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第1話
ようやく日が落ちて涼しくなったようだ。
開け放った窓から吹きこむ夏の宵風に、シュジェールは長い睫毛を伏せる。揺れた燭台の炎をうつし、その指を飾る大きなオパールが七色に煌めいた。
十五歳になった祝いに父親から譲られた指輪は、ベルガルド侯爵家を継ぐものの証しだった。
石を掌にのせて転がしてから、三年前からつけているエメラルドの指輪もはずす。こちらはもうすっかり指になじんでいた。シュジェールの瞳と同じ、深く澄んだ神秘的な碧玉が金の台座に載っている。
耳飾りに、と渡されたものをシュジェールは強引に指輪に変えてしまった。
どだい、大きすぎるのだ。
(それをあの男ときたら、初めてくちづけした処だからなんて言って……)
シュジェールは思わず、贈り主の熱い息遣いを左耳に感じそうになって、眉根をよせた。
シュジェールは自室で明日の大学の試験勉強をしている。喉に薬を沁みこませた布を巻いているのは、風邪のせいではない。
二日続けてイサキオス・ルーカスという男に声をあげさせられて、彼のほそい喉は限界をこえてしまったのだ。
(イサークのやつ、金をつかって助教授に筆記口述でやり取りしてもらうよう頼んでくれたみたいだけど……)
シュジェールは、サティルニア国から来た留学生、イサキオスの顔を思い浮かべた。
ずっしりと重い銅貨の入った袋を従僕に渡して陽気に笑った男、その豪奢な金髪にかこまれた顔は宮殿で見かける古代彫刻の太陽神によく似ている。
シュジェールは、ヴァンダール王国の宮内大臣を歴任するベルガルド侯爵家のたったひとりの世継ぎだ。
それなのに、あの男はシュジェールが王都セイラムの大学を辞めて、彼の祖国サティルニアの大学に入りなおしてくれることを本気で願っているのだ。
(そうはいくもんか。僕はメサリテス教授に法学の教授資格(リケンティア)をもらい、医学も修めてから、この国の政治経済のすべてを動かしてやるんだから)
大陸中から秀才が集うメサリテス教授の私塾でも、シュジェールは目立つ存在だ。
驚異的な記憶力に裏付けされ、そこらの法学士や神官見習いでは太刀打ちできないほど弁が立つ。さらに、剣の腕も半端ではない。
うっかり、顔だけ見てお嬢さんなどと話しかけて酷い目にあった男は後をたたない。
そんなわけで、淡い波打つ金髪を靡かせ、青とも紫ともつかぬ緑ともつかぬ不思議な色の双眸で周囲を睥睨する彼についた渾名は「イリスの君」という。
彼の母親の領地で産するイリスの花の高雅な香りをまとっているためと、その葉が切れ味鋭い細身の剣を思わせるからだ。
シュジェールは読み返していた写本のうえに指輪をおいて、ほそい鼻梁を指でなでた。
(まったく、よその国の男はよくわからん。宗教も政治も違うから当たり前か……)
古代パヴァ帝国の後継となる二つの大国は、それぞれにまったく別の道を歩んでいた。
彼のいるヴァンダール王国は国王を頂点に主の生まれ変わりの『神の子』を戴き、神殿の教えを守る敬虔な信徒が多い。
対して、サティルニアは享楽的な神々をまつり、帝国貴族の末裔が共和制をしく自由闊達な気風に満ちていた。
ふと、イサキオスの熱っぽい声を思い出す。
――私の愛しい七色のイリス。こんなに私を夢中にさせて、大学の試験のほうが大事だなんて言うのかい。君が、私のことを忘れられなくなるまで帰さないからね――
シュジェールは、今となっては自分が迂闊だったとわかる。だから、相手のせいにはすまいと思っている。男を見くびっていた。その権力、独占欲など、すべてを読み違った。
(下腹がムラムラしたときは、女のところに行くほうがいいや)
そう考えた時点で、シュジェールは行為を思い返している。相手の手中にはまっていた。
それが、たまらなく悔しかった。
イサキオス・ルーカスと初めて会ったのは三年前の夏だった。その名前から、この国と並ぶ大国サティルニアの、もっとも高貴な人物のひとりであることは知れた。
燦々と日のあたる回廊で、メサリテス教授は私塾に入ったばかりの十二歳のシュジェールを紹介した。
「イサーク、こちらベルガルド侯爵家の御令息、シュジェール殿だ。将来、彼によってこの国は大いに変わることだろう。同じく大国を背負う君たちがこうして出会うことも何かの縁だろう。年長者として相応しい見本となるようになさい」
「はい。御師様」
イサキオスはひどくかしこまった様子で頭を下げ、陽光に王冠のごとく輝く金髪の巻き毛を揺らしてシュジェールを振り返った。年齢はシュジェールの四つ上、十六歳と聞いていたがもう大人の男のように見えた。
その、獅子を思わせる黄金の両目がシュジェールを見下ろしていた。
「イサキオス・ルーカスです。どうぞこれからは私を兄と思い、何でもお尋ねくださいますように」
そう言ってさしだされた手を、彼はすぐには握らなかった。兄と思い何でも聞いてくれなどと偉そうに言われて気に障った。
目の前の男は自分の身分とそれに相応しい財力、もって生まれた美貌と頭脳にも絶大な自信をもっているのが見てとれた。
なので。
「以後、お見知りおきを。ところで、お国の軍事予算はお幾らくらいとっておられますか。 アレクシウス砦の修復金などさぞや莫大なものでしょうね」と、透き通るように白い手を握らせながら口にした。
シュジェールの生き方の基本は、敵を叩くには先制攻撃にあり、だ。
イサキオスは大きく目を見開いたあと、まるで女性の手を握る素振りでシュジェールの手をとり、跪いて唇をよせた。
反撃は、思わぬ方向からやってきたのだ。
「イリスの君、そのご質問には今の私ではおこたえできません。いずれこの私が元老院に入りました後、あなたが我が国にお越しいただければ軍事予算などといわず、すべてを教えてさしあげますが」
「それは残念です。僕はこの国の外に一歩たりとも出るつもりはありませんので」
シュジェールはすましてこたえ手をひこうとしたが、イサキオスは微笑をたたえたままいつまでも手を離さない。教授が、二人の無言のやりとりを敏感に悟って口にした。
「イサーク、手をおはなしなさい。君の悪い病気が出ないよう、お父上殿から言いつかっているのだよ」
素直に手をはなしたイサキオスは立ち上がり、痩身の教授に微笑みかける。
「御師様、ご心配には及びません。すでに私は故郷にふたりの子のいる身です。ふたりとも健康なうえに男児ですので」
教授は額に手をあて、ゆるゆると首をふって続けた。
「この国の宗教をよく学ぶといい。君の行いはここでは獣の仕業にひとしい大罪なのだよ。法家たるもの倫理を尊び、郷に入っては郷に従うべきです」
「はい。かしこまりました」
神妙な様子でこたえたものの、イサキオスは教授がその場から去ると、もうさっそくシュジェールの肩を抱いて言った。
「今夜は空いている?」
「空いてません」
そっけなくこたえたシュジェールはその手を払いのけて屋内へと歩みだした。だが、イサキオスはこりずにまた手をかける。
「家に来ないか。君の好きそうな本が山とあるよ。君になら、あげてもいい」
「かわりに、僕に何をさせたいのですか」
シュジェールの今までの経験では、下心を指摘して冴えた瞳で見上げてやると、相手はたいていすごすごと引き下がった。
ところが、イサキオスは自分が大柄なのをいいことに日陰になった廊下の壁に彼を追いやり、にこりと笑った。
「それは君の態度によるな、イリスの君。私は無理強いするのは好きじゃない」
「その、イリスの君って何ですか」
シュジェールはほそい眉をひそめた。すると、イサキオスはシュジェールの喉にはりついた淡い金髪を指で弄びながらこたえる。
「この間、入学の手続きをしに来たときから君のことを見ていた。教授の部屋にこの香りが残っていたんだよ」
なるほど、先手は敵に取られていたわけだ。彼はもう、その時点でシュジェールのことを調べている。そして、堂々と申し込んできた。
かわって、シュジェールの持ち札は少ない。
彼の名前から身分を察すること、教授が一番に目をかける愛弟子だということ、家族ぐるみで大陸一偉大な法学者と付き合いがあり、おそらくは他国に滞在する教授の生活費も面倒をみているだろうこと……。
イサキオスに髪をすかれ、そのまま左耳をくすぐられてシュジェール肩を震わした。
「感じやすいんだね」
「なにを」
逃れようとしたときにはもう、イサキオスはシュジェールの耳に唇を寄せていた。耳朶をはさんで、くぐもった声で囁く。
「邸には奴隷と従僕だけだ。うるさく言うものは誰もいないから、いつでも来るといい。主神殿の東の高窓から見える、セイリア河沿いの青い塀の邸が私の住まいだ。大きな丸天井があるからすぐわかる」
シュジェールも知っている。そこは、古代帝国貴族の邸宅跡を修復したところだ。
押しのけようとする両手を握りこみ、イサキオスはさらに身体を密着させて続けた。
「もし私がいなくとも、好きになんでも使ってくれてけっこうだ。楽士もいるが、君には馬のほうがいいかな。食事も、君の口にあうものを用意させよう」
美食家だという情報も仕入れてあるらしい。シュジェールは感心した。一週間で、ベルガルド家の家格から彼の趣味まで詳細に調べている。王宮に密偵がいるらしい。
他国人とはいえ、身分では今の時点で相手にいくらか分があった。この私塾で一番幼いシュジェールは、イサキオスの元にいたほうが心身ともに安全なのだろう。そう思い、とがった肩を落とす。
(今はおとなしく、捕まっておこう……)
シュジェールが観念したのを察したイサキオスは、人のいないのをいいことにその場ですぐに情熱的に唇を合わせてきた。
彼の吐息は、甘い薔薇の香りがした。
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