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第七章 犯罪の隠匿

 蝉の鳴き声だけが響いていた。アスファルトに焼き付くような黒い影、背中を伝う汗を感じていた。  咄嗟に取り繕う言葉が思い浮かばず、暁は真夜を振り返った状態のまま硬直していた。絃成を匿っていないと言ったとして、ならば何故暁が今日この場に来たのかという疑問が浮上する。実は萌歌と仲が良かったと虚構を作り出すことは簡単だったが、そんな嘘はいずれ簡単に破綻する。  萌歌の部屋に残されたスマートフォンから、真夜が絃成を萌歌と新名殺害の犯人と考えているのは明確で、萌歌はともかく新名殺害に関しては暁は絃成自身から新名を刺したことを打ち明けられていた事実がある。  緊張感が走る中暁の手の中にあったスマートフォンの液晶画面が突然点灯し、それと同時に着信音が鳴り響く。暁自身もその着信には気付いていたが気持ちが張り詰めたまま真夜から視線を外すことが出来ず、代わりに暁を覗き込む体勢だった真夜はその液晶画面に表示された名前を見て一瞬驚いたような表情を浮かべると、すぐににやりと表情を歪めて暁の手の中から鳴動を続けるスマートフォンを取り上げる。 「あっれぇ~?」  真夜は鳴動を続ける液晶画面を暁へ突き付けるように見せる。そこに表示されていたのは和人の名前で、暁は心臓を冷たい手で握り込まれるような感覚がした。激しい鼓動のせいで耳鳴りがただ痛かった。 「カズ兄もアキがイトナのこと匿ってるって疑ってるんじゃないのぉ?」  和人に限ってそんなことがある訳ないと暁は信じていた。もしそれが真夜の言うように確認の為の着信だったとしても、和人は真夜とは異なり絃成の無実を信じて今かけられているあらぬ疑いを払拭する為に力を貸してくれる存在であるというのが暁の持つ和人の印象だった。 「……カ、ズくんは、そんな人じゃないよ」  ようやく絞り出せた声は喉の奥に何かがへばり付いているような感覚が拭えず、酷く嫌な感じがした。やがていつまでも暁が応じないことに苛立ったのか和人からの着信は止まり、表示画面には不在着信が一件あったことのみが残される。  暁はそろりと手を伸ばし真夜の手から自身のスマートフォンを取り返す。和人からの用件が何であったのかは定かでないが、それは今真夜の前で折り返してまで和人に訊ねることではないと判断し、もう二度と真夜に奪われることがないようにスマートフォンを上着のポケットへしまい込む。 「本当にお前そう思ってんの?」  見透かすような真夜の言葉が射抜くように心臓を突き刺す。今すぐこの場所から逃げなければいけないことは分かっているのに、逃げることが正しい選択であるのかも分からなかった。  綺麗事だけで纏められるほど七人の仲間全員が扱いやすい存在という訳ではない。特に目に見えて分かる成人男性新名と那音の不仲など性善説だけで他人を理解することなど出来ないことは和人自身が一番良く知っているはずだった。  和人は絃成が新名を殺害したのだとしたら、仲間であっても容赦をすることはないだろう。  当然和人も新名の事件は耳にしているだろうし、和人なりに新名を殺害した犯人を探ろうとしている可能性もある。もし和人が新名と萌歌の関係性を知っていたとするならば、真夜と同じことを考えて萌歌の家に訪れていた可能性もある。 「カズくんは、そんなこと……」  その先の言葉が出てこなかった。吐瀉物のせいでいがらっぽい感覚もあったが、その先の言葉を告げようとした瞬間に暁は自分の頭が真っ白になるのを感じていた。  熱せられたアスファルトから吐瀉物の香りがより濃く湧き上がってくる。ただ吐き気を催すだけの不快な匂いだけが周囲に充満し、蝉の鳴き声だけが響いていた。  耳が痛くなるほど大きな心臓の鼓動が身体の内側から鳴り響き、背筋を静かな汗が伝い落ちる。 「――アキ!」  永遠に続くかのように思えた初夏路上の一角、それに呆気なく幕を引いたのはたったひとことの言葉だった。  空が明るく眩しすぎて、その人物の姿は一瞬真っ黒な影のようにも見えた。しかし徐々に目が慣れてくればその輪郭は鮮明になっていき、暁と真夜のふたりは現れた人物へ目を細めて見遣る。 「モカの住所聞いてきたからもしかしてと思ったけど……」  それはとても見知った顔だったが、同時に今はとても懐かしい顔であるようにも思えた。 「ナオぉ……」  暁は息を切らせて自分たちを見下ろす那音へと視線を向ける。口周りには吐瀉物の残骸がまだ残り、我ながら見窄らしい格好であることは分かっていたが、今この状況において那音以上に心強い援軍は無かった。普段はシスコンが度を越していて変質者以外の何者でもない那音だったが、ある程度の事情を把握しており有効的な関係を築いていた絃成に対して不利な言動を行わないであろうという期待があった。 「ナオ、お前もイトナ庇うのか?」  陽炎のようにゆらりと真夜は那音へと視線を向ける。鬼神の如く立ち竦む真夜と耐え切れず道に嘔吐した暁。那音から見ても最悪の状況であることは明らかだった。  強い力で暁は腕を掴まれる。 「あっおい、待てよナオ!」  暁は那音から促されるままにふらつきながらも立ち上がり、那音が暁と絃成の側についたことを瞬時に理解した真夜は声を荒げる。  その瞬間は暁の角度からは良く見えなかったが、無言のまま那音が真夜に目線を向けていたのは分かった。ただ視線を向けただけ――たったそれだけで真夜は那音へ二の句も告げられず煮えきらない思いを内に秘めたまま言葉を呑み込むことしか出来なかった。 「――行こう、アキ」 「う、うん」  暁の二の腕あたりを掴んだまま那音はよろめきながらも歩き出す。せめて絃成のスマートフォンだけでも持ち帰ってあげたいと考える暁だったが、真夜にそれを伝えることは自ら絃成との繋がりを明かすようなもので、若干の口惜しさを感じながらも暁は那音に腕を引かれるままついていくしか無かった。  去り際に振り返り見た真夜の表情は、汗でウォータープルーフのマスカラが落ちかけながらもそれが逆に勢いを加速させるかのように暁と那音を睨みつけていた。余りに鬼気迫る真夜のその形相に暁はぞくりと背筋に悪寒を覚えていた。  何よりも吐瀉物を洗い流さなければならないと暁が那音に腕を引かれ連れてこられたのは、萌歌のアパートからほど近い子供が遊ぶ滑り台や砂場、ブランコがあるような小さな公園だった。  男であることはこういう時に便利で、周囲の目すらも気にせず豪快にタンクトップを脱いだ暁は公衆トイレ近くの水飲み場でタンクトップを水洗いし始める。布と布を擦り付けるようにしてある程度の固形物は落ちたはずだが、多少の匂い残りだけは覚悟しなければならなかった。 「何があったの?」  多少マナー違反であっても頭から水を被り吐瀉物だけではなく汗も流しきった暁にペットボトルの水を差し出しながら那音は問い掛ける。水を絞って後はこの陽気で自然と乾くのを待つだけのタンクトップで顔を拭く暁は那音の顔を見上げながらペットボトルを受け取りキャップに手を掛ける。 「……モカの死体が、……多分」 「えっ……?」  驚く那音の反応は尤もで、暁も実際の現場を見なければとても信じられない光景だった。続いた真夏日、室温は従来よりも高い日が続き普段よりも腐敗の進行度は早かったのかもしれない。何日も溜めた生ゴミの匂いと汚物が混ざったようなあの不快極まりない腐敗臭が不意に蘇り、暁は唐突に嗚咽く。 「ぅお、えっ……」  咄嗟に那音も屈み込み、透明な胃液を吐き出す暁の背中を上下に擦る。おさまることを知らない嘔吐感が何度も暁の胃を内側から押し上げ、その激しい嫌悪感から自然と双眸には大量の涙が浮かぶ。  並みの神経では到底耐えきれるものではなく、直接見た訳でもないのに部屋の奥で捨てられた粗大ごみのように置き捨てられた萌歌の腐乱死体をもまざまざと暁の脳裏に浮かび上がってくる。  七人の中でただひとり紅一点だった萌歌。当時はまだ絃成と揃って未成年であり、若いふたりの交際は暁たち成人組から見ても微笑ましいものだった。小柄な体躯には不釣り合いな豊満なバストと艷やかなロングヘアー、眼孔は落ちその窪みからは蠢く何かが見え、肌の色も恐らくどす黒く変色しているような――そんな様相を思い浮かべた暁は再び嘔吐する。 「――まさかイトナがニーナだけじゃなくてモカも殺ってたなんて」  ただでさえ瀬戸際にいた暁を那音のひとことが更に追い詰めるよう。 「違うっ、イトナはそんなことしない……!」  たった数日だけれど絃成と共に暮らし、絃成を一番近くで見てきた暁だからこそ分かる。背丈だけは伸び顔つきも少しは大人びてはいたが、中身は暁たちが知る子供のままの絃成であり恐らく那音が想像するような凄惨なことなど出来るはずが無かった。  声を振り絞るようにして暁は叫ぶ。絃成は萌歌を大切にしていたし、新名のことも兄として慕っていた。どちらも大事であったからこそふたりの裏切りに絃成は傷付き、新名を刺すという暴挙にも出た。それは絃成自身が認めていることでもあり暁も疑ってはいなかったが、絃成が萌歌まで手に掛けるはずがないと暁は信じていたかった。 「だって、イトナ以外の誰がそんなことするって言うんだよ」 「違うんだよナオっ、確かにっ、確かにイトナはニーナのこと刺したけど、それから逃げて俺のとこ来たんだ。だからニーナを山に捨てたりする時間なんかは――」  だとしたら誰が――。  一体誰が新名を山に捨てたのかという疑問に辿り着いた時、暁は愕然とした。  新名の死体が発見されたのは萌歌の家があるこの場所から車を使っても片道二時間程度はかかる某県の山中。往復だけでも四時間はかかり単なる遺棄ではなく埋めたと考えるならば更に時間は掛かる。絃成から聞いた話を全て鵜呑みにしたとしても、絃成が新名をここから五十キロメートルも離れた山中に埋めて戻って、それから暁の最寄り駅に現れて暁と再会することは時間的にもほぼ不可能に近かった。  もし実際に埋める為の工作などを絃成がしていたとするならば、暁が絃成と再会した時何かしらの痕跡があって然るべきだった。  ――しかしそんなものは何も無かった。 「ナオ……イトナじゃない、イトナじゃないんだ……」  そして大前提として絃成は車の免許を持っていない。  萌歌と新名の双方に恨みを持つ人物を考えればまず第一に絃成の名前が上がる。そして次に新名と肉体関係があった真夜だった。しかし、真夜に限っては萌歌に対する恨みはあれど、それが新名を殺して遺棄する理由には当てはまらない。  本当に該当人物はそれだけなのか。暁がその人物の存在に気付いた時、痙攣するように喉の奥がひゅっと音を鳴らした。 「イトナっ!」  転げるように自宅へと逃げ帰り、暁は玄関の扉を開けるのと同時に絃成の名前を呼ぶ。  事態は暁が想像していたよりもずっと悪く、新名の遺体が発見されたと報道された時本当はすぐにでも逃げ出さなければならなかった。絃成がもっと早く匿って欲しい理由を暁に明かしていたならば、もっと早く別の手段も取れていたかもしれない。 「イトナ?」  部屋の中を見渡すが明かりは付けられたまま絃成の姿だけが見当たらなかった。トイレや脱衣所、浴室の中まで確認したがどこにも絃成の姿はなく、元々単身者用ワンルームである暁の部屋は広い訳でもなく隠れる場所がそう幾つもある訳がない。  新名の遺体発見の報道から絃成の様子はおかしく、まさかこの状況下でひとりどこかに出かけるということは考え難かったが、今の絃成をひとりで残しておくべきではなかったと暁は後悔した。  暁の弟も小さなころは精神的に不安定な時期がよくあり、一度施設から姿を消したとして大騒ぎになったこともあった。唯一の弟を精神不安定にさせてしまった原因は兄である暁の行動にあり、その件を切っ掛けに暁は二度と弟に不安な思いを抱かせないことを心に誓っていた。  絃成の姿が弟に重なり、まるで弟を探していたあの時のように暁は押入れの襖をゆっくりと開ける。元から入れる物も少ない押し入れの隅に絃成の姿があり、暁はホッと胸を撫で下ろす。暗くて狭いところが余程落ち着くのか、膝を抱え込むようにして丸くなっていた絃成は小さく寝息を立てていた。 「イトナ……」  両親を亡くした後自分を唯一頼ってくれていた弟の心を傷付けてしまったのは他でもない暁であり、施設の職員が総動員で探したあの時も、弟はひとりで膝を抱えて押入れの隅に隠れていた。  暗闇へそっと手を伸ばして絃成の頭をくしゃりと撫でる。絃成だけは何とか守りきりたい。そんな使命感のようなものが暁の頭の中にあった。  あの頃の暁には弟を慰める術を持っていなかった。絃成まで失いたくないと強く感じる暁の口が自然と薄く開かれる。 「――――」  それは暁がSCHRÖDINGの曲の中でも一番好きだと豪語している曲で、ハジメが作詞を手掛けたバラードだった。ハジメが奏でるアコースティックギターの伴奏にオクトがアカペラで歌声を重ねるこの曲は、ふたりの息が合ってこそ成せる曲でありAメロの時点でふたりの信頼感が伝わってくるような曲だった。  その歌詞は何てことのない一日の締めくくりを形にしたような曲ではあったが、暁はこの歌詞が眠る前にその日あった楽しいことや嬉しいことを報告し合うような距離感と捉えており、明日もまた一緒に朝を迎えようという子守唄のようにも受け取っていた。  嫌なことも辛いこともあったかもしれないけれど、いつだって側にいるから悲しみならば分けて欲しい。ハードロックな歌い方が殆どだったオクトにしては珍しく優しい歌声で、歌詞のひとつひとつを大切に歌っているのが暁にも響いてくるような歌だった。それまでのSCHRÖDINGには無かった言葉選びもハジメだからこそ生み出せたもので、もし弟を見つけたあの時この曲に出会っていたならば眠る時に決まってぐずる弟に何度もこの曲を歌って聴かせただろう。  〝あなたのことが大切だから、いつだって側にいるよ〟と大切な人へ向けた歌を暁は無意識に口ずさむ。  思えばいつからか歌うことを暁はやめてしまった。それは自分に音楽の才能がないことに気付いてしまったからで、逆に音楽の才能に恵まれていた弟のことを妬ましくも思っていた。自分には音楽しか無かったのに、苦労もせず自分の努力を飛び越えていった弟が可愛くもあり、同時に憎くもあった。だけど自分は兄で、弟を恨んではいけないから音楽をやめるということを選択した。  人前で歌うことも演奏をすることも二度とないと思っていた。この瞬間までは。  掠れた歌声で紬がれる聴き覚えのあるバラードに、懐かしみを覚えた絃成はこれが夢か現実かも分からないままゆっくりと瞼を持ち上げる。  今考えれば、暁は皆でカラオケに行った時でも自ら率先して歌うことは一切なく、那音や真夜から強引に連れて来られる以外では自発的にカラオケに参加することすら稀だった。  理由を問えば音痴だからと答える暁だったが、その心地よい音域の歌声はとても音痴とは思えずまるで子供の頃母親が歌ってくれた子守唄のようにも聴こえた。 「…………うまいじゃん」  暗闇の中、絃成がぽつりと呟く。  父も母も、弟も誰も褒めてはくれなかった。家族にとって音楽は出来て当たり前のことだったから。だから歌うことをやめた。才能がないと思ったから。  初めて告げられた認められる言葉は、それはまるで自分より音楽の才能がある弟に褒められたようで――暁の頬を温かい涙が伝った。  絃成は押入れの中から片手を伸ばして暁の頬に触れる。  もし絃成が暁の知らないところでとんでもない犯罪を犯していたとしても。  それによって今命の危機に晒されているとしても。  絃成の味方でいられるのが自分しかいないのだとしたら――たとえ那音や他の皆を敵に回しても、今絃成を守れるのは自分だけだという自覚が暁にはあった。  部屋の片隅、暗い押し入れの中、暁はただ絃成を強く抱き締めた。

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