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第一章 深夜の帰宅
サイドブレーキが上がるキュッとした音で暁は目を覚ます。ぼやける視界の中、手の甲で目元を擦れば次第に視界が拓けていき、駅前の眩いネオンが痛いほど目の奥へと突き刺さった。
少し倒し気味だった座席を元の位置まで戻し、座席自身を少し後ろへと下げる。安全の義務として装着していたシートベルトを外すとロックされていた扉の施錠が開けられ、一度前後を確認してから暁は扉を開ける。
車外に出れば洪水のように頭の上から降り注ぐ喧騒、いつでも暁の頭を悩ませるばかりだったが、そんなことは表情に出さず閉じる前の助手席の扉から腰を屈めて運転席を覗き込む。
「それじゃあ、また――」
扉を閉めると内側からロックが掛かる音がして、程なく聞こえたエンジン音と共に車は走り出す。暁はその車が数メートル先で赤信号に止まってからも見えなくなるまで視線で追い続け、やがて車が左折し完全に見えなくなると漸く一息つくように両肩を落とす。
上着のポケットに入れたままだったスマートフォンを取り出し、長時間切ったままだった電源を入れる。液晶画面に起動状況が映し出される中、暁は僅かに空腹を覚えていることに気付く。
シャットダウンしていた間の通知が一定の間隔をおいて表示される中、映し出される現在時刻では近所の格安スーパーが既に閉店していることに気付く。
初めから格安スーパーを期待して向かい、到着してから閉店に気付くより幾分かマシで、金額は多少張るが今夜と明日の朝を凌ぐだけと割り切ると駅前に点在するコンビニエンスストアで買い物をしてから帰路につくことにした。
一番近くにあったコンビニエンスストアを選んで店内へ入ると、外の暗さが嘘のように昼間よりも明るかった。最近では有線放送というよりはそのコンビニエンスストアオリジナルの音声放送が流れていることが多く、それがアニメとのコラボなどとなれば全く分からない暁にとっては苦痛でしかなかった。
食品ロスを減らす為の施策として取り入れられている二個で値引きされる小さな惣菜を選んでカゴの中へと入れる。子供の頃に両親を揃って亡くし、生きていく為なら何でもした。今でこそ自分ひとりが食べていくには問題が無い程度の収入はあるが、それでもなるべく出費を抑えたいと思ってしまうのはいつ入用になるか暁にも分からないからだ。
「あっ」
いざ精算とレジへ向かおうとした暁は小さな声を上げる。正確には把握していなかったがポケットの奥に捩じ込んだ煙草はもう残り少ない筈だった。いつから知ったのかも覚えていない煙草の味、恐らくその切っ掛けは早く大人になりたいという心の現れであったに違いない。
小さな惣菜カップ二個と値引きシールの貼られたおにぎりを一個。そしてコスパの悪いペットボトル飲料を一本だけカゴに入れて暁はレジの台に置く。会計をする店員の奥にある並べられた煙草を見て番号を伝え、会計を済ませるまでの間一度も店員の顔を見ることは無かった。
他人が自分の顔を見て何を思うか――それを考えるだけで恐ろしかった。今でこそ襟足が長めな髪をプラチナブロンドで武装したことで以前より人目を気にすることは少なくなったが、購入した商品をエコバッグの中へ入れると、エコバッグと共に取り出した黒いウレタンマスクを装着して顔の半分を隠す。
入る時には分からず、出る時になって初めて分かるガラス扉に貼られた幾つかのポスター。そのひとつは暁にとってとても懐かしく、マスクの下で思わず口元が緩む。
暁はかつて人生の全てを賭けていたといっても過言ではない贔屓にしていたロックバンドがあった。その名前はSCHRÖDING《シュレディング》。二代目ギタリストであるハジメの書く詞が、生み出す世界が、それまで無味乾燥であった暁の人生に鮮やかな色を与えた。その位、SCHRÖDINGとの出会いは暁にとって衝撃的なものだった。
そのSCHRÖDINGが数年前に解散をしてから暁の日常はそれまで以上のつまらない毎日に戻った。解散後も音楽の道に残ったのはリーダーでありベーシストのノインのみであり、貼られていたポスターはノインのソロライブのチケット販売に関してのものだった。
ハジメのみに心酔していた暁にとってはSCHRÖDINGではないノインのソロライブは意味の無いものであり、自ら率先して行こうとは思わないが当時のファン仲間にノインの強火ファンもいたはずだと遠い過去の記憶に思いを馳せる。
駅から数分歩けば喧騒から解放され、周囲の店も営業を終了すれば真っ暗で静かな道だけが続く。決して一方通行という訳ではないが車がすれ違うことは厳しい細い道路の端、地面に書かれた白線の歩道側を歩きながら暁は慣れた手付きでスマートフォンを操作する。主にSNSの音楽情報を見ることがメインだったが、時折メッセージが入ればそれにもしっかりと返信をする。
歩きながらスマートフォンの操作は良くないと言われてはいるが、滅多に車が通らない夜の道では周囲の音に気を払いさえすれば余程のことは起こらない。
最近新しく手に入れたワイヤレスイヤホンは耳孔を塞いでしまうので、折角高価な品ではあったのだが外で使う機会にはあまり恵まれなさそうだった。
外部の音を遮断するのならば外より家の中が良い。家の中が無音状態であるとその静けさに押し潰されそうになってしまう。ハジメ加入から解散までの間にリリースされた数枚のCDから作成したプレイリストを流している時間が暁にとっての安らげる時間だった。
静かな夜の住宅街、誰かの声が聞こえた気がした。しかし周囲の家から漏れている声の可能性もあり暁がそれを気に留めることは無かった。
「アキ兄」
今度ははっきりと暁の耳にも届いた。それまでスマートフォンの明かりに目が慣れてしまっており、そこから目を外すと一瞬の暗闇。懐かしい呼び名で自分を呼ぶその声は確かに背後から聞こえており、ゆっくりと振り返った暁は闇の中数メートル先に誰かの姿を見る。
やがてぼんやりと人の形が明確になってくると暁は目を凝らすようにしてその相手を判別しようとする。
暁のことを「アキ」もしくは「アキ兄」と呼ぶのは特定の友人のみであり、特に同じSCHRÖDINGのファン仲間に限られる。中でも暁に対して「兄」の敬称を付けて呼ぶことがあるのは年下の数名でありその時点で対象者は絞れる。
暁の頭の中にはたったひとりの人物が浮かび上がるが、まさか当該人物が駅から少し離れた住宅街に理由もなく現れる訳がないという思いも同時にあった。
最後に会ったのはSCHRÖDINGが解散する少し前のライブだったか、あの頃はまだ未成年どころか高校生で、浅黒い肌にひょろりと縦長い体型はさながらマッチ棒のようでもあった。それが今そこに立つ人物は耳には刺々しいピアスが輪郭からも分かり、年月の経過を暁に感じさせた。
暁は無意識に口元を覆うマスクを下ろしていた。もしかしたらマスク越しでは声がくぐもってはっきり伝わらないかもしれないと思ったからだった。
「……イト、ナ?」
「よっ、久しぶり」
暁に名前を呼ばれた絃成は片手を上げてそれに答える。顔の半分を覆うような大きなレンズのサングラスを外すと、暁の知る絃成の特徴的な目が姿を現す。
当時はSNSの全盛期でもあり、SCHRÖDINGのチケット譲渡や会場限定グッズの代理購入や交換などで交流が盛んになり、自然と親しい仲間同士のコミュニティが出来上がっていた。
暁が最終的に身を置いていたグループは男女混合の七人組であり、都合が合えばカラオケでSCHRÖDINGの曲を歌ったり、飲みに行ったりなどバンドに関係の無いところでも交流を深めていた。
SCHRÖDING解散後、もしくは解散前からも他のバンドのライブへ一緒に行くことのある者達はそのまま交流が続くこともあったが、暁のようにSCHRÖDINGのみにのめり込んでいた者は自然とSNS上での交流が無くなってくる。他の仲間たちと同様別のバンドに興味を持てれば良かったのかもしれなかったが、暁にとっての音楽はSCHRÖDINGかSCHRÖDING以外かしか無かった。
暁と絃成もSCHRÖDINGにより消滅した関係性のひとつであり、絃成が今も他の仲間と頻繁にライブや遊びに出かけているという情報だけはSNSを覗けば用意に得られるものだった。
「何でここに?」
偶然にしては余りにも確率が低い出来事だった。SCHRÖDINGが解散してからの四年間、暁は一度たりとも自宅の近くや最寄り駅の付近で当時の仲間と遭遇したことは無かった。百歩譲ってつい最近絃成がこの付近に引っ越してきたという可能性も考えられたが、格安スーパーすらも業務を終了するこんな夜の深い時間に車が一台通るのがやっとの細い道路で遭遇する確率はどの程度のものだろうか。
二人の間には物理的な距離があった。暁が声を掛けられて振り返った時点で絃成との距離は暗闇でもぎりぎり視認出来る三メートル程度のものだったが、その距離をどちらも進んで縮めようとはせず向かい合っていた。
「あーまあ、何となく歩いてたらっつうか……」
頬を指先で掻きながら絃成は煮えきらない言葉を告げる。どうやら引っ越してきたという可能性は無さそうで、駅から離れた住宅地は間違って足を踏み入れるとは考えにくい場所だった。
暁は微かに背後へ視線を送り、向かおうとしていた先に既に自宅アパートが見えてきているのを確認する。
電信柱の明かりが不規則に点滅を繰り返す中、蛾のような昆虫が浮遊しているのが見えた。
明らかに罠のような、そこに何かしらの思惑が存在しているのは暁にも見て取れたが、深夜の路上で四年振りに会った絃成と立ち話をすることより後僅かで到着する自宅で落ち着きたいという気持ちの方が強かった。
「折角だし、寄ってく?」
すぐそこが自宅であることが分かるように暁は人差し指で指し示す。話があるならスマホのメッセージかSNSで送ってくれと突き放すほど、暁は過去の仲間である絃成に対して非情にはなれなかった。
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