交流することは苦手で、だからこそインターネット越しに集められる情報を集めて調べ上げるという考察を趣味としていた。その為余計に人との関わりから離れていたが、今目の前で泣き続ける年上の男性に対して何もしないという程無情な訳では無かった。
自らの経験の中には無いものの観察し続けた周囲の男女の光景からこういった時にどうするのが適切であるかを懸命に捻り出す。そして思い浮ぶ方法がひとつあったもののそれを自分がやっていいのかという戸惑いからぽりぽりと頬を掻く。
ぽん、と持ち上げた手を早苗の頭に置く。それには早苗も驚きの余り涙が止まる。
「僕も、貴方の存在に勇気をもらった内のひとり」
それは心の奥底で早苗が欲していた言葉だった。文字ではなく直接伝えられる言葉に早苗の心は今までにない感情が溢れてきた。
「だから、《翡翠メイ》じゃなくても、〝貴方〟が居なくなるの、僕はいやです」
再び溢れ始める涙はそれまでとは違うものだった。子供のように泣きじゃくる早苗の頬を両手で包み込み、互いの額を合わせる。早苗もその手へ縋るように自らの手を重ねる。
「僕涼――柳澤涼っていいます」
「藤原、早苗です……」
完
ともだちにシェアしよう!