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第2話

 最初の言葉ほどには、イサキオスは強引な男ではなかった。無理強いするのは好きじゃない、というのは本心に見えた。  それからひと月、イサキオスはせいぜい髪を撫でたり肩を抱いたりするだけで、唇を求めてくることもあまりなかった。これなら、時々宮廷に出没する伊達を気取る色事師の男よりよほど行儀がいい。  シュジェールは塾と大学に入る一年前、さる侯爵夫人と関係をもっていた。  美貌の貴婦人は、夫が亡くなって喪が明ける前に彼を自分の寝台に呼びこんだ。そして、喪が明けてすぐ身分に相応しい男と再婚した。シュジェールはその合間の玩具にされたのだ。  まさか、十一歳の子供と、二十六歳の貴婦人がそんな危険な遊びをするとは誰も思わないではないか。  シュジェールは大学の教養課程で必要な音楽の勉強のために、その邸に通っていたはずだ。たしかに、貴婦人は声楽と作曲、ヴィオールやリラの演奏などの手解きもしてくれた。  彼女は素晴らしい教師だった。  どちらの方面においても。 (あの女には感謝すべきだな。脚の形が素晴らしかったし、好い声の持ち主だった)  何よりも、行為は寝台で始まるものではないということを教えてくれた。出会う前に始まり、駈け引きがあって成立するものなのだということを叩きこまれた。 (あれは本当に、いい勉強になった)  シュジェールは十五歳の成人前に、あちこちのサロンでご婦人方から及第点以上の成績を稼いだ。客を選り好みすることで有名な高級娼婦とも懇ろだ。当然、色好みの男たちから幾つもの誘いを受けていた。が、くちづけ以上を許したことはない。  しかしながら、イサキオスにだけは、そういうわけにはいかなかった。 (あの頃は子供だった。相手が異国人で調子も狂っていたし……)  シュジェールはお行儀のよい貴公子にすっかり騙されていた。  今まで誘いをかけてきた男は必ず、すぐにも彼の白い肌に触れたがった。ひどい男だと、いきなり尻や下腹に手を触れてきた。  シュジェールは持ち前の毒舌で男たちを振り切った。彼より高位貴族はめったにいなかったし、そういう男たちは万が一にでも神殿に告げ口されるのを恐れて二度と向こうから近づいてはこなかった。  その結果、ふた月目にイサキオスが私塾の小部屋でいきなり抱きすくめてきたときはもう手遅れだった。  イサキオスはシュジェールが警戒しなくなるまでずっと、間合いをつめていたのだ。まるで、獲物を狙う狩人のように周到に。 「やっと捕まえた」  イサキオスは、シュジェールの形のいい耳に熱い吐息を吹きこみながら言った。 「はなせ……放すんだ、イサキオス」  のしかかられて幾度も唇をふさがれる。イサキオスの膝に両脚を割られてシュジェールは慌てた。これでは蹴り上げることもできない。暴れるシュジェールを楽々と押さえ込み、イサキオスは彼にだけ聞こえる、でも、とても強い口調で返す。 「悲鳴をあげてもいいよ」  たぶん、大声を出せば聞こえない位置ではない。しかし、昼間の授業の合間にこんなところで声をあげては沽券にかかわる。 「そうすれば私は御師様に強制送還されるだろうけれど、その時は君も連れて行くから」 「何を言って……メサリテス様の教授資格(リケンティア)がもらえなくなるんだぞ」 「教授資格はサティルニアでも取れるさ。大学だってあるし、御師様の愛弟子の塾もある。それに、正直を言うと、医学と法学の教授資格はもっている。ここでは内緒にするよう言われているけれどね」  シュジェールは一瞬、抵抗をやめて彼を仰ぐ。イサキオスは優雅に微笑むだけだ。 (天才ってやつ、か……)  稀に、いるのだ。彼はすでに自由六科の教養課程を修了し、ふたつの教授資格(リケンティア)をもっている。サティルニアに神学はない。かわって哲学があるのだが、それを修めていないとは思えなかった。  シュジェールは、賛嘆の吐息をこらえた。この男にそれを知られるのは避けたい。  そう思った瞬間、イサキオスが顔を寄せてきた。くちづけを避けようと横をむくと、開いた首筋に頬を入れられた。鼻のあたまにかかる巻き毛がくすぐったくて、シュジェールが首をふる。すると、濃い薔薇の香りにまじって乾いたひなたのような匂いがした。  イサキオスが唇で触れるたびに跳ねあがる肩を押さえつけながら、いい反応だと笑った。  それを聞いて、今度こそおおげさなため息をついてシュジェールは言った。 「君のどこに、僕をつれていく権利がある」 「権利はない。が、権力はある」 「僕はこの国の宮内大臣侯爵の長子だ」  シュジェールのいかにも気位の高い驕慢な瞳にむけ、イサキオスはうなずいてみせる。 「知っている。君のお父上はまだ健在だ。君に妹をあげよう。私の国に来て子供をひとりかふたりつくったら、この国に戻せばいい。妹はなかなかの美人だよ。きっと君も気に入ると思うな」 「君の妹なら美人だろう。だが、ベルガルド家には家訓がある。代々富裕な田舎貴族の、きちんと教育を受けた丈夫な娘を娶るんだ」 「妹の荘園も立派だよ。教育もあるし、とても健康だ。持参金も山とつけよう」 「イサキオス、とにかくこの手をはなして」  埒が明かないと察したシュジェールは、頭上で戒められた両手を自由にしてもらうことを願った。イサキオスは片手で彼の両手首をきつく握りこんでいる。 「いやだな」  イサキオスが笑った。シュジェールの顔をのぞきこんで楽しんでいる。 「イサキオス、痛いんだ」 「だめだよ、シュジェール。そんな演技をしたって。私は、君のそのつんととりすました顔が快感に歪むのを見るのが楽しみだ」 「快感じゃない。痛いと言っているんだ」  イサキオスはシュジェールの首筋に顔をうずめながら、言った。 「苦痛も快感も、たいして差がないものさ。ご婦人方に可愛がられて人気ならしいけれど、君はまだ、本当の快楽を知らない」 「知らなくてけっこうだよ」  シュジェールは本気で言った。十二歳の彼には夜毎の性の快楽よりは、勉学のほうがよほど楽しい。 「……そのようだね」  すると、イサキオスは自分の髪をかきあげてシュジェールの手を放した。そして、あっけにとられたままのシュジェールを抱き起こし近くの椅子に腰かけさせた。  彼はモザイクタイルの床に座ったままで、シュジェールを見上げる。 「すまなかったね。私を許してくれるかい?」  シュジェールは、イサキオスの顔を黙って見下ろした。イサキオスは彼の左足をそっと持ち上げて、やわらなか上等の革靴の先に唇を寄せる。 「イサキオス!」  娼婦でさえ、足に接吻しない。そんなことは大神官や『神の子』にだけする行為だ。まして、彼はサティルニア国の貴族のなかの貴族、皇帝の血筋をひくものなのだ。 「私を嫌わない?」  甘えるような仕種で首をかしげてきく。 「君が好きなんだ。愛してる。この胸を開いて心臓を見せてあげたい。きっと君の名前が刻まれているよ」  シュジェールは笑ってしまった。 「なぜ笑うの」 「そういう告白はご婦人方に有効なんじゃないのかな、と思って」 「くだらない女に私の真剣な告白を利用しないでほしいな」  イサキオスは本気で怒っているようだ。 「利用しないさ」  シュジェールがこたえると、イサキオスはやっと満足したようだ。そして。 「君は皇子のようだね。君といると、私の血は沸騰しているみたいだ」 「君が、皇帝の子孫なんだろう?」 「血筋はね。だが、私は皇帝の器じゃない。サティルニアの元首にはなれるだろうけれど。皇帝はね、能力なんだ」  シュジェールは首をかしげる。イサキオスは、椅子に座った彼の足の間に身体をおし入れた。 「皇帝にはたくさんの息子や娘がいた。彼らは血みどろの皇位争いをしたと思っているんだね?」  シュジェールはうなずく。 「帝国がもっとも帝国らしかった頃、世継ぎの皇子は自ずと決まったんだ」  イサキオスの両手はシュジェールの身体をゆっくりと這う。が、それは性的な感じではなく、彼の身体から何かを探ろうとしているかのようだ。 「イサキオス、何をしているの」 「君がその器か確かめたいんだけれど、私にはやはり、そういう能力はないようだ」 「なに?」 「妹のエウドクシアは、水脈や鉱脈を探しあてることができる」  イサキオスは腕を放して諦めたように肩を落とす。そして語った。 「もっとも高貴なる奴隷……それが皇帝だ。皇帝は人々に幸福を約束する者だ。この街、セイラムの上水と下水の整備、これはすべて皇帝の力。彼は水の道を知っていた。大地震が起きず、洪水に流されず、飢饉に見舞われることのない、繁栄を約束する聖地を探し当てる能力のある者しか皇帝になれなかった」 「この国の、『神の子』に似てるね」  シュジェールが言うと、イサキオスはふぁさり、と巻き毛を揺らして首をふった。 「『神の子』を崇める君たちの宗教は、性欲を戒めている。皇帝は違う。水脈と同じく、ひとの性の秘密を暴き、堪能できるのも皇帝の力だ。私は、自分がこんなに誰かを欲しがるなんて思いもしなかった。そんなことは頭の中身のない女のすることだと思っていたよ」  イサキオスの熱い告白は続いていたが、すでにシュジェールは別のことに思考を巡らせていた。  それはこの国の成立時、聖なる泉を探り当てて主神殿にうつした『神の子』のことだ。その人物は皇帝の子孫だった。ただの伝説で作り話かと思っていたが、そこにはどうやら幾分の真実も含まれているらしい。 (案外、近いところにあるのだな。人間の生きる基本は……)  ひとは、綺麗な水がないと生きていけない。  水があれば、土地を耕し農作物を育て家畜を養うこともできるのだ。たいていの都市が川沿いにあるのは偶然ではない。  シュジェールはつぶやくように言った。 「セイラムも、グラシオン帝の造った都だ」 「ああ。そういえば、グラシオンは君のような金髪の美少年を愛して自分のそばから死ぬまではなさなかった。ふたりとも、若くして戦場で死んだけどね」  イサキオスは立ち上がり、座ったままのシュジェールの唇をそっと吸った。 「君はまだ、十二歳だったね。私もその頃、興味本位で経験して決められた年上の妻と結婚した。おかげで子供を授かって自由の身になれたが、今思うと剣の稽古や読書のほうが楽しかったな」  イサキオスは老成した瞳で語る。 「お詫びに剣闘士じこみの必殺剣を教えよう。この国でも、剣の腕前は大事なものだろう?」  シュジェールはありがたくその提案を受けることにした。まあ結局は、そうしてどんどん彼に恩を売られ続けたわけだが。

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