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第3話

 このエメラルドの指輪もそのひとつだ。 (腹が立つ。僕はなんで大事な試験の前に彼のところにいって、あんな……)  こうして思い出すことが、イサキオスの罠だ。  シュジェールは消炎薬をしみこませた布をはがして椅子から立ち上がり、寝台に横になる。夏の夜風が、汗ばんだ肌を撫ぜていく。  イサキオスは十九歳になった。出会った頃よりもさらに背も伸びて逞しく、あたりをはらうような威厳さえ漂わせていた。  かわって、シュジェールは華奢なままで髭も生えず、少女と間違えられて腹を立てては喧嘩する有様だ。  そして文字通り、イサキオスに快楽のすべてを教え込まれていた。 (僕が、利用してやるつもりでいたのに。玩具にされて辱められた……)   イサキオスは骨の髄まで享楽的な帝国貴族の末裔だ。その頭脳はもちろん、姿形や剣技まで極上の男だ。彼には瑕がない。あるとすれば、あのどうしようもない快楽主義だけだろう。イサキオスにとって、学問や剣術でさえ快楽なのだ。 (何故、あんなことを考えつく。そして、実行できるんだ)  シュジェールは戦慄する。  古代の帝国貴族は、わざわざ吐いてもどしてまで美食に興じたという。それはイサキオスを見ると真実のことだと肌で理解できた。  彼は快楽に執着し、容赦を知らない。シュジェールを傷つけたり酷い目にあわせたりすることはない。けれど、この世の誰にも告白できない恥ずかしいことをさせたり、したりする。  娼婦とさんざん遊んできたシュジェールでさえ知らない遊びを、イサキオスはなんでもないことのように行った。 (あ……もう)  何度、やめて、と叫んだことだろう。  やめさせて、とも。  二日にわたり、イサキオスはシュジェールに服を着るひまを与えなかった。 (僕の新品の服を台無しにしてくれた。洗って返して、新しいのを三枚くれたけど。あんな、あんな真似をされて……)  一昨日、シュジェールは朝駆けのあと、イサキオスの邸にそのまま行った。何よりも、喉が渇いていたし朝食も食べたかった。  長椅子に腰かけて待っていると、イサキオスは長身の黒人の従僕に上等の葡萄酒を運ばせてきた。シュジェールが銀の盆の上の杯に手を伸ばそうとすると、イサキオスはいきなりそれを取り上げた。 「私の口から飲みなさい」  シュジェールは贅沢なレースの縁取りのついたハンカチで額を拭う。汗にはりついて絹ごしに浮かぶ胸の突起を、黒人の従僕が欲望に濡れた瞳で見つめているのに気づいた。 「イサーク、何でもいいから喉が渇いたよ。早く飲ませて」  最近のシュジェールは暴君だ。従僕の視線などもう、気にならなかった。イサキオスが唇を合わせてくる。流しこまれた葡萄酒はよく冷えて、甘い。 「もっと欲しいね?」  当たり前だ。瓶ごとよこせ、とシュジェールは思った。イサキオスは白い上品な手で、デキャンタを持ち上げる。そして、それを彼の口に直接そそいだ。シュジェールの母親が見たら卒倒するに違いない下品な振る舞いだが、とにかく喉が渇いていたのでシュジェールは次々に飲み込んだ。が、そうそう全部飲み干せるものではない。 「もう、いいよ」  そう言ったところで、イサキオスは手をずらした。とたんに、シュジェールの喉から胸にかけて、葡萄酒が流れ落ちる。純白の絹のシャツが見る間に赤紫に染まった。 「イサキオス、これは新調したばかりのものなのに!」  着道楽のシュジェールは声をあげて怒った。服を汚されたことも許しがたいし、下穿きまでぐっしょり濡れて気持ちが悪い。 「ドゥール、服を脱がせてさしあげろ」  黒人の男が膝をついて迫ってきた。この男はつい先日、イサキオスの護衛としてサティルニアから遣わされた。古代皇帝直属の暗殺部族出身だという。王都セイラムでもここまで肌の色の違う人間はまだまだ珍しい。シュジェールも、彼に会うまでは書物でしか知らなかった。  ふとシュジェールは、彼が酔っ払ってからんできた十人の学生たちを素手で一瞬にして叩きのめしたことを思いだす。  そのブロンズのような手が震えながら伸びてきた。 「ドゥール、おまえらしくもない。いつも私にするようにすればいいだけだよ」  イサキオスが笑いながら、じっと観察するため長椅子の背後に立つ。  シュジェールは、ひとの思うようになるのが何より腹が立つ。なので、自分で服を脱ぎ始めた。ドゥールは伸ばした手をそっと膝の上に落とす。素肌があらわになると、ドゥールの喉が鳴った。 「ドゥール、舐めてあげるといい。おまえの舌は天鵞絨より柔らかで、熱く、絹よりもしなやかだ」  シュジェールは息をのんで、イサキオスを見上げた。 「おや、シュジェール、君はドゥールが怖いのか。私にはその肌をいつも舐めさせてくれるじゃないか」 「それより風呂が先だよ。汗をかいて、葡萄酒はひっかけられるし、気持ち悪い」  イサキオスは立ち上がろうとしたシュジェールの首に腕をまわして座らせた。 「彼はとても上手だよ。従者とはいっても、ドウールは私の従弟にあたる。叔父の子だからね。ねえ、ドゥール、おまえはいつも彼のことを皇子様のようだと言っていたね」 「はい」  ドゥールがうなずいた。 「ドゥール、おまえがそうしたかったように、この可愛い皇子様を全身舐めて綺麗にしてさしあげるといいよ。この服は洗濯女に私が出してこよう」  イサキオスは汚れた服を取り上げて部屋を出て行った。扉が閉まると、シュジェールは黒豹のような男とふたりだけにされた。  シュジェールは、逃げ場のない長椅子の上で男の黒い目を正面から見つめた。白目だけがくっきりと光っている。  イサキオスは、シュジェールが本能的にドゥールを恐れていることを逆手にとって、こんなことを考えついたにちがいない。  ドゥールの息遣いだけが、耳に生々しく響いている。森のなかで狼と出会ったときよりも、恐ろしい。 (僕はなんて、弱い人間なんだ……)  肌の色が違うだけの人間と一つ部屋に残されただけで、怖がっている。もちろん、彼が優秀な暗殺者だという能力もある。 (ひとは皆等しく幸福であるべき……)  主の聖句を唱える。なんのために法律を学んでいるのかと自分を叱咤するが、見慣れない存在、しかも自分を素手で縊り殺せるものと二人だけなのは落ち着かない。 「わたしが、怖いですか」  ドゥールが桃色の唇をひらく。いくらか発音がたどたどしい。その音を聞いて、シュジェールは少し彼に興味をもった。この国の言葉はまだ覚えたてなのだろう。 「たいていのひとは、わたしを怖がります。サティルニアでもおなじ、でした」  そう聞かされて、シュジェールは俯いた。ひどく恥ずかしかった。 「イサキオス様はあなたに夢中です。怖いくらいです」  そう言い終えたとき、扉が開いた。 「おや、何もしていないのかい」  イサキオスはまた、大きな銀の盆をもって入ってきた。それを床において、彼は小さな壷だけもって長椅子にやってきた。銀の匙で壷から蜂蜜をすくい、シュジェールに舐めさせた。焼きたてのパンの匂いにそそられて立ち上がろうとすると、イサキオスはその腹の上に右膝をのせた。 「ドゥール、食べさせてさしあげなさい」  シュジェールは、イサキオスの目が爛々と獣のように光るのを見た。腰には乗馬用の鞭をもったままだ。逆らえば、ドゥールが鞭で打たれるかもしれない。そういう目だ。  ドゥールは、パンをひとくち分ずつちぎって蜂蜜をつけシュジェールの口に運ぶ。時々、イサキオスは葡萄酒を口に流し込む。そんなことをする度に、長椅子とシュジェールの身体に蜂蜜と葡萄酒が垂れて落ちる。  シュジェールにはそれが不快でたまらない。その細い眉がひそめられる度に、イサキオスは唇のはしを残忍につりあげた。 「潔癖だね、皇子様。私は君の流した汗と体液に塗れたこの長椅子を張り替えさせて、寝室の壁を覆うことにしよう。いつでも君の悦びの極みを思いだせるように」 「いやだね。僕は明後日、試験があるんだ。風呂がないなら、今日はもうこれで帰るよ」  シュジェールは半身を起こした。マントを羽織れば、目立つこともない。少々格好悪いが我慢することにした。 「逃げ出すの? 鞭が怖い、それとも彼の黒い肌が怖いのかい? 触ってみるといい。さらさらとして気持ちいいから。君なら試験なんて落とすことはないだろうに、そんな下手な言い訳をしてまで帰りたいんだ。よっぽど臆病者だね」   わかりきった誘い言葉だ。が、シュジェールは自分の弱気をつかれ、反論できなかった。イサキオスはいつだって正しい。公正にものを見る。大陸全土で排斥される被差別民のゴノール人にさえ、かわりなく接していた。  それは、シュジェールにはない能力だ。  イサキオスに比べると、シュジェールは偏見に凝り固まっている。愚か者は嫌いだし、不潔な人間のそばに寄るのも嫌だった。が、イサキオスは平気なのだ。豪胆な男だと、ひそかに尊敬していた。彼は、死体の転がる戦場の泥のうえでも平気で眠れる太い神経の持ち主でもあった。 「イリスの君、人間はただの血と肉と骨の塊さ。服を脱いでしまえばもう、王妃だって娼婦と変わらない。君は、自分が少しは高等な人間だと思っているようだけれど、こうして服を脱がされて私とドゥールに弄ばれるのを他の者が見たら、誰が君をベルガルド侯爵家の天才少年だなどと信じるだろう?」  シュジェールは紅い、少女のような唇をかむ。そうでないことは自覚している。それを、天才だとひそかに認める男に言われたのだ。 「その淡い金髪と綺麗な目、透き通るような肌を見込まれて連れてこられた、頭の空っぽな性の奴隷だと信じるに違いない」 「それでイサキオス、僕に性の奴隷とやらの真似をさせて満足か?」  イサキオスは挑むように微笑んだ。 「それは試してからこたえたいな。君に、その勇気があればのことだが」 「好きにすればいいさ。君の言うとおり、僕は臆病者だ。君のように怖いもの知らずの男には生涯なれないだろう。君なら、剣ももたずに獅子の檻にでも入っていけるだろうさ」  イサキオスは瞳を伏せて顔を近づけてくる。それから、甘い声で囁いた。 「君を手に入れるためなら、百頭の獅子のなかだろうと入っていけるよ。全財産を捧げてもいい。サティルニアの国だって、君のものにしてもいいさ」 「ばかなことを」  荒々しい接吻の合間にシュジェールが言った。イサキオスが続ける。 「本当だよ。もしもそれで君の心が手に入るなら私はこの国そのものを征服して、君を、もっとも高貴な奴隷としてもらいうけよう」

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