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Chapter.10

 ――〝一緒に来て欲しい〟。  求められる言葉は冬榴にとって嬉しいものだったが、マサミチに着いていくということはこの土地を離れ慧志とも完全に縁が切れてしまうという意味を表していた。  マサミチと慧志のどちらかしか選べないという事実に冬榴の心は大きく揺れる。ここで慧志を選ぶのならばマサミチとはもう会えなくなるということでもあった。  これまで優しくしてくれていたマサミチならば、これからも優しくしてくれるような気がしていた。大人なマサミチならば、慧志のように突然怒り出したりからかってきたり、冬榴が嫌だと思うようなことをしないだろうという未来も思い描くことが出来た。  もう辛い思いをするのはこりごりで、ただ無条件に誰かから愛され、必要とされたかった。  冬榴は震える手でマサミチの服を掴む。ここではないどこかへ、連れ出してくれるのならマサミチでは無くても良かったのかもしれない。 「良いのかな」  一度マサミチの顔を見ると瞬きをするように小さく頷く。他の誰でもなくマサミチを失いたくないという気持ちは確かに冬榴の中にあった。  マサミチの指が冬榴の唇をなぞり、つられるように冬榴は目線を上げる。すぐそこにあるマサミチの顔、冬榴は乞うように瞼を落とす。それが何を意味するものであるのか冬榴はもう理解していた。  目を開けずともマサミチの顔が近付いてきている気配を感じていた。触れ合いそうな唇まで後何センチか、初めての経験に冬榴の全身は緊張で強張る。  キスをしても子供が出来たりしないのは自分とマサミチが同性同士だからであり、そう考えた時冬榴の頬に温かいものが流れた。 「あ……」  いつまでも触れ合うことの無い唇に冬榴はゆっくりと瞼を上げる。マサミチの顔は冬榴から少し離れてそこにあった。両眉を落としとても悲しそうな表情をしていたマサミチ。それでもその悲しげな表情すら優しいものだった。 「マサミチ、さん」  マサミチの指の背は冬榴の頬を下から上へとなぞり、目元に溜まる涙を掬いあげる。 「うん……」  マサミチは冬榴の言葉を受けてただ寂しそうに笑う。  何故躊躇ってしまったのか、止まない涙はまだ冬榴の中から慧志の存在が消え切れていなかったからだった。マサミチは冬榴の涙が止まるまで抱き締め続け、ゆっくりと背中を撫でる。  どうしても春杜のように上手く出来ず、誰かを傷付けてしまう。恋人ひとり作ることも出来ず、また春杜に失望されることも怖かった。だからこそマサミチと慧志のどちらが良いか春杜に決めて欲しかったのに、自分で決めろと春杜には突き放されひとりでは何も成せない悔しさから止まらずに涙がぼろぼろと零れる。 「トオルくん、そんなに泣き続けたら頭痛くなっちゃうよ」  マサミチが背中を撫でる手は強くて安心が出来るのに、心の奥底のどこか一箇所でマサミチを受け入れることの出来ない自分がいるのが嫌だった。 「マサ、ミチさんっ、マサミチさん、ごめんなさい俺っ……」  怒って見捨ててくれた方がずっと楽だったのに、差し出される手に、優しい胸元に縋ってしまう。  マサミチは多くの言葉を語らずとも、今冬榴が何をするべきかを諭すように耳元でぽつりぽつりと呟く。自分が本当に心から求めているのは誰であるのか、一緒に居て無理をせず自然体で居られるのは誰なのか。  冬榴はその言葉ひとつひとつに小さく頷く。道を照らしてもらわないとその一歩すら踏み出す勇気を出せない。 「彼と、ちゃんと話すんだろう?」  それはマサミチと共に行くことは出来ないという明確な答えでもあり、少しだけ時間を空けてから冬榴はマサミチの腕の中でこくりと頷く。  くしゃりと頭を撫でられ冬榴が顔を上げるとマサミチが今までと変わらぬ優しい笑顔を浮かべている。しかしその笑顔は普段より少しだけ寂しそうにも見えた。  マサミチの何が悪いという訳ではない。寧ろ慧志よりも大切にしてくれるだろうということは分かりきっていた。その気持ちが嘘偽りのないものであることも。  ――それでも。  時々見せる優しさが、人伝に知らされる日々の気遣いが、どうしても捨てきれぬ想いを冬榴の奥深くへと芽吹かせてしまった。  冬榴はベンチから立ち上がり、流れる風が冬榴の赤毛を靡かせる。  もっと早く出会いたかった。もしくは紘臣に春杜を紹介してくれとせがまれ、それに応じなければ良かった。そうすれば慧志と出会うこともなく、迷わずマサミチの胸に飛び込むことが出来た。  何故疑わず誘われるがまま毎回部屋に上がるのか。ひとつやふたつ嫌なことを言われることだって分かっていたのに、春杜が降りてくるのをアパートの下で待つことだって出来たのに。  強く拒絶せず誘いに乗ったのはケーキだけが理由ではない。確かに冬榴にとっては物珍しいお菓子を毎回与えられてはいたが、それらも決して拒否できないものでは無かった。  冬榴の頬を一筋の涙が伝い落ちる。 「――ありがとうございますマサミチさん。俺、もう行きます」 「うん。頑張って」  マサミチはベンチに腰を下ろしたまま冬榴へエールを送る。  公園から慧志のアパートは目と鼻の先。今ならまだ慧志と話をする時間もあるだろう。日を改めてなどまどろっこしい真似はしていられない。マサミチから貰った踏み出す勇気を無駄にしない為にも冬榴は一度マサミチに対して頭を下げてから再びアパートへと駆け戻っていく。  冬榴が迷わず進めるようにマサミチは見えなくなるまでその背中を見つめ続ける。我ながららしくないことをしてしまったかもしれないと自嘲しない訳でもなかったが、まだ若い〝彼〟の芽をここで摘んでしまうのは惜しいと思ったのは確かだった。  お互いが素直にさえなれば容易に開く道であることを、もっと早くに気付いて欲しかった。背後でがさりと草を踏みしきる音にマサミチは薄い笑みを浮かべる。

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