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第八章 誤りの感情
時刻は夕方を迎えていたが、季節柄昼間と変わらぬ明るさが窓の外から室内を照らしていた。蝉の声を当然のようにBGMとして聞き流す中、暁はリビング兼寝室の中央で絃成と向かい合うようにして座る。
もしそれが受け入れがたい事実であったとしても、絃成には逃げずに向き合って欲しい。暁は向かい合って座る絃成の両手を優しく握り、ひとつひとつ言葉を厳選しながら萌歌が自宅で死んでいるらしいことを確認したと伝える。
「えっ……」
暁からその事実を聞かされた瞬間の絃成はこれでもかというほど目を大きく見開き、瞳は不安定に揺れていた。それがとても演技をしているようには見えず、暁は萌歌の死に絃成が関わっていないことを再認識する。
驚きを見せた絃成の様相は見る間に青褪めていき、激しい動揺が窺えた。暁にとっては萌歌は昔親しくしていたひとりではあるが、絃成にとってはつい先日まで大切に愛してきていた恋人であり、手酷い裏切りを受けたとしても簡単に割り切れるほど情が薄い訳でもなかった。
「それでさ、……マヨに、会ったんだ」
「マヨに?」
個別に連絡を取り合うほどの親しさは無かったが、ノリの良い真夜のことを絃成も忘れてはいなかった。しかしなぜ萌歌の自宅付近で暁と真夜が遭遇したのか絃成には分からず微かに首を傾けた。萌歌からは特段真夜と親しいという話を聞いたことはなく、どちらかといえば萌歌と真夜はお互いに不干渉のような状態に絃成からは見えていたからだった。
新名と親しくしていた絃成だからこそ新名から真夜との関係性を聞いていると期待したが、絃成には状況の深刻さが伝わっていないことに気付いた暁は、現段階では新名と真夜の関係性については伝えないことに決める。
「マヨに……俺がイトナのこと匿ってるの、バレてるっぽい」
「なんで……」
理由を事細かに説明する必要はなく、絃成には自分が置かれている状況が悪化していることを認識して欲しかった。
真夜だけではなく、今や那音ですら絃成が新名と萌歌を殺したと疑っているということを今の絃成に伝えるべきではないと暁は考えていた。ただでさえ萌歌の死が露呈するのは時間の問題で、恋人だった萌歌の死を受け入れるだけで今の絃成は手一杯だろう。
今や自分たちの味方はどこにも居ない。真夜やもしくは那音が今にも警察を引き連れて現れる可能性だって大いに考えられた。一刻の猶予すらなく、ただ残された道は真夜や那音からも手の届かないどこか別の場所に身を隠すことだった。しかし暁にそんな場所のアテはない。
「だからイトナ、お前は今すぐ逃げろ」
両肩を掴んで絃成に言い聞かせるように言う。どこへ逃がしたら良いのかは暁にも分からない。ただこのまま絃成が暁の部屋にいることだけは危険なのは確かだった。
「逃げろって、どこにだよ」
萌歌が死んだと聞かされただけでもショックなのに、立て続けて暁に匿われていることが真夜にバレており、今すぐここから逃げろと言われても絃成には理解が追いつかなかった。
まだ困惑の中にいた絃成を置いて暁は立ち上がる。状況が理解出来るようになったらすぐにでも移動先の手配を進めなければならない。
「国外……なんていきなりは無理だからやっぱり国内だよな。人が多いところの方が探しづらいと思うからやっぱり都市部……ってなると名古屋か関西か……」
言いながらも同時に身体は動き出していた。押入れの中から長い間使っていなかった黒いボストンバッグを取り出し、中に異常がないかを窓に透かして確認する。
突然ゼンマイを巻いた人形のようにきりきりと動き始める暁の姿を眺めていた絃成だったが、徐々にそれが自分に関わる問題であるということを理解し始めるとバッグに数日分の衣類を詰める暁に声を掛けようと腰を上げる。
「な、なあ待てよアキ、一体何の話……」
「京都、やっぱり京都がいいな。ハジメも京都にいた時期あるし。平日だから夜行バスとかなら今からでも取れると思うんだ」
ライブを観に地方へと行く時長距離の夜行バスはとても重宝したことを暁は思い出す。バッグのジッパーはまだ開けたまま、今この時間でも購入が可能である長距離バスのチケットを確認しようと暁はパソコンへ向かい椅子を引く。
「おい俺はまだ行くなんて一言もっ」
「途中コンビニで下着とか買ってこうな。幾らか現金も下ろさないといけないし」
絃成の言葉に答えながらも暁の視線と意識は画面の中の長距離バスチケット購入サイトへ向けられていた。時間が経てば経つほど真夜もしくは那音の追手が迫るという危険性が高まるが、遅い時間の方が夜の闇に紛れて家を出て長距離バスのりばに向かうのには適していた。カチカチとマウスをクリックする音だけが虚しく響く。
「アキ、アキ兄っ」
知らされたばかりの事実と、絃成の意志を無視して着々と進められる逃走の手筈。暁の部屋にこのまま居ては危険だということだけは理解出来ていたが、まるで自分の気持ちが置き去りにされているかのようで絃成は焦りを見せ始める。
「アキ、聞けって!」
チケットの購入確定ボタンを暁が押そうとする直前、絃成は暁の肩を掴んでそれを制止させる。
「イトナ、なに、どうした……?」
逃げた方がいいのは分かっているのに、なぜこのように不安な思いを抱くのか。絃成にはその感情を上手く言葉に出来なかった。ただ焦りだけがそこにあり、思った言葉をそのままきょとんとした顔で振り返る暁へとぶつける。
「俺はっ、お前の弟じゃねぇんだよ!」
この焦りが何であるのか、絃成は言葉にしてようやく気付いた。
――〝兄さん、僕の話も少しは聞いて!〟
いつだったか、弟から言われた言葉が暁の脳裏に蘇った。そして暁は愕然とした。
腹違いであっても確かに自分の弟だから、兄として自分が弟を守らなければならなかったから。それが兄としての義務だと親に言われて育ったから。
完璧な兄でいなければならなかった。弟に対する妬み嫉みをおくびにも出さず、弟を守る兄でならなければならなかった。
少し問題行動の多かった弟が施設員から不遇な目に合わされないように、待遇を保証して貰えるよう施設長に身体を売ったのも、全て、全て弟の為だった。
だけどその行動そのものが間違っていたのだと、弟自身の口から聞かされた。弟を守ろうとして起こした行動が逆に弟を苦しめて傷付けていたことを知った。
彼の為を思ってした行動が、彼にとっては自分の意志を蔑ろにされているものであると、弟の口から聞かされた時と同じ状況に陥っている感覚があった。
弟は暁の六歳下で、絃成も弟と同じく暁の六歳下だった。だからこそ暁は絃成と接している時弟と接しているような気がしていた。だからといって絃成を弟の身代わりをしているつもりは一切無かった。それが別の個人であるということを暁は充分理解しているつもりだった。――だけれど、そうでは無かったという事実を今目の前に突きつけられた。
「――あ、」
〝ごめん〟。その簡単なひとことすらも上手く言葉に出せなかった。言葉にしてしまえばその事実を認めてしまうのと同じになる気がしていた。
暁の心中こそ計り知れない絃成だったが、暴走とも言える暁の行動が一旦でも停止したことは絃成を安堵させた。しかし暁から向けられた表情は気がかり以外のなにものでもなく、今暁から向けられている感情を端的に表すのならば〝絶望〟という言葉がぴったりくるような気がしていた。
なぜこのタイミングで〝絶望〟なのか、それが絃成には理解ができなかった。ただ弟の世話を焼く兄のように、何から何まで手筈を整えることをやめて欲しいだけだった。
初めて会った時や久々に再会した時も、暁からはまるで兄弟のような接し方をされていることは分かっていた。ただ今はそんな言葉で表現が出来る関係性ではないということを絃成は認識していた。
絶望に表情を固まらせる暁の肩から手を放し、透けるようなそのプラチナブロンドを指先で撫でる。
「アキ、逃げるならアキも一緒にだ」
「一緒、に……?」
自分だけが逃げて暁ひとりをこの場に残していくという選択肢は絃成に無かった。それは絃成にとって暁がもうただの仲間というだけではないという意味と、暁だけをひとり残していくことに対する危険性があった。
絃成が憧れた新名は所謂堅気とは程遠く、一緒に酒を飲む時もガラの悪い友人が何人もいることを知っていた。少しそういった界隈との付き合いがあるという程度のことではあったが、新名の遺体が発見されたという報道がされた今新名と親しくしていた一部はその犯人探しに乗り出してくることだろう。
絃成が逃げたところで、ひとり残された暁にその手が及ばないなどということは考えられない。先程暁から聞いた話によると、真夜にはもう匿われていたことがバレているらしいので遠からずこの部屋にも新名の知り合いが訪れる可能性は高いだろう。
「……だ、けど、俺は……」
絃成の懸念を余所に、暁は絃成だけをここから逃がせれば良いと思っていた。新名の友人らが絃成を追ってこの部屋に現れる可能性など暁の頭の中には微塵も無く、これまでの生活全てを捨てる逃亡という非現実的な選択肢が自分に降りかかるなどは想像すらしていなかった。
一線を越えたあの晩から、絃成にとっての暁はただの仲間ではなくなっていた。萌歌の裏切りを受けたからすぐに別の人などと思われては格好が付かないので、恥ずかしくて暁には伝えられていなかったが絃成にとっての暁は既に手放し難い存在となっていた。
しかし暁から見た絃成は異なり、危険性を心配するに留まらず意図も簡単に自分ひとりだけを逃がそうとする暁の行動からは気持ちの温度差が浮き彫りとなってしまい、絃成が露わにした焦りの要因でもあった。
絃成の指先から暁のプラチナブロンドの髪がするりと滑り落ちる。言葉でちゃんと伝えたはずだった、自分も男なのだと。
大切だから手放したくないし、逃げるなら一緒に連れて逃げたい。
絃成はまだ心の整理が付かない暁の顔を見下ろし触れる程度に唇を重ねる。
――その瞬間、室内にインターフォンの音が鳴り響いた。
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