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第三章 旧友との再会

 絃成が暁の部屋に匿われてから数日。  弟がいたという言葉の通りか、それとも元々面倒見の良い気質のせいか寝食に関して絃成が困るということは一切無かった。近所に格安スーパーがあるらしく、朝昼晩の三食出来合いの惣菜かもしくは簡単な暁の手料理が提供された。絃成はその中でも匿われた翌日の夜に暁が作ってくれたチャーハンがお気に入りだった。  匿われている手前、暁の部屋から出ることもなくただ寝転がってスマートフォンのゲームを続けるだけの日々を過ごす絃成だったが、暁が五月蝿いので毎日シャワーを浴びるしその都度新しい下着や衣類を提供してくれる。  成長期を経て今は暁より少し身長が高くなった絃成だったが、差し出された暁の部屋着が着られない訳ではなく、心なしかその部屋着は良い匂いがした。  暁は個人事業主という絃成には良く理解出来ない仕事をしていて、平日の日中はリビングに置かれたパソコンに向かい合っている。その間は絃成からも声を掛けることは許されず、作業用の音楽として何かを聴いているようだったが終始ヘッドホン経由で聴いている為それが何を聴いているのかは絃成に分からなかった。  一度直接仕事中に何を聴いているのかと直接暁に訊ねたことがあった。すると暁はSCHRÖDINGの曲から作成した独自のプレイリストであると答えた。  暁がハジメのファンであるということを絃成は知っていた。絃成はボーカリストであるオクトのファンであり、それが同じオクトファンである新名を兄貴分として慕う切っ掛けでもあった。  暁は買い物以外でも休日に外出することがあった。匿って貰っている身である絃成はそれに文句をつけられる立場になく、ただ暁が帰ってくるまで部屋の中で息を過ごして生活していた。外へ出られないということを除けば暁の部屋での暮らしは快適であり、部屋を訪れる度義務のように性行為を求められる萌歌との大きな違いであると考えていた。  絃成はひとりっこで兄弟は居ないが、兄弟がいるというのはこんな感覚なのかと思い始めていた。新名とも仲は良かったが、それは尊敬する対象という意味での兄貴分であり、新名の部屋でここまで安らげる気はしなかった。  部屋にあるものは自由に何でも使っていいと言われていたので、ゲームに飽きた絃成は他に娯楽が無いかリビング兼寝室を見渡す。すると本棚にもなっていない棚に数冊の小さな本が並べてあり、興味を持った絃成は起き上がり棚に近づく。  随分読み込んだであろうその文庫本は表紙が反り返っておりそれぞれの紙の外側が黄変していた。煙草を吸いながら暁が何度もこの小説を読み返したことは明白で、活字を読むのが苦手な絃成だったが暁が帰ってくるまでの良い暇潰しにはなるだろうとその小説を手に取りベッドへ腰を下ろす。  《後悔するには愛し過ぎた》。  その小説の表紙にはタイトルが書かれていた。著者名は《岩永はじめ》。はじめという名前に引っ掛かりを覚えた絃成は手を伸ばして充電器に挿したままのスマートフォンを手に取る。  そしてその名前を検索してみれば《岩永はじめ》とはSCHRÖDING解散後のハジメのペンネームであり、《後悔するには愛し過ぎた》とはハジメがインターネットに投稿して脚光を浴びた小説であることが分かった。  ハジメが同性愛者であるということはコアなファンなら殆どが知っていることだった。だからこそ暁はハジメが紡ぐ言葉に惹かれたのかもしれない。繊細さの中僅かに含まれる悲鳴のような狂気、自らの立場に苦しみ嗚咽を繰り返し汚物に塗れながらも望んだ一筋の光。  ページを捲る手が止まらず、読了した頃窓の外はどっぷりと夜に染まっていた。思わず壁掛け時計へ視線を向けた絃成は夜の十時を回っていることに初めて気付く。  そしてこの時間になっても暁が帰宅していないことが唐突に不安になる。昼飯は暁が用意しておいてくれた焼きそばを温めることで済んだが、夕食については何も伝えられていなかった。そのことから夕食前までには帰ってくるものだと考えていたが、二十二時という時間を考えると遅すぎる気もする。  絃成の頭を過ったのは――匿って貰っていることがバレたのではないか――ということだった。それまでは楽天的に考えていた絃成の中に鬼気迫る何かが滑り落ちる。  駅までくらいならば様子を見に行っても良いだろうか。幸い暁のクローゼットの中にはSCHRÖDINGのライブパーカーもあり、いつもオーバーサイズで買うそれは絃成の体系を隠すのには丁度良い大きさだった。  それとも先に連絡をしてみるべきか。ただ匿われているだけの存在で、恋人関係という訳でもない。いつ帰ってくるのかなんて催促をする真似はしたくなかったが、本当に帰ってくるのかは不安だった。  それでも暁を巻き込んだのは自分であるという自覚が絃成にはあった。スマートフォンで電話帳を開き暁を選ぶ。この発信ボタンを押しても良いのか、心臓の鼓動がばくばく響き耳が痛い。  突然室内に鳴り響いたインターフォンの呼び鈴はそんな絃成の緊張にトドメを刺すのに十分だった。思わず変な声が出てしまいそうで絃成はスマートフォンを落とし両手で口を塞ぐ。  暁なら帰宅時にインターフォンを鳴らす必要が無い。この家の鍵を持っているのは暁だけで、留守中に荷物が届いても受け取らなくて良いと暁には言われていた。  そろりと音もなく立ち上がると腰から下が自分の意思に反して大きく震えているのが分かった。間違えて何かを踏んで大きな音を出さないよう、両手で口を塞ぎ息を潜めたまま絃成な一歩ずつ玄関へ歩み寄ってそっとドアスコープを覗き込む。  そしてドアスコープを片目で覗き込んだ絃成は目を丸くして息を呑む。  絃成は鍵を開けて勢い良く玄関扉を開ける。 「ナオ兄!」  暁の片腕を肩に担ぎ、そこに立っていたのはかつて同じSCHRÖDINGのファン仲間である那音だった。突然音もなく絃成が扉を開けたことに余程驚いたのか、那音も目を丸くして絃成を見返していた。  那音の肩に寄り掛かるようにして帰宅した暁は、絃成が勢い良く飛び出してきた姿を見ると声を出さずに手を払い絃成を室内へと追い返す。それは匿っている絃成の姿を露呈させない為の暁なりの気遣いだった。  那音に支えながら玄関の中へと入った暁は腰を落とすと同時に面倒臭そうにその場に横たわる。せめて靴を脱いで部屋に上がれと那音は扉を閉めると屈み込み、暁の靴を片方ずつ脱がせていく。 「ほんとに、アキの部屋に居たんだねイトナ」  那音の言葉に絃成はぎくりと身体を震わせる。 「お、おう……」  まさか今日暁が会っている相手が那音であるとは絃成は思っていなかった。当時からも暁は那音や真夜と一緒にいたような記憶が薄ぼんやりと絃成の中に蘇る。 「……風呂、入る」  まるで井戸から出てきた女の幽霊のように床に指を立て這いずろうとする暁だったが、酔っていることは誰から見ても明らかだった。だからこそ那音が暁を家まで運んできたのだろうが、ふたりの親密さに絃成はもやりとする感情を抱いた。 「泥酔状態で風呂入ったら死ぬって知ってる?」 「やぁだ死んでも入る~」 「じゃあ入ればいいじゃん」  駄々を捏ねる暁の相手をするのは一瞬だけで、すぐに飽きたように那音は絃成に目線で合図をし暁を玄関先に放置したままリビング兼寝室へと向かう。 「あ、そうだこれアキから。夕飯まだなんだろ?」  那音は思い出したように片手に持っていたビニル袋を手渡す。その中には若い男性が喜びそうな唐揚げや揚げ物類、炊き立ての白米のパックが入っていた。 「それねぇ、駅前の揚げ物屋さんのー、塩麹の唐揚げとかおいしーよぉ」 「アキ兄はさっさと風呂入ってきなさい」 「はぁーい」  未だに玄関先で蠢いている暁にぴしゃりと言い放つ那音を見る絃成は自分の内から湧き上がりそうな感情をつい口から出さずにはいられなかった。黒地にワンポイントのマークだけが入ったTシャツはSCHRÖDINGの初めてのツアーで販売されたもので、絃成はその胸元を無意識に強く握りしめていた。 「……ナオ兄、アキ兄と仲良かったんだな」  ふたりの年齢が近いというのもあり、類友という表現がぴったりなのかもしれない。やたらと上機嫌でハイテンションな暁を見たのは匿って欲しいと頼んだ当日の夜くらいだったかもしれない。上機嫌といえば仕事中にSCHRÖDINGを聴いている時の暁もそうではあったが、ひとりで噛み締める上機嫌と誰かと共有する上機嫌はまた別物である気がしていた。 「そうかもね。何だかんだ良く遊びに行ったりしてるし」  ローテーブルの上に暁が買ってきてくれた夕飯を並べ、胡座を掻いて手を合わせる。那音は特に何をするでもなく絃成と同じ食卓について頬杖をつきながら片手ではスマートフォンを弄っていた。 「――ナオ兄は、最近みんなと会ってんの?」  絃成は新名と仲が良すぎた分、当時から那音と個人的な交流が一切無かった。那音と新名はとてつもなく仲が悪い。それは直接巻き込まれた訳ではない絃成から見ても明らかだった。  発端は初代ギタリストのゼロ派か二代目ギタリストのハジメ派かという点から始まり、後は根本的な相性の悪さが災いして仲間たちで集まる時でも目さえ合わせないという不仲っぷりだった。  ただふたりがまだ大人だった部分はお互い目の敵にしているのはその対象の相手のみであり、その人物に連なる者にまでは敵意を向けなかったということだった。従って那音が絃成に敵意を抱いているという事実は無いが、どことなく気まずさを感じない訳でもなかった。 「ちょっと前にマヨと会ったくらいかなぁ。カズ兄とも最近連絡取ってないし」 「そっか……」  交流の殆どが萌歌か新名のみだった絃成は今他の仲間がどこで何をしているのかも把握する術が無かった。暁のようにSCHRÖDING解散後は殆どSNSを更新しなくなった人も多く、直接的な連絡先を知らない限り近況を知ることは難しい。 「ああでもさっきアキが、カズ兄がノインのライブ行く予定だって言ってたかも」 「アキはカズ兄とも連絡取ってんの?」 「さあ?」  和人は《カズ兄》の名前で慕われている仲間のまとめ役だった。顔を合わせればヒートアップする那音と新名の喧嘩を和人が収めることも頻繁にあった。  こうして暁とだけではなく四年振りに那音と再会して思うことは懐かしかった四年前のこと。SCHRÖDINGのライブが発表されれば東名阪の有名なところだけでも皆で行こうとチケットを取り合い、和人の運転する車でちょっとした旅行気分も味わった。楽しかったあの頃に戻りたいという気持ちが絃成の頭の中に過った。  感傷に浸りはしても腹は減るもので、炊き立ての粒だった白米のお供にキツネ色の衣を纏った唐揚げを口いっぱいに頬張る。じゅわりと口内に広がる肉汁と塩麹のアクセントは絃成の胃を存分に満足させるものだった。  一頻りの談笑を終えた後、壁掛け時計へ視線を向けた那音は終電に間に合わせる為帰宅しようと腰を上げる。まだ話し足りない絃成だったが引き留めるのは心苦しく、今は都内で会社勤めをしているという那音が泊まっていくとしても流石に単身者用のワンルームに大の男三人が寝転がるのは厳しい。  それでも絃成は那音が帰宅すると聞いて内心ではどこかほっとしていた。  連絡先は交換をしたので、何か困ったことがあったら連絡をして欲しいと告げた那音を玄関先まで絃成は見送る。帰ってしまうことに対する寂しさとどこか安心する自分の内側と葛藤を繰り返しつつ、靴を履く那音の背中を見詰める絃成の耳に脱衣所の扉が開く音が聞こえた。 「ナオ、帰んの?」  風呂上がりの暁は上気した顔にプラチナブロンドの髪を貼り付け、腰にタオルを巻いたまま顔を覗かせる。 「うん、また再来週ね。時間についてはまた連絡するから」  那音は立ち上がって履いた靴の爪先を打ち付ける。自分が外に出られない身であると分かっていながら、暁と那音が頻繁に遊びに行っているという事実は絃成にとってもどかしいものだった。 「ほら、こないだ忘れてったやつ」  暁は髪からぼたぼたと水滴を落としながら白いコンタクトケースを帰り際の那音へと手渡す。洗面台に誰のものか分からないコンタクトケースが置いてあるのを知っていた絃成だったが、それが那音のものであるということは今初めて知った。  コンタクトケースを置き忘れる程親しい暁と那音の関係性に何か妙な気持ちを絃成は抱く。しかしそれよりも暁が腰にタオルを巻いただけという半裸状態で脱衣所から出てきている方が今の絃成には問題だった。  受け取ったコンタクトケースをポケットの中へと押し込んだ那音は、一度スマートフォンで時間を確認してから終電の時間を留意して部屋を出る。ばたんと扉が閉まると暁より先に絃成が歩み出し内鍵を掛ける。  普段の絃成ならば用事が済めばすぐに寝室に戻り布団に転がってスマートフォンのゲームでもしそうなものだったが、何故かこの時に限っては施錠した内鍵を掴んだままその場に立ち尽くしていた。  シャワーを浴びてすっかりアルコールの抜けた暁はその絃成の異変に気付き、もしかしたら那音に何か言われたのかと考えた。リビングへ視線を向ければローテーブルの上には食べ終わった夕飯の残骸が置かれており食欲が無いという訳では無さそうだった。  帰宅するのが遅くなったことに対して臍を曲げているのかとも考えたが、買ってきた夕飯を残さず食べきっている時点でそうではない気もした。 「イトナ、どうかした?」  暁は玄関扉の前に立ち尽くす絃成の顔を覗き込む。ふわりとメンズシャンプーの爽やかな香りが暁から広がり、絃成も同じシャンプーを使っているはずなのにその芳香は全く別のもののように思えた。  特に気にすることではないと思っていたが、今になって思い起こされる暁が絃成に告げた性的嗜好の話。暁は自らとゲイであると告げ、その上で絃成はその対象に入らないと伝えた。  では暁にとって那音はどうなのか。朧げな記憶ではあったが、当時から暁と那音は親密な関係に見えていた。SCHRÖDINGという応援するバンドが無い今、それでも頻繁に遊びにも行っており、コンタクトケースを那音が忘れていったことや客用の寝具が一組常備されていることからも那音も良く泊まっているのではないかと絃成は考えた。  絃成もこの数日間で暁を兄のように思っていた。それは新名相手には覚えなかった感情で、暁と過ごす日々に安らぎを感じていた。  那音は基本的には良い人で、新名と不仲であっても自分には優しくしてくれていた。それなのに何故暁と那音の距離が近すぎるのを嫌と感じたのか、絃成はまだ自分自身でその感情の意味を理解していなかった。  目の前にあった暁の腕を絃成は掴む。そして暁の顔を見返す。 「アキ、ナオ兄と付き合ってんの?」

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