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#014 The Last

 絵の具をぶち撒けたような青空が広がる中、早苗は上下黒のスーツ姿のまま照り付く太陽の下を歩く。 「すいませんそのお花を――何本か欲しいんですけど」  花屋の前で足を止めた早苗は白や薄ピンク、紫などの優しい色合いの花に目を留める。 「こちらのスイートピーですね。ご自宅用ですか?」 「いえ、贈り物です」  朗らかな女性店員の対応に笑みを浮かべる早苗は、店員が花を筒から抜き取り茎を纏めている間取り出したスマートフォンでスイートピーに関しての情報を調べる。  その花言葉のひとつは〝門出〟。これほど今日という日にぴったりな花と巡り会えたことも何かの運命で、電子マネーではなく現金で支払いを済ませた早苗は片腕でその花束を抱え込む。  黒いスーツに黒いネクタイ、踝程度までの丈をもった黒いズボンに五センチ程度のヒールを携えた黒い靴。花束を抱えた黒スーツの早苗が街を歩くだけで誰もがその姿に釘付けとなった。ネイルやピアスなどの装飾が無くともただそこにいるだけで早苗は男女問わず周囲の人の目を惹きつける。  人の目が怖くて碌に相手の目を見ようともしていなかった早苗は、自らの存在が注目を集めるものであるということに気付いてはいなかった。 「あ、あのっ……!」  街中で突然声をかけられ早苗は足を止めると振り返る。すると小柄で中学生くらいの女の子がスマートフォンを両手に握り締めながら立っていた。黒くて艷やかなロングヘアーをウサギのように耳より上の高い位置で結び、その姿はまるで本当に小動物かのようにぷるぷると震えていた。 「ひ、《翡翠メイ》ちゃんですよね!?」  一瞬驚いた表情を浮かべる早苗だったが、少女が緊張するように震えていたので不思議と緊張はなく、耳まで真っ赤にした少女の姿を見下ろすと柔らかい笑みを浮かべた。 「ええ、そうですよ」 「あ、あのっ、わたし前からずっと《メイ》ちゃんのファンでっ……」  その少女の様子は、まるでこれまでの自分のようだと早苗は感じた。人と話すことはそれほどまでに緊張するものであると早苗は誰よりも良く分かっていたが、相対する早苗の視点からすればそこまで緊張するほどのことではないということも分かる。 「写真をっ……一緒に撮って貰ってもいいですか!?」  彼女が引退配信を見たのかは分からなかったが、こんな近所にまでファンがいたという事実には驚きを隠せなかった。ファンであるということを面と向かって伝えられたのはこれが初めてかもしれない。直接伝えられることがこんなにも心躍るほど嬉しいものであるということを早苗は初めて知った。 「勿論。一緒に撮りましょう」  建巳が依頼していた探偵から太郎が死んでいた現場の詳細を聞いた早苗は電車を乗り継いでそのビルの前に現れる。ネットニュースなどでは事件現場の住所など細かく書かれておらず、到着してみればそれは太郎が観月と共に生活をしていた工業地帯から目と鼻の先の場所にあった。  再開発の一環なのか人が住んでいるような気配はなく、エレベータ前の回数表示を確認すると十階建てとなっていた。しかし幾らボタンを押してもエレベータが動くことはなく、早苗は花束を抱えたまま階段を使って屋上まで上り始める。  探偵から聞いた話からの推測にしか過ぎないが、建巳はストーキングを繰り返す太郎を警察に通報した後帰宅する太郎を尾行してこの場所に辿り着いた。太郎が屋上に行った後を建巳がつけていったのか、建巳が太郎に話をつけて屋上まで誘い出したのかは分からなかったが、少なくともふたりが屋上へ現れた時には太郎は生きていると考えられる。幾ら建巳でも成人男性を担いで十階まで階段で上がっていくことは体力の問題がある。  コンクリートがむき出しとなっている階段を一段ずつ上る。ヒールを打ち付ける音が周囲に響き渡り、早苗が階段を上がっていく姿をビルの入口から見つめる姿があった。  慣れない靴を履き長時間歩き続けた上十階までを階段を上ったせいか、屋上へ到着する頃には靴擦れが激しい痛みとして早苗を襲っていた。半ば足を引き摺るようにして出た屋上は雲に手が届くのではないかと思えるほど空が広く、突き刺さるような太陽の光がコンクリートの地面に黒く濃い影を作り出していた。  探偵から教えて貰った内容を頼りに建巳が太郎を突き落とした屋上の端へと向かう。使われていないビルであるせいかお情けとして設置されている柵は赤茶けて錆びている箇所もあり、太郎が落ちたその箇所は正に柵が崩れ落ちており、命を留める線がその一箇所だけ途切れているようだった。  縋るものがなにも無い屋上、突風が吹き荒れる。スイートピーの花びらがはらりと落ち風に乗って流れていく。  柵が途切れているその箇所へ歩み寄り、用意した花束をそこへ置く。  この場所は、ふたりの人生を狂わせた。  太郎の命がこの場所で奪われ、同時に建巳に殺人という責を負わせてしまった。  ――〝お前の、為だったんだ。早苗、お前を〟。  建巳の最期の言葉が不意に脳裏を過る。  遮るものが何も無い拓けた屋上に一層強い風が吹き荒れる。早苗が屋上へ上がる為に開けた鉄製の扉はとても重く、やっとの思いで開いたその扉は半分ほど開いたままで、ゆらりと蠢く影がその扉の奥から屋上の端に立つ早苗の姿を見ていた。 「……ごめんなさい」  花束を置いた場所へ屈み込んで手を合わせる。そして少し首を伸ばして太郎が最期に見たであろう光景を見下ろす。地上十階から見る高さは早苗が想像していたものよりとても高く、配信部屋もそれなりの高さに位置していたが、窓の外から見る光景と直接地面を見下ろす光景は大分違う。  せめてもの救いと思えるのは太郎の死亡推定時刻が深夜だというところだろうか。早苗は柵に手を掛けて立ち上がる。太郎が落ちた場所を、建巳が太郎を突き落とした直後に見た光景を見下ろし、背後の扉がギィと低い音を響かせる。 「……えっ?」  街中で憧れのインフルエンサーである《翡翠メイ》と出会い、ツーショットセルフィーを撮って貰うことの出来た少女はSNSのネットニュースで《翡翠メイ》が引退配信を行ったことを知る。  慌てて確認してみれば《翡翠メイ》のSNSに載せられていた投稿や、配信のアーカイブさえも既に無くなっているのが現状だった。突然の引退に何が起こったのか理解出来ない少女だったが、街中で《翡翠メイ》を見かけることが出来てセルフィーを撮れたことは幸運としか言えなかった。  今となれば《翡翠メイ》として手元に残っているのはこの写真のみとなり、寂しさを感じながら少女は改めて先程撮った写真を確認する為カメラロールを開く。  その《翡翠メイ》の写真には黒い影のようなものが写り込んでいた。

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