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第十二章 シュレディンガーの夜明け

「あっアキ!」  出発時刻の差し迫った長距離バス乗り場。乗客はそこまで多い方ではなかったがそれでも皆無という訳ではなく、それぞれ乗客がバスへと乗り込む中乗車口付近できょろきょろと探しものをしていた那音は暁がトイレとは反対方向からふらりと姿を現すと気づかせるように片腕を上げて声を掛ける。 「ナオ……」  神戸のアテを斡旋してくれただけではなく、見送りにまで来てくれるとは何て律儀な奴だと思いながら暁の口元が思わず緩む。  周囲の人に恵まれた人生だった。施設を出てSCHRÖDINGの曲に、ハジメが表現する世界に惹かれ、SNSからの繋がりで那音をはじめ絃成や和人、新名など同じバンドを心から愛する友人が出来た。音楽の才能でしか評価されていなかった暁にとって純粋に音楽を共に楽しめる仲間はとても貴重で、SCHRÖDINGが解散するまでの短い期間ではあったが一緒にライブの為の遠征をしたり、施設にいた頃からは考えられないような貴重な経験もしてきた。 「イトナ先に乗って待ってるから」  駆け寄ってきた那音に力なくも穏やかな笑みを浮かべる。仮に和人の脅威がまだ残っていたとしても、和人は那音にだけは手を出さない。だからこそ那音も無事にふたりが出発出来るように見送りにきたのだろう。  内心ではまだどこか那音は絃成を新名殺害の犯人と疑っているかもしれない。暁と絃成がふたりでこの地を離れた後、真夜が絃成犯人説を言い触らす可能性もあったが、きっとそれは和人が許さない。和人がどんなに絃成を憎んでいたとしても、やってもいない事件の犯人として絃成をでっち上げたりはしない。 「ナオくん」 「え、なに、どうした?」  暁はバスへ乗り込む直前に那音の肩を掴む。普段と異なる名前の呼び方に違和感はあったが、このタイミングでしか言えない何かがあるのだろうと特に気に留めることも無かった。 「頼みがあるんだけど」  神戸に到着して落ち着いたら、部屋に残してきたアコースティックギターを送って欲しいと暁は那音に頼む。家を出る前に鍵を隠してきた場所も、何かあればその鍵を使って部屋に入って欲しいとも伝える。  那音は暁からの頼み事を快く引き受け、今正にこれから絃成と共に新しい世界へ旅立とうとする暁を激励するようにその背中を叩く。 「イトナと、仲良くね」 「ん、ありがとう」  暁が車内に乗り込み、扉が閉まると那音は道路から少し離れる。ゆっくりとタイヤが回転を始めてふたりを乗せたバスが発車していく姿を見送る。絃成との再会が暁にとって良い影響を与えていたことは確かであると那音は感じていた。  これまでの暁に何かが足りていなかったという訳ではないが、突然現れた絃成を部屋に住まわせていると話した時の暁はこれまでにない程心が踊っているようにも見えた。  SCHRÖDINGの解散が暁から生きる意味の全てを奪ってしまったようで、表向きは普段と変わらないように見えていたがどこか空虚のようなものを抱えるように見えていた。  そんな暁が自らの意志で絃成を選び、真夜と対立してでも絃成と共に逃亡することを選んだ事実は、那音にとって暁の大きな変化にも見えた。たったひとりの友人のために、これまでの生活全てを捨てて共に逃げるというのは並大抵の覚悟では出来ない。那音であってもこうして協力をすることしか出来ず、いくら絃成の為だとしても和人や真夜を敵に回してまで共に逃げるという選択は取れない。  神戸の知人には既に連絡を入れてあり、順調にバスが進めば到着するのは明日の朝でふたりの特徴を伝えた上で迎えに行って欲しいと伝えてもある。今すぐは無理でも那音も仕事の長期休みが取れれば大好きな姉に会う為神戸へ向かう理由を作ることは出来て、その時きっとふたりの無事を直接自分の目で確認することが出来るだろうと、この時は呑気に考えていた。  ふたりの乗ったバスが去っていき、次の長距離バスが乗車口に停車し始めたのを見た那音は明日からの仕事の為にも自宅に戻ろうと踵を返し待合室に入る。  暗闇の屋外から煌々と照明が灯る待合室に足を踏み入れた那音は異変に気付く。服の全面に残る何かの汚れ、外にいた時は全く気付かなかった。一体どこで汚れたものだろうと服を掴んで確認しようとした那音は自らの掌が赤く汚れていることに気付く。  それが血であるということに気付くのは容易く、その夥しい量からも怪我をした覚えのない那音は自分以外の誰かの血であることを察する。ただその掌を見ていた那音だったが何かに気付いて咄嗟に待合室を飛び出す。  暁と絃成の乗ったバスは既にその姿すらも見えなくなっており、直近で誰かに触れたとすればそれは暁以外に有り得ず、必然的にその出血をしているのが暁であるという考えに行き着いた。先に合流した絃成からは暁の怪我についての言及は一切されておらず、今思い返せば乗車口に現れた暁はどこか表情が暗かった。これからのことに対する緊張だと思い敢えて口に出さなかったが、もしかして――という思いがざわつく。 「アキ、こっちこっち」  バスに乗り込むと声を潜めた絃成が左側の席から顔を出して手招きしていた。その顔を見ただけでも暁はほっとして気が緩みがちになりながらも腹部の痛みで何とか意識を保っていた。  暁が乗り込んですぐにバスの扉は閉まり、運転手がアナウンスをする中暁はそそくさと着席するように急いで絃成の元へと向かう。窓際の席に座る絃成はその両腕に暁が託したボストンバッグを大切そうに抱き締めており、その屈託のない笑顔は無性に頭を撫でたい衝動に駆られたが今この手では絃成に触れられないと感じ、パーカーの前ポケットに両手を押し込んだまま通路側の席に腰を下ろす。  夜通し走って神戸へ向かうこの長距離バスは、高速へ上がると睡眠のことも考え座席側の照明が落とされる。繁忙期で満席ならば他の乗客の迷惑になるので会話すらも控えなければならなかったが、特に連休前という訳でもない平日のこの時期はふたりの他に乗客は四、五組といった程度で幸いにも座席もある程度離れていた為、声を抑れば暗闇の中然程迷惑にはあたらない。その証拠に左斜め前に座っている女性の二人組は暗い車内の中スマートフォンが煌々と光りSNSの動画を見ながら何かをぼそぼそと楽しそうに話しているようだった。 「あっち着いたら、まずスマホ買わねぇとなー」  無くても特に困らないということはこの数日で痛いほど良く分かった絃成だったが、やはり連絡手段は無いよりあったほうが良い。座席の背凭れに背中を預けながら絃成はこの先にある期待に目を輝かせていた。 「ああ……言ってなかったっけ。イトナのスマホ、マヨが持ってたよ。……まあもう無理だろうし、買い直したほうがいいと思うけど」 「え、マヨ兄が?」  もし暁が真夜から絃成のスマートフォンを取り返していたとしても、新名殺害の犯人として通信履歴などから居場所が割れてしまえば神戸に逃げる意味がない。暁も神戸に着いたらスマートフォンを新しく買い直す予定だったが、今の状況ではそれすらも出来るかどうか分からない。  暁は座席を倒し、無理のある前傾姿勢から後方部に背中を預けるような体勢を取る。  暁の言葉から、絃成は自身のスマートフォンを知らず知らずの内に萌歌の部屋に落としてきてしまったことを悟る。神戸に到着する頃には萌歌のことも事件になっているだろうか、状況から考えれば新名に加えて萌歌も自分が殺したと思われても仕方がなかった。していないという証明をすることは難しく、恋人の萌歌を新名に寝取られた絃成がふたりを手に掛けたと考えることのほうがずっと筋が通っていた。 「――アキはさ、モカも俺が殺ったって思ってる?」  反射する窓ガラス越しに絃成の視線が暁へと向けられる。萌歌を殺したのが絃成ではないということを暁だけが知っていた。 「思ってないよ。イトナじゃない――俺は、知ってる」  絃成は誰も殺していない。感情のまま新名を刺したという傷害の事実はあるだろうが、実際に新名を殺したのは萌歌であり、山中へ死体を遺棄したのは車を所有している和人であった。萌歌を殺したのは萌歌の裏切りを知った和人であり、本当は絃成が神戸へ逃げる理由などどこにも無かった。  ただ真実を知っているのは暁と当事者である和人だけであり、新名が殺されたことを知った新名の友人らはその事実を知らない。新名を身体の関係があった萌歌さえも死体が発見されれば絃成が疑われるのは必至であり、そのあたりは和人が絃成の名誉を守ってくれると信じたかった。  その暁の言葉は事実を知っているという意味だったが、絃成にとってはそんなことをする人間ではないということを知っているという意味に受け取れて、絃成はゆっくりと暁に視線を返す。バス内が暗いからかどこか疲れ気味に見える暁の表情だったが、暁をこんなことに付き合わせてしまったのは自分のエゴであることは自覚していた。 「――|ヒ《・》|カ《・》|ル《・》」  〝アキ〟というニックネームで呼ばれることに慣れすぎていて、暁は一瞬それが自分の名前であることに気付けなかった。驚いて目線を向けると、視線が絡んだ絃成は照れ臭そうに表情を綻ばせる。 「ヒカル。着いてきてくれて、俺を選んでくれてありがとな」 「……なん、っで、いきなり……そんな呼び方」  誰もが暁を〝アキ〟と呼んだ。〝暁〟という漢字は〝アキ〟や〝アカツキ〟と読まれることが多く、暁を〝ヒカル〟と呼ぶのは家族くらいのものだった。和人ですらも暁を〝ヒカル〟と呼ぶことは今まで一度も無く、懐かしい家族がいたころの思い出が洪水のように暁の心を揺り動かす。 「イト、ナ、ぁ……」  片手を絃成へと伸ばすと絃成はその手を取り、愛しげに擦りながら頬へ当てる。指先から感じる絃成の頬がとても温かかった。 「俺がお前のこと幸せにするから。向こうに着いたらすぐ仕事見つけて、そしたら一緒に住むとこも探そうな」 「――うん、……うんっ」  頬に添えていた手を背中へと回して絃成を抱き寄せる。今のこの幸せがこれからも永遠に続けば良いのに、暁は心の底からそう思っていた。 「――間もなく、終点神戸に到着します」  いつの間にか眠ってしまっていた絃成は運転手のアナウンスでぼんやりと目を覚ます。昨晩はあんなにも車内が暗かったが、夜が明け遮光カーテンの隙間から眩しい朝日が射し込んでくると絃成は座席に座り直して伸びをする。  眩しい太陽の光は遮光カーテンの隙間から射し込んでいて、絃成は欠伸を噛み殺し目を細めながらその遮光カーテンの隙間から外を覗く。  バスは既に高速を降り市街地を走っているようだった。正直なところあまり神戸には詳しくなかったが、新天地にて暁と共にいちからやり直すことに期待を抱いていた。  何もない、誰も知っている人がいない土地でいちから全てを構築することはとても時間と手間が掛るものではあったが、それ以上に誰も自分たちを知らないこの場所で白紙から全てを作っていけるという楽しみがあった。 「なあヒ……アキっ、起きろよ、そろそろ神戸だぜ」  窓の外へ視線を向けたまま、絃成は隣で眠る暁へと腕を伸ばして手招きをする。昨晩は夜のおかしなテンションで那音から聞いた暁の本名で呼んでしまっていたが一晩明けるとやはり恥ずかしくなる部分もあり、呼び方を元に戻しながら直視できないまま暁に声を掛ける。  今更どう呼ぼうが暁は気にしないと思うが、周りの誰もが暁を〝アキ〟と呼ぶ中、自分ひとりが別の呼び方で暁を呼べることには優越感があった。  もうこれで新名からの追手が届かないと安堵した絃成は唐突に空腹を覚え始める。昨日はとにかく色々あって、暁が萌歌の家に行ってきた直後から怒涛の流れでここまで来てしまった。バスに乗ってからはすぐに照明を落とされてしまったので食事をする暇もなく、一晩明けた今ようやく空腹を感じられるようになった。 「まず何か食いてぇよな。そういや俺昨日から何も食ってねぇや。なあアキは何が――」  出来る限り自然な流れで会話を紡ぎながら絃成は座席に座り直して暁へと視線を送る。運転手のアナウンスもあったことから特に声も潜めず暁へ声を掛けていた絃成だったが、それでも暁は眠り続けたまま全く起きる気配が無かった。  絃成は物珍しそうに暁の寝顔を見詰める。暁が眠る顔を見るのはこれが初めてかもしれない。暁の部屋ではいつでも暁が絃成よりも先に起きていて、仲間とともに遠征で宿泊をした時もあったが、その頃は特に意識すらもしていなかったので暁の寝顔がどうであったかを覚えていない。  じっくりと暁の寝顔を見ることが出来るのは役得でもあったが、そろそろバスから降りる準備もしなければならなかった。非常に残念ではあったが暁を起こさなければならないと観念した絃成は尚も眠り続ける暁へ手を伸ばす。 「なあアキ――」  触れた腕が、氷のように冷たくなっていることに気付いた絃成は息を呑む。初夏ということもありバス内はこれでもかという程冷房が効いていたが人体に害のない程度の涼しさだった。もしかしたら暁にとってはそれでも寒すぎたのかもしれない。  暁が寒がりだということはこれまで聞いたことがなく、ただ肌が冷え切ったまま眠っているだけだろうと考えた絃成はその冷たい暁の腕に触れて身体を揺する。  だらりと暁の片腕が座席から崩れ落ちる。暁は遮光カーテンの隙間から射し込む太陽に照らされ、ただ幸せそうに微笑んでいた。 「――アキ?」 了

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