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Chapter.11
旧式の呼び鈴を押せば扉越しの室内に軽快な音が流れる。それでも幾ら待っても中からの応答は無く、しびれを切らした冬榴は何気なくドアノブに手をかける。
するとガチャリと回したノブにより玄関扉は開かれ、最後に冬榴がこの部屋を出た時のまま施錠されていないことが分かった。特に西側においては鍵をかけないことは不用心に他ならなかったが、この時点の冬榴にとっては好都合だった。
「サトシくーん……?」
開けた扉から頭だけを突っ込み、中にいるであろう慧志へ声を掛ける。玄関から入ってすぐの廊下には明かりが灯されたままで、突き当りのリビングも煌々と照明の光が漏れていた。何から何まで冬榴が部屋を追い出される直前のままであり、靴を脱ぎ捨てた冬榴は室内の気配を探りながら部屋の中へと上がり込む。
ふわりと漂う香りも先程と変わらず、冬榴は一度真っ直ぐリビングへと向かい擦りガラスで半分目隠しされている扉を開く。阻まれていた扉を開くことで強烈な匂いが冬榴の鼻を突く。床に広がり混ざる赤い液体、割れたグラスの破片もそのままでただ慧志の姿だけがそこに無かった。
冬榴の視線は自然と歩いてきた廊下を振り返る。廊下に面した扉のそれぞれが慧志と紘臣の部屋となっており、一歩踏み出した冬榴は吸い寄せられるように片方の部屋の扉を開ける。
「サトシくん……」
その室内は真っ暗で、大きな出窓から入る月明かりだけが僅かに輪郭を浮き上がらせていた。出窓に面した壁、そこに置かれたベッドの上には大きな白い塊があった。それは頭から布団を被り丸くなった慧志の姿で、冬榴が声をかけてもぴくりとも動かなかった。
「サートーシーくん」
ベッド前に正座をしてじっと白い布団の塊を見詰める。いくら慧志が寝ていたとしてもこれだけ声を掛ければ誰かが部屋にいることは分かるはずで、その証拠に布団の中からは寝息のひとつも聞こえてこなかった。
両手を伸ばして布団の塊に当てる。するとほんのり温かく微かな脈も伝わってきた。冬榴は出来る限り布団に近づき、唇を寄せて囁くようにして訊ねる。
「――どうして布団を被っているの?」
次は布団に耳を当て、真っ暗で静かな返答の中慧志からの返答を待つ。とてもくぐもっていて、絞り出すような小さな声だったが確かに冬榴の耳には慧志の声が聞こえた。
「――……傷付いているからだよ」
冬榴にとって慧志の行動は一から十までの全てが理解不能であり、だからこそ何故慧志がそのような行動を取るのかの理由を直接慧志の口から聞かせて欲しかった。
「どうして――傷付いているの?」
どちらかと言えば傷付いているのは押し倒され、襲われそうになり、怒鳴られ、追い出された冬榴の方であった。しかしその張本人である慧志自身が傷付いているのならば、その理由を冬榴は知りたかった。乞うように額をぴたりと布団の塊へ押し付ける。
「ねえサトシくん、どうして――」
「……トオルさんが、鈍感だから」
聞こえてきた慧志の言葉に冬榴は瞬きをする。そして次の瞬間には深く考えもしないで慧志の身体を包み込む布団を剥ぎ取る。その手さばきはまるで食器が置かれたテーブルからテーブルクロスのみを引き抜くような技巧に富んでおり、冬榴が布団を剥ぎ取るとベッドの上には小さな子どものように身体を丸める慧志だけが残っていた。
その利き手には乾いた血液が染みのように貼り付いており、冬榴を追い出してからも碌な手当てをしていなかったことが窺える。血の匂いを嗅ぎ取った冬榴が咄嗟に慧志の手首を掴むと抵抗するように慧志がようやく顔を上げる。怪我自体も大きな問題ではあったが、出窓から差し込む月明かりに照らされた慧志の顔に冬榴は興味を引かれた。
「――どうして、泣き腫らした目をしているの?」
驚く慧志の目には冬榴の顔は逆光で良く見えなかったが、見えないはずなのにその瞳が一瞬金色に輝いたように見えた。猫でもあるまいし、人間の瞳が色を考える訳がないと思い直す慧志だったが、冬榴からの指摘にはふっと目線を反らす。
「……泣いてないよ」
その言葉が嘘であることは冬榴にもすぐに分かった。何故追い出した側である慧志が泣くことになるのか、冬榴にはまだ理解出来ていなかった。
どうしてと訊ねてくるその純粋無垢な質問はまるで子供のようだったが、それだけ理解されていなかったという事実が先ほど以上に慧志を傷付ける結果となった。
「……ねえ、サトシくん」
慧志の利き手を掴む冬榴の手は――震えていた。それまでの鈍感な物言いとは何かが違うと慧志が気付いた時、冬榴は両手で慧志の利き手を握り込みながら声を絞り出して訊ねる。
「どうして――怒った、の?」
鈍い言葉の刃がゆっくりと慧志の心臓を貫いていくような感覚があった。あの瞬間に伝えられなかった言葉を、今伝えられなければこの先二度と伝える機会はないのかもしれない。
目の前の冬榴は震え、それでも分からないから答えを直接慧志に求める。一体傷付けられたのはどちらなのか、慧志にはもう分からなくなってきていた。
長い時間沈黙が続いた。冬榴は先程のように答えを急かすことはせず、ただ慧志の手を握りしめ理解出来ない慧志の行動の意味を知ろうとしていた。たとえ握りしめたその手が破片で付いた慧志の傷を更に拡げるものであったとしても。
どれ程の時間が経過したのか、慧志はゆっくりと重い唇を持ち上げる。
「他の男が……選んだ手土産に、腹が立った……から」
慧志の言葉でようやく冬榴は自分の中で合点がいった。それをしてはいけないと誰も教えてはくれなかった。ただいつもご馳走になっているから何か御礼をしたかった。そしてマサミチと少しでも長く一緒にいたいという気持ちもあった。
ただそれだけのつもりで、慧志を傷付ける意図など初めから冬榴の中には無かった。
「どうして……」
ぽたりと掴まれた慧志の手に温かい水滴が落ちる。冬榴が顔を上げた時、双眸には溢れんばかりの涙が溜まっていた。冬榴は慧志の顔を見上げながら首を傾げる。
だからもうこれは自分の負けだと思い、息を吐いて両肩を落とした慧志ははたはたと涙を落とす冬榴の頬に片手を添えその瞳をじっと見つめた後、ただ触れる程度に唇を重ねる。
「トオルさんのことが……好きだからだよ」
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