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第四章 意地の張り合い

 ――〝ナオ兄と付き合ってんの?〟  予想外に投げかけられた絃成の言葉が何度も頭の中で繰り返される。確かに自身が男性しか恋愛対象に入らないということを絃成に明かしたのは暁自身だったが、その結果として那音と付き合っていると思われることに至るとは考えも及ばなかった。  何をどう見れば那音と恋人関係に見えるのか、絃成の飛躍し過ぎた思考を理解するのは難解だったが、ぽたぽたと床に垂れ落ちる風呂上がりの雫に視線を落とした暁は再度絃成に視線を向ける。 「ナオと? そんな訳ないじゃん」  幾ら性的な対象で男性であったとしても身近にいる男性が全てその対象に入る訳ではなく、そもそも弟と同い年である絃成をそういった対象として意識したことは今まで一度もなかった。それは那音に対しても同じで、暁から見た那音という人物はハジメ加入以降の楽曲を共に楽しむことの出来る同志に近い存在だった。  絃成が掴んでいた手を放し、暁は掴まれていた腕に視線を落とす。そしてそのまま腕を持ち上げた暁はどこか思い詰めている様子の絃成の頭にぽんとその手を乗せる。  四年前よりずっと身長が伸び自分の目線よりも高くなった絃成は、弟が成長していたらこんな感じであるかと暁に感傷を沸き立たせた。 「イトナもナオも弟みたいなモンなんだから」  くしゃりと頭を撫でると絃成の肩が跳ねる。絃成が未だ玄関扉に向いたままであることを見守りながら、暁は手を下ろしてシンクへと向かう。  換気扇のボタンを押せば低い旋回音が響き始める。寝室に置いたままの煙草を取ってきて一服したい気持ちになったが、その時になってようやく半裸状態であったことに気付く。  いい加減に腰タオルのままでは身体が冷えてしまうと察した暁はせめて下着だけでも履いてこようと換気扇を回したまま踵を返して脱衣所へと向かう。  腰に巻いていたタオルを頭に掛け、髪から滴り落ちる雫を少しでも防ぎながら片足ずつボクサーパンツを穿く。その時腕が視界に入るとつい先程絃成に掴まれた感触が蘇る。  那音がおかしな匂わせ発言を絃成に吹き込む意味はないので、シャワーを浴びていた間に何かを那音に言われたという可能性は除外しても良かった。  那音が以前忘れていったコンタクトケースを帰り際に渡すことで何かの誤解を生むとも考えられない。半裸姿で出たのがいけなかったのかとタオルで頭を拭きながら考える暁だったが、風呂上がりの半裸姿など絃成を匿ってからもう何度も見られている。  別に全裸を晒した訳でもなく、萌歌という彼女がいる絃成と重度のシスコンである那音の前に半裸を見せることに何の抵抗も感じてはいなかった暁は少し考えた上で上半身にタンクトップを着込む。  脱衣所の扉を開けると玄関前にまだ絃成の姿があり、いつまでも玄関扉と向き合っていた訳ではないが何かを訴えたそうなじとりとした目線を出てきた暁へと向ける。  その視線にはどこか覚えがあり、弟が小学生高学年か中学生のころ、何かを言いたいのに素直になれなくて言葉に出せないような表情に似ていた。  途端に肩の力が抜けて暁はフッと軽い笑みを零す。恐らく絃成はこんな時間までひとりで留守番をさせられていて寂しかったのだと認識するのにそう時間は掛からなかった。  ずっと忘れていたはずの暁の兄心が疼く。那音より年齢が同じということもあり弟に近い存在として認識し易い絃成のそんな拗ねた表情を見て暁は思わず笑みを漏らさずにはいられなかった。 「イトナもシャワー浴びるか?」  しかしそんな暁の意に反して、当の絃成は暁から子供扱いされているということ自体に大きな不満を持っていた。  目の前を横切りぺたぺたと素足の足音を響かせながらシンクへ向かい、水道の水をグラスに注ぐ暁の姿を絃成は目線で追う。その無防備な後ろ姿も、男にしては白い肌も細い腰も、頭に乗せたタオルから覗く襟足の長いプラチナブロンドは外国製の人形のようでもあった。 「……アキ」  当時碌に暁と話をしてこなかったことを絃成は今になって少しだけ後悔していた。四年振りに会って、五歳の年齢差は今も昔も変わらない。一生埋めることの出来ない差がそこにはあった。しかし身長だけは暁を越し、あの時見えなかった視点で今は暁を見ることが出来る。  絃成は自らの手に視線を落とす。掴んだ腕には全く筋肉が感じられず、細かった。あの時自分たちよりずっと大人に見えていた暁は、成人を過ぎれば自分と変わらない人間であることが分かり、こんなにも自分と同じで弱い人間であるということを改めて実感していた。  それでも、暁の中の自分の印象は昔と変わらぬ子供のままで、絃成はそれが無性に悔しかった。  水を飲み終えた後煙草を取りにリビング兼寝室へ向かおうとした暁の腕を再び掴む。 「う、わっ」  突然背後から腕を引かれた暁は濡れた足を床に滑らせ、踏ん張りが効かぬままバランスを崩してその場に転ぶ。足を捻りはしなかったが、多少強く打ち付けてしまった腰に鈍痛が走る。  体勢を整えて起き上がろうと暁が顔を上げた時、迫る絃成の顔がそこにはあった。 「――俺だって、男なんだぞ」  床で横になった状態から上半身を起こそうとした体勢のまま、暁は自分を跨いで見下ろす逆光の絃成を見上げていた。  それは暁にも想像だにしていなかった状況であり、しんと静まり返ったキッチンの中央で換気扇の旋回音だけが聞こえていた。  絃成が男であることは暁も理解している。同時に暁自身も男であり、今のこのシチュエーションは理解しがたいものだった。 「――え、いや、知ってる……けど?」  額に湯上がりの雫が伝うような感触があり、暁は絃成を見上げたままゆっくりと瞬きをする。  ゲイであると公言した割りにはこの状況においても一切の動揺を見せない暁の様子を直視した絃成は、言葉通り弟のような存在であると認識されている事実に対して言葉に表せられぬ腹立たしさがあった。  ただほんの少しであっても焦る様子や恥じる姿を暁にさせることが出来ればそれで満足だったかもしれない。暁にとって絃成が弟のような存在であったとしても、今の絃成は対等な存在として暁に認識をして欲しかった。 「分かってねぇって!」 「や、分かってるよ」  絃成には可愛い萌歌という恋人が居る。恐らく絃成から熱心に口説き落としたであろうその状況から、絃成が生粋の異性愛者であることは当然暁も理解していた。当然絃成が本気で言っている訳がないということを暁は知っており、少し度がいきすぎた洒落にならない悪ふざけであることを見抜いていた。  拒絶するのは容易かったが、このまま挑発に乗り続ければ先に音を上げるのは絃成のほうであろうと暁の中に悪戯心が沸々と湧き上がる。  本当に弟と思っているのならば、必ずどこかで耐えきれなくなるはずだと引くに引けなくなった絃成は膠着状態となって暁へと視線を落とす。ボクサーパンツ越しにはっきりと見える下半身は明らかに絃成と同じソレで、襟ぐりが緩いタンクトップからは色素の薄い暁らしい朱鷺色の突起が微かに見えていた。  思わずごくりと絃成の喉が鳴る。それに一番驚いたのは絃成自身で、対象となる暁は目下歴然とした男性だった。  お互いに発せる言葉が無く、気不味い空気が充満する。暁は絃成の誤作動を疑っていた。まだ若く二十代になったばかりで性欲も有り余っているであろう絃成が理由はあるとしても部屋から出ることも出来ず、己ひとりで処理することも叶わず溜まりに溜まってしまったモノが、不運にもこのタイミングで誤作動を引き起こしたのではないかというのが暁の考えついた結論だった。  お互いに譲れぬプライドがあり、もし絃成が暁を挑発などしなければ、暁も絃成が音を上げるまで静観しようとは考えなかっただろう。  あくまで暁にとっての絃成は〝弟のような存在〟であり実の弟ではないので、迫られること自体に動揺が表れるわけがなかった。 「――ホントにすんぞ」  絃成は暁の上に乗った状態で背中を丸め、顔を近づける。微かな吐息すらも確実に伝わる距離で、絃成は顔を傾け唇の凹凸を合わせる。普段ならばこの時片手は確実に萌歌のFカップを揉みしだいているのだが、暁に対してはどこに触れるのが正解かも分からず上体を支える添え木のように床に然と付いていた。 「出来るモンならやってみな」  絃成に根性がないとまではいわないが、逆に煽られてしまえば絃成は普段ならばやらなくても良いことを意地になってやってしまう。暁からも絃成が震えているのが良く分かった。それが絃成なりの男らしさなのか、降りてきた絃成の唇と暁の唇は重なり合う。  自分が言い出したことから逃げ出さなかったことは称賛に値するが、そろそろ年上をからかうとどうなるかを絃成へ分からせる為に、暁は童貞のように硬直する絃成の唇の隙間にするりと自らの舌を滑り込ませる。 「ン……!?」  途端に絃成の背筋がびくりと震え、恐らく萌歌以外に経験が無く、意外にも純情な絃成へ一矢報いることの出来た暁は目を細めて自然と口角が上がる。  しかし暁の思惑通りに進むのが気に食わないと絃成も感じたのか、口腔内へ侵入してきた暁の舌を絡め取り歯先で柔く食む。  意外にも絃成が逃げずに受けて立つ姿勢を見せてきたことに驚きはあった暁だったが、どちらともなく目蓋を落としキッチンで夢中になってキスを交わす。  時折紡ぐ呼吸とそれに乗って聞こえる小さな声は換気扇の低い旋回音で容易に掻き消された。 「んっ、ぁ……イト、ナ……っ」  夢中でキスを貪った。それはほんの数分程度の出来事だったが、やがて透明な糸を引いて唇が離れ、目蓋を上げたふたりの視線が交錯する。  ただそんな気分だった。ほんの少し欲に駆られただけで。  見上げた絃成の顔は表現し尽くせない表情と顔色をしていた。自らに対する驚きや、途中で止めることの出来なかった絶望。満たされた気持ちもそこには確かにあったが、同時にこんなキスだけでは終われないという焦りと切望もあった。  暁は肘を付いて上体を起こす。そしてそれに合わせて絃成も少し暁から離れる。煽った責任は暁にあったが、そもそも暁を動揺させたいが故に迫ったのは絃成からだった。そこにはもう那音に対する小さな嫉妬など微塵も残っていなかった。  暁は目を細めてくすりと笑うと絃成の耳元へ唇を寄せて囁く。少しだけ啜る唾液の音がやけに艶かしく、絃成の耳はそれを過剰なまでに大げさに受け取っていた。 「――イトナ、勃ってる」  暁が片手を添えるその場所は、絃成が部屋着として暁から提供されている七分丈のスウェットをその形がはっきりと分かるまでに押し上げていた。布越しに指先で触れられるだけで絃成の背筋に電流のような刺激が駆け上がる。  どれだけ大人の余裕を演じたとしても、所詮絃成はまだ二十一歳の健康な男性。その相手が暁という同性であろうとも自制出来ず、刺激を受ければ身体は簡単に反応を示してしまう。  それは今まで萌歌しか知らなかった絃成にとっては初めての葛藤でもあり、萌歌では得られなかった初めての激情だった。  下肢に伸ばされた暁の手を、指を絡めるようにして重ね、耳まで赤くした絃成はまるでおねしょがバレた子供のように羞恥に打ち震えながら、不服そうに唇を尖らせる。 「アキのせいだろ」 「――フ、そうかも」  絃成のことを弟のように思っていたのは嘘ではない。可愛い弟のような存在であることは今でも変わらない。四年振りに会った絃成を見て、あの頃から背も伸びて男らしくなった絃成を見て、感じたものはやはり成長の喜びだった。それは今はもう見られない弟の成長を見られた感覚に似ていたのだと思う。  支え合うようにして立ち上がって、どちらからとも分からず手を繋ぎ、換気扇の音を聞きながらリビング兼寝室へと向かう。  倒れ込むようにしてベッドへ雪崩込み、暁が絃成を見上げる形で見つめ合った。  言葉による確認は不要で、ただ暇と性欲を持て余した戯れに過ぎなかった。絡めた手の指を握り直して、暁にも指摘された腰を押し付けながら口付けを交わす。  揺らす腰の動きは慣れたもので、四年前にはウブな高校生だった絃成からは想像出来なかった男の動きに暁は頭の片隅でまずいことになってしまった自覚を僅かに持っていた。しかしそんな不安要素はすぐに霧散し、絃成が盛りのついた猿のように腰を押し付ける動きがやがて暁の衝動さえも呼び起こす。 「っアキ、……っ」  無意識に掴んだ胸は女のそれとは違い弾力性は無かったが、丁度掌に触れた突起が隆起していることに気付くと弄ぶように掌で転がす。 「んんっ……!」  ぴくりと暁の背筋が跳ね、求めるように伸ばした足が絃成の足を絡め取る。 「あー、男でも乳首、感じんだ?」  暁の反応に気を良くした絃成は掌の中で転がしていたそれを指先で詰み、暁の様子を確認しながら指の腹へと擦り付け時折爪を立てる。 「……ッそこ、強くしたら、……ぃや、っ」 「でもっアキのも、硬くなってきてんだけどっ……?」  風呂上がりの暁はほぼ無臭のようなものだったが、ふわりと漂う甘い香りはベッドに広がる髪からか、それも何か違う気がして絃成は匂いの出どころを辿るように鼻先を首筋から耳元へと擦り付け、特に皮膚の薄いその部分へ繰り返し吸い付く。  暁の手荷物は那音が連れ帰ってきた時にリビングに置かれており、リビングには絃成が食べ終わった惣菜の残骸とローテーブルの下に暁の手荷物が数点置かれてきた。  まだ充電をしていなかった暁のスマートフォンは残量が後僅かであったが、辛うじて通知を受け取る程度の余力は残されていた。  寝室のベッドは軋みの音を響かせ、淫靡な水音と囁き合うようなふたりの声が空間を支配する中、リビングではマナーモードに設定されたままの暁のスマートフォンが着信の振動を繰り返していた。  そんな音が今のふたりの耳に入る訳も無く、ただ本能のまま暁と絃成は夢中でお互いを貪り合っていた。

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