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第二章 突然の申し出

 自宅に誰かを上げるのはこれが初めてという訳では無かったが、それほど親しい間柄ではない相手を招き入れるのはこれが初めてだった。絃成は当時から新名という男を兄貴分として慕っており、暁と個人的な付き合いは皆無と言っても良かった。  だからこそ自分のテリトリーともいえる自宅近くで絃成に声を掛けられたことは驚きとしか言えなかった。  個人事業主として自宅を仕事場にしている暁だったがその住まいは単身者専用のワンルームアパートであり、居住者が増えることは契約上認められていない。  暁がリビング兼寝室の照明を付けると、絃成は物珍しそうに室内を見渡しながら上着を脱ぎ始める。やけに厚手で時期にそぐわないそのパーカーは背面部に表示されているロゴと細かな文字からどこかのバンドのツアー時に販売されたものであると分かる。  季節柄コンビニエンスストアで購入した惣菜を常温状態で放置しておくことが厳しく、絃成がいる前で食べる訳にもいかず一度冷蔵庫の中へしまうことにした。冷蔵庫を開ければ水出ししておいた麦茶の冷水筒があり、惣菜をしまう代わりにその冷水筒と冷やしてあった酎ハイの缶を取り出す。 「お、ギターあんじゃん!」  絃成は部屋の隅でスタンドに掲げられているアコースティックギターに気付き、パーカーをその場に脱ぎ捨てながら歩み寄る。  暁と同じくSCHRÖDINGというロックバンドのファンだった絃成のみならず、バンドファンは楽器やそれを演奏できる者に尊敬の意を抱いていることがある。だからこそ絃成は暁の部屋に置かれたアコースティックギターの存在に目を輝かせた。  暁はグラスに入れた麦茶と酎ハイの缶を持って絃成の様子を眺める。 「アキ兄、ギター弾けるんだ?」  振り返った絃成の瞳は期待に満ちており、暁からグラスを受け取った後もどこかそわそわした様子で暁へ視線を送っていた。絃成の言いたいことはその視線だけで暁には分かっていた。以前仲間内でSCHRÖDINGの誰のファンであるかという話が出た時、暁が二代目ギタリストであるハジメをリスペクトしていると言ったのを今も覚えていたのだろう。 「ああ、それは……」  片膝を立てるように腰を下ろした暁は器用に片手だけで酎ハイ缶のプルトップを開ける。客人である自分には麦茶なのに家主の暁が酎ハイを飲もうとしている姿にほんの少しだけ無念そうな表情を浮かべる絃成だったが、そもそも突然の訪問である故文句は言えなかった。  外から戻ってきた火照る身体に冷えたアルコールを流し込む。絃成が興味を示すアコースティックギターは暁もあまり視界に入れたくないと願う苦々しいものだった。アルコールを一気に流し込み手の甲で口を拭う。少し強く握り込めばアルミ製の缶は容易に凹み歪な音を立てる。 「弟の……なんだよ」  暁の表情が曇ったことに絃成は気付いた。同時に暁に弟がいるという事実もこの時初めて知った絃成だったが、言われてみれば当時から暁の絃成に対する態度は兄が弟に対するそれに似ていて、兄貴分として慕う新名とは違う何かを感じていた。  だがそれ以上のことを暁は話そうとしない。幾ら察しの悪い絃成であっても暁が言う弟が既に亡くなっている可能性には気付くことが出来た。何だかそれ以上のことを聞いては悪いような気がして絃成は両手でグラスを握り込む。  暁にとっても自分の所有物とは言い難いアコースティックギターをいつまでも部屋に置いておきたくはなかったが、簡単に処分出来ない程の思い入れもあった。  缶から伝わる冷気で指先から冷えていき、暁は空になった缶を持って立ち上がる。壁掛け時計に視線を向けて時刻を確認すると既に日付が変わりそうになっており、今から急いで駅へと向かわせて終電に間に合わせるのも、ここからタクシーで帰れと追い出すのも酷であると考えた暁は念の為に絃成がどうするつもりなのかを確認することにした。 「今日は泊まってく?」  別れていないのならば絃成は同じ仲間のひとりで唯一の女子である萌歌と付き合っているはずだった。その若さで同棲することは双方の両親が許さないだろうが、半同棲状態ならば有り得る。  当然元より誰かを泊めることが想定されていない暁の部屋には低めのベッドひとつしか置かれていなかったが、それでも誰も泊まらないという訳ではないのでもう一組分の布団の用意とそれを敷くスペースも辛うじてある。  もし絃成が今からタクシーで帰ると言うのならば年上として多少の補助はするつもりだったが、絃成の性格上帰るのも面倒ということになれば泊まることを選択する可能性の方が高かった。  押入れを開けて下段から布団を取り出す暁だったが、ふと振り返ると絃成が何故かそわそわと落ち着きのない様子を見せ始めていた。 「あのさあアキ兄」 「うん?」  敷布団をベッドの横に並べて敷きながら暁は絃成からの呼び掛けに相槌を返す。それでも中々次の言葉を口に出さない絃成を不審に思った暁は寝具を整える手を止めて絃成を振り返る。 「匿ってくんねぇ?」 「は?」  ――〝匿って欲しい〟。  その言葉は初めて聞いた単語のように暁の頭の中に消化されず残り続けた。  絃成が今何かをしでかして匿って貰わざるを得ない状況であることは暁にも理解出来たが、その助けを求める相手が自分である理由が暁には理解が出来なかった。絃成は誰よりも新名を兄貴分として慕っていたので、匿って欲しいのならば第一に新名を頼るべきだろう。  四年間も一切の交流が無かった自分に匿って欲しいと突然言い出すような状況が暁にはすぐに思い付かなかった。親しくしている筈の新名にも頼れない理由があるとすると考えられるものはひとつだけだった。 「なに、浮気でもしてモカにバレたの?」  どちらから交際を申し入れたのかは定かではなかったが、当時の絃成の入れ込みようを考えても絃成が萌歌にベタ惚れだったことは間違いがない。そうだとしてもそれは暁の知る四年前のことで、今更絃成が他の女性に気を引かれたとしても同じ男として分からなくもなかった。  暁から見ても萌歌は魅力的で、小柄な身長と童顔にFカップはあるという豊満なバストは、暁が真っ当な道を歩んでいたとしたら興味を強く惹かれただろう。  もし浮気が萌歌にバレて、情報の周りが早い新名にも頼れないということであるならば熱りが冷めるまで匿うこともやぶさかではなかった。 「俺はそんなことしねぇよ!」  突然声を荒げる絃成に暁は引っ掛かりを覚えた。ただそれが何であるのかを熟考するより先に絃成が匿って欲しい理由が浮気ではないという情報が暁の中でアップデートされた。  付き合っていることを否定していないことから、まだ萌歌との付き合いは続いているということが分かり、二人の交際を年長組として微笑ましく見守っていた身としてはこれ以上の嬉しい報告は無かった。  萌歌から逃げている訳ではないとするならば、その上で新名にも頼れない絃成の匿って欲しい理由は何であろうと考えながら暁は自分の寝床であるベッドに腰を下ろす。  弟のように思っていた絃成だからこそ匿うこと自体に問題がある訳ではなかった。腕を組み首を傾げてもそれで絃成が自分に助けを求める理由を納得出来る訳では無かった。暁がそれを疑問に思うのは、何も自分でなくとも和人や那音など絃成が連絡を取れそうな仲間は幾らでもいる中で何故交流すら無かった自分を選んだのかということだった。  寧ろ多少クセは強いが那音などは喜んで絃成を匿ってくれるだろう。絃成は中途半端に整え掛けていた布団を整え、その枕を離さないと言わんばかりに抱き締めながら乞うような視線を暁に向ける。  それが昔と異なりあまり可愛いと思えないのは、以前は無かった唇や眉にも施されたボディピアスの影響だった。新名の悪いところばかり影響されていると内心悲嘆にくれる暁だったが、兄貴分と慕う相手が勧めるがままに真似をしたがるのは別に悪いことではない。 「――別に、匿うとかそういうのは構わないんだけどさ」  手を伸ばしてベッドサイドのライターを取る。ポケットの中から取り出したくしゃくしゃの煙草を一本口に咥えて火を付ける。  絃成から頼られることが嫌な訳では無かった。もし絃成を匿うことで暁が今後不利益を被ることがあったとしても、それは困っている仲間を見捨てる理由にはならない。  問題なのはそれが絃成であるということで、もし困っているのが親しくしている那音であったならば二つ返事で了承していた。今はそこまで親しくもない真夜であってもそれは同じことだっただろう。  ベッドに片膝を上げ、煙草を挟む手で横髪を掻き上げながら細い煙を吐き出す。何時間か振りに吸った煙草のニコチンは多少暁の頭をふらつかせた。その影響もあったのだろう、言うべきではなかったかもしれない言葉が暁の口からするりと放たれる。 「俺、ゲイなんだよ」  那音を始めとする他の仲間たちは当時から知っていた。寧ろ知らなかったのは当時未成年だった絃成と萌歌のふたりだけだと言っても過言では無い。  奇異の目で見られることは慣れていた。両親を亡くし、弟と生きていく為ならば何でもした。たとえそれが世間の常識と外れていたとしても。まだ子供だった暁にはそれしか生きていく手段が残されていなかった。  性的嗜好を受け入れて欲しくて絃成に明かした訳では無かった。ただ何も知らないで泊まることと知った上で泊まることは後で大きな差が出て来る。絃成がまだ萌歌と付き合っていることから、萌歌が嫌がるということも考えられた。  それを知った上で、匿って欲しいと絃成が望むのならば暁は断る理由はないし、辞退するのならば那音や和人など暁が連絡の取れる数少ない仲間に渡りを付けても構わなかった。  壁掛け時計の針音だけが虚しく室内に響く。年下である強みを生かし、あわよくば匿って貰おうと考えていた絃成は暁からの衝撃的な告白を聞いて枕を抱き締めていた腕が緩む。ハッとして強く枕を抱き締め直した絃成は暁が告げた言葉の真意を問うようにじとりと視線を向ける。  カチリ、と時計の長針と短針が重なる音が響いた。 「俺のこと、掘りてぇの……?」  吸い込んだ煙がタイミング悪く気管へ入り込んだ感覚があった。暁は思わず噎せ返り、燃え尽きた灰の塊が布団の上へ落ちる。  その灰を手で払いながら咳き込みを繰り返し、苦しそうなその声が次第に楽しそうな笑い声へと変貌していく様を絃成は驚きつつも見つめていた。 「あはっ、あっははは!」  滅多に感情を爆発させることのない暁の大爆笑に絃成はぽかんとして視線を向けることしか出来なかった。  腹筋が引き攣りそうな笑いを堪え、吸いかけの煙草を枕元の灰皿へと押し付けて鎮火させる。暁の弟は六歳下で、丁度絃成と同い年にあたる。それ故暁の絃成に対する感情は弟に対するそれと変わらず、今まで一度たりとも絃成をそういった対象として意識したことは無かった。 「ごめんっ、そういう意味じゃなくて……絃成のことは弟みたいにしか思ったことないから安心してよ、っふ、はは」  ベッドの上で蹲り、ようやく的外れな勘違いによる爆笑が治まった暁はゆっくりと身体を起こすと乱れた髪を掻き上げる。 「――いいよ、匿ってやる。何日でも」  暁のその言葉を聞いて絃成の表情がぱあっと明るくなる。  兄が弟を守ることに理由は要らない。それが本当の弟でなくとも暁にとって絃成は弟も同然の存在だった。

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