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Chapter.9

「落ち着いた?」 「――はい、ありがとうございます……」  人気が無い夜の公園、ベンチに腰を下ろす冬榴はマサミチが自動販売機で買った紅茶缶を握りしめていた。  川野はあの場に捨て置いてしまったが、目の痛みが治まれば勝手に居なくなるだろう。念の為にと小型のスプレー缶はマサミチが回収したが、やはり冬榴の想像通り刺激物が含まれた催涙スプレーだったそうだ。  アパートの目の前で起きた騒動にも慧志が姿を現すことは一切なかった。マサミチが助けに現れてくれなければ冬榴も今頃どうなっていたか分からない。今になって襲ってくる恐怖心に缶を握る冬榴の身体が小刻みに震え始める。  幾ら慧志とのことで困惑して落ち込んでいたとしても油断が過ぎてしまった。もし春杜と一緒だったらと考えただけで頭の中が真っ白になる。 「さっきの……知り合いみたいだっけど」  指摘された川野との関係性にびくりと肩が震える。 「あ、の……ハルトさん、の元カレで……」 「なるほどねぇ」  既に春杜にはマサミチの存在が知られてしまっているが、本当にマサミチを自分たちの都合に巻き込んで良いのかという不安が冬榴の中に生まれ始めつつあった。  自分は春杜のようには出来ない。紘臣の現状はまだ良い方であったが、いずれは川野のようになってしまうことを考えると、冬榴にはマサミチと慧志の内どちらかを選ぶということは難しかった。  それでも、大人の包容力で冬榴を支え続けてくれたのは間違いなくマサミチで、訳も分からずケーキを振る舞ってくれたり突然怒り出したりと行動原理の読めない慧志よりは、今後付き合い続けることを考えるとマサミチが理想的な相手であるという事実は確定的になってきていた。  今なら春杜も寝ているだろうし邪魔が入ることもない。昨晩言えなかったことを今こそマサミチに伝えるべきだと考えた冬榴はゆっくりと深呼吸をして気持ちを整える。微かな虫の声以外、何も聞こえない静かな夜だった。 「っ、あのっ、マサミチさんっ――」 「トオルくん」  言葉を遮られ出鼻を挫かれた冬榴だったが、視線を向けるとマサミチから真剣な眼差しを向けられていた。冷たい手で心臓を握り潰されるような感覚があった。息が上手く吸えなくなって、冬榴はマサミチから目を離せなくなっていた。  ベンチの隣に腰を下ろしていたマサミチが近付いてくる。手をつき木材が軋むミシリと響く音がとても大きく聞こえた気がした。  突然、慧志の放った一言が冬榴の頭の中に蘇る。  ――〝スーツとかちゃんとした格好した変質者だって居るんだから〟。  こんな時に何故慧志の意地悪なひとことを思い出してしまったのか、冬榴の頭の中は目の前のマサミチに対する鼓動の高まりと、芽生えた一抹の不安からせめぎ合った思考が停止しかけていた。  そんな冬榴の感情を再び動かしたのは耳元で囁かれたマサミチの言葉だった。 「――――」  とても穏やか且つ優しい口調で、それは冬榴が初めて聞いた自分に向けられた言葉だった。  その言葉が音として耳から冬榴の体内に入った直後から、火が灯されたように身体が内側から徐々に熱を帯びていくような感覚があった。 「……マサ、ミチさん」  その言葉に対して正しい返答を知らなかった冬榴はただマサミチの服を掴んで俯くことしか出来なかった。早く何か言葉を返さなければという気持ちだけが冬榴を焦らせる。そんな冬榴の動揺を理解した上か、マサミチはぽんと優しく冬榴の背中を撫でる。 「トオルくん、あのね」  冬榴だけではなくマサミチも緊張しているのが強張る腕の動きから伝わっていた。何かとても重要な話がありそうな空気を察した冬榴はゆっくりと顔を上げてマサミチの顔を見る。目の前ではマサミチが悲しそうに笑っていた。 「――僕、仕事の関係でもう少ししたら此処から離れないといけないんだ」  その言葉がすぐには理解出来ず、冬榴はひとつ大きな瞬きをした。マサミチの手が冬榴の頬に触れる。  マサミチは冬榴がアルバイトをしているファミリーレストランの常連客で、どちらからともなく顔見知りとなり、最近は仕事終わりに冬榴の自宅であるマンションまで送ってくれることが多くなっていた。  そんな日がいつまでも続くものだと思っていた。少なくとも春杜に着いて冬榴がこの地を離れるその日までは。  しかし予期せぬ別離は冬榴が思っていたよりもずっと早く、整理のつかない感情が冬榴から言葉を奪う。今はただ頬に触れるマサミチの手の感触でしか、マサミチがそこにいるという実感を得られなかった。  共に居られる時間が限られていると分かっていたからこそ、マサミチは少しでも早く冬榴に伝えたかった。その結果こんな表情を冬榴にさせてしまうということも分かっていた。マサミチには少しの猶予や躊躇いも許されてはいなかった。このままでは遠からず冬榴の気持ちがあの大学生の青年に向いてしまうことは目に見えていた。  冬榴の気持ちが追い付くまでは幾らでも待つつもりはあったが、上からの指示には逆らえない。 「だからね――」  ザアッと強い風が夜の公園に吹き荒れる。その後再び小さく虫の鳴き声が響き始める。 「出来ればトオルくんにも一緒に来て欲しいと思ってるんだ」 「え……」

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