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Chapter.7

 高校生のアルバイトがシフトに入る平日の夕方は代わりに早く上がれることが多く、冬榴は普段と同様鞄を肩に掛けて通用口から出る。空はオレンジ色からピンク色を経て薄紫色への綺麗なグラデーションが帯のように連なっており、その不思議で綺麗な一瞬を形に残したいと感じた冬榴はズボンの尻ポケットからスマートフォンを取り出して撮影モードを起動しその一瞬を切り取って端末に残す。  数秒おきに変わるその風景を連写するように写真に収めていると、大きな影がカメラの前を横切り冬榴の撮影を阻害する。それは都会で見かけるのは珍しい大きなカラスで、冬榴の前を横切ったそれは街路樹の一枝に停まり高らかに鳴き声を上げる。それはまるで冬榴に何かを訴えかけているようで、被写体を空からカラスへ移した冬榴は画面をスワイプしてその対象を拡大する。 「トオルくん」 「ッ!」  駐車場でカラスの撮影に興じようとしていた冬榴の背中が跳ね上がる。その呼び掛けにカラスも反応を示したのか、ばさりと大きな羽ばたきを残すとパステルカラーの夕焼けに飛び立ってしまった。  そろりと冬榴が振り返り声の主を確認すると、昨晩よりは多少ラフに見えるカジュアルなジャケットを着たマサミチの姿があった。その片手には恐らく読みかけであろう文庫本があり、冬榴へ歩み寄ると同時にジャケットのポケットへとしまい込む。 「マサミチさん……」  昨晩告げられた通りアルバイト終わりに待っていてくれた嬉しさも冬榴の中にあったが、同時に折角の機会であったのにその優しさを無下にしてしまうことに心がちりっと傷んだ。  後に何の予定も無ければ、折角早く上がれたこの日はマサミチとの時間を過ごしたかった。紘臣が夜までシフトに入っていることから、今日は春杜が紘臣の部屋へ行くことはないので迎えに行く必要も無かった。第一紘臣とそういうことをした翌日の春杜は一日中眠り続けることが多く、今朝も冬榴がアルバイトに出る際春杜はキングサイズのベッドからぴくりとも動くことは無かった。  慧志がクロカンブッシュを用意しているなどということを紘臣から聞いていなければ冬榴がこの場で思い悩むことは無かった。 「トオルくん、話したいことが――」 「ごめんなさいっ!」  マサミチが言い終わるよりも早く、冬榴は勢いよく頭を下げる。それはこのファミリーレストランでのバイトで培った腰から九十度に折り曲げる深く正確なお詫びだった。 「トオルくん……?」 「あのっ、俺、今日……その、用事が……出来てしまって……」  マサミチよりも慧志を優先してしまったことを、冬榴は素直に打ち明けることが出来なかった。その理由は分からなかったが、何故かマサミチには言ってはいけないことであるような気がした。  夏は過ぎたのに、背中を汗が伝う。  ふっと笑い声が聞こえて冬榴は顔を上げる。恐る恐るマサミチの顔を見ると口元を覆ったマサミチは肩を震わせ優しく目尻を落としていた。 「――なんだそんな事? 僕はてっきり」 「なんのこと、ですか……?」  明らかに理解していない表情を向ける冬榴の前に立ったマサミチは片腕を上げてその手を取ろうとするが、まだ明るいファミリーレストランの駐車場ということもあり暫し考えた挙げ句ゆっくりと手を下ろす。 「昨日も言ったけど、僕がしたくてしてることなのだから、トオルくんが申し訳無いと思うことはないんだよ?」  困ったようにマサミチは笑う。マサミチにそんな顔をさせるつもりは無かった冬榴は内心激しく動揺していた。  幸い午後から夕方に掛けての人入りは少なく、紘臣という交代要員も既に入っていることからこの日冬榴は普段より少しだけ早く上がることが出来た。慧志の部屋に行くまではまだ幾分か時間の余裕はあるが、また慧志の部屋の前まで送って貰えば昨晩のような事にもなりかねない。 「あの……マサミチさん」  少しでも長くマサミチとの時間も作りたかった冬榴は両手で鞄の紐を握り様子を伺うようにマサミチの顔を見上げる。  〝手土産を買い忘れたので良ければ買い物に付き合って欲しい〟。という嘘が半分織り交ぜられた提案をマサミチがどう捉えたのかは分からなかったが、選択肢の広がる駅前まで同行して貰うことでマサミチと共に過ごすことも出来る上、いつもケーキを提供してくれる慧志への礼にもなると思っていた。  少なくとも、この瞬間の冬榴はそれが最善の策であると信じてなにも疑っていなかった。    お呼ばれならばワインはどうかとマサミチが提案したそれを冬榴が疑わなかったのは、慧志や紘臣が未成年でありながら当然のように飲酒をしているという事実からだった。慧志への手土産であることをマサミチに明かす訳にもいかず、冬榴の常識も多少一般からは外れたところにあったので、駅前のスーパーでマサミチが選んだ甘口の赤ワインを冬榴は疑問も持たずカゴに入れる。  マサミチとふたりきりで買い物をするということ自体が冬榴にとっては初めてのことで、そもそも同居している春杜が自ら買い物をすることはなかった。必要なものがあればその都度連絡をして実家の者に届けさせているので、冬榴が買い物をするということもこういった時間に余裕がある気分転換の時だけだった。 「今日はありがとうございます。俺ひとりだったら何を買って行ったら良いのか分からなくなっていたので」 「構わないよ。トオルくんに頼られるのは悪い気分じゃないからね」  もしこれが本当にデートのようなものであったとするならば、マサミチは冬榴の買った荷物をスマートに持っていたことだろう。しかしこの後に予定があると伝えられていたことから必然的にこの場で解散となる。  人の交差が増える駅前の雑踏、時刻も夕方に差し掛かり学生や社会人など帰宅する者の数が増えてくる。また次に冬榴のシフトが終わる頃ファミリーレストランの前で待っていればふたりきりの時間を過ごすことは出来て、この駅前よりもずっと話すのには適した静けさもあった。  こんな騒がしい場所ではなく、昨晩のような静かな場所でマサミチは冬榴に伝えたい内容があった。本当は今日駐車場で出会った時に話せれば良かったのだが、昨日の今日で畳み掛けるのも冬榴に可哀想な気がしていた。  今でなくても話せる内容だったが、用事があると言って赤ワインを携えこれからどこかへ向かおうとする冬榴を行かせたくないという気持ちが本能的に働いた。去り際の冬榴の手をマサミチが掴むと、冬榴は驚いて振り返る。昨日はすぐに離されたマサミチの手だったが、この時ばかりは冬榴の目を見つめながら離されることは決して無かった。 「――マサミチさん?」  賑わう時間帯であったが、冬榴の耳にはそんな喧騒は何も聞こえなかった。ただ手を掴まれたその瞬間、マサミチとふたりだけの空間が出現したように、周囲のことは一切意識に入ってこなかった。 「トオルくん。大事な……話があって」  普段のマサミチから考えれば妙に歯切れの悪い言い方だった。冬榴はマサミチの顔を見つめながら無意識に首を傾ける。  途端に鳴り響いたスマートフォンの振動がびくりと冬榴の両肩を大きく震わせる。 「ッ!?」  昨日も同じ光景を見たような気がするなと感じるマサミチだったが、片手をマサミチに掴まれていた状態だった冬榴はもう片方の手を回してズボンの尻ポケットからスマートフォンを取り出す。しかし普段使い慣れていない非利き手だったせいか、振動で上手く掴めず冬榴はスマートフォンを路上に落とす。  そのまま路上を滑るスマートフォンだったが、幸いにもマサミチの爪先に当たることで道路まで飛び出すということは無かった。厚意から冬榴のスマートフォンを拾い上げようとしたマサミチの目に表示画面に映し出された文字が飛び込んでくる。 【もうバイト終わったでしょ? 早くおいでよ】  その発信者の名前には〝慧志〟と表示されていた。マサミチの瞳孔が信じられないものを見るように小さく縮まっていく。  メッセージ内容をロック中には表示されないように設定していないのも、機械音痴である冬榴ならば納得出来たことだったが、昨晩連絡先交換すらスムーズに行えなかった冬榴が既に慧志と連絡先を交換していたという事実はマサミチを大きく抉った。  ――〝サトシくん〟。  マサミチの記憶に間違いがなければ、それは昨晩冬榴をあの出窓から呼んだ紘臣のルームメイトだった。マサミチはあの時の慧志を自分に対する牽制であると受け取っていた。窓から大きな声で呼びかけることで、周囲の目を気にした冬榴が大人しく部屋へと来るように。  恐らく慧志は冬榴がマサミチと連絡先の交換をしようとする場面を目撃していた。だからこそあの場で冬榴とマサミチが連絡先の交換を出来なかったのを良いことに、優位な立場にいることを今一緒にいるかもしれないマサミチへ知らしめる為に。 「あっ……」  スマートフォンを拾おうと屈み込んだ冬榴は画面に慧志の名前が表示されていることと、それを見てマサミチが固まっていることを理解する。  冬榴は急いでスマートフォンを拾い上げ、それをあからさまに隠すように両手で胸元へ抱く。 「あの、その……昨日連絡先を交換する方法教えて貰って、それで……」  冬榴の必死の弁解もマサミチの耳には一切届いていないのか、マサミチの視線は先程まで冬榴のスマートフォンが落ちていた路面へと向いたままだった。 「あ、の、マサミチ、さん……?」  マサミチの様子を伺うように冬榴が屈んだまま顔を覗き込めば、さらりと赤毛が音を立てて流れる。 「大事な……話って?」  冬榴がマサミチへ手を伸ばそうとすると、マサミチはゆらりと立ち上がる。屈んだ状態から見上げたマサミチの姿は普段よりも大きく見え、冬榴はそこに深い闇のようなものを感じる中、眼鏡のレンズだけが反射して鏡のように冬榴の姿を映し出していた。 「……ぼくの、用事は急ぎではないから」  普段とはどこか様子の違うマサミチを心配しながら冬榴もその場に立ち上がる。同じ目線の高さになった時、そこには既に普段通りのマサミチが居た。 「また、今度ねトオルくん」 「あ、ハイ……」  普段のマサミチと何が違っていたのかも言葉で理解しきれない冬榴は笑みを向けて手を振るマサミチの言葉に小さく頭を下げることしか出来なかった。

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