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第十一章 事件の真実

 ――それは何の変哲もない普段通りの日常の中、突然自身に降り掛かってきた。  いつも通り、仕事終わりに馴染みのバーでウイスキーのロックを嗜んでいた。つまみはガーリックシュリンプとサーモンのマリネ。  代わり映えのない毎日、それでも特に何かを変えようとする気もなくそれなりに折り合いをつけて今の生活に満足さえ覚えていた。琥珀色の液体の中でカラリと氷が溶ける音に指先で持つグラスに目を向けると豪奢なシルバーリングが幾つも指に見えた。  壮年のバーテンは寡黙で余計な口をきかず、そういった点もこのバーが気に入っている要因であった。  視界の隅で点滅する光を感じ、和人はグラスを口元へ傾けたまま視線を向ける。振動設定こそオフにしてあったが点灯する液晶画面に映し出されていたのは萌歌からの着信で、和人は内心驚きを隠せなかった。  暫く会えないと言ってきたのは萌歌のほうで、大方絃成を優先したい気持ちからだろうと特に気に留めることもしなかった。そんな萌歌がこんな時間に連絡をしてきたことには驚きを禁じ得ず、全く予想すらも付かないまま和人はカウンターに腰を下ろしたまま萌歌からの着信に応じる。  終始ヒステリックに何かを泣き喚いているような萌歌からの着信では状況を一切理解出来ず、連絡をしてきているということは今日絃成と会う予定が無くなったことであると認識して通話状態のまま支払いを済ませてそそくさとバーを後にして萌歌の自宅へと向かう。  元々酒には強いほうだったし、一杯にも満たない量ならばさして問題がないとコインパーキングへと向かい停めていた車のロックを赤外線で解錠する。運転席へ乗り込むとバックミラーの位置を調節し、エンジンを掛けてから電源のついたカーナビで萌歌の自宅までの住所を入力する。道路が混んでさえいなければ到着までの時刻はおよそ三十分、萌歌が自宅にいるという確証は無かったが通話口の取り乱し様から考えれば自宅にいるであろうことは間違いないと考えながらサイドブレーキを下ろす。  萌歌の自宅アパート前に到着した時、時刻は夜の二十時を回ったころだった。流石にこの時間ともなれば初夏といえど周囲は闇に落ち、コインパーキングを探して停める余裕もなかったのでアパート前い停車をさせ、石造りの階段を上がって萌歌の部屋へと向かう。  ドアノブを回すと部屋内は明るく、在室中であることは明らかだった。  萌歌の名前を呼びながら靴を脱ぎ部屋へ足を踏み入れる。奥の部屋から何か人の声のようなものが聞こえていたが、呼び掛けに対しての返事は無かった。しかし奥の部屋から感じる気配はひとりだけのもので、それが萌歌のものであると考えれば和人は幾らか安堵出来た。和人にとって唯一気がかりだったのが玄関に転がっていた爪先の尖った男物の靴――和人はそれに見覚えがあった。  奥の部屋の扉を開けると、そこにはベッドの上で啜り泣く萌歌の姿があった。ほぼ全裸のような状態で、ショーツこそ穿いていたがブラジャーはその意味を成さぬほどたわわな萌歌の胸は零れ落ちていた。啜り泣く萌歌の頬は赤く腫れており、口の端を切ったかのように血が滲んでいた。良く見てみれば痣が顕著に見えていたのはその幼気な顔だけではなく、主に白い腹部、そして二の腕や腿にも赤から紫に肌は変色していた。  名前を呼びながら萌歌に近づこうとした時、和人はあることに気付く。萌歌はベッドの上で啜り泣いていたが、その下床の上には仰向けに寝転ぶ下着姿の新名がいて、その腹部には包丁が突き立てられていた。咄嗟に新名へ駆け寄ろうとした和人だったが見開かれた目と肌に触れた瞬間気付いたその冷たさから既に手遅れであったことを察する。  泣きじゃくる萌歌を何とか宥め、一体この部屋で何が起こったのかを問い質すと落ち着きを取り戻した萌歌がようやくぽつりぽつりと言葉を口に出し始めた。  発端は新名との浮気現場を絃成に目撃されたということで、絃成は新名を包丁で刺してそのまま部屋を出ていった。幸い刺し傷は致命傷には至らなかったものの、絃成に浮気がバレたという事実に関して新名は萌歌を責めた。髪を掴まれ室内を引きずり回され、殴られついには絃成が使った包丁を顔に突きつけ殺すと脅された。  ――だから刺したのだと、萌歌は言った。  刺される前に刺すしか無かった、しかし絃成が刺した時は何とも無かったのに自分が刺したら新名は倒れて動かなくなったと、つけまつ毛も剥がれ目の下を黒くしながらも萌歌は涙ながら和人に訴えた。  泣きじゃくる萌歌の小さくて柔らかい身体を抱き締めると、徐々に落ち着いてきた萌歌は安心して和人の背中に両腕を回して縋る。動かなくなった新名を見てどうしたら良いのか分からず、気付いたら和人に電話をしていたと萌歌は言う。  萌歌と初めて身体の関係を持ったのは萌歌からの誘いだった。当時の萌歌はまだ未成年だったが自分だけではなく他の皆にも声を掛けていたのは知っていたからただ遊ぶだけのつもりだったが、直後に萌歌が絃成と付き合い始めたと公表した時、どこか裏切られたような気持ちを抱いたのは確かだった。  絃成と付き合った後も萌歌は気まぐれに身体の関係を持ち掛けてきて、如何に絃成のテクが子供のそれであるかということを一晩中延々と聞かされたこともあった。  断りきれずに絃成と付き合いはしたが、本当に愛しているのは和人だけだと告げる萌歌の言葉を信じてしまった自分が愚かだった。この期に及んで、新名の死体が転がるその傍らで、息も荒く股間を弄り始める萌歌のその細首を――気付いた時には締め上げていた。  自分だけでは無いと始めから分かっていたはずなのに、絃成だけではなくよりにもよって同じ仲間の新名とも掛け持ちされていたという事実が和人のプライドを甚く傷付けた。気付いた時には和人の下で萌歌は口から泡を吹いて白目を剥いていた。  音もなく蝉の声だけが響いていた。萌歌という存在がそもそもの癌で、出会わなければ誰も不幸にはならなかった。ふらりと立ち上がった和人は萌歌の死体はそのままにして床に転がる新名を毛布に包み、闇に紛れて萌歌の部屋から運び出す。  アパート前に停車させていたことが功を奏し、トランクに新名の死体を放り込みそのまま車を発進させる。それから二時間程度和人が向かったのは某県の山中だった。途中にホームセンターに立ち寄りスコップを何本か買った。  いつかはバレてしまうかもしれない。それでも今はこうすることしか考えられなかった。  バレなければいいと思う気持ちは確かにあったが、新名の遺体は和人が思っているよりも早く発見され、世間では新名の事件が大々的に報道された。 「アキお前も……俺を裏切るのか」 「ちが、うよ……」  血に塗れた手が掴んでいた和人の腕をずるりと滑る。  和人が自分とだけではなく、萌歌とも肉体関係があったことを暁は知っていた。ベッドの上で自分に縋る和人は子供のようで可愛らしくもあったけれど、男の身体である限りどうしても埋められないものが暁にはあり、それを萌歌に求めることを暁は見て見ぬふりをしていた。  だけれど和人にとってはそうではなく、和人は自分から離れていく人間の心移りを許せなかった。それはもしかしたら和人の生い立ちにあるのかもしれなかったが、暁はそこまで深い事情を和人から聞こうとは思わなかった。  腹から滲み出る血が床の水たまりに落ちて音を響かせる。汚いと分かっていても身体を支える為床に手を付くと、ぬるっと手が滑り倒れ込みそうになる。  萌歌のアパートの側で和人からの着信を受けた時点で、暁はこの可能性を感じ取っていた。暁が絃成を匿っているということを真夜伝手にでも和人に伝われば、きっと和人は暁と絃成の関係性に気付くだろう。  きっと絃成は和人によって殺される。自分のものであるはずの萌歌が新名とも繋がっていたこと、その怒りは新名へと向いただろうがその時点で既に新名は没していた。同じく和人が自分のものであると認識していた暁が絃成と繋がっているということを認識すれば、その全ての怒りは絃成へと向かうだろう。だからこそ一刻も早く絃成を逃さなければならなかった。  息を吸う為腹部に力を入れるだけで裂けるような痛みが暁を襲う。定期的に和人と会って生活費の援助も僅かにして貰い、和人に頼り切っていた暁にも非はあった。  和人との関係が嫌だった訳ではない。両親からの愛情が音楽の才能基準であったが故にどこか満たされることのなかった暁に和人は安らぎを与えてくれていた。  ぽたたと涙が床に落ち、暁の口は真一文字に結ばれ震えていた。  それでも、和人からの関係では得られなかったものを絃成は暁に与えてくれた。弟に対するそれとは違う、側にいるだけで胸の奥に温かいものが芽生えるような感情を、絃成だけが初めて暁に教えてくれた。  当然それが和人に対しての裏切り行為となることを暁自身は充分理解しており、和人からの制裁は当然といえば当然だった。せめてその矛先が絃成へ向かなかったことを重畳と思うべきで、床を這うように伸ばした手は和人の靴に触れる。 「……か、ずく……」  和人の靴に指の形をした血の跡が残る。トイレの床に蹲る形となった暁を見下ろす和人がどんな感情を持って暁を見ていたのか、それは暁には見ることが出来なかった。  和人が足を引くと、縋る暁の指先は床へと落ち和人は暁を残してトイレから去っていく。無情な足音だけが響き、暁の双眸にはじわりと涙が浮かび上がる。  ――戻らなければ、絃成が気にする。その思いを抱きつつも起き上がるだけの体力すら既に無かった。 「うっ、……イト、ナぁ……」  泣いたところで何も解決しないということは分かっていたが、気が遠くなりそうな貧血感と焼けるような痛さから無意識の内に絃成へ助けを求める自分がいた。 「もう、お兄ちゃんこれ以上頑張れないよ……サト、シぃ」  決して涙を見せないように、弟を守れる兄であるように、そうでなければならないと暁はずっと思ってきていた。異母兄弟である弟のことが妬ましかった。だけれど両親を亡くしてからは弟を守れるのは自分だけだと思ってきた。だから絶対に泣かないと、どんな時でもずっと涙を堪えてきた。その強い意志が今にももう朽ち折れそうだった。  自分が戻らなくとも、時間になれば絃成はひとりでも長距離バスに乗って神戸へ向かうだろうか。探しに来た絃成にこの光景を見せることのほうが絃成を傷付ける結果になってしまうかもしれない。  何としてでも戻らなければならない、そんな灯火のような小さな思いが暁を奮起させた。 「ごめんなさい、カズくん……」  何の為に和人を裏切ってでも絃成と共に逃げることを決めたのか、これまでの生活、弟から譲り受けたアコースティックギターすらも残して全てを置いてきたのは、暁自身がこれまでの自分と決別したいと考えたからだった。

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