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第9話
「イサーク様、水門が……」
ドゥールの声に、イサキオスは黄金の両目を細める。
「門が閉じてます、こんな……」
水夫が驚きの声をあげた。こんなことは、滅多にない。日の出と同時に開き、日の入りと同時に閉まるはずの門が白昼、ぴたりと閉じられていた。
「やってくれたな、シュジェール」
イサキオスの片頬に笑みが浮かぶ。
「シュジェール様の差し金ですか?」
ドゥールの声が弾むのを、イサキオスが聞き逃すはずもない。
「ドゥール、せっかくの門出を台無しにされて嬉しがるんじゃないよ」
「ですが、イサーク様が一番に喜んでおいでです」
イサキオスは従弟の言葉に頬を引き締めた。
衛兵が、河岸に寄るよう指示を出してくる。船長はしかたなくそれに従って言う。
「何ですか、白昼に水門を閉めるなんざあ、長いこと船乗りをしてるが初めてのことですよ。一体何があって」
「なんでも、さる侯爵令息の大事なものが、この船に積まれているのではないかと」
青い制服を着た衛兵がふたり、船に乗り込んできてそうこたえた。
「ほう。この私が何か盗んだとでも?」
イサキオスが前に出る。衛兵は、王侯貴族のような美貌の主に渋面をつくってこたえた。
「盗まれたとは言っておりません。ですが、私はそのように聞いております」
「その通りだよ。イサキオス・ルーカス」
高い位置から声がした。頭をあげると、水門の見張りの塔の上に、シュジェール・ベルガルドが立っていた。
「シュジェール、危ないよ! そんなところに立っていては」
「なに言ってるんだ、僕を三階に取り残したくせに」
シュジェールは梯子をさっさとおりた。さすがに先ほどの格好はあらためてあり、衛兵の服装に身をつつんでいる。
「まったく、僕を裸足で走らせた罪は重いよ。とにかく、あれを返してもらおう」
甲板に飛び乗ったシュジェールに、イサキオスは腕をくんで目を細めた。
「よくこの船に乗ってきたね。このまま水門を破って連れて行くよ」
「我が国の衛兵は優秀だ。僕を命がけで守ってくれるだろう」
言いながら、シュジェールは目顔で衛兵の分隊長に下がるように指示した。心得たもので、衛兵たちはふたりを遠巻きにした。
それを確認してから、シュジェールは小声で言った。
「とにかく、あれを返して」
「あれって?」
イサキオスがとぼけると、シュジェールは眉間にしわをよせて彼を見上げた。
「あれだよ、あれ、君が描いた絵だ。それに服も、剣だって返してよ」
「欲張りだなあ。どれか一つにしなさい」
イサキオスが肩をすくめて言った。
「じゃあ、絵だ」
「それは渡せないね」
「イサキオスっ」
「あれは、私が墓場にもっていくものだ」
睨み合いが続くと、河畔の衛兵たちがざわつき出した。国際問題になりかねない事柄でもあった。ちらり、と視線を投げた男が言った。
「君の国の兵士が心配してるよ。上手いやりかたじゃないね」
シュジェールは唇を噛む。イサキオスは川風に長い黄金の髪を靡かせて、振り返った。
「ねえシュジェール、あれが私の手許にあって何が不安なの。君を、この私が強請るとでも?」
「思ってない。だけど、いやなんだ」
「何故」
ほとんど優しいといっていい声で、イサキオスが問う。
「……恥ずかしい」
シュジェールはうつむいて、聞こえないくらい小さな声で言った。イサキオスが、満足そうに喉を鳴らす。
「ならば、なおさら渡せないね。しようがないから剣だけでも返そうか」
ドゥールが剣を捧げ持ってきた。イサキオスがそれを返す。シュジェールは黄金の短剣をさしだしながら、思いついて、右手の薬指に嵌まったエメラルドの指輪を引き抜こうとした。
すると、イサキオスは唇を引き結んで首をふる。
「だめだよ。それは君にあげたものだ」
「皇帝の遺産のひとつだと聞いた」
ルーカス家に伝わる家宝のひとつだそうだ。しかし、イサキオスはシュジェールの手首をもちあげてもう一度それを嵌めさせた。
「その指輪とこの剣は、対で持っているといい。ルーカス家の紋章入りだ。ほら、君たちの言う星十字と、太陽が刻印されている。サティルニアでこのふたつを見せれば、どこへでも自由に行けるから」
イサキオスが微笑んで、シュジェールの華奢な手に短剣をしっかりと握らせた。
「さあ、他の船も水門を通れなくて往生しているよ。シュジェール、来てくれて嬉しい。本当はきてくれるのを待っていた。最初から私がつきまとったから、最後くらい追いかけてきて欲しかった」
「知ってるよ」
シュジェールは横をむいて小さな声で言った。そして、自分から右手をさしだす。
「イサキオス、今までありがとう。君には世話になった。最後に、ちゃんとお礼が言いたかった」
「律儀だね。イリスの君。これでさよならだ。元気で」
「イサークも」
イサキオスはしっかりと両手でシュジェールの手を握ってから、そっとしずかに手をはなした。その手には、シュジェールの残した噛み傷がそのままに残っていた。彼はそれを勲章のように大事にするつもりらしい。
イサキオスが船長に声をかける。
「すまなかったね。彼の剣を間違えて積み込んでしまったらしい。さあ、船を出しておくれ」
滑車が回り、軋る音をたてて水門が重々しく開く。衛兵たちが川べりに整列する横へ、渡し板をつたってシュジェールはおりた。
船が、滑りだす。
漕ぎ手の櫂に雫が散り、風に煽られたイサキオスの金髪がきらきらと光っている。
シュジェールがそれを眩しく眺めていると。
「あれは何ですかね」
となりの衛兵が分隊長に問う。船はいきなり小さな帆を張りだした。
「ん、なんだ。洗濯物か何かじゃないか」
シュジェールは遠ざかる船を見つめ、声をあげる。
「あ、あ、あれは……!」
ドゥールが船尾に駆けてきて、帆柱を指さして飛び上がっている。
そこには、真紅の長椅子の生地が翻っていた。夏空を突き抜け、凱歌をあげる勝利の旗のように揺れている。
それだけでない。さっきイサキオスに奪われた衣服のすべて、下穿きまでが順々に水夫の手で吊るされていく。
「誰か、水にでも落ちて乾かそうって手合いでしょうか、それにしてはよいもののような」
若い衛兵が不思議そうに首をかしげる横で、シュジェールは真っ赤になって立ち尽くす。
「イサキオス!」
声はもう、届かない。
だが、彼がそんなシュジェールを見てドゥールとふたりで歓声をあげているのは間違いない。用意のいいあの男のことだ。葡萄酒の樽くらいさっさと開けて乾杯しているだろう。
(やられた……)
シュジェールはそのまま、すぐとなりの衛兵の腰の革袋に手を出した。
「ちょっと、それもらっていい?」
「は」
若い衛兵は、腰の葡萄酒入れを恐る恐るさしだした。
シュジェールは革袋にそのまま口をつけて一気に全部飲み干した。酸っぱい安酒にしては、そこそこの味だ。まあ、喉が渇いていたせいもあるが。
「ごちそうさま。これで新しいのを買うといいよ」
シュジェールは、濡れた口許を拭った手で銅貨をひとつさしだした。この服を着ていると乱暴なそぶりをしたくなる。受け取る衛兵のそばかすの浮いた子供っぽい丸顔を見て、シュジェールはふと、気になった。
(僕と、そうかわらないくらいだな)
予備役でない、正式な衛兵隊員だ。とりたてて腕っ節が強そうには見えないが、分隊長と一緒に船に乗り込んだのだから大したものだ。
「この後、ひま?」
「はい、あと一時間で」
「じゃあさあ、一緒に飲もうよ。驕るから。僕はシュジェール・ベルガルド」
「は、はい。こ、光栄の至りでございます。わ、私は、グザビエ・マレーと申します」
「マレー商会の次男かな? よろしく」
手をさしだすと、相手は耳まで赤くなった。
「はい。こちらこそ、いつも御贔屓にして、いただきま、して」
どもる少年の掠れ声を聞きながら、シュジェールは晴々と笑った。
(ふん、イサキオス、僕だっていつまでも子供じゃないさ。せっかくだけど、僕は僕のやり方でいくよ。この国のひとを大陸一幸せにするのが僕の夢だから。負けないよ)
胸のうちでそうつぶやき、シュジェールは遠くになった船をいつまでもずっと見つめていた。
シュジェール・ベルガルド、十五歳。
後に、大文字で「大使閣下」と呼ばれた彼の、それが本当の始まりの日だった。
終
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