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第九章 真実の気付き
心臓が縮み上がるようなその音に、絃成は覚悟を決める。
結局暁にどこまで自分の気持ちが伝わったのかは定かではなかったが、もし訪問者が真夜もしくは新名の友人であり絃成を探しに来たのであるならば、頭を下げてでも暁のことだけは見逃してもらうつもりだった。大切な相手を守れないなら男ではない、そんな気持ちが絃成にはあった。
「――俺は、ちゃんとお前のこと好きなつもりだったよ」
それは暁が初めて見たような気のする絃成の〝男〟の顔だった。そこに〝弟〟のような欠片は一片もなく、優しげでしかしどこか悲しそうな表情を浮かべた絃成は二度目のインターフォンの音を聞くと踵を返して玄関へと向かう。
「待っ……!」
咄嗟に伸ばした暁の手は、絃成の腕を掴めずするりと空を掴む。暁にも今この時間に来る訪問者が何かしらの意図を持っていることは分かっていた。だからこそ絃成を向かわせることが危険であるということも分かっていた。
分かっているからこそ絃成を行かせてはならなかったのに、それがまた弟扱いと取られやしないか困惑を極めた暁は正しい行動を何も起こせずにいた。
「ハーイハイ、今出るって。どちら様ー?」
三度目のインターフォンに絃成は応答を返し、玄関扉に両手を付くとドアスコープを覗き込む。絶対に誰が来ても応対してはいけないと厳しく言いつけたことも、今ではただの弟扱いだったのではないかと頭を抱え思い悩む暁の前に絃成が何事も無かったかのように戻ってくる。
暁がゆっくりと顔を上げると絃成は玄関先を指さして暁に訪問者を伝える。
「アキ、ナオ兄だけど」
「……えぇ?」
絃成を犯人と疑っていたはずの那音が何故と考えながらも暁はふらりと椅子から腰を上げて玄関へと向かう。もしかして警察も一緒に来ているのではないかと考えつつドアスコープを覗くと、そこには玄関前に佇む那音の姿だけがあった。
「ナオ……?」
「……アキ。さっきは、イトナのこと疑ってごめん」
扉越しに伝えられた那音の言葉を聞いて、暁はゆっくりと玄関扉を開いて那音を室内に招き入れる。心なしか扉を閉める際にも誰かが部屋を監視していないかと周囲の様子に目を向けてしまう。
那音は靴を脱いで部屋に上がるとすぐに開かれたままのボストンバッグへ視線を向けて意図を理解する。
「イトナ、もう行くの?」
「俺はアキと行きてぇんだけどさ」
「イトナっ、その話は……」
しんと静まり返ったキッチンにかちゃりと施錠する音が響く。先日訪問した時とは異なるふたりの微妙な空気感の変化を察した那音はふむと納得したように頷く。
自分が逃亡をすることになるとは微塵も考えていなかった暁は、まだ迷いはあるものの改めて自分自身が逃亡すると考えた時のビジョンが何も無かったことを後悔する。玄関前からキッチンへと向かい空いたグラスに水を注ぐと一気に喉へと流し込む。
「アテはあるの?」
「……や、特に無くて。取り敢えず京都かなぁって位」
グラスをシンクに置こうとすると絃成が「俺も」と言ったので、暁は再度グラスに水を注いで絃成へと手渡す。
「何で京都?」
「特に理由はないけど。ハジメが京都に住んでたっての思い出して京都って思っただけだし」
「そんなことだろうと思った」
暁は東京都出身だったが両親の死後は静岡県の施設に預けられており特に土地勘があるという訳でもない。絃成も埼玉県の出身で逃げるとしても距離が近すぎる。だからこそ逃亡を企てても具体的なビジョンが何も無く、賭けではあったが様子を見に来て良かったと那音は小さく息を吐き出す。
「行き先変更。神戸にしな」
「「神戸?」」
暁と絃成の言葉はまるでシンクロするようにぴったりと重なり、那音は目を点にしてふたりはお互いの顔を見合わせた。
那音は手帳の一ページを切り取り暁へ手渡す。そこには誰かの名前と電話番号が記載されていた。
「向こうの知り合いに理由話しておくから、ふたりのこと匿ってくれると思うよ」
暁は渡されたメモと那音の顔を交互に見てから不安そうに絃成へと視線を送る。まだ絃成と共に逃げることを決めた訳ではなく、共に逃げたとしてもまた弟扱いをしたとして絃成を悲しませてしまうことが何よりも怖かった。暁の手の中でくしゃりとメモが拉げる。
萌歌を殺したのが絃成であるのかという疑問は考えないにしても、新名は那音にとって不仲な存在であり、その新名を死に至らしめた絃成に対して協力したいと考えることは那音にとってごく自然なことだった。
たとえ絃成が殺人犯であろうがなかろうが、那音の知り合いならば気にせず絃成のことは匿ってくれる。それに新名の知人らからも真夜からも手の届かない場所と考えた時、那音にはその選択肢しか考えられなかった。
「急いだほうが良いよ。もう暁が絃成匿ってるって話出回ってる」
那音は暁が施錠した鍵を開ける。那音から告げられた言葉に暁は反射的に振り返り視線を向ける。周囲に誰もいないことを確認してから那音は外に足を踏み出し、扉が閉まるその直前那音は暁にだけ聞こえる声で囁いた。
「――カズ兄の耳にも、もう届いてると思う」
玄関扉が閉じた時、暁は血の気が失せるような感覚を得ていた。
つい先程までは先導するかの如く絃成の逃亡を手助けしようとしていた暁だったが、突然の那音の訪問直後からどことなく様子が異なっていることに絃成は気付いていた。
小さく音を立ててグラスをシンクへ置くとゆっくりと暁へ近づいて顔を覗き込む。
「……アキ?」
那音が訪問する直前の表情も酷いものだったが、最後に那音から何かを言われた後の暁の表情も言葉に言い表せないものがあった。暁が何に怯えているのか絃成には到底理解出来なかったが、那音の言葉が暁に大きな何かを与えたような気がしていた。
触れ合うだけで相手の考えていることが伝わればどんなに楽か、そう考えながら絃成は薄暗くなり始めた夕陽の射し込むキッチンで両腕を伸ばして暁を抱き寄せる。
「アキどうした……?」
不気味なほど静かに、されるがまま絃成へ身を寄せる暁の背中へ手を回すとじわりと体温が伝わってくる。何度触れ合いを重ねたって萌歌の裏切りを見抜くことが出来なかった。長く付き合っていた萌歌相手にだって無理だったのだから、再会してからまだ半月も経過していない暁に対してそんなことを願うことすら無謀なのかもしれない。それでも絃成は今暁の頭の中を占めている物の全てを知りたかった。
茫然自失状態となっている暁の瞼やこめかみへと口付けを落としていく。小さなリップ音だけが静寂のキッチンへ響きそれ以外は何も――夏の風物詩である蝉の鳴き声しか聞こえなかった。
再び唇を重ねようとして絃成は思い留まる。無理やり舌を捩じ込むことは容易かったが、欲に溺れていい状態ではないことくらいは絃成にも分かっていた。
那音は神戸に行けと言い、知り合いの連絡先を暁へ託した。そしてその時「ふたり」と言ったことも聞き逃してはいなかった。絃成も出来ることならば暁を一緒に連れていきたい。今はまだ弟のようにしか見えていなくても仕方がない。ただ持て余した熱を発散するだけの関係と思われていたのかもしれない。
ゆっくりと寄り添う時間なんて無いのかもしれない。本当は今すぐ出発しなければならないほど状況は鬼気迫っているのに、何か思い詰めている様子の暁を放ってはいられなかった。
残された時間がごく僅かであることを暁だけが正確に認識していた。
自分たちのリーダー的な存在であった和人が新名の死を認識し、その犯人として問答無用で絃成を疑っているのだとしたら、恐らく逃げ場はこの世のどこにも無い。どこに逃げても確実に見つけ出され、その後に待ち受けているのは確実な〝死〟のみだった。
綺麗事だけでは個性の強い六名を纏め上げることなど出来ない。和人に後ろ暗い交友関係があることを暁は知っていた。
もし真夜から絃成を匿っていることを和人に伝えられているとしたらならば、今夜にでも和人はこの部屋に現れるだろう。それがただの家探しで、絃成が既にいないことを理解して引き上げてくれるような人物であるならば暁もここまで焦燥感に駆られてはいない。
「イトナ……」
絃成と一緒に逃げるべきなのか、一緒に行って良いのか、暁はまだ悩んでいた。ただ抱き寄せる絃成の腕が温かくて、暁の目からは自然と涙が零れ落ちていた。
「……なあ、さっきはちょっと言い過ぎた」
暁の言葉で再び顔を覗き込んだ絃成はちゅっと音を立てて唇に口付けをする。まだどこか晴れない表情を浮かべる暁の顔を両手で包みこんで額同士をくっつける。
「俺は行くならひとりじゃなくてアキと一緒がいい」
「っ……」
向けられた絃成の眼差しがとても真剣で、再び暁の涙腺が緩む。
兄なら弟の前で涙を見せたりはしない。何故なら兄だから。だけれど絃成の前で涙が溢れてしまったのは、暁の心の中で絃成の存在が既に弟ではないということを理解していたからだった。
涙でぐしゃぐしゃな顔を無様に晒せるのも、それが弟ではなく絃成だから。そんなことはもうずっと前から本当は分かっていたはずなのに。
何故絃成を守りたいと思ったのか、何故絃成だけは助けたいと思ったのか。絃成を一体何から助けたいのか。
――もう既に遅いということを本当は理解していた。
「弟と思ってる相手と、セックスなんかしない……」
ぼたぼたと大粒の涙が床に落ちる。勿体ないと絃成は目元に唇を寄せて拭い取るがそれでも涙は止め処なく溢れ続ける。
初めからそういう対象として絃成を見ていた訳ではない。初めて会った頃の絃成は未成年であり、弟に重ねて世話を焼いた事実は否定できない。
匿って欲しいと言われた時、何故自分にと疑問に思うのと同時に頼ってもらえたことが嬉しかった。だからこそ先に性的嗜好を明かして対等な関係であろうとした。その時点で那音と同じ友人のひとりとして見ていたのは間違いなく、弟と同じ年齢でありながら弟とは違う存在であることを暁は認識していた。
「知ってる。俺だって冗談でセックスしたりしねぇんだよ」
どこで間違えたのかは分からなかったが、もう二度と後戻りの出来ないところまで来ていたことをふたりは理解していた。
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